・は殺して海へ沈めた。
正午前。ニーナ・ロッシーニは、アントーニオからの報告を受けてすぐに口角を吊り上げた。報酬は現金を手渡しで。そう決めていたので、後は約束通り例の場所で、と伝えると、ニーナは通話を終えて携帯電話をポケットへ仕舞った。
これで夫は社長に昇格。私は晴れて社長夫人。
ニーナは自宅のキッチンで料理をしながら、込み上げてくる笑いを止められなかった。これから先の華々しい人生を思うとたまらなかった。やっと、二ヶ月前に突如として訪れた暗澹たる日々が終わりを迎えたのだ!
「おばあちゃーん」
「ああ、メリッサ。私のかわいい天使!」
ニーナは濡れた手をタオルで拭い、足元にやってきたかわいらしい孫娘を抱き上げ、柔らかな頬にキスをした。
「おばあちゃんとーってもごきげんだね?なにかいいことあった?」
「ええ、それはもう!あなたのおじいちゃんが……」
ニーナははっと我に返ってとっさに口を噤んだ。
「いえ、今はやめておきましょう。おじいちゃんがそのうち直接教えてくれるはずよ!」
そう。浮かれるのはまだ早い。が確実に死んだと分かるまで、迂闊な発言は厳に慎むべきだ。
ニーナは、危ないからお母さんのところに戻りましょうねと、娘のいるリビングへメリッサを連れて行った。ニーナの夫――ロベルト・ロッシーニ――はその時、窓際のカウンターテーブルについて、外の景色をぼうっと見つめていた。ニーナがソファーでくつろいでいた娘に孫娘を預け振り返ると、どこか浮かない顔をしたロベルトと目が合った。彼女はニコリともせずにキッチンへと戻る。
あの、口先だけは立派で、中々うだつの上がらなかった男をここまで育て上げたのは私だ。絶対に社長にまで押し上げて、金を、名声を、権力を手に入れされる。そう誓って今まで献身してきたのだ。そのゴールへの道筋を、あんなぽっと出の小娘に閉ざされてなるものか!
そう奮起して、ニーナは殺人教唆に手を染めたのだ。
昼食を終えてしばらくすると、孫と娘は自宅へ帰っていった。広々とした家に、ニーナとロベルトのふたりきり。そしてまた、ニーナは夕食の支度に取りかかった。
ダイニングテーブルに、いつもより手がこんだ夕食が並べられる。昼からずっとうかない顔をしていたロベルトは、ニーナに呼ばれ言われるがままテーブルについた。
「彼女は……君は、本当に死んだのかい?」
「ええ」
あっけらかんとニーナは言い放った。彼女はいつもより機嫌がいい、とロベルトは思った。
今まで彼女の機嫌を取るために――いや。最初は違った。美しい彼女に心の底からの尊敬と愛を注いで欲しかったから――彼女の言う通りにやってきたのだ。彼女の言う通りにやっていれば不思議とうまくいったし、言うことを聞いていれば彼女は笑顔を向けてくれる。
今がそうだ。けれど、今ニーナに向けられている笑顔は心の落ち着くそれではない。
「これ以上のことは、あなたは何も知らなくていいのよ」
笑顔を浮かべたままのニーナの手が、ロベルトの手の甲にそっと触れた。
「すべて私に任せて。あなたはこれからも、お仕事をいつもどおり頑張ってね。……さあ、今日はごちそうよ。あなたのために頑張って作ったの」
を殺させた。その事実さえなければ、これほど幸せな夜は他に訪れなかっただろう。けれど彼女は、が死んでいなくならなければ、この先ずっと笑ってはくれなかったのではないだろうか。
それが嫌で、結局ニーナを止められなかった。それは自分の責任だ。妻に人一人の命を奪わせたのは他でもない、不甲斐ないこの私なのだ。私はこれから、その重荷を背負い生きていくのだ。私はこれから先永遠に咎人として、途方も無い罪悪感にさいなまれながら、死んだように生きていくのだ。
「美味しい?」
そう聞かれて、ロベルトは言った。
「ああ。いつも思うけれど、君の料理は最高だよ」
本当のところは、この時のロベルトには美味いとか不味いとか思うだけの心の余裕など無かった。
それにしてもまさか、ついさっきのあれが最後の晩餐になろうとは。
ロベルトは、自分よりも一回り大きな体躯をした男に後ろから拘束され、首にナイフの刃先を当てられながら、向いに立つニーナを見つめていた。
人を殺すということは、自分も殺されて当然と自覚することだ。殺人教唆も立派な殺人行為。自分でない誰かに殺させるからといって、その罪が薄れる訳でもなんでもない。もっとも、そうと自覚できたのは、やり返されて窮地に陥った今になってだが。
ニーナには、覚悟があったのだろうか。人を殺してでも――例え自分が殺されても――私を社長に押し上げるという覚悟が。
一体、それが何になると言うんだ。死んでしまっては何の意味もないじゃないか。死にたくなかった。私はまだ、君と一緒に生きていきたかった。
妻を見つめる内に涙が溢れ、それが頬を濡らしていた。圧倒的な力の前にただなす術もなく、妻を守ることすらできずに死に絶えてしまいそうな自分を、こんな現状を招いてしまった自分の愚かさを、ロベルトは心の底から恥じて後悔していた。
13: Brave Honest Beautiful
ロッシーニ夫妻が主寝室へ入り寝静まるのを見計らって、イルーゾォと、そしてシドの三人は邸宅内に忍び込んだ。
社員割引でも効くのか、ロッシーニ家の警備システムはすべて自社製品だった。メーンシステムとそれへの給電設備がどこにあるのか、警報の作動条件が何かなんてことは、は元よりシドも完全に把握していたので、物音ひとつ立てずにキッチンの勝手口から宅内に忍び込むのは造作もないことだった。
シドの手元には、野良の殺し屋の証言――リゾットが拷問している様をプロシュートが撮影し、それを編集したメローネが大容量データ送信システムでロマーノへ送りつけた動画――、アジトでアントーニオに虚偽の報告をさせた際の通話記録、殺し屋とニーナとの間で交わされた電子メールの履歴、殺し屋をナポリ支社の監視室へ導いた記録などなど、ありすぎるといっても過言では無いほどの証拠を用意していた。
もちろん、ここまでの証拠が上がったのは、ニーナがを殺そうとした夜に、彼女がイルーゾォと出会ってしまったのが原因だ。決してニーナのやり方の詰めが甘かったとか、大ぽかをやらかしたという原因があったからではない。ロッシーニ夫妻は、には優秀な部下――シド・マトロック――がついていることを知っていたから、電子的な証拠は極力残さないようにと留意していた。その努力はシドも認めていた。だが、それ以上に彼のハッキングスキルが秀でていたから、消したはずのメールの履歴が掘り返されてしまったりもした。
要するに、ニーナはすこぶる運が悪かった。タイミングも悪かった。には、幸運の女神がついていたのだ。
そうと知らず、完全にが死んだと思いこんで熟睡しているロッシーニ夫妻。イルーゾォはそんなふたりを寝室の入口付近の壁に掛けてあった大きな鏡から鏡の中の世界へと引きずりこんだ。も一緒にいる。彼女は、ニーナが目を覚ました途端どんな反応をするだろう、と場違いにも少しワクワクしていた。
一方、シドは家主のいなくなったリアルの方の世界で、さらなる証拠は無いものかと家捜しに励むのだった。
「どうして……!?どうしてあなたが……!!」
生きているの!?そう言いかけて、ニーナはまたもやハッと我に返って口を噤んだ。
夫の情けない悲鳴を聞いて飛び起き声のした方へ向くと、あり得ない光景が目に飛び込んできた。
明かりがつけられた寝室で、ロベルトは見ず知らずの長身の男に拘束され、喉にナイフを突きつけられていた。それよりも驚きなのは、ふたりの隣に亡霊が仁王立ちしていることだった。
・は殺して海へ沈めた。
アントーニオの声が頭の中で繰り返される。嘘だったのか?それとも、これは夢?
金魚のように口をパクパクと動かして、ニーナは何も言えずにいた。彼女の予想通りの反応を見たはふふんと鼻高々になって、胸のすく思いがした。ここ最近で一番スッキリした気分だった。
とは言え、重要なのはここからだ。明らかな殺意があったことをニーナに認めさせなければならない。のポケットには録音ボタンを予め押しておいたオーディオレコーダーがあった。
「お久しぶりです。ニーナさん。お元気そうで何より」
皮肉たっぷりに言いながら、が一歩、ニ歩とニーナに近づいていく。ニーナは身を引いて背後の壁に身を寄せた。
「単刀直入に申し上げます。ニーナさん。あなた、私を殺そうとしましたね」
「……い、一体何の話……?」
「シラを切ろうってつもり?こっちには、証拠なんかいくらでもあるんですよ」
「分からないわ!どうして、あなた達は人の家に勝手に上がり込んでいるの……!?その男は一体誰なの!?警察を呼ぶわよ!?」
「どうぞご自由に。やってみたらいいわ」
ニーナはベッドサイドに置いておいた電話に駆け寄り受話器を持ち上げようとするも、それは微動だにしなかった。受話器が親機に張り付いているのなら、樹脂製の軽いそれは持ち上がって当然なのに、テーブルに張り付けられたように動かない。ならばその小さなテーブルは持ち上がるのかというとそんなことも無かった。電話線が断ち切られているわけでもない。この受話器すら持ち上がれば電話がかけられるはずと信じて疑わないニーナは、電話にしがみつくようになって全体重を作用させて動かしにかかったが、当然動きはしなかった。
それでパニックに陥ったのか、腰を抜かして床を這うように開け放たれた寝室の扉の方へ向かい外へ逃げようとする。
「おい、ちょっと待て」
ニーナを上から睨みつけてイルーゾォが言った。彼女はピタリと動くのをやめた。
「まあ、別にそこから出ていったって、玄関やら勝手口やらは閉じているし、おまえは逃げられやしないが……動き回られると面倒だ。今度この部屋から出ようとしたら、ここでこの男を殺す」
そう言って、イルーゾォは手元のナイフに力を込めた。
「ひいいいっ!」
ロベルトが悲鳴を上げた。あまりにも一方的なやりとりで、こっちがいじめている気分になって少し気が引けてきただったが、いやいや、最初に喧嘩をふっかけてきたのはこの夫妻の方だし、あの殺し屋に殺されそうになった時の恐怖を思い出せば当然、怯えさせて然るべきだと思いなおした。
「ごめんなさい、ロベルトさん。でも、私だってもう死ぬかもって思いをしたんです。あいつらは手足を拘束して見ず知らずの廃墟に連れ込まれて怯えきっていた私に、クスリを打って犯して、海にでも棄てようって言ったんですよ。ニーナさんが雇った殺し屋がね」
「証拠があると言ったわね……?」
少しだけ落ち着きを取り戻したニーナは、迂闊なことを言わないようにという注意をはらってゆっくりと話し始めた。旦那の方は悲鳴を上げてガクガクと震えっぱなしで情けないことこの上ないが、嫁の方は肝が座っているらしい。
「ええ。それはもう、たっぷりと。ああ、私を殺そうとした男があなたの名前を口走った動画だってあるんです」
「……ッ!そんなの、いくらでもでっち上げられるわ」
「まあ、でっち上げでもなんでも、数々の他の証拠と共に動画投稿サイトにでもアップロードしてしまえば、あなたもロベルトさんももう二度と表を歩けなくなるでしょうね。ああ!そうだわ!まずは手始めに社内報――紙代がもったいないって、最近父が電子メール化したやつですよ――あれにでも載せてあげますよ。お仕事、次はどうします?外国にでも行きますか?」
「そ……そんなこと、許されると思っているの!?」
「どの口が言っているんだか。……まあ、いいわ。とにかく、あなたが罪を白状すれば動画を流出させたりしないし、ロベルトさんも職を失わずに済みますよ。そうでなければ、ロベルトさんをこれから殺します。あなたのこともその後に殺します。私達には、それが簡単にできてしまいます」
「ハッタリよ!そんなこと、あなたにできるはずが――」
ニーナの言葉を遮ったのは発砲音だった。向いに立つが銃を両手で構えていて、その銃口から白煙が立ち昇っている。弾丸はニーナの左肩上空を通って壁にぶち当たり、弾頭が潰れた状態で床の上に転がった。
本来であれば、この鏡の中の世界に銃火器の類は持ち込ませない。飛び道具を持ち込まれては、イルーゾォの優位がたちまち揺らいでしまうからだ。それでもに拳銃を持ち込ませたのは、彼女を信頼してのことだった。出会って間もない女を囲い銃を持ち込ませるなど、彼女と出会っていない過去の自分からしたら、とても正気の沙汰ではない。だがイルーゾォが望むのは、このゴタゴタの抜本的早期解決だ。彼は以外の邪魔者――特にシドがそれにあたる――とはさっさとおさらばして、早くとふたりきりになりたいと、心の底から思っていたのである。なので、最も効率的手段を思い描いて要るであろうの頼みを聞き入れたのだ。
「すみません。私、銃を扱うのに不慣れなもので。もう少しあなたから離れたところに撃つつもりだったんですけど」
「や……やったわね!?」
鼓膜を破らんばかりのけたたましい銃声が今、確かにした!ニーナは腰を抜かしながらも今度は窓辺に寄って、窓の向こうの大通りを見やった。
「バカね!自分から警察呼ぶようなことして……」
だが、通りはいたって静かなままだ。野良猫が外をうろついているのが見えたが、銃声を聞きつけて窓や戸口から顔を出す人間の姿は一向に現れない。ここはミラノの一等地。発砲音がひっきりなしに鳴り響くようなどこぞのスラムとは違う。このあたりの住人なら、血相を変えて慌てふためくはずなのに……!
「ここはおまえの寝室であるように見えて実は違う場所なんだ。詳しい説明は面倒なので省かしてもらうが、電話が動かなかったようにドアだって動かず開かないし、ここでした音なんか外には届かない。もっと言えば、おまえらをここに囲っておけば、物も食えないし水も飲めないので、飢えて死ぬ。それを待ってたっていい。オレとはここから出るも戻るも自由なんだ。疲れたら休憩でも挟みながら気長に待たせてもらうさ」
実際問題、ふたりが飢え死ぬまで精神エネルギーが持つかどうかは怪しい――というか、ふたりが死ぬまで寝ないでいられる気がしない――が、スタンドという概念すら知らない人間にそこまで教えてやる必要はない、とイルーゾォは判断した。
ああ、このまま殺せたらどんなに楽だろう。今になって、シドが言った「殺すだけなら簡単だよな」というイヤミの意味を理解した。が絶対に殺さないという意向なので、仕方なくこうして辛抱しているが……。面倒だ。とにかく早くゲロってくれ。
「さあ。どうする。もう面倒だから、さっさと決めろ」
イルーゾォのもつナイフの刃先がぷつりと喉の表皮を破る。待つとは言ったもののやはり面倒だという結論にいたり、勢いでナイフを持つ手に力を入れてしまった結果だった。ロベルトはたまらず声を上げた。
「い、痛い!助けて、助けてくれニーナ!……もう、いいじゃないか!私は死んでまで、君を失ってまで、社長になんかなりたくない!これっぽっちも、なりたくなんかないんだ!本当のところは、君が生きていて、私は、ホッとしたんだッ……!」
「ロベルト……あなたッ……私を見捨てるって言うの!?あなたのためを思って、私は……」
はすかさず口を挟んだ。
「あなたのため?……どちらかというと、自分のために自分の意見を旦那さんに押し付けているように見えますけどね」
「うるさいッ……!あなたに、私の何が分かるっていうの!?知ったふうな口をきかないで!あなたみたいに、生まれたときから裕福で、美しくて頭もよくて……全てに恵まれたような人間に、私の苦しみなんか分からないのよ!」
「それで、私が憎らしくて……邪魔で仕方がなくて殺そうとしたんですね?」
「そうよ!」
はこの時点で、服のポケットにつっこんでおいたオーディオレコーダーの録音停止ボタンを押した。
「もういいわ、イルーゾォ。これだけあれば、彼女は私をもう殺そうとは思わないはず」
「本当に殺さなくていいんだな?」
「……ええ。殺さないし、殺させないわ」
――父さんに、殺させはしない。ニーナの性根が腐っているからといって、その血縁者皆がそうとは限らない。彼女やロベルトが死んだら、ふたりの孫娘が、メリッサちゃんが悲しむだろうから。
は、会社のパーティーに来ているところで一度だけ会ったことのあるロベルトの孫娘のことを思い出していた。あんなにかわいらしくて天使のような優しい幼い子の心に傷を負わせて泣かせるなんて、想像しただけでも胸がぎゅっと締め付けられて嫌だった。
放心状態で床に崩折れたニーナに、イルーゾォから解放されたロベルトが駆け寄った。すまない、私が情けないばっかりに。なんて声を、めそめそと泣きながら彼女にあびせ抱きしめた。
「お!終わったのかー?」
シドが窓際のデスク――書斎代わりに使われているらしいスペースにある――上に置かれたモニターの向こうからひょっこりと顔を出した。
いつの間にか皆、鏡の中の世界から解放されていたようだ。
「ええ。そっちはどう?何か収穫あった?」
「うーん。イマイチだな。旦那の口座からババアの新しい口座に、殺しの報酬に充てるくらいの金を動かす手続きの履歴があったくらいだ。まあでも、十分訴訟起こすくらいの証拠は――」
「訴訟!?た、頼む、示談で――」
ロベルトが血相を変えてに向き直った。そして床に額を付けて頼み込む。
「――このとおりだ!わたしが責任を負う!退職するし、金だっていくらでも出す!だから、どうか訴訟だけは勘弁してくれ……!」
「ええ。最初からそのつもりです。訴訟を起こすのにもお金がかかりますし、私もそろそろ忙しくなるので時間も惜しいです。それに、ロベルトさんに辞められるのは困ります。別に辞めたい理由が無いのであれば、このまま会社で働いて頂きたいんです。それに、金で清算できるような話では無いのでお金なんかいりません」
シドは驚いて目を剥いたが、その様は誰にも認知されない。よって、彼は身振り手振りして慌てふためいたあとに声を荒げる他なかった。
「マジかよ!?お咎めゼロ!?ありえねぇ!!」
「いいじゃない。だって私、今生きてるもの」
「あんたは、そこのババアに殺されそうになった身なんだぜ!?ぶち殺してやりてーとかって思わねーのかよ!?」
「報復なら今やったわ。殺すと脅して、プライドをへし折ってやった。証拠だって、あなた達二人のおかげで沢山あるじゃない。こっちが圧倒的有利にあるのに、これ以上この人たちに時間と労力を割くのは無駄としか思えないわ」
「――ッ。ま、マジかよ……」
「さあ、帰るわよ」
はそう言ってシドを呼び寄せた。シドは立ち上げたままの人様のパソコンをそのままにデスクチェアから離れた。イルーゾォは戸口付近の壁に背を預けふん、と鼻を鳴らして、どこまでも勇敢で実直で、最高に美しいガールフレンドの姿を愛しげに見つめていた。
「二度は言いませんよ、ニーナさん。今度また私を殺そうとしたら、私はあなたを社会的に殺します。……私にそれをさせないでくださいね」
人差し指を突き出して、まるで子供に教え諭すようには言った。そして、イルーゾォとシドが待つ戸口へ向かい、夫妻に背を向けた。
直後、再度けたたましい銃声が部屋に響いた。
三発、立て続けに、三人の背後から。発砲音がする前から、イルーゾォは後方から物音がしたのを聞きつけて振り返っていたのだが、その時にはすでにニーナが握る拳銃から弾丸が繰り出されていた。
「ッ!!」
イルーゾォはに駆け寄り、ふらりと揺らいだ彼女の体を抱きとめた。そして、あまり動かさないように細心の注意を払い、彼女の背面を確認した。三発の弾丸は、の右肩に一発。左脇腹に一発。
そして後頭部に一発。後頭部を覆っていた手を見ると、鉄臭い真っ赤な血液に濡れていた。明らかに致命傷と思えるそれに、イルーゾォは絶望する。
「やった!やってやったわ!!どこまでも人をなめきった態度でいるからッ、こうったのよ!!思い知った!?あぁ、もう死んでしまって、聞こえないかしら!?いい気味だわ!!私が、アンタみたいな生意気な小娘の脅迫になんか、屈するもんですか!!」
「あ、ああ、ニーナ!ニーナ、おまえ、おまえ一体、なんてことを……ああっ!!」
「ババアッ……!やりやがったな!?ぶっ殺してやる……ッ!!」
あたりは突如騒然となった。
ニーナは破れかぶれになって拳銃を握ったまま高笑い混じりにまくしたてる。ロベルトは彼女の下肢に縋り、額をこすりつけるようにして泣き喚く。対するシドは怒りに身を任せ、護身用のナイフを懐から取り出してニーナに掴みかかろうとする。
そんな中イルーゾォは、抱きかかえるの背後から流れ出た、温かい血液が付着した自分の掌と、眠るように目を閉じた彼女の顔を交互に見つめる他無く茫然自失となって、しばらくの間その場から動くことができなかった。