アポイントメントも取らずに社長室へ入ることを許される唯一の存在――シド・マトロックがやってきた。カミッラは、自分が門番の居座る守衛室さながらに使用している秘書室へ、彼が入ってきたと分かるなり立ち上がった。いつもは制止を無視して真向かいの社長室へとつながるドアへと向かうのだが、今夜のシドはどうもいつもとは様子が違うようだ。彼の顔は――無論、マスクに覆われている――カミッラの面と向かい、彼との間は向こうから一方的にどんどん詰められていく。
カミッラはたじろぎ、胸を高鳴らせながら一歩後ずさる。
「な、何なんですか! 今度は社長に何の――」
「用があんのはじゃあねーよ。あんただ、カミッラ」
目前で足を止めたシドにそう言われ、一瞬でカミッラは顔を真っ赤に染め上げた。
「わ、私、に?」
「ああ。あんたに頼みがある。もちろん、タダでとは言わねーよ。夕食を一回奢ってやる。どうだ?」
カミッラは早鐘を打つ胸を片手で押さえながら、平常心を取り戻そうと必死になりながらも答えた。
「そ、それは……頼みの内容に依ります。それが夕食一回分奢っていただくだけで足る頼み事かどうかを判断するのは私ですから、まず、何をしてほしいのか言ってください」
「ふむ。そりゃごもっとも。それじゃあ、にこう言伝してくれ」
これから二十分後、近くのコンビニエンスストアで、レッド・ブルを買って自宅に戻れ。
「誰からの頼みかは言わなくても、きっと分かる。聞かれても答えるな」
「……意味がわからないんですが」
「夕食を奢るときにでも教えてやるよ」
シドはそれだけ言うとすぐにカミッラへ背中を向けて手を振った。だが、釈然としないカミッラは彼を引き留める。
「待ってください」
シドははた、と足を止めて後ろを振り向いた。
「いつですか」
「は?」
「いつ奢ってくれるんですかって、聞いているんですよ」
「んー。そうだな。……一週間後の夜七時。ここに迎えに来る」
「分かりました。た……楽しみに――」
決死の覚悟で発した言葉をシドの背中に投げかけようとしたカミッラだったが、告げ終わる間もなく彼は忽然と姿を消していた。開け放たれたままの扉へ駆け寄り、戸口の向こうを見ても、言葉を投げかけようとした背中は見当たらない。
「――あ……あれ? ……幻??」
カミッラは手の甲の皮膚をつねり上げる。普通に痛かった。まあ、何はともあれ、約束は約束だ。カミッラは小首をかしげながらも、一週間後の約束に胸を踊らせながらデスクへと戻る。そして、デスクの上に乗せた固定電話の受話器を握り、雇い主の自宅へと電話をかけた。
が簡素な夕食を自宅で済ませ、リビングルームで休憩をしていたとき、固定電話に一本の電話が入った。非常に珍しいことだ。けれど、仮に仕事のことだとすれば、おそらく携帯電話に電話がかかってくるはず。そうでないのは、電話をかけてくる相手が、自分が自宅にいると分かっている者ということ。それは父かカミッラしかいない。だからというわけではないが、何か嫌な予感がした。は恐る恐る受話器を取り、返事をする。
『社長。夜分遅くに失礼します』
「カミッラね。何かあったの?」
『いえ。簡単なお願いがありまして』
「何?」
『近くのコンビニエンスストアでレッド・ブルを買って、ご自宅にお戻りください』
「……は?」
受話器の向こうにいるのは、あのお硬いカミッラだ。冗談を言うはずがない。だが、は? と疑問符を付したような声を上げずにはいられなかった。
『そういうご反応をされることは予見できていましたが……いいですか。社長。三十分後に家を出て、レッド・ブルを近くのコンビニエンスストアで購入し、ご自宅にお戻りください。以上です。それでは、失礼いたします』
「ちょ、ちょっと待ちなさいカミ――」
ブチ。通話は有無を言わさずに終わる。は受話器をじっと見つめて数秒思考停止する。……このままでは埒があかないので、カミッラの言うことを口に出してみる。
「近くのコンビニエンスストアで、レッド・ブルを――」
口にすると、はすぐに思い出した。
『近くのコンビニエンスストアで、レッド・ブルを買ってきてくれよ。……買ってきてくれたら、オレはあんたについていく』
イギリスの刑務所。面会室でガラス越しに対面したシドに、はそう言われた。彼女は聞いてすぐにレッド・ブルを買いに行った。戻ると、彼はこう言ったのだ。
『そいつは、今は受け取れねー。知っての通り、ここじゃあ差入は禁止されているからな。……だから、こっから出た後にもらってやる』
保釈金を支払い、シドがイギリスの刑務所から出所した時、は門扉の前に車をつけて、彼を助手席に乗せた。
『レッド・ブル』
出所後、シドの第一声がそれだった。左手を運転席に向かって突き出し、顔は前に向けたまま。だが、はレッド・ブルを渡さなかった。そして車にエンジンをかけ、発車させながら言った。
『レッド・ブルはお預けよ』
『はあ!? 何でだ!! 出所後真っ先に飲むって決めてたんだぜオレはよォ!!』
『そう。なら、ミラノの私の家に着いてから渡してあげる』
『は!? 何時間後だよ!! 乾き死にするわ!!』
『なら、はい。紅茶をどうぞ』
ボトル入りの紅茶だった。まったく、これだからイギリス人じゃあねーやつは。とシドは思った。イギリス人とは、例え世が戦争の渦中にあり、家が爆撃されて無くなっていたって、お湯を沸かし、ポットに茶葉を入れて紅茶を飲むものなのだ。ボトル入りの紅茶なんて邪道も邪道でいいところだ。だが、喉が渇いていたので、彼はしぶしぶ渡されたボトル入りの紅茶を飲んだ。
『あー、クソっ! ひでぇサギにあった気分だ。オレはこの恨み、死ぬまで覚えているからな。・』
26: Body Rock
レッド・ブルの缶を開ける小気味良い音が、広いリビングに響いた。
シド・マトロックは大股を広げソファーに腰掛けながらレッド・ブルの缶を呷り、二、三口呑み下した後、ぷはーっと息を吐いて言った。
「やっぱノンシュガーなんてクソだよな。オリジナルに限るぜ。こう、ガツンとくる果糖の甘みってのが大事なんだよな。それとやべー量のカフェインってやつが合わさると、たまらなくハイになれる」
「そうやってハイになったあなたに殺されるんじゃあないかしらって、怖かったのよ。シド」
「何でだよ。あん時オレはあんたを殺してやる、とまでは言ってねーぜ」
シドがカミッラに言付けた話の要点は、シド・マトロックがあんたの家にレッド・ブルを飲みに行きますよ、ということを想起させることだった。別に、あのときのことでを殺したいほど恨んでなんかいないし、むしろ今は彼女に付いて行って正解だったと、心の底から思っている。とまで、シドは言わなかったが、ふたりの出会いについてが覚えてくれたことを、彼は素直に嬉しく思っていた。
「それもそうね」
は懐かしさに微笑みを浮かべながら言った。
「話は済んだか」
待ちかねたイルーゾォが、の隣で腕組みをしながら言った。ここは彼の作る鏡の中の世界だ。この世界にが連れ込まれたのはほんの二分前のこと。けれど二分という時間は、切迫した表情を見せるイルーゾォにはひどく長く感じられたようだ。は緩んだ頬に力を入れ、イルーゾォに向き直った。
「ごめんなさい。……こうしてあなたが会いに来てくれたんだから……何か不味いことになってるってことよね」
「そうだ。。……率直に言うぜ。オレたち、暗殺者チームに仕事が入った。ターゲットはおまえの父親、ロマーノ・だ」
「っ……何、ですって?」
シドは間髪入れずに、何故ロマーノがパッショーネのターゲットとなってしまったのかを、これまでの調査で得てきた情報をすべて提示しながら説明した。シドがロマーノから引き抜かれようとしていることや、スイスに代理人を立てて広大な土地を買い、新たに“スピード・ワゴン財団”という組織の協力を受け、会社を設立しようとしていること、そしてその会社で恐らく、例の“矢”についての研究を進めようとしていることなど、に言うなとロマーノ本人に口止めされていたことも含め、すべてを洗いざらい話した。それらは何故ロマーノが狙われる羽目になったのか、を納得させるのに必要不可欠な情報であるから、口約束で交わしただけの守秘義務がどうのと宣っている場合ではなかった。時は一刻を争うのだ。
「どうする」
エナジードリンクを飲み干したシドがに問いかけた。彼の頭の中には一つの解決策が思い浮かんでいたが、それを実行できるか否かは本人の意思に委ねられる。それに解決策と称したものの、今一つ“絶対に上手くいく”という確信も得られていない。具体的なビジョンも上手く描けていない。ただ、最終的にどうなれば、皆死なずに済むかを思い描いているにすぎない。それがシドを慎重にさせていた。
一方、は下唇を噛み、自分を、自分の愛する者皆を苦境へ追いやる組織を、父の弱みにつけ込み、父を組織へ組み入れ、大金だけでは飽き足らず、何万人という顧客情報を――恐らく――不正に取得し、あまつさえ殺人という重犯罪をイルーゾォたちに犯させ続ける組織を、心の底から憎んだ。そして彼女は言った。
「絶対に殺させないわ」
イルーゾォの創造する鏡の中の世界にいる他二人がすでにそう決意していたので、誰も異論は唱えない。だが、殺さないとなると、火の粉が降りかかることになるのはイルーゾォ達暗殺者チームの面々である。もちろん、はそれも良しとしない。愛するものをすべて守り抜くと、彼女は彼女自身に誓いを立てている。
「もちろん、イルーゾォ。あなたも、あなたの大切に思うチームのみんなも、絶対に私が殺させたりなんかしない」
イルーゾォはほっとしたような、心からの安らぎを取り戻したかのような表情をちらと見せたが、すぐに眉根を寄せ、から視線をそらした。
「。言うだけなら簡単なことなんだ。……組織は、いかなる失敗も絶対に許さない。どちらも完璧に守るというのは至難の業だぜ。親父さんを守ればオレたちが、オレたちを守るのなら親父さんが……おまえがやると言っていることは、ほとんど不可能と言っていい」
「。このおっさんの言っていることには一理あるぜ」
シドがイルーゾォを指さして言った。彼女をある決断へと導くための助け舟を出したのだ。
「ロマーノのおっさんがパッショーネのボスに狙われたということは、あの人はこれから先死ぬまで、御天道さんの下で堂々と生き続けることができないということだ。だから、残念だが死ぬしかねーんだ。あの人がこれまで築き上げてきた財産や、人望、その他諸々の人々が羨むような、価値あるすべての物と決別しなくちゃあならない。……パッショーネのボスが死ぬか、ボスの座から退かない限り」
「いや、シド。万が一、パッショーネのボスが死んだとしても、恐らくロマーノが裏切り者であるという情報は他の幹部連中にも知れ渡っている。今やパッショーネは、イタリア全土に影響を及ぼす巨大な組織だ。今のボスが死んだからと言って解散することはないし、幹部連中の面子もほとんど変わることはない。組織の敵であると烙印を押された人間に、それから先の自由なんてものは、どう足掻こうと与えられないんだ」
「……ええ。それはきっと、そうに違いない、のよね」
は苦悶に顔を歪めた。必死に考えを巡らせて、この難局の打開策をと考える。だが、父親か、イルーゾォたちどちらかを失う未来ばかりが頭をよぎる。殺させないと言っては見たものの、これから先を楽観視できずに焦燥する。イルーゾォの言った通りだった。言うだけなら簡単だ。
「。だから、ロマーノ・が死んだことにするんだ」
シドが核心に迫った。やはり道は、これ以外に残されていない。
「……それしかないと、私も思ったわ。けれど、イルーゾォたち暗殺者チームに嘘のレポートを書かせる程度では……恐らくすぐに嘘だったと見破られる。……証人が必要なのよ。ロマーノ・が死んだと言えば、他の皆が納得するような証人……パッショーネの人間が、父の死の現場に立ち会っていなければ――」
「それだぜ。。あんたはいっぺん死んだはずだ。だが、生きている。その能力が他人にも適用できるなら……ロマーノ・の死を……例えば他の幹部なんかの前で偽装できるんじゃないかと、オレは考えた」
シドが言った。もまたさらに考える。
「ええ。恐らく、それは可能よ」
確かに、ディスティニーズ・チャイルドの力があれば可能だ。父の死の直前に能力を発動し、死の原因となるものを取除く。箱の中に証人と自分、そして父親が居合わせていれば、死の原因となるものの残った世界線の幻影を一時的に見せることができる。
問題はいかにして、パッショーネの幹部をその場に呼びつけるか、なのだ。パッショーネとはおよそ関わりのない女が、安易に幹部と接触できるとは思えない。
「そうだわ……」
それなら、自分もパッショーネというギャング組織の一員になればいい。そして組織に――父がそうしたように――大金を収め、幹部にまで成り上がればいいのだ。
「ねえ、イルーゾォ。あなたが受けたっていう、入団テストなんだけれど」
はこのとき、自分がどう在るべきかを完全に理解した。未来が明るく輝いて見える。その輝きに向かう中で、体のどこか奥底から、生きる力が湧き上がる気持ちがした。ただ盲目に父を信じ、父の後に続いてきた人生とはこれで決別する。こう在りたいという明確なビジョンが生まれた。
私は、自分を愛してくれるすべての人を愛し続け、愛され続けるために生まれたのだ。それこそが、私の幸福。
「まだやってるのよね?」
「あ、ああ。刑務所の中に、一人幹部がいる。そいつが入団テストのすべてを取仕切って……いや、待てよ。。おまえ、一体何のためにオレにそんなことを聞くんだ」
これですべて解決する。は言った。
「パッショーネの幹部になる。もちろん、その入団テストを受けて合格して……まずはギャング見習いから始めなきゃね」
「おい待て、冗談はよせ。。おまえが何も、そこまでする必要は無い。他に道はある。おまえは、おまえは知らないんだ。この世界がどれだけ非情で、残酷で、おまえに耐え難い屈辱を与えるかを。人間としての誇りなんて物はいとも簡単に取り上げられる。そんな世界なんだぞッ!!」
「父がそうなる運命にあるように、私も同じような最期を迎えるかもしれない。それは分かっているわ」
「いいや、分かってない。おまえは分かってない! やめてくれ、頼む!! 、オレはおまえを愛しているんだ。心の底から、これ以上無いってくらいに、愛してる! そんなおまえには幸せであってほしい! だから、自分から進んで墓穴を掘って、生き埋めになりに行くようなことをするんじゃあねー!!」
いいや。これ以外に、道はないのだ。皆を守り抜き、皆を愛し続け、皆に愛され続けるための道など、他にない。はそう確信していた。
「試験に合格できるかどうか分からないだろう。仮に受かったとして、幹部になれるかどうかも怪しい。そもそも、組織の敵とみなされた男の実子が試験を受けられるかどうか……門前払いだってあり得る」
「合格できるわ。私にはディスティニーズ・チャイルドがいる。それに、幹部にもなれる。うちの会社から顧客情報を引き抜く権力を有する人間を失うのは、パッショーネにとっても大きな痛手となるはずよ。その跡継ぎ――現社長である私が、自分から組織に入りたいと言ってくるなんて、あちら様にとっては思ってもみないチャンスのはず。ついでに大金も手に入るんだから、断るはずはないと確信しているわ」
「そうだ、その金だ! 幹部になれるだけの金はどうする」
「あるもの。私、資産運用しているから」
「し、しさん、うんよう……。だ、だがしかしだ!」
イルーゾォは尚も食い下がる。矢の話を――入団試験の話をにしてしまったことを心の底から悔やみながら。
「普通、娘が父親を殺すなんてあり得ないだろうが!」
「恨んでいるという演技でどうにかなるわよ。遺産がどうとか、長年の確執がどうとか……仮に怪しんでいたとしても、とにかく一度幹部にはして、金は受け取ろうとするはずよ。私に嫌疑がかかって殺すにしたって、それは金を受け取ってからでも遅くはないでしょう」
何故、自分が殺されることになるかもしれないという話を平気でするのか。何故、何十億という私財を簡単に組織に献上すると言うのか。何故、簡単に組織に入ると――経歴に泥を塗るような選択をすると――宣うのか。イルーゾォには分からなかった。いや、以前までの自分には、絶対に完全に理解できなかっただろう。だが、の愛を知った彼には、それが何故なのかを少しだけ理解できるような気がした。
は、死んだと思ったのに生き返った。は、金ではなく、愛がすべてと言った。だからだ。そんな彼女に出会えたからこそ、イルーゾォはほとんど生まれて初めてと言えるような安らぎと幸福を得た。けれどそれらは、の安らぎと幸福があっての話だ。ギャングの世界に足を踏み入れて、安らぎや幸福などを得られるはずがない。
「おまえ自身の、身の安全はどう保証する……?」
「それは……私の魂が保証する。あなた達を生涯に渡って守り抜くために、絶対に死なないと約束するわ」
シドはの表情から、彼女の意志が固いとすぐに察した。絶対に死なないという口約束では保証にならないという反論も恐らく通らないだろう。こうなっては、は梃子でも動かないのだ。シドはそれをよく知っていた。だから諦めて、ギャングの幹部として威風あたりを払う――例えば、赤いベルベットの絨毯が敷き詰められ、ダークブラウンのマホガニー系の板張りに囲われた、広く暗い講堂の奥。長机の短辺に置かれた高級で重厚な作りの椅子に腰掛け、肘掛けに肘を置き、足を組み、真っ直ぐ前を見据え、不敵に笑って見せる――の姿を想像してみる。
「か……かっけえー。やべー。マジでやべー!!」
「おい、シド。てめー何浮かれてんだ! おまえが想像しているような、絵空事のような世界じゃあねーんだぞ! 止めろ!!」
には、世間一般に“悪”と思われることや、“罪”とされることを行う人間を理解しようとする性質があった。そして、彼らが悪と呼ばれるような所業に至った根本に立ち返り、その根本を改善しなければ、同じ過ちは何度も繰り返される、ということを学んでいた。それはシステム開発の過程で得られた経験則とも言える。しかし、根本的な、「世間一般でいう正義と対局にある悪」を理解しようとする心は、人格の形成過程で父や母に授けられた道徳観念に他ならなかった。
がまだ、小学校に入るか入らないかといった頃、マリア・がまだ生きていた頃のことだ。薄汚れた衣服を纏い、パンを手に持った少年と、怒り狂った店主がパン屋から飛び出してきた様子を見たが、少年を指差し、正義感から「なんて悪いヤツなの」と言った時、ロマーノ・は――父は言ったのだ。
私は表立った罪を犯し、警察に捕まったことは一度もない。だが、だからと言って私が善人というわけではない。善人でいられる金を得る機会に恵まれただけの、善人でいられるという贅沢を手にしているだけの人間だ。もしも私の稼ぎが少なく、おまえがひもじい思いをしていて、マリアが――母さんが嘆き悲しんでいたら、私も彼のようにパンを盗んでいたかもしれない。クスリを売り歩いたり、人を殺したりっていう、盗みよりももっと悪いこともしていたかもしれない。けれど、そうしなければ生きていけないというのなら、私はきっと家族のために迷わずそうしただろう。いいか、。生きていくのにしょうがなく悪さを働くことを悪と、悪さを働く以外の選択肢を与えてこられなかった人を悪と言っていいのは、貧困という、彼らと同じ境遇にあって善を行う者だけだ。……覚えておきなさい。
同じ頃、母は言った。
。あなたは私の宝物。私の特別で、大事な大事なかわい子ちゃん。……だけどね。この世界で、あなただけが特別という意味ではないのよ。他のお友達みんなにも、こうやってあなたを抱きしめて、大切だ、特別だって言う、大切な人がいるの。だから、人を傷つけたり、貶めたり、殺したりしてはいけないの。何か腹が立つことがあったのなら、腹が立つことをしてきた人を愛している人がいると、想像してごらんなさい。もしかすると、その人にはそんな人がいないかもしれない。だからあなたを腹立たせるのかもしれない。そういうときは、あなたがその人を愛してあげなさい。
これらの教えがをこの選択に導いた。だから彼女は、少しも躊躇しなかった。罪を犯さざるを得なかった父を、人を殺してしか生きることができなかったイルーゾォたちを取り巻く環境に自ら足を踏み入れ、深く知り、問題を根本から解決する他ないと考えた。
そしてこれらの教えがあったから、は今、シドやイルーゾォと共にいる。シドやイルーゾォがこれまでやってきたことは紛れもなく罪だ。だが、罪を彼らに負わせていたのは彼らの核となる魂ではない。環境なのだ。彼らを取り巻きながらも阻害し、人格を否定し、汚らわしいもののように、使い捨てのちり紙のように扱う人間が作り上げる環境こそを憎み、変えていくべきなのだ。そんな環境に身を置く彼らも、自分と変わらぬ人間で、人を愛する心を持っている。自分以外の何かを愛する心を持っている。その愛に、自分が救われることだってある。はそれを知っている。
富を得たものは余裕を持っている。善を行うだけの、環境を改善するだけの、心理的、金銭的余裕を持っている。そういう人間こそが、道徳的不運に見舞われた彼らに、愛を持って救いの手を差し伸べ、環境を変える努力を続けなければならないのだ。
の心の中に確かに、そのような理念が形作られた。今この時を迎えるまで、それほど意識はしていなかった理念が、ようやく彼女の生きる目的と結合しながら大成した。
「ほんと、ロマーノさんと、このおっさんのために……そこまでやるなんてよ……」
社会的弱者を決して虐げず、他者の生を尊重し、他者の生を最大限に活かし、生かし続け、慈愛を持って接し続ける。シドはその恩恵を受ける第一人者だった。彼はを尊ばずにはいられなかった。いやきっと、彼女と出会ってすぐから、自分はそんな彼女に心底惚れ込んでしまっていたのだ。彼は遅ればせながら、そう気付いた。
「。オレ、やっぱあんたのこと大好きだわ」
「やっぱりって……初めて聞いたんだけど。でもね、知ってた。それに、私もあなたのことが大好きよ。シド」
シドはマスクの裏側で顔を真っ赤にして押し黙った。
「おい、オレを除け者してんじゃあねーぞ!」
イルーゾォがの両の二の腕に掴みかかる。
「。頼む。馬鹿な考えはよすんだ。死に急ぐような真似は――」
「いいえ。イルーゾォ。馬鹿な考えなんかじゃない。私が愛する者をすべて守るためには、こうするしかないのよ。私も、あなたのことを愛しているわ。心の底から、これ以上ないってくらいに愛している。だからこそ、私はそうすると決めたの。あなたのことをもっと知りたい。あなたの生きる世界も含めて、すべてを理解したい。それに、私がギャングになってしまえば、さすがに父さんももう、私達の関係について何も文句を言ってこないと思うのよ。こんな素晴らしいことって他に無いわ」
はいたずらっぽく笑った後、イルーゾォの頬に手を当て、愛しげに撫でながら言った。
「私には出来るわ。あなたがそう信じてくれれば、出来るという希望が、確信に変わる。あなたの愛には、それだけの力がある。だから、私を信じて」
「、オレは――」
「私を、信じて」
イルーゾォは泣き崩れざまに、を抱きしめた。彼の広い胸板にすっぽりと収まってしまう彼女の頭を、手のひらをめいいっぱいに広げて覆う。泣き顔など見られたくなかった。
イルーゾォは未だに、の選択を完全には理解できないでいた。これまでの、何の欠陥もない完璧な人生に終止符を打ち、裏社会へと自ら足を踏み入れようと、何の躊躇いもなくそうすると宣言したの気持ちが分からなかった。自分なら絶対にそんな決断はしないだろう。いや、自分だけではない。富を持つ大半の人間が、絶対にそんな選択をしない。
だが、がそんな決断をするような人間だったからこそ、自分は彼女の真っ直ぐな愛の恩恵を受けられているのだろうということは理解した。
「分かった」
イルーゾォは声を震わせながら続けた。
「オレはおまえを信じる。それがおまえの心を強くするというのなら。……そして何でもやる。おまえの守りたいものをすべて守り通すためならば、何だってやってやる」
「ありがとう。……私って、本当に幸せ者よね」
いいや。。それはこっちのセリフだ。
イルーゾォもシドも、同じようなことを胸の内で呟いた。