The Catcher in the Mirror

「あり得ねぇ」

 リゾットから次の仕事の話を聞いてすぐ、イルーゾォがボソっと呟いた。次の仕事のターゲットとなっている人物が、彼のよく知る人間であって――こんなことは初めてだ――思うことがあったからだ。ボスに敵とみなされ、排除の対象となってしまった憐れなその人が、そんなことをするはずがない、という思いからではない。彼についてほとんどのことをイルーゾォは知らないが、そうであってほしくなかった。彼はそんな願望を吐露したのだ。

「どうした、イルーゾォ。そんな神妙な顔をして。……おまえなら喜ぶと思ったが」

 メローネが言った。彼には他人の気持ちに配慮して発言するという思いやりの心が欠落している。それは皆の共通認識であり事あるごとに窘めたりはしないのだが、このときばかりはさすがに皆の目がじろりとメローネをねめつけた。

「喜ぶもんか」

 イルーゾォは消え入るような声で言った。

 いつも高圧的で傲慢な物言いをし、自信たっぷりに振る舞うイルーゾォが、借りてきた猫のように大人しい。今の彼にはメローネへ何か答えてやる気力も沸かなかった。ロマーノに、娘と別れなければチームに大きな損害をもたらしてやると脅された後から、と復縁するまでの間のイルーゾォが再び顔を見せた。ホルマジオはそう思った。あのときは彼を叱咤激励したが、今回ばかりは、イルーゾォがそんな顔を見せても無理はないと。

 の愛してきた父親を――ロマーノ・を、オレたちチームの誰かが殺すだなんて。喜ばしいことのはずがない。
 
「好きな女の父親を殺したいなんて、普通は思わねーだろうが。バカか、おまえは」

 ホルマジオは苛立たしげに言った。
  
「だが、ロマーノがいる限り、イルーゾォとはどんな関係にもなれやしない。いつまで経っても、安心してセックスすらできない。そうだろ?」
「おまえな。いちいち下世話な話をぶっこんでくるんじゃあねーよ!」
「ホルマジオ。おまえ何ちょっと頬赤くしてんだ」

 プロシュートがホルマジオに人差し指を差し向けて言った。イルーゾォが横目にホルマジオを睨みつける。せっかくフォローをしてやったのに、と複雑な気分になったホルマジオは口を噤んで腕を組み、乱暴にソファーの背もたれへ背中を打ち付けた。

 確かに、ロマーノは邪魔と言えば邪魔だった。メローネが言った、安心してどうのこうのという話も下世話に違いないが事実。だが、だからといってロマーノのことが殺したいほど憎くて邪魔で仕方がない訳ではない。

 と一緒にいると、別に体の関係に無くても不思議と安心できたからだ。彼女と一緒にいるときだけでなく、彼女と離れていても、愛し合っているのだと感じられている間は、イルーゾォの中でへの愛が積もり積もって満ち足りた気分でいられる。つまり、彼女からの愛を前にすれば、ロマーノの邪魔立てなど特に気にするほどのことでもなかった。ふたりの関係を認めてもらうに越したことはないが、おそらくそれは一生不可能なので、その中でなんとかやっていくしかない。それでいい。そう思っていたのに。

 我らが暗殺者チームが、今回の仕事を成功に収めてしまったとしたらどうなる? 一流のハッカーを部下に持ち、自身も頭がキレるのことだ。すぐにパッショーネの関与を疑うだろう。パッショーネの暗殺者チームの存在を知っていて、さらにスタンド能力のことも知っていて、加えて自身も能力者である彼女ならば、自然と父親をやったのはパッショーネの暗殺者チームだという答えに行き着くに決まっている。そうなれば確実に、オレたちの関係は解消されてしまうだろう。

 ああ。そして何よりも、の心に、一生癒えることのない深い傷を負わせるなんてことを、オレはしたくない。

「どうしても……神はオレとを引き離したいらしいな」

 イルーゾォはそう独り言ちて顔を伏せた。

「……今回の仕事はプロシュート。おまえに実行してもらう。だが、幹部を殺すという重大任務だ。皆が情報収集や補助にあたれ。失敗は許されない」

 リゾットがそう言うと、彼とイルーゾォ以外の皆が立ち上がり、足早にリビングルームを後にした。

「イルーゾォ。……くれぐれも、仕事に私情は挟んでくれるな」
「ああ。……分かってる。分かってるさ」

 仕事に私情を挟むな。仕事は、与えられた仕事のまま完璧にこなす。そういうことだ。だからイルーゾォは、ロマーノを殺すことになるとに密告はできない。密告し、任務を失敗すれば、イルーゾォは真っ先に疑われる。恐らく、それが真実であれ濡れ衣であれ、イルーゾォを始末しろと上からお達しが来るはずだ。ボスが死を望む者の死を阻害しようとした反乱分子など、抱えるだけ無駄、どころかリスクでしかない。

 人殺しなど誰にでもできることだ。もっと言えば、矢さえあれば食い扶持に困り路地裏に屯するモルモットにでも能力を与えられる。そうすればさらに殺しの成功率は上がるだろう。自分たちは代えなどいくらでも効く鉄砲玉と思われているので、不祥事を起こせば容易に消すという選択をされる。そう。かつての仲間、ソルベやジェラートのように。

 しかし今回ばかりは黙っていられない。これ以上、を傷つけたくない。悲しませたくない。絶望させたくない。オレの命ひとつで足りるかどうかはわからない。だが、それでも、もしも密告したことがバレてボスに死を望まれたとしたら……オレは喜んで自らの命を差し出すだろう。

 の心が傷付いた未来に、彼女の愛の無い世界になど、生きていてもしょうがない。そう思い知った。だから今度こそオレは死ぬまで、彼女を手放したりなどしない。組織の人間に、仲間の命を奪わせたりもしない。オレにならできる。出来るはずだ。オレが命を差し出すのは、それをやり遂げた後だ。

 覚悟を決めたイルーゾォの瞳は、以前のように光を失ってはいなかった。





25: This Is How We Roll





 シドが異変に気付いたのは、からイルーゾォがどのように能力を得たかについて報告があった次の日のことだった。

 しばしの休憩を経てシャワー室から戻ったシドは、中断していた仕事を再開し、ロマーノ個人のPCを漁っていた。に出すと告げた証拠をレポートにまとめ、例の“矢”が何かについて論証するために、ロマーノだけでなく、スピードワゴン財団とかいう謎の組織の情報端末や、日本は杜王町の警察署のPC――これがまたとんでもなくセキュリティがザルだった。とはいえ、日本語まではさすがに分からなかったので、翻訳ソフトに頼りながら作業を進めた――などなど、矢に関係のあるすべての場所に潜り込んでの調査、その仕上げの段階にいたからだ。

 今、が最も関心を持っているのは例の“矢”が一体何なのかについてだけだろう。ロマーノが何故スイスの銀行に私財をつぎ込んでいるのか、ということについては、娘にさえも伝えるなと言われている手前、そう簡単には漏らせない。もしバラしたことがバレたら、オレはきっと路頭に迷うことになるだろう。あるいはが雇い続けてくれるかもしれない。

 とにかく、シドはそのことについてだけはに漏らさないと、ロマーノと握手を交わしたときに決めたのだった。彼の忠誠心は固いと言えなくもないが、その忠誠心を向ける相手は良くも悪くも彼の心、気の赴くままなのである。

 とは言ったものの、例の矢が何かを論証するための根拠となる事実や肉付けが可能となるような情報を、みすみす逃すわけには行かない。レポートの完成度が高ければ高い程、は適正に高い評価をして高い報酬を与えてくれるからだ。シドは与えられた仕事への関連度に鑑みて、最初に関連性は低いと振り分けたフォルダの隅々まで再度調査をしていくことにしたのである。

 好奇心の赴くまま――とはいえ、ハッキングの痕跡を残さないよう細心の注意を払いながら――ロマーノのPC内の散策を続ける。そうしているうちに、あることに気付く。

 なーんか、違和感。お、こんなところにバックドアが。むむむ? こりゃ、相当なヘタクソが荒らしに入ってんな。一応、セキュリティにひっかからずに侵入できてはいるが……こんなん、オレが匿名でしかるところに訴えちまえば即お縄だぞ。勇気あんな〜。でも、オレ以外の誰があのおっさんのやることに興味持ってんだろ。

 などと脳内で呟きながら、自分ではない、他の何者かの侵入経路をたどっていく。そうして行き着いたのは、バックアップを目的として過去のメールが格納されているフォルダだった。もちろんシドは、調査を開始した当初からそのフォルダの存在を知っていた。ロマーノが財団の主要人物――財団員の名簿から伺い知れる限りでは、かなりの重鎮だ――と連絡を取っていること。財団の資金援助を受け、会社を共同経営することなど、ロマーノが娘には秘密にしておきたいであろう情報がひしめいていて、矢にはさほど関係の無い情報であると判断したので、シドはひとまず蓋をしておいたのだ。

 けれど、その判断は誤りだった。例の財団の重鎮とのメールのひとつに、矢について触れているものがあったのだ。

 “施設では例の矢についての研究も検討している。この矢が人間の体へどのような影響を与えるかについて――どのようにして特殊能力を与えるのか。そして選ばれなかった者たちは、何が原因で死に至るのか。それらを――解明できれば、私達が矢に代わり「兵士」たちへ力を与えることができる。「兵士」たちを安定して育成できるのだ。つまり、パッショーネの悪行に対抗しうる兵力を、備えることができると考えている”

 この文章が、財団からロマーノ宛に送信されたメールの下方に引用されていた。つまりパッショーネの幹部であるロマーノが、パッショーネの悪行をどうにかしたいと書いているということだ。そして、シド以外のハッカーがこのメールを開いて見た痕跡がある。

 シドは他のフォルダでも同じような痕跡が無いか確認した。しかし、どれもさらさらと表面をなぞるような軌跡で終わっていた。そして件のメールを閲覧し始めた時刻以降に、PC内を漁って回ってはいないようだった。

 ロマーノのPC内部を漁っていたのが誰なのか。

「やべえ……かもしれねえ」

 シドは取得したIPアドレスから、荒らしに入った人物を特定することにした。もしかすると、ロマーノが殺されてしまうかもしれないと思ったからだ。――パッショーネの暗殺者に。

 シドは早鐘を打つ心臓の音に乗せるように、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。しかし、作業を始めてすぐ、キーボードのキーがボードに沈み込まなくなった。それだけではない。チェアのキャスターも背もたれも、体を動かしても微動だにしない。マウスすら動かせない。

「やっぱりか」

 シドは立ち上がり、部屋の入口の方を見やった。今日の彼は、虫の居所が悪い。いつも飄々と冗談をかます口も、今は苦悶に満ちた表情を構成するパーツのひとつに成り代わっている。そうと分かるのは彼だけだが、彼の発した声ひとつで、シドの様子がいつもと違うことにイルーゾォは気付いた。

「久しぶりだな。シド」
「あいにくあんたと挨拶をする気分じゃねえよ」
「シド、時間が無い。話を聞け」
「時間ってなんだ。ロマーノさんを殺すまでの時間か?」
「さすが、察しがいいな」

 イルーゾォは感心した。シドがそれを知っているのはおかしなことではない。もちろん、何故ロマーノのことを探っていたのかは気になるところではあるが、今重要なのはそこではない。

「あんたが殺すのか。……また、を悲しませようってのか!?」
「違う」

 牽制するように、イルーゾォは語気を強め言った。
 
「伝えに来たんだ。オレたちに仕事が振られた。その仕事のターゲットが誰なのかを伝えに来たんだ。シド。……その様子じゃあ、たった今察しがついたらしいがな」

 動かせなくなったPCの画面に人差し指を差し向けて、イルーゾォが言った。

「うちのボスから、ロマーノ・暗殺の命令が下された。期限は一週間。……なるべく予定を早めないよう、仕事を引き伸ばす努力はする。は今、どこにいる」

 シドはマスクの裏側で警戒の色を強めた。

 を人質に取り、ロマーノをおびき寄せ殺すつもりではないのか。このイルーゾォという男にとって、ロマーノは恋路を閉ざす壁でしかない。むしろ殺害する名目を与えられて喜んでいるんじゃないのか。だが、父親を殺した後のとの関係はどうなる?

 シドはそう思い至る。この男が、との繋がりを自ら断ちたいなどと思うはずがない。だからと言って、彼ら暗殺者が自由意志に基づく行動を取ることなど許されないはずだ。結局、ロマーノを殺さなければ、始末されるのはロマーノと、仕事をやり遂げられなかった暗殺者たち。犠牲者が増えるだけなのだ。やりたくなくてもやらなきゃならない。そんなときが、彼らにはある。いや、オレにだってそれはある。どんな人間にも、何か、自分よりも大切なもののために、自分の意志を殺さなければならないときがある。それでこいつは一度、の心を傷つけた。

は今どこにいると――」
「あいつに何する気だ」
「……おまえがそう勘繰るのも無理は無いか。オレを信用できないと言うのなら、おまえがに、さっき言ったことを伝えろ。メールでも電話でもなく、直接会ってだ。今すぐに、そうするんだ」

 イルーゾォが言っていることは、恐らく嘘でもなんでもない。自分は、それが真実であると確証を得るつもりでいたが、その手間を省いてくれたというわけだ。イルーゾォ自ら危険をおかしてまでこの場所に潜り込み、恐らくチームの人間と以外で最も信頼のおける人間――と言うか、そんな人間はオレ以外に存在しないだろうが――に、この鏡の中の世界で教えてくれたのだ。

 の元へ直接行けなかったのは、チームメイトに彼女と会うなときつく言われているか、あらゆるリスク――例えば、パッショーネの構成員がロマーノやの周りを固めているとか――を考慮して、裏切りと取られない範囲で動くためだろう。

 そんな彼に、これ以上できることはあるか? シドは考えた。イルーゾォを引き留めるべきか否か。恐らく、これからはイルーゾォと連絡を取ることができなくなる。できたとしても、時間と手間がかかる。そうなる前に、以前やったように、三人の能力と知恵を持ち寄り、問題の解決策を探るべきではないのか。

 イルーゾォのへの思いを信じるべきか。にイルーゾォを近づけざるべきか。

 迷う内に、イルーゾォはシドへ背を向ける。

「死んだことに――」

 シドはとっさに口を開いた。

「――できたとしたら」

 イルーゾォは足を止め、背中でシドの声を受け止めた。

「あんたらの仕事は無くなる。そうだよな」
「あ?」

 イルーゾォは眉根を寄せて背後へ顔を向けた。苛立たしさはなく、ただ、シドが何を言いたいかがわからない、そう言いたげな顔だ。

「死んだ人間は、殺せない」
「そりゃそうだ」
「だから、あんたらが仕事をやる前に、死んだことにしてしまえばいい」

 情報操作ならオレの得意分野だ。大衆にロマーノ・は死んだと思い込ませることなど簡単だ。人の関心を集めるストーリーをでっち上げ、ストーリーではなく事実だと思い込ませることができれば、真偽の程はともかくそれは誰もが信じる事実となる。人は真実よりも物語を好むのだ。この世の中はそうやって――無数のフェイク――でできている。

「だが、そんなことどうやって――」
「考えるんだよ。これから、それを」

 きっと、イルーゾォの能力は使えるはずだ。そしてシドは思い出す。

 死んだが、自らの能力で生き返ったことを。

「その前に、最終確認だぜ。おっさん」
「……今はあいにく、オレもおまえの軽口に付き合ってやる気分じゃあねーぞ」

 イルーゾォはシドが精気を取り戻したと感じた。それはイルーゾォに、無条件に希望を抱かせる。

 この男なら、やり遂げるかもしれない。……いや、オレたち三人の力があれば、この難局を再度乗り切ることができるかもしれない。

 イルーゾォはふっと微笑みを浮かべた。ひとりでどうにかしようと考え思い詰め、息も詰まるような気分でいたここ数時間の間が突然バカらしく思えてきた。

「あんたはを愛してるんだよな」

 イルーゾォはシドの姿をまっすぐに見据え、瞬きもせずに即答する。

「ああ。愛してる」
「なら、が愛してるものも、全部愛さなきゃな。そこにオレが含まれたなら、あんたはオレのことだって愛さなくちゃならねー。わかるな?」
「ああ。含まれているならな」
「オレはおっさんのことなんか大嫌いだけどな」
「で、何を確認したいんだお前は」

 ああ、そうそう。そうだった。シドは軌道修正を試みる。

は恐らく、今も親父さんのことを愛している。いや、以前にも増して、は親父さんのことを愛しているはずだ」

 ここ数日、ロマーノのことを探った結果だ。本人の口からそう聞いた訳ではないが、の人柄はよくわかっているので想定はできる。

「だからあんたは、どれだけ邪魔で憎らしかろうとも、ロマーノさんを守り通さなきゃならねー。その覚悟があんのか? ロマーノさんを殺さないと、誓えるか?」

 イルーゾォはやはり、目を逸らさず即答する。

「誓う。ロマーノ・も、も、そしておまえも……皆を、オレは守り通す」
「なら、オレに背を向けるなよ。手を貸してくれ」

 こうしてシドは、イルーゾォという暗殺者と再度徒党を組み、一世一代の大芝居の舞台裏へと踊り出るのだった。