「ねぇ、イルーゾォ」
「ん。……どうした」
短すぎる逢瀬の終わりを目前に、はイルーゾォの腕に抱かれながらつぶやいた。イルーゾォは幸せな時間の終わりを悟り、内側ではまだあと少し、もうちょっとだけ長くと願いながらも、追い縋るなんてみっともない格好だけは見せるまいと辛抱して平静を装った。だが意外にも、彼女の口から告げられるのは別れの言葉ではなかった。
「あなたのその、マン・イン・ザ・ミラーって、スタンド能力って……生まれつきなの?」
ただの興味本位の、それこそ、恋人のすべてを知りたいという欲求がもたらしただけの質問だとイルーゾォは思った。なので、特に深く考えもせずにありのままを話した。
「いや。……パッショーネの入団テストがあった。オレがこの能力を得たのはそれからだ」
話してしまった。と彼が後悔することになるのはまだ少し先の話。そう答えた後のが、ただの他愛ない会話にしては珍しい緊迫感を漂わせていたと気付いたのも後になってだ。遠くない未来にそんな後悔に苛まれることになるなどと、イルーゾォに予想できたはずもない。には、イルーゾォを自分の家族の問題に巻き込むつもりなど毛頭無かったからだ。だからここ最近知り得た父や母、そしてパッショーネの情報について、いくら心の底から愛し信頼しているイルーゾォを相手にでも漏らさなかった。
「どんなテストなの?」
「映画なんかでよくあるような話だ。強くなりたければ、この薬を飲め。みたいなやつさ。実際は薬じゃあなかったがな」
「薬じゃない?」
「ああ。……矢だよ。矢に射られたんだ」
がはっと息を呑んだのに、イルーゾォは気付いた。
「なんで生きてるのかって?」
我が身をただ心配してくれたものだと、イルーゾォは思ったのだった。それが見当違いも甚だしいと気付いたのも、後になってだ。
「え、ええ。どこを射られたの?」
「胸のあたりだな。……よく覚えちゃいないが」
はイルーゾォの胸に手を当て愛しげに撫で、手を最初に乗せた所へ耳を当てた。その慈愛に満ちた所作に、イルーゾォはただただ胸をいっぱいにして、彼もまたの頭を愛しげに撫でる。
「普通、胸を射られたら死ぬわ」
「ああ。だがな、不思議なことにこの通りオレは生きているし、傷跡も何も残っちゃあいねーんだ」
「不思議……。それって、矢に射られた人は皆能力を得るの?」
「いいや。だから入団テストなんだ。能力を得られたやつは入団できる。適正がなかったやつは死ぬことになる」
は目を一段と大きく見開いた後、眉根を寄せ瞳を潤ませてイルーゾォを見つめた。しばらくじっと見つめた後に視線をそらし、明らかな動揺を見せた。
「そんな、ひどい。……死ぬ可能性があるって事前に知らされるの?」
「いや。オレは知らされていなかったな。ギャングになんて、誰だって簡単になれると思ったさ。だが実際は違った。……射られたあと、ひどく苦しんだのは覚えてる。今思えば、ほとんど実験用のモルモットみたいな扱いだった」
はイルーゾォの胸に当てていた手を厚い胸板の向こう側へ伸ばし、彼をぎゅっと抱き締めた。
「イルーゾォ。あなたが生き延びられて本当に良かった」
イルーゾォには今が、ただただ至福の時だった。
生き延びて能力を得たまさにその時、万能感こそ感じはしたが、生きていて良かったなんてことは思わなかった。生き抜いた先の世界が様変わりしたわけではないからだ。能力を得て、過酷な世界を少し生きやすくなっただけ。相変わらず希望も何も見いだせない、ただ死にたくないというひどく本能的な欲求にしたがって、時間を弄する日々を続けてきた。
だが、あれから何年と経った今、自分が生き延びてきたことを良かったと言ってくれるような女性に出会え、今こうしてその女性の熱を感じられているまさに今、はじめて、心から生きていて良かったと、あのときに生き抜けて良かったと思えたのだ。これ程一気に、自分の世界をがらりと変えてしまうものがあったとは。そして、それを――からの真の愛を――自分が手に入れられたたなんて、本当に夢みたいだ。
イルーゾォはそう思った。そしてその幸せを噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「ああ。そうでなきゃ、今頃こうして……おまえとふたり、ベッドの上で抱き合っていられなかったんだよな。……心底オレも、生きていて良かったと、そう思うぜ」
「それにあなたが生きていてくれなかったら、私は今頃死んでいたわ」
「どうだろうな。その場合、おまえはナポリになんか来なかっただろうし……オヤジさんが守ってくれたんじゃねーか」
「どうかしら。でもやっぱり、私もこうしてあなたと一緒に今を過ごせていなかったらって思うと怖いわ。……パートナーも作らないで一生を終えていたかも」
「いや。おまえはいい女だ。男の方がほっとかねーさ」
「そう言って私のことを褒めそやしてくれたの、今まで生きてきた中ではあなたと父さんだけよ」
「冗談だろ」
「冗談じゃないわ。まぎれもない真実よ」
「いやいや、嘘だ。嘘に決まってる」
「本当だってば。私今まで男性とお付き合いしたことすらないのよ」
「……一夜の過ちもないのか?」
「ないわ。男性とふたりきりの時にお酒を飲んだりとか、ヤケを起こしてバーに行って、ひとり飲んだりなんかしたことない。だって危ないじゃない」
イルーゾォはの両肩に手を乗せて自分の体から引き離すと、ひどく焦ったような顔で彼女の顔を見つめて言った。
「ま、待てよおまえまさか……まさかとはおもうが、しょ……処女なのか!? だからおまえは今も尚、オレと――」
「あ、あのねぇ!! そういうデリカシーのないこと面と向かって言う!? ええ、そうよ。そうですよ! 悪い!? 別に敬虔なカトリックってわけじゃないけど、その、今までそういう、欲もわかなかったし……男性が近寄ってこなかったし、父のガードが固くて……って、言うかそもそも、処女なんて焦って捨てるようなものじゃないでしょう。さっきのあなたみたいに、経験があるとかないとか、普通の紳士はレディーに聞いたりしませんからね。人に聞かれたら、なんて気にしたこともなかったわ。別に処女でいて困ったことも無いわよ! ああ、あなた今、この女処女だったのかよ面倒くせえって思っているわね!?」
は頬をぷっくりとふくらませ腕組みをしてみせた。恥ずかしいのか、顔は全体的に真っ赤だ。女神のようだったり、時にこう、幼気で天真爛漫で。かと思えば戦士のように勇敢で。
はその時々によって様々な顔を見せる。
今まで一緒にいる内にこうも自分の内面を隠しもせず次々と開示してくれた女なんかいなかった。それもそのはず。オレがそれをしようとしなかったし、出来なかったし、したらしたですぐに女は逃げていっただろうから。けれどは逃げなかった。自分が幾人もの血に濡れた過去を持つギャングで、家も車も金も持たないと知っても、離れなかった。つくづく、イルーゾォは奇跡だと思った。こうして改めて、もう二度と・を離しはしないと、イルーゾォは心に誓ったのだ。
「正直に言っていいか」
「な、なによ……!」
イルーゾォもまた恥ずかしげに、から目をそらしながら言った。
「おまえが、最高に愛しい」
「っな、なに。茶化して言ってるの?」
「いいや。」
お互いに顔を真っ赤にしながら見つめ合う。恥ずかしくてどこかへふらふらと泳いでいきそうな目を必死にその場に留め、の美しい瞳をじっと見つめながらイルーゾォは続けた。
「茶化してなんかいない。。例えおまえが処女じゃなかったとしても、愛しいという気持ちに変わりなかっただろう。そもそもおまえが今オレの隣にいること自体が奇跡なんだからな。それなのに……こんなことって……奇跡中の奇跡としか言いようがない。誰彼かまわず体を安売りするような女なんか、男は求めない。一夜限りの関係ならともかく、一生添い遂げたいとは思えない。それは分かるだろう?」
「それって……あなたは、私と一生を添い遂げたいって思ってるってこと?」
「あ……ああ。バカで夢見がちだって、思うか……?」
イルーゾォはから視線を逃した。大層な期待を乗せて、つい告げてしまった。だが、一生一緒にいたいという気持ちに嘘偽りはない。イルーゾォは臆病にの答えを待った。待つまでもなく、すぐに答えは返ってきた。
「思わないわ。だって、私も同じ気持ちだもの。イルーゾォ、私も、あなたとこの先、ずっと一緒にいたいわ。……いいえ。ずっと、一緒にいるの。そう決めたのよ」
イルーゾォはまたを抱き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。その柔らかさ、あたたかさに嬉しさが込み上げた。彼はゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して続けた。
「ああ、。おまえは女神だ。女神そのものだ。完璧だ。その高潔さに、無垢な美しさを前にオレは挫けてしまいそうだ。助けてくれ。オレはどうすればいい」
「じゃあとりあえず、全然くじけずに私の服を剥こうとしてるこの手を引っ込めてくれる?」
は愉快そうにけらけら笑いながら、胸元に伸びてきていたイルーゾォの手を取った。その手は何の抵抗もなく元の場所へと戻っていく。
「もう我慢の限界なんだ。次は無いぜ」
「分かった。覚悟しておくわ」
そう言って深い深いキスを交わし、抱き合い、ひとしきり別れを惜しむと、イルーゾォは鏡の中の世界からだけを元の世界へと戻した。開け放ったバルコニーのドアを通り、ホテルから遠く離れた所で彼もまた元の世界へ戻った。
の姿を見るだけで泣きたくなる。一緒にいると、あまりの喜びに咽びそうになる。抱きしめると体を置いて魂がふわふわと舞い上がる。そんなオレが彼女と愛を交わせたなら、一体どうなってしまうのだろう。
イルーゾォは鼻歌交じりに、夜の隘路を進んでアジトへと戻った。彼は期待に胸を膨らませていた。足取りが軽くなるのも当然だ。
欲しい物を手に入れた時、人は当然、それを失くす時のことを想像して悲観する。期待はしていたが、イルーゾォもまたそうだった。
に見はなされてしまうかもしれない。オレになど、すぐに飽きてしまうかもしれない。一時の気の迷いだったと、自分の人生から、いとも簡単にオレという存在を切り離してしまうかもしれない。
今の彼は浮かれてはいるが、当然、彼の頭に根付いたネガティブな思考回路が完全に断たれたわけではない。けれどその悲観的な未来を、・は後に自らの手で、完全に断ち切ることになる。イルーゾォがそんな想像すらできなくなるほどに、彼女は彼に歩み寄るのだ。
この夜こそが、その第一歩だった。
24: I Lied
は知っていた。矢に射られたというイルーゾォが、それによって得た超常的な能力を。そして、矢に胸を貫かれたという彼が生きているということも。だから彼女はイルーゾォの言うことを嘘だとは思わなかった。ただ一点、気になることがあるとすれば、胸を射られたという証拠が、彼の体に残っていないということ。しかしその点についても、は彼を信じていた。彼が嘘をつくはずがない。自分の死後の世界にいるイルーゾォを見ての確信だ。
つまり例の映像に写っていた、パッショーネの構成員と思しき小柄な老人が父に渡した矢は、イルーゾォを穿った矢と同じものである可能性が高いということだ。矢は穿った者に特殊能力か死を与えるもの。穿たれた後、傷は残らないというイルーゾォの話が本当ならば、能力を得ることができれば、一度致死の傷を負った肉体は完全に修復される。その効果に期待して、父は母の手に鏃を握らせた。しかし結果は、母の死だった。
すべて仮定だ。確かにあるのは、あの映像と、母は死んだという事実のみ。けれど仮定は、がここ何ヶ月かで出会った人物、超常現象、特殊能力を実際に目にし、自らもその能力を持っているということから、ほぼ真実となりつつあった。
はイルーゾォと別れてすぐにシドへ連絡した。そもそも、が此度イルーゾォへ、能力は生まれつきなのか、そうでないのか問うたのは、シドからの依頼あってのことだった。
『やっぱりな。あとは証拠で固めるだけだ。そう長くはかからねーぜ。期待しててくれ』
そんなメールがシドから返ってくる。どうやら彼の方でも、同じ仮定にたどり着いていたらしい。
はラップトップを閉じ、ベッドに身を投げて何もない天井を見つめた。
父が何者なのか、それを明らかにしたくてこの調査をシドへ依頼した。盲目的に信じてきた父、ロマーノ・という男が、自分の定義するところの善なのか悪なのかを知りたかった。もしも完全なる悪だったのなら、自身の人生そのものを根底から見直しやり直さなければならないと思っていた。ただそれだけだったのだが、父の過去を知る過程で次々と様々な気がかりなことが現れてきた。深みに嵌りかけているのだ。
結局のところ、物事に白黒つけたくとも、そのどちらにも振り分けられないこととはあるものだ。父が行ってきたことはおそらく、世間一般的に言う悪だ。しかし、それが母を救うためにやむなく手を染めてしまった悪行だと知ると、途端に咎められなくなってしまう。は母を心の底から愛していたし、父も同じく愛していた――いや、今もなお深く愛していると知っているからだ。もちろん、そうと知った途端に、手のひらを返すように、父を擁護しにいっているのは公平ではないが、私は別に全ての人に愛され、認められるヒーローになりたいわけではない。
私の中の、私個人の正義に悖る道を歩みたくない。
ただそれだけだった。父の魂の善悪がどうあれ、私自身が父を自分の人生から切り離すような選択をするとする。世間一般の正義に身を委ね、父を人生から切り離す。それこそ、私個人の正義に悖る道だ。私は父を、ロマーノ・という人をひとりの人間ととしても、父親としても、心から尊敬し、愛しているからだ。もちろん、私が愛する者の心を殺し、私の人生から彼を切り離そうとしたのは許されることではないと思ったが、今になって、それはパッショーネと私を絶対に結び付けたくはなかった父なので、仕方のないことだったと気付いた。父が犯さざるを得なかった罪は、私が一生をかけて償う。今、そう決めた。
そう。私は罪深い女で、どこまでも貪欲なのだ。父を愛しているからと言って、イルーゾォを切り離したくない。イルーゾォを愛しているからと言って、父を切り離したくない。愛するものは絶対に手放したくない。どちらかを選ぶなんてことは、絶対にしない。必ず、生涯をかけて、どちらも愛し通してみせる。
はそう心に、自分の魂に誓った。
ところで。私の魂は何故あんな能力を――ディスティニーズ・チャイルドを――手に入れたのだろう。ふとそんな考えが浮上した。
今まで周りのことを知るのに精一杯で、自分のことなど後回しにしてしまっていた。イルーゾォがどのようにして能力を手に入れたのか、それを知ってはじめて気にしたとも言える。
には、能力を与える矢に穿たれた記憶もない。母がそうだったように、穿たれるまでもなく鏃に指先で触れて、熱病にひどくうなされて苦しんだ覚えもない。
「ねえ。ディスティニーズ・チャイルド」
がそう声に出すと、スタンドはすぐに姿を現した。金色に輝く幽体はやはり無表情に、をしげしげと見つめていた。
「私はどうして、あなたを――スタンド能力を持っているの?」
ディスティニーズ・チャイルドは言った。
「あなたがそうなるべくして生まれてきたの。そういう運命だったというだけよ。そして私は、あなたの内に秘められた能力を引き出したに過ぎないわ」
「……スター・ウォーズに出てくるヨーダみたいなこと言うのね。フォースが共にあらんことを、って? 少なくとも、私はあの矢に触れたりはしてないって捉えてもいい?」
「……私にもよくわからないわ。私があなたの中で目覚めたときのことはあまり覚えていないの。気づいたとき既に、私はあなたの中にいたのよ」
困惑したように、ディスティニーズ・チャイルドはから顔をそらした。そんな我が精神力の塊をじっとみつめ、は言った。
「いつか、あなたのルーツがわかるときがくるかしら」
「くるかもしれない。あなたがそれを望むなら」
そう主へ告げると、ディスティニーズ・チャイルドはふっと、姿を消したのだった。