シドはに恋をしていた。
――していた。過去のことだ。シドはもうずいぶん前に、その恋は成就するはずも無いと諦めていた。
は生まれた時から金にも両親にも容姿にも才覚にも、何もかもに恵まれていて、順風満帆の人生を送っている。さらに、もうじき父親の会社を継いで社長になるような女だ。生まれた時から金にも両親にも容姿にも何もかもに恵まれなかったオレなんかとは住む世界が違う。オレになんか見向きもしないさ。彼女の隣にいるべきは、同じく全てに恵まれたような完璧な男だ。
そう決めつけて、いつしかシドはのそばにいられるだけで幸せだと思うようになっていた。と言うか、安心しきっていたのだ。当の本人は恋愛下手と言うか男慣れしていなかったから、彼女の垣間見せる私生活に男の影がちらついてムッとするなんてことも今までなかった。
だからシドは今、イルーゾォに反感しか抱けなかった。今になって、殺したはずの恋心は完全に殺せておらず、忘れていただけだったのだと気付かされた。そして自分の世界を踏み荒らされたような気分になって、早く出て行けとしか思えなかった。例え、がこの男に本気で恋心を抱いていたとしても。だというのに、男は図々しいことこの上なく言ってのける。
「シド。オレと組め」
「は?……何のために。一体そうしてオレに何の得があるって言うんだよ」
「の命が狙われているのは知っているだろう」
「ああ。だからオレは、首謀者を探そうとしてたんだ」
「首謀者ねえ。……そいつを探している間に、が死んでしまったら元も子もないだろう」
「それなら心配ねーよ。ロマーノのおっさんが万全の警備体制で――」
「その、万全の警備体制ってのを破ったオレみたいな能力を持った人間は、他にもいるんだぜ」
敵は昨晩捕まえたふたりの殺し屋だけとは限らない。暗殺の首謀者は、彼女が死んだという報告をなかなか得られずに焦燥感に駆られ、次の追手を送り込んでくるかもしれない。幸いふたりの殺し屋は能力者では無かったが、その次の追手というのが能力者でないと断言はできない。もしもスタンド使いが次の刺客であれば、ロマーノの統括する警備員など敵では無いし、も成す術もなくあっけなく殺されてしまうだろう。
シドはごくりと喉を鳴らして唾を飲み下し、心のどこかで確かにそうかもしれないと納得しながらも、イルーゾォには全て憶測にすぎないと反論した。だが、言ってすぐにシドもまた不安に駆られた。
「確かに憶測だ。だが、可能性がゼロでない限り、が死んでしまうという未来もゼロじゃない」
悔しいが、言う通りだ。
シドは憶測だと男に指摘したそばから、自身がした反論の愚かしさを恥じた。
「重要なのは、どんな脅威があいつに迫ろうと守ってやらなくちゃあならねーし、オレにならそれができるということだ」
現にこの男は、ほとんどチートと思われるような特殊能力を遺憾なく発揮し、組織の命令で暗殺を成し遂げているし、暴漢に襲われたを無傷で救い出しているし、今ここで素っ裸のオレを不思議の国に囲っていたりするのだ。
男がここまで自信満々でいる理由は何となく分かる気がした。自信満々に、自分とは真反対の存在であるをオレの女だと言ってのけるのは、いとも容易く他者の命を奪うことができるからだ。殺すと脅せば、大抵の人間が従順になるだろう。――今のオレのように。
だが、悔しいからと協力を拒めば殺される。脅威は完全に絶たれたのだろうかと、の行く末を憂いながら死ぬなんて絶対にイヤだし、そもそも死にたくなんかないのだ。
「早くを自由にしてやりたい。お前になら首謀者とやらを探し当てることができる。オレはそいつを簡単に捕えることができる。オレとお前が組むことこそ一番安全な近道だ」
それは理屈では分かっている。この男は、根拠のない自信で尊大にふるまっている訳ではないのも。だがやはり、シドの感情が合理性に追いついていなかった。むかむかとこみ上げてくる息苦しさがどうにも払拭できず、彼は苦虫を噛み潰したような顔でイルーゾォから視線をそらし、シャワー室のタイル張りの床を睨みつける。
「中々頑固なやつだな。……金が欲しいのか?お前の言う得ってのは、金のことなのか?……お前が満足するかどうか分からんが――」
イルーゾォはポケットに手を突っ込んで、給料袋を取り出そうとしていた。シドは怒った。
「金なんかいらねーよ!」
自分の世界に突然入ってこられ、その世界を踏み荒らされたということよりも、この期に及んでまだ目先の利益を追っていると――の命よりも、金の方が大事なのだと――思われることの方が癪だった。
そんなこんなで、シドは内密にイルーゾォと手を組んだ訳である。ロマーノには証拠を掴めと言われているだけで、自身の行動を制限されていたり、逐一動向を報告しろと言われていたりする訳ではない。だからこの本社ビルから抜け出しても、パッショーネの暗殺者と行動を共にしたと知られなければ咎められはしないだろう。おそらくをあの郊外にある別荘から連れ出すことになるのだろうが、それが自分たちだと突き止められる前にを殺そうとした者の首を持って帰れば――もちろんこれは比喩的な表現で、シドに首謀者を殺害する意志は無い――いい話だ。
の命が無事ならそれでいい。後は、例え解雇されても文句は言わない。
いつも理知的に自身の言動を制御するシドだったが、この時ばかりはへの思いに、内に秘めていた情熱に突き動かされていた。
徒党を組んだふたりは、ひとまず鏡の中の世界から抜け出した。シドはシャワーの続きをサッと済ませ――全くさっぱりしなかった――服を着る――会ったばかりの男の前で長いこと素っ裸でいたのは後にも先にもこれ以降無いだろう。いや、あってたまるか――と、イルーゾォを連れて地下室へと戻った。戻ってすぐに部屋の固定電話が鳴った。それはがよく自分の執務室から内線でかけてくる電話だが、それ以外の相手からかかってきたことなど覚えている限りでは一度も無い。
シドは戸惑いつつも受話器を取って応答した。電話をかけてきたのはロマーノだった。
『シドか』
「はい。ロマーノさん」
『例の場所にメッセージを残している』
それだけ伝えると、ロマーノは一方的に電話を切った。
例の場所。それはシドが利用している仕事用のパソコン内にある個人フォルダだ。社内のローカルネットワークを経由して、社員であれば誰でもそのひとつ上の階層まではアクセスできるが、個人フォルダにはパソコンを割り当てられた個人がアクセスコードを定めることになっている。シドはそのフォルダーどころか、会社のパソコンすらほとんど使ったためしが無かったが、これを機に初めて設定をし、現社長からのメッセージを受け取ることにしていた。どれもこれも、暗殺の首謀者が内部にいると勘繰っての対応だ。
その勘繰りはやはり正しかったようだ。まあ、厳密に言えば違うと言えば違うが、シドの予想は半分当たっていたということらしい。
簡易的なメモ機能しか持たないアプリケーションファイルが、個人フォルダの中にぽつんとひとつ格納されていた。無題と称されたそれを開くとこうあった。
“例の殺し屋が雇い主の名を吐いた。ニーナ・ロッシーニ。ロベルトの妻だ”
シドはメッセージを読んですぐにファイルを削除した。ロベルト・ロッシーニという副社長がいるのは知っていたが、その妻のことなんか見たことすら無い。だが、シドのリサーチ力にかかればどんな人間でも、本人すら知らないような情報まで引き剥がされてプライベートも何もものの数時間で丸裸だ。
「おい。さっきの電話は一体なんだ」
「ロマーノさんだよ。を殺そうとしてるやつが誰か分かったんだと」
ああ。あの野良共か。情けない。結局ゲロっちまったんだな。
イルーゾォはリゾットのメタリカで、体の内側にカミソリやら釘やら、その他鋭利な金属を生成され、それらに肌を突き破られ血まみれになったあわれな暗殺者たちの姿を想像した。同業者が始末されるのだから他人事とは思えないが、あわれんですぐに思いだした。奴らのうち一人はオレの女を犯そうとしたんだから当然の報いだ。それきり、海に沈められるであろうふたりのことは忘れてしまう。
「で、誰なんだ」
「副社長の妻。が社長になんのが面白くねーんだろうな」
「ふーん。分かったのなら、早くそのオンナのいる所に乗り込めばいいだろう。何をカタカタとやり始めてんだお前は」
「殺すだけなら簡単だよな」
イルーゾォは眉根を寄せてシドを睨みつけた。
「の殺害を指示した動かぬ証拠ってヤツがいるんだ」
「そんなもん、オレのマン・イン・ザ・ミラーの能力で囲った後、殺すと脅して白状させればいいだろう。オレはお前のことを鍵師くらいにしか思ってないんだがな」
「はあ……あのさ。オレにはオレの仕事があるんだよ。おっさんは黙っててくんねー?」
パソコンの前に座ってカタカタとリサーチを進める間、イルーゾォは早くしろとでも言うように腕を組んで、デスクのそばに置いたシドのソファー兼ベッドにふんぞり返り彼を監視していた。最初の内はその態度がかなり癇に障ったが、集中し始めるとどうでも良くなってきた。そして粗方の情報収集を終え、ロベルトの家に侵入し盗聴器を仕掛けるとか物証を探すなどする。そんな算段をつけてから、ふたりはロマーノの所有する別荘へを迎えに行った。
12: Miss Movin' On
月明かりだけが夜道を照らしている。静かな山里には不似合いなけたたましい警報音を背に三人は息を切らして、道を覆う木々が落とす闇に紛れながら砂利道を駆け抜けた。
シドは会社の所有する大型で黒塗りのバンを、邸宅の広い敷地に接する道路の路肩に停めていた。三人はバンに乗り込むと、ロベルトとその妻の屋敷へ向かった。
「あの人が私を……」
は少なからずショックを受けているようだった。どうやらニーナとは父の主催するパーティーでも何度か顔を合わせたことがあるらしい。
「確かに私が死ねば、副社長が社長として選ばれるでしょうね」
「……なんか映画やドラマなんかでよくありそうな話だよな。いや、具体的にぱっと題名は出てこねーけどさ。社長夫人になりたかったババアの怨念っての?オンナっておそろし〜」
ハンドルを握るシドは、今にも助手席のシートの下に向かって沈み込んでいきそうなほど落ち込んでいるの気を紛らわせようとしたのだが、効果は無かったようだ。彼女はクスリとも笑わない。
それもそのはずで、はシドの軽口をほとんど聞いていなかった。それどころでは無かったのだ。考えても仕方がないことだとは分かっていても、嫌でも頭の中に嫌なことが思い浮かんできて考えざるをえない。ここ最近ずっとそうだ。
殺されそうになったのだから、殺してやりたいと思うのは当然なのだろうか。
はノミほどの大きさに縮んだ瓶の中の小人を潰してやりたいと思ったことを思い出していた。
結局殺さなかった。いや、殺せなかった。私が今まで人を殺さなかったのは、殺したいほど憎む人間がいなかったから、そして殺さなければ殺されるという危機的状況に陥ったことも無かったからというのが一番だろう。だがもっと根幹の話をすれば、殺したことが公になれば自分の経歴に傷が付くからだ。自分の時間が法に奪われるから。正直な話をすると今まで、およそ自分に関係の無い他者の命を特段尊いと意識して生きてきた訳ではない。ましてや自分を虐げようとした者の命など、どうして尊いと思えるだろう。それに、殺意を向けてきた相手を殺さなければ、いずれまた自身の命の安全は脅かされてしまう。ここで初めて、父親が私を殺そうとした人間を“殺す”と明言したことが、ひどく世間一般の倫理観から逸脱してはいるものの、合理的な判断によるものではあったのだと思い知る。
だが、殺されそうになったのだから、殺してやりたいと思うのは当然だ。そんな風に簡単に思ってしまいかけている今の自分が、モンスターになりかけているような気がして恐ろしかった。
例え死ぬ運命にある人が自分とは全く関係の無い人や、ましてや自分に殺意を向けている人であっても、その人は他の誰かに愛されているのだ。愛していた人を理不尽に奪われた時の、身を引きちぎられるかのような悲しみを――母が亡くなった時のことを――思い出す。できることならもう二度と経験したくないし、他人にその苦しみを経験して欲しいとも思わない。
自分が死に瀕して初めてそう思ったのだ。
人を殺すことなく、身に降りかかる災いだけを取り除けたらいいのに。そうしたら心穏やかに、安心して生きていけるのに。
そんな都合のいい話があるはずもない。自分は殺したくないからとニーナを捕らえたところで、結局父がまたパッショーネの暗殺者チームあたりに金をやって殺させるのだろう。
ここでもまた、自分の力ではどうしようもないという無力感に苛まれた。ますます、自分はどうするべきかという道筋は闇に埋もれていく。情熱のままにイルーゾォとシドについて来たは良いものの、結局自分には将来のビジョンも覚悟も何も無いと思い知る。
ただ自分の運命くらい自分で切り開きたい。その過程で、他人の命を虐げるようなことはしたくない。都合のいい考え方かもしれない。そしてそれが実現困難だろうと分かるから――自分に力が無いから――憂鬱で仕方がない。
「ところで」
後部座席から声がした。座席の中央で大股を開いて腕を組み、またもふんぞり返って偉そうにしているイルーゾォだ。
「。お前、なんだって助手席になんか座ってんだ。普通座るなら運転席の後ろだろ」
「え、そう?私、助手席が好きなのよ。前の景色がよく見えるし」
「オレは安全かどうかって話をしているんだぜ。助手席より安全なのは、当然運転席の後ろだ。運転手ってのは事故りそうってときに、助手席に座ってるやつのことなんか考えてハンドルは切らねーからな」
シドはすかさずマスクの下で顔をしかめて言った。
「いや、暗殺者の隣とか世界一安全じゃねーだろ。あと後ろのおっさん、あんたに何かスケベなことやろうと考えているんだ。危険だぜ」
は顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「や、やめてよシド、そんな訳ないじゃない!」
「そうだぜシド。オレは、がしみったれた顔でいるから元気づけてやろうとしているだけだ」
「あんたの息子が元気になってるだけだろーが」
「もうシド!やめなさいって言ってるのよ!」
シドはちらとの表情を伺った。何だかいつもの調子が戻っているような感じだ。シドはふっと鼻から息を漏らして、進行方向に顔を向けたまま言った。
「なあ」
「何よ!」
顔を真っ赤にしたまま、は白目をむいてシドを睨みつける。
「心配すんなよ」
「……え?」
いつも減らず口ばかり叩くシドが、静かな、そして優しい声でそんな言葉を吐くものだから、は戸惑って口ごもる。
「……あんたはひとりじゃあねーんだ。オレが――」
オレがいる。オレがあんたを守ってやる。そう言えたなら、どれだけ良かっただろう。オレにはそんな力はない。それに、もしそんな臭いセリフを吐いたなら、自分の気持ちを打ち明けるも同然じゃないか。そんなの……きっと、に迷惑だ。
「――オレたちがいるだろ。あんたのことも、あんたが守ろうとすることも、全部オレたちが守ってやるからさ。心配すんなよ」
「ありがとう。……そうよね。いつまでもクヨクヨしていちゃ、ダメよね」
もう昔の自分には戻れない。純粋だったころの自分には。父に従順だったイイ子には。自分を取り巻く全てが変わって、私自身も変わってしまった。昔の自分に戻りたいとは思わない。そもそも、過去の自分はもうばらばらに砕け散って跡形も無いから戻れない。自分が誰なのか、これからどんな人間になるのか。それは今から探していけばいい。
私はひとりじゃない。シドと、イルーゾォがそばにいてくれる。ふたりがいれば、どんな未来も怖くない。今はただ、思うままに前に進もう。
は瞳を潤ませて笑ってみせた。そしてシドは彼女の笑顔を見たこの時に、彼女の幸せを心の底から願ったのだった。