The Catcher in the Mirror

「甘い。甘いわ、。ティースプーン山盛り十杯分の砂糖を注ぎ込んだデミタスカップのエスプレッソよりも甘い」

 背後から女性の声が聞こえた。けたたましい発砲音がこれもまた背後から聞こえてきたと思ったその時だったので、は反射的に背後を振り返って見ていた。

 目の前にニーナが拳銃を自分に向けて構えている姿がある。見るに、彼女はまばたき一つすることなく静止している。さらに驚くことに、すでに叩き出された後の一発目の弾丸は宙に浮いて、これもまた静止して見えた。

 死の間際、時間がゆっくり経過しているように感じることがあるという話は聞いたことがある。そもそも、時間と言う概念は絶対的ではなく相対的なものだから、人や場所によって感じ方が異なるのは不思議なことではない。

 が、これは不思議だった。現状は明らかに物理法則を無視しているように感じられたからだ。自分自身が体を自由に動かせているのに、すぐそばにあるはずのものは静止している。普通じゃあり得ない。――私は死んだのだろうか?

「でも、そんなあなたをさらに甘やかすのが、私の仕事よね」

 声は振り向いた先からしたのではなかった。先程聞いたのと同じ声が、今度はシドがついさっきまで座っていたデスクのある方――ニーナとロベルトに向かって左側――から聞こえたように感じ、はゆっくり顔を横へ向けた。

 するとそこには、物理法則がどうという次元を超えた“何か”がいた。

「ど……銅像!?が、喋ってるっ……!?」

 銅と言うより、金メッキだろうか。自分とほぼ同じ身長の人型の何か。全身は黄金に光り輝いていて、太陽を模したような、頭部より一回り大きな冠――カチューシャ?――を被っているように見えるそれが、しげしげとこちらを見つめている。いや、見つめているというか、黒目らしきものは確認できないので視覚が備わっているのかどうか分からないが、目のような部分はある。それはその、目のような部分をこちらへ向けて喋っている。喋っている……?口らしいものは見て取れるが、唇が動いている訳ではない。けれど、今目の前にいる人では無いが人型の何かが、確かに自分に向けて声を発しているのは感じ取ることができた。

「失礼ね。私は動いて喋る銅像なんかじゃあないわ」
「じ、じゃあ一体、何なのよっ!?」

 意志を持った、人では無い何かは宙に浮いた状態で――脚はあるのに歩いていない。幽霊に脚は無いんじゃないか。とはいえそれはフィクション作家の統一見解でしかないからこの際どうでもいい。だが、全体的におぼろげで向こう側が所々透けて見えるそれは幽霊と表現するとしっくりきた――ゆっくりとに身を寄せた。

「ディスティニーズ・チャイルド。私のことは今度からそう呼んでちょうだい。私はあなたの魂。精神力の塊よ」
「魂?精神力の塊?何よそれ。非科学的にも程がある。そんなこと……」

 あるわけがない。そう言いかけてすぐには口を噤む。ここのところ、あり得ないことが、自分の理解の範疇を越えた出来事が目白押しだった。それをふいに思い出したのだ。

 “スタンド”とホルマジオやイルーゾォは呼んでいた。主のそばに佇むように付き従う者。そのおぼろげな影を、ふたりの“スタンド”を、はっきりではないが見たことがあった。あり得ないことを話に聞いただけでなく、この目で見て、体験した。だからこれは最早、あり得ないことではない。

「詳しい説明は後よ。今、あなたはこの状況から“災い”を取り除かなくっちゃあならない」
「え……?」

 ディスティニーズ・チャイルドはニーナが拳銃から打ち出した弾丸を指さし、にそちらを見るように促した。

「このままだとあなたは死ぬわ。……後ろを見て」
「――え!?」

 驚いては腰を抜かしそうになった。後ろを振り向きかけたままの自分の顔と顔がぶつかりそうになったのだ。

 幽体離脱。現状を端的に表すとそうなるだろう。意識だけが、別次元のどこかにいるのだ。イルーゾォの能力に似ていると解釈するべきなのだろうか。いや、彼の能力は、人の意識を身体共々異次元に連れこむから違うか。とにかく私の場合は、人と顔を鉢合わせて痛いとか、物にぶつかって痛い、なんてことにはならないようだ。

「さすが。話が早いわね」
「わ……私の頭の中を勝手に読まないでよ!」
「それは無理な相談だわ。私はあなたそのものなのだから」

 この金ピカピンの超ド派手な人形が私の内面を表現している? 金を持っている自覚はあるが、そこまで派手な装いをしていたつもりはない。不本意だ。

「……まあ。言いたいことは色々あるだろうけれど、今は我慢して。……聞いて。あの弾丸はとてもゆっくりとだけど、あなたに近付いているわ。弾道を予測すれば、あなたが死ぬという未来は明らか。それはわかるわね?」
「え、ええ。……ぬかったわね。完全に油断していたわ」
「だから甘いと言ったの。あの女は始末しておくべきだったかも。けれど……これももう言ったわね。私には、そんなあなたをさらに甘やかす力がある」

 のスタンドは、今度は弾丸の方へ近づいた。そして、浮いた弾丸を虫でもはらい退けるように手のひらで掴んで、その場所から取り去った。――災いを取り除いたのだ。

「あなたを中心とした十メートル四方の箱の中でなら――

 はあたりを見回した。確かに、自分の前後左右の五メートル先に壁のようなもの――まるで四角いシャボン玉の中にいるようだ――が見えた。これが、能力の及ぶ範囲と言うことなのだろうか。

 ――いくらでも災いの元を取り除くことができる。今、弾丸をひとつ、取り除いた。けれど――」
「繰り出される弾丸は、一つとは限らないわよね」
「そう。その通りよ。時間は限られている。けれど、この箱の中でなら、あなたはいくらでも“災い”を生むものを取り除くことができる。あなたなら、次は何を取り除く?」
「ピストルを。あれさえなければ誰も死にはしないわ」

 ディスティニーズ・チャイルドはニーナから拳銃を奪い取り掌握すると、その手にぎゅっと力を込めた。まるで脆い石細工でも握りつぶしたかのように、粉々になった拳銃は開かれた掌の上から跡形もなく煙のように消えていく。残ったのは、必死の形相で拳銃を構える真似を――パントマイムを――するニーナの姿だけだ。

「……そう。ここで、ニーナ本人を取り除く。そんな発想に至らないからこそ、神様はあなたに私を授けたのかもね。それでこそ、私の知っているあなただわ」

 考えもつかなかった。言われてみればそれが最も効率的かもしれない。二度あることは三度あると言うじゃないか。けれど――

「仮にだけど、望めば、人間を取り除くなんてことができるの?」
「できたらやる?」
「……いいえ。むしろ、こんな能力を手に入れられたなら、なおさら人を殺そうなんて思わないわ」

 ――何度殺されそうになったって、死なない自信しか湧いてこない!

 ディスティニーズ・チャイルドは口元に手を当てて、クスクスと笑うような素振りを見せて言った。

「人間を取り除くことができるのか?その問いへの答えはノーよ。あなたが深層心理で望んでいないから、出来ないわ。できないことはいろいろあるけれど、代表的なものはこの三つよ。時間を完全に止めることはできない。生物を取り除く――抹消する――ことはできない。未来を正確に予知することはできない。この制約ある箱の中で、あなたは最大限の災いの元となるものを取り除くの」

 ここのところ思い知らされ続けていた、自分の弱さには辟易していたところだった。イルーゾォをはじめとする暗殺者チームの皆が持つ特異な能力を前に、それらを使役する父のような存在を前に、私は成すすべなど何も無い。途方も無い無力感にさいなまれ、活路を拓く気力すら奪われかけていた。

 けれど、心強い仲間が――イルーゾォやシドのような、並外れた能力を持つ者が――共に歩んでくれるのなら、自分は弱くとも、迷いながらも前に進める。そう思って、今ここにいる。何とか、自分自身の意志で自分にやれるだけのことをやって、後悔が残らないようにと今ここにいる。

 そんな私は今、心強い仲間たちと、同じステージに立てた。守られるだけでなく、他者を守ることができる能力を得たのだ!!

 道が、未来が、運命が、開けたように感じた。具体的なビジョンが描けたわけではない。それでも、この力が備わったのであれば、ありとあらゆるものを守りながら道を切り開いていける。そう確信した。胸は希望に満ち溢れ、心が踊るようだった。だが、有頂天になりそうな自我を必死に抑え、は冷静に自身のスタンドに問いかける。

「ねえ、ディスティニーズ・チャイルド。あなたはどうすれば出てきてくれるの?」

 は、与えられた能力を最大限に活かし、最善を尽くさなければという使命感に突き動かされた。そしてこの能力を使いこなすという覚悟を即座に固めた。

「あなたが危険を察知した瞬間、自動的に。そして、あなたが私の力を必要としたとき、いつでもよ」

 はもう一度あたりを見回した。拳銃の他に、脅威となりそうな物は……今のところ見当たらない。

「ああそれと、できることは災いを取り除くことだけじゃあないわ。災いが残ったままの未来を箱の中の“観測者”に見せることができるの。一定時間が経過すると、幻影は消えて災いが消えた“現実”が現れる。それは、あなたが絶対的優位に立つまでの猶予期間。どう?いたれりつくせりでしょう」
「運命は私の思うがままってこと」
「そうよ。あなたには、そうできるだけの頭脳と、その権利を持つだけの人格がある。さあ、あまり気分のいいものじゃあないけれど、自分が死ぬところを見てみましょうか」

 なんて心強い相棒なの!?最高の気分だわ!……ああ、でもダメよね。こうやって調子に乗って油断していたら、いまにまた、足元をすくわれる。

「ふふ……。あなたのそういう、お調子者なところも好きよ。常に自分を省みるこころも好き」

 ディスティニーズ・チャイルドはをニーナの背後、箱の外にまで誘った。すると、静止して見えていた――正確には、少しずつ進んでいたらしい――世界が動き出す。

 目の前で、二発の銃弾が叩き出され――音は聞こえない。そしてこちらからは、拳銃も弾丸もの体も、それこそ幽霊かホログラムか何かの様に向こう側が透けて見えている。箱の中にいる観測者たちは、幻を見せられているのだ――背後に三発の銃弾を受けた箱の中のは前に倒れそうになったところをイルーゾォに抱き留められた。その後、イルーゾォはの亡骸を抱いて涙を流した。いきり立ったシドは、懐からナイフを取り出し、半狂乱になったニーナへ襲いかかろうとしていた。どちらの姿も意外だった。

 まさか、自分が死んだ後の世界をこの目で見ることができるなんて。きっとふたりは、私が殺されたことに怒り、悲しんでくれているのだ。イルーゾォとはまだ出会ったばかりなのに、暗殺者の彼は私の死に、心からの涙を流してくれているのだ。そう思うと嬉しく思えた。同時に、彼を悲しませてしまったこと、恐らく、絶望させてしまったことを心の底から後悔した。

 だがはすぐに、いつまでも感傷に浸ってはいられないと気を取り直す。そして誰も死なせないという信念に突き動かされ、彼女はとっさにシドの元へ駆け寄った。

「そう。だから私はいつでもあなたの味方よ。……いいえ、いつだって私はあなたの味方だった。それはこれからも変わらない。さあ、箱を取り払いましょう。事象はひとつに――災いのない現実に――収束する」

 そう言ってディスティニーズ・チャイルドが姿を消したのと同時に、箱もろとも、の死体はまた煙のように消えていった。

14: Suga Mama



 貧困に喘ぎ苦しんだ幼い頃。その頃から、理不尽に略奪され、虐げられるのが我慢ならなかった。自分を、そして自分の気高い心を生かすためならば、盗みも脅しも殺しも、何だってやってきた。自分の世界で大切なものは自分だけだった。

 そんな自分に、ある力が備わった。その力は、恐らく相手が誰であれ、自分が絶対的優位に立てる能力だった。おかげで今では、信頼する上司と、仲間と呼べるような者も手に入れた。抑圧された生活に変わりはないが、それでも昔より幾分、世界は生きやすくなった。

 つい最近、生きやすくなった世界で宝物を見つけた。オレはそれを手に入れたくて仕方がなかった。それは、どんな金銀財宝よりも美しく価値がある唯一無二の存在だった。幸運なこと、そして驚くべきことに、手が届きそうだった。嘘をつき、盗み、人を何人も殺してきた悪人に違いない自分がそれを手に入れられるとするならば、自分はそういう星の下に生まれたのだと、そういう運命だったのだと信じた。

 信じて、手に入れた。そう思ったのに。何者からも、自分が大切に思うものを守りきる力が自分にはあったはずなのに。それなのに、オレの宝は……はッ……!!



 イルーゾォは溢れてくる涙を止めることができなかった。みっともないとか、プライドがどうとか、そんなことはもうどうでもよく、ただ、失ったものの大きさに耐えられず崩折れて、悲しみの涙を流すことしかできなかった。

 なくして、もはや彼の世界は成り立たないとすら思えた。今までさんざん執着してきたはずの自分の、一番大切だったはずの自分の命がどうでもよく感じた。

 出会ったばかりだったろう?自分を慰めるために頭の中に浮かび上がってきた言葉だ。――なんの慰みにもならなかった。は、そんな言葉で片付けられるような存在ではなかった。共に過ごした時間が長いとか短いとか、そんなことは少しも関係なかった。

 はイルーゾォを虐げなかった。彼が何者かを知っても、それは変わらなかった。同じ人として接した。共に行くと言った。常に嘘偽りなく、心からの言葉を彼に聞かせた。

 恐らく、オレは愛されていた。

 強く気高く美しく、実直で勇敢なが、自分のそばにいることが誇らしかった。初めて、人を心の底から愛することができた。そしてこれから先、常にその愛を抱いていて生きていたいと思った。その矢先のことだ。

「愛してるんだ」

 イルーゾォは目を瞑り、涙をこぼしながら呟いた。彼はその言葉を、過去のものにしたくはなかった。どうしても受け入れることができなかった。の死を。

「私もよ。イルーゾォ」
「……ッ!?」

 イルーゾォは、腕の中でただ冷たくなっていくだけのはずであるの顔を見ようと目を見開いた。確かに彼女の声が聞こえたからだ。――だが、自分の腕の中にいたはずのは忽然と姿を消していた。手に付着していたはずの彼女の血液もその匂いも、彼女の体温も、何もかもが消えていた。

 慌てて前を見た。すると、シドがニーナに向って振りかざしたナイフを持つ手の手首を掴んで立ったが、こちらに女神のような、慈愛に満ちた微笑みを向ける姿があった。銃撃を受け、死んだはずのが、銃撃を受ける前の姿のままで立っていた。

「!?ど、どうして……!?銃、銃は!?わ、私、わたし確かに、アンタを撃った……撃った、はず……」
「幻覚よ。ニーナさん」

 は、呆気にとられて何も言えずにいたシドの手からナイフを奪い取り、すかさずニーナの顔面へ向けてナイフの刃先を突き出した。その鋒はニーナの眉間に触れるか触れないかという所で止まった。ニーナはごくりと喉を鳴らして硬直する。

「あなたに私は殺せない。もう、何度言ったって分からないみたいだから、この後も何度でも私を殺そうとしてみるといい。その度にあなたは惨めな気分になるはずよ。次第に、どうやったって殺せない私に恨みをつのらせて、私を殺すことに時間を割きお金をかけるのがバカらしくなってくる。そう言い切れる。私には、そう断言できるだけの能力がある」

 はナイフを持った方の腕を下ろし、続けた。

「なんの能力も持たないあなたをこのまま殺すのはとても簡単なことだわ。けれど、簡単なことだし、いつでもできることだから、私はやらない。簡単な問題をいくら解いたって、なんの力にもならない。少しも成長できない。だから私は敢えて、難しい道を選ぶわ」

 皆がはっきりと見ていた。ニーナが拳銃をに向けて撃ち、三発の銃声が響き、三発ともの背後に命中したところを。だから皆、呆気に取られて、ものを言えなかった。

 まあ、そうなるのも仕方がないか。とは言え、イルーゾォはともかく、その他三人にはスタンドすら見えないから、説明するのが面倒だしなぁ。

 がため息をついたその時、パトカーがサイレンを鳴らしながらこちらへ向かってきているような音が聞こえてきた。

「ま、まずいわ!ほら、いつまでボケっとしてるつもりなの!行くわよシド!イルーゾォ!」
……あんた、なんともないのか……?撃たれたんじゃ……」
「詳しい話は後よ。……銃声ね、確かに一発は響いているから、警察が駆けつけてくるのは納得。さあ、早いとこここから出ましょう」

 シドの背中を押し、部屋の戸口へと向かう。その途中で、床にへたり込んだままのイルーゾォに向けて、は手を差し伸べた。

「ほら、イルーゾォ。早く行きましょう」

 イルーゾォは幻に差し伸べられた手に手を伸ばし、触れた。それは確かにあたたかく感じられた。

 幻ではない。確かに、がここにいる。

 そう思ってはじめて、イルーゾォは立ち上がることができた。生きる気力を取り戻すことができたのだ。