ホルマジオが欠伸をしながらリビングへと繋がる扉を開けると、入ってすぐ脇にあるキッチンに例の新入りが立っていた。はかちゃかちゃと音を立てて昨日の酒盛りで使われたままリビングのローテーブル上に放置されていた食器をシンクで洗っている。ホルマジオが部屋に入ってきたと気づいた途端、彼女は顔を伏せて手元に視線を戻し紅潮した頬を見られまいと俯いた。
「お、はえーな、。昨日はよく眠れたかよ?」
は顔を俯かせたまま視線だけホルマジオにちらとよこして控えめに頷いた。一言も声を出さず、黙々と皿洗いを進めている。
「っつーかよ、皿洗いなんか他の連中にやらせりゃいいんだ。お前昨晩はほとんど皿もグラスも使ってねーんだしよ」
ホルマジオの気遣いを受けても、は愛想笑いひとつ浮かべず黙々と皿洗いを続けた。代わりにと言っては何だか、ホルマジオに話しかけられるたびに、そして彼が近づくたびに彼女の顔は真っ赤になっていく。ホルマジオには聞こえないのだが、の胸は早鐘を打つようにどくどくと音を立てていた。
また何か勘違いをされてしまう。何か喋らなければ。
はしきりに手を動かしながら、何か喋ることはないだろうかと考えを巡らせるのだが、ホルマジオが近くにいるということにばかり意識が向いて、ろくな考えがまとまらない。
が"また"と思ったのは、昨日リビングから出たあとにプロシュートが言っていたことを気にしてのことだった。あの伊達男に気に食わないと言われたのは、彼女が部屋から出て扉が完全に閉まった後だ。もしかするとワザと自分に聞こえるように話したのかもしれないと彼女は思ったが、プロシュートにそんなつもりは少しもなかった。の聴力がひとより優れていたからこそ聞こえた話なのだ。
はこれまでも、そのツンケンした態度で他人に誤解をされ、優れた聴力のおかげで幾度となく傷ついてきた。ここでもそんな毎日を送ることになるのだろうかと怯えていた。だがせめてホルマジオの前だけでもそうなりたくない。彼女は必死に何か話そうとしていた。そしておずおずと話し始めた。
「おなか、すいたから……」
「お、おう」
ホルマジオはが口を開いたことに驚いた。きっと口をきいてはもらえないだろうとはなから諦めて喋っていたからだ。彼は驚きつつも、酷く引っ込み思案なように見える彼女が何とか自分と関わりを持とうと話し始めたことを嬉しくも思った。そしてキッチンカウンターの前にあるダイニングテーブルについて、彼女の話の続きを待った。
「……キッチンを使いたかったの」
「なるほどね」
アジトのキッチンは狭すぎるということも無かったが、チームメンバー全員が使った食器をシンクやワークトップに置いたまま何か作業ができるほど広いわけでもない。背面にもカウンターはあるのだが、コーヒーメーカーやパン、クッキー、シリアル、各種ドリンク類等々が所狭しと並べてあるので、シンク横のワークトップが空いていなければろくに食事の準備すらできない。なのでいざ朝食の準備をしようと思い立ったときキッチンに汚れた皿なんかが積み重ねられていれば、その皿を使った人間に対して「洗っておけ」と舌打ちなりなんなりの悪態をついて代わりに洗わざるを得ないだろう。だが彼女は、ほとんど関係ないと言っても差し支えないその片付けを、嫌な顔ひとつ見せずに黙々と進めていた。ホルマジオは手伝おうかとも思ったが、彼女の手元を見るに皿洗いはほぼ終わりを迎えていた。
「そう言えば、昨日お前のために用意しておいたドルチェが冷蔵庫の中に入ってる。朝メシにちょうどいいんじゃあねーか」
はふと面を上げてホルマジオの顔を見た。ドルチェと聞いて心躍ったのか、彼女が一瞬だけだが目を輝かせたのをホルマジオは見逃さなかった。そんな彼女の表情を見て、またも可愛いヤツだとニヤつきを隠せないホルマジオ。それが昨晩クワトロフォルマッジを頬張った時に向けられた顔と同じだと分かると、はすぐさま真っ赤になった顔を伏せて皿洗いを急いで終わらせた。そして水で濡れた手をタオルで拭い、背面のカウンターに並ぶ冷蔵庫の扉を開ける。
「お前がチーズ好きだって分かってたら、チーズタルトでも買ってきたんだがな」
彼が、私のために買ってきてくれたんだ。
は背中に向かって投げかけられたホルマジオの言葉に対して特に反応は示さなかったが、内心では(恐らくではあるが)ホルマジオが自分のためにドルチェを用意してくれたことを嬉しく思っていた。ブルーベリー、イチゴ、キウイや桃等、色とりどりのフルーツがふんだんに使われたタルト。まるで宝石のように輝くそれを目の当たりにしたは感嘆の溜息を洩らした。これを食べるにはコーヒーが要る。は開いた冷蔵庫の扉を一度閉じると、コーヒーメーカーの給水タンクにふたり分の水を注いだ。
「ホルマジオ……さん」
「みずくせーな。ホルマジオでいいよ」
「……ホルマジオも……コーヒー飲む?」
「淹れてくれんのか?」
はこくりと頷いた。お湯が沸いてコーヒーサーバーに熱いコーヒーが抽出されるまで時間がかかる。ああ、こんなことになるなら皿洗いに手を付ける前にコーヒーくらい用意しておくんだった、とは後悔した。ホルマジオに背を向けたまま、彼女は尚もうるさく高鳴る胸に手を当ててコーヒーが出来上がるのをコーヒーメーカーの前でじっと待った。
コーヒーが出来上がるのを今か今かと待つが空のコーヒーサーバーを睨みつけている間に、ホルマジオはダイニングチェアから立ち上がり、コーヒーメーカーの傍のバスケットに近寄った。袋詰めにされた市販品のブリオッシュを取ろうと手を伸ばしたとき、それでやっと彼が自分のすぐそばにいると分かったがびくりと体を揺らす。
「いくら何でも緊張しすぎだろ」
ホルマジオはそんなの暗殺者らしからぬ態度を快活に笑い飛ばして、朝食を手にとってテーブルへと戻っていく。肩を上げて身をこわばらせ、彼女はカウンターに両手をついて俯いた。言わずもがな、顔は真っ赤だった。
昨日初めて姿を現した時はこれ程までビクビクしてはいなかったはずだ。そしてこれ程までに臆病な暗殺者というのも珍しい。そんなやつ、ペッシくらいだと思ってた。
ダイニングテーブルに戻ったホルマジオは頬杖をついての後姿をじっと見つめた。
ペッシはパッショーネに入団した後に幹部ポルポの矢に射抜かれて能力を身につけた。その結果、能力が暗殺に適しているとの判断でここ暗殺者チームに身を置いている。精神面で暗殺者として適正があるかどうかは関係ない。そんなものはこれから身につけていけばいい。こうした理由でプロシュートが教育係としてペッシに世話を焼いているわけだ。
きっともそういうタイプの新人だ。おそらくこれまでに人を殺したことなどなく、だが何かしら社会適応力が不足しているか、昔に好き放題やらかして学も無いとかで、ギャングとして生きざるを得なかったのだろう。ホルマジオは未だ多くを語らない新入りがこのアジトに身を置くに至った経緯を好きに想像していた。だが前にやんちゃをしていたような風貌でもなければ、今のところひどく憶病という点以外で社会に溶け込めないような欠点は見当たらない。
ま、何はともあれこれからだよな。
とにかくホルマジオには、昨日を猫みたいだと思った以上に、今の彼女が猫のように見えていた。猫と一口に言っても個々で性格は異なるだろうし、野良で長いこと巷のボスとして生き抜いてきたような猫なら肝は据わっているだろう。だがあくまで彼が思い浮かべているのはそういうレアタイプではなく、世間一般的な猫のイメージを体現したような猫だ。ひどく憶病で、近寄ろうとも容易に近づいてはこないような……しかし餌さえあれば少しだけガードが緩むような、そんな野良猫だ。
しばらくして、がコーヒーを持ってホルマジオのはす向かいに座った。四人が一緒に座れるダイニングテーブルで、彼女はわざわざホルマジオの真向かいを避けたのだ。先程ホルマジオにすすめられたフルーツタルトをちょこちょこと食べながら、彼女は目線をリビングの方に逸らしている。リビングには他に誰かいるわけでも、特段目を惹く絵画や置物などがあるわけでも何でもない。ホルマジオは彼女の視線の先をちらと見やって、呆れたように口を開いた。
「おい。お前そんなにオレと話をするのがイヤなのか?おい、こっち見ろよ」
ホルマジオはの真向かいに移動して、彼女の視線を遮る様に手を振って見せた。はきまりが悪そうな表情で正面を向き少し顔を伏せると、黒目だけをホルマジオの方に向ける。別に彼女のことを責めているわけでも説教してやろうと思っているわけでもないのに、ここまで委縮されるとまるで悪者にでもなった気分だ。自分はここまで女を怖がらせるような風貌だっただろうかと、ホルマジオもまたバツが悪そうに頭を掻いた。しかめっ面なら女は怖がるかもしれない。ホルマジオは寄った皺を伸ばすように指先で眉間を押さえて口を開いた。
「お前の教育係、オレだからな」
「……教育、がかり……?」
「オレがお前をいっぱしの暗殺者として育ててやるって言ってるんだ。いやな、最初はメローネがやるって言いだしたんだが、ああ、メローネってのは昨日お前に向かってとんでもねー挨拶しやがったド変態野郎のことな。昨日のことで何となく察したとは思うが、アイツは女相手だと色々と問題があるんだ。プロシュートってあの気取った金髪野郎はペッシって弟分がいてそっちにつきっきりだし、他にもギアッチョってすぐぶちギレるメガネとか、鏡の中の世界に引きこもってる高飛車おさげ野郎とかがいるんだが……まあ、連中に比べればオレの方がまだ性格的に教育者として無難と言うかなんというか……。そういう訳で、消去法でオレがお前の教育係に抜擢されたワケだ。だからそんなにオレのこと避けんなよ。仲良くやろうや」
自らすすんで教育係として名乗り出たわけではない。これは仕方がないことなんだ。
そうアピールしたいホルマジオだったが、彼は自らすすんで彼女の教育係になると言った。確かに彼には――リゾット、プロシュートのふたりを除く――他のメンバーに比べれば教育者としての適性はある方だろう。だから消去法というのにも違いは無いが、それはほとんどこじつけでしかなく、彼自身は少しも“しょうがねーなあ”とは思っていない。
実のところ、ホルマジオには教育者として・という新入りを教育する気などほとんど無かった。この猫みたいな可愛らしい女とお近づきになりたい。その一心だ。今まさに、まるで散歩中に一目惚れした野良猫にあの手この手で近寄ろうと試みる猫好きのように、餌で彼女を釣ってじわじわと距離を詰めようとしているのだ。
そういった猫好きに限って、往々にして猫には逃げられる。
「……よろしく、お願いします……」
だが掴みは上々なようだ。とりあえず拒絶はされなかった。ホルマジオはふっと頬を緩めた。
「だから、敬語なんか使うのやめろって。ひどく年取っちまったような気分になるだろ」
彼はそれを期待してベランダの窓を開けたままベッドに横たわっていた。彼の期待に答えるように、例の猫は今宵もホルマジオの寝床に姿を現した。
ありゃ夢なんかじゃあなかったんだな。
窓枠に体をこすりつけながら、体をくねらせ、まるで彼を妖艶に誘うようにゆっくりと距離を詰めていく。猫はベッドの下までやってくると、抱き上げてベッドに乗せろと言うように彼を見上げた。
「しょうがねーなぁ」
しょうがないと言いつつひどくにやけ面だ。ホルマジオは猫の前足の付け根に両手を伸ばした。ふさふさと豊かな被毛に包まれた柔らかくて温かい肉を掴む。毛で膨張して見えるのか、見かけの大きさの割にとても軽い。彼は抱き上げた猫をあぐらをかいた足の上に乗せた。そして小さな額に手のひらを当てると、猫はそれを押し返すように前足を上げて額を擦り付けてきた。
ホルマジオには、この猫にこれほどまで懐かれるようなことをした覚えはない。昨晩から始まった関係だ。昨晩は餌をやったわけでも、猫じゃらしの類で遊んでやったわけでもない。ただ彼の欲望のままに体を撫で回しただけだ。
ほぼ無償で向けられる親愛に戸惑いつつも、ホルマジオは喜んでいた。
「なあお前もうオレに飼われろよ。お前のためなら餌だって何だって用意してやるからよ」
猫はホルマジオの顔を見つめてゆっくりとまばたきをして、にゃーっと鳴いた。猫が人間に向かってゆっくりとまばたきをするのは、挨拶の意味、返事の意味、または信頼や愛情を表現する意味があると言われている。彼はそんなことを少しも知らなかったので、誰が飼われてやるものかと反抗して声を上げたんだとがっかりする。
ベッドに横になり、猫を腹の上に乗せる。猫は腹の上から胸の上まで移動すると、ホルマジオの顎に額を擦り付ける。たまらん、とつぶやいたホルマジオの手は猫の丸まった背中をなでつけた。
生きててよかった。
大げさとも思えるが、ギャングに雇われた暗殺者である彼にとっては仕事の合間のふとした平穏すら幸せだった。その平穏の中で、美しい迷い猫に無条件に愛されるなんて、これ以上ないほど喜ばしいことだった。
柔らかく滑らかな手触り、胸の暖かさ、幸福感。それらがホルマジオを眠りへと誘っていく。猫の体を撫でていた手の動きは次第にゆっくりになっていった。そして猫のしっぽの付け根を撫でた後、彼の手は猫の体から滑り落ちる。
ホルマジオが眠りについてしばらくすると、猫は忍び足で彼の体の上から離れ、ベッドから飛び降りた。開け放たれた窓の枠に前足を乗せ、ふと後ろを振り返る。猫はじっと彼の寝顔を見つめた後、ベランダの柵を伝い歩き去っていく。
翌朝ホルマジオが目を覚ますと、やはりあの猫の姿は無かった。夢見心地でふわふわした記憶だけが残り、猫がいたはずの場所を撫でてもそこにあの猫の熱は無い。だがきっとまた今夜も会えるだろう。2度あることは3度ある。
やはり翌日、翌々日、そしてまた次の日も、猫は決まって夜にホルマジオの元を訪れた。だがやはり朝には決まって姿を消しているので、彼はその度に物悲しさを覚える。夜だけのひどく短い逢瀬だった。
糞尿の処理や食事のことを考えなくとも、ただで撫でさせてもらえるのだから楽といえば楽だ。だが夜のたったの何分かしか触れ合うことが許されないのは寂しいものだ。気が済むまで起きておけばいいのだろうが、ベッドに横になってしまうと条件反射的にすぐ眠りに落ちてしまう。なんならアジトにずっといればいい。ここで飼おうとリゾットに進言してみるか?
彼は深皿に水を汲んでベッドのそばに置いたり、ドライフードを置いたりしたが、あの高貴な猫様は見向きもしない。きっとよそでいい食事にありつけているのだろう。ホルマジオはそんな予想をして少しむっとした気分になると、なかなか思い通りにならない猫を抱き上げて抗議する。
「オレのメシが食えねーってのか」
猫はにゃーっと声を上げて降ろせと足掻き始める。ホルマジオが仕方なく床に降ろすと、すかさず脛に額を押し当て、体側から尾までを擦り付け、とどめに長いふさふさとした尾を足に絡ませる。
「そりゃ反則だろ……」
厳つい暗殺者もこの猫の前では形無しだ。拒絶したかと思ったらすぐに甘えてくる。思い通りにならないからと不満を漏らしても、結局のところそれが良かった。つかず離れずの距離感。だから猫はいいと思うのが猫好きのおかしなところである。
ホルマジオが“ねこ”と呼ぶ猫ともっと触れ合いたい。もっと一緒にいてほしい。むしろ生活の拠点を自分の部屋に置いてほしい。窓はいつも開けておくから。と思っている一方、猫の方はホルマジオのことをどう思っているのか。
こればかりは猫に聞いたところで口がきけないのでホルマジオには未来永劫分からない事だ。だが猫にだって感情はある。
猫は毎晩、寝てしまったホルマジオから離れるのが嫌だった。猫の方だって、本当はホルマジオとずっと一緒にいたいのだ。
ホルマジオは寝付きがすこぶるいいので、ベッドに寝転がるとすぐに寝てしまう。猫がこの部屋に入ってから10分と経たないうちにいつも寝てしまうのだ。
もっと撫でてほしい。もっと愛してほしい。だからまた、明日の夜も会いに来よう。
猫にもここのところそんな夜が続いている。
ホルマジオの匂いが好き。この暖かな体も、優しく撫でてくれる手も、カワイイと言ってくれる口も、追い出さないでかわいがってくれる優しいところも。全部好き。大好き。本当は離れたくなんかない。
猫はそれをホルマジオとの短い逢瀬の間、必死に訴えていた。
猫は猫同士でいるときには基本鳴かない。猫が鳴き声を上げるのは、何かしら人間に伝えようとしているからなのだ。例えば、腹が減ったとか、水が汚いとか、トイレが汚れているといった事務的なことから始まり、遊べかまえと抗議したり、猫が人間に絶大な信頼を寄せていれば、好きだ愛していると告白することだってある。
訴えようとしている内容によって声音が変わるので、熟練者には猫が何を言わんとしているのかがだいたい分かるのだが、ホルマジオは猫を飼った経験の無い、道端の猫をカワイイと撫でる程度の猫好きでしかない。だから彼には猫が言いたいことなど少しも伝わらなかった。
拒絶はされてない。それに猫なんて、温かい寝床があれば誰のベッドにだって潜り込む。だからひとしきり寝たらそそくさとこの部屋を後にするのだ。ホルマジオはそんな認識でいた。
アプローチの仕方を間違えた。猫は後悔していた。だが、大好きな憧れのホルマジオにカワイイと言って撫でてもらえる。優しくしてもらえる。恐らく愛をもらえている。だからもう少しだけ、こんな幸せな夜を続けさせてほしい。
終わりを何時にするかなど、彼女は決めていない。だが、ふたり(一人と一匹)の関係は、そう長続きはしなかった。