「な……何であんたが……!!」
そう口走った次の瞬間、シドは自分が過ちを犯したことを悟った。ニヤリと口角を吊り上げた男の表情からもそれは明らかだ。
今目の前にいる男の正体を知る者は限られている。自分が、その限られた人間のうちのひとりであると知らせてしまった。男――パッショーネの暗殺者――が何の用でここにいるのか知らないが、殺しを稼業とするような人間とは関わり合いになどなりたくないじゃないか。
睡眠不足の上、この男がこっちの度肝を抜くような――まるでマジックでも見せられたような気分だ――現れ方さえしていなければ、こんな失態は犯さなかった。
思わぬ失態を非難する自身に向けた釈明は思うに留め、シドは何とか壁伝いに立ち上がった。とりあえずシャワーの音が煩わしかったので、彼はシャワーハンドルへ手をかけ回そうとした。だが、ハンドルはびくともしない。
「……おい、小僧。おまえ今、オレを知っている風な喋り方をしたな?」
シドが暗殺者に半分背を向けてハンドルを回そうと躍起になっていることなどお構いなしに、男は続けた。
「……つまりお前が、と一緒になってオレを付け回していたハッカーってワケだ」
イルーゾォはと離ればなれになったあと、結局まともに眠れなかった。猿ぐつわを噛まされた野良の殺し屋たちが、リゾットとプロシュートの拷問を受けてくぐもった叫び声をあげる中、リビングのソファーで一時間かそこら仮眠を取っただけだ。
目覚めた後、居ても立っても居られないと立ち上がり、戸口へ向かう彼をリゾットが引き止めようとしたが、声掛けも虚しくイルーゾォはひとりアジトから出ていった。
アジトを出たイルーゾォはズボンのポケットに突っ込んだままだった給料袋を取り出し封筒の中身を確認すると、迷わず空港へ向かった。普段なら、国内での移動に割高な空路など使わない。そもそもイルーゾォは今まで、仕事以外でナポリを離れてどこか遠くへ行きたいなどと思ったことも無い。だが今は違った。
に会いたい。会ってどうするつもりもない。ただ、どうしようもなく会いたかった。早く彼女に会いたい。時間が惜しかったのだ。
ミラノに着くなり、彼は近場の図書館へ向かった。公共のパソコンを使い、インターネットでの会社の名前と本社ビルの所在地をつきとめるためだ。
仕事の事前調査後の打合せでメローネが警備会社の名前やら警備体制やらを喋っていた気はしたが、イルーゾォにとっては大して重要とは思えなかったのでほとんど聞いていなかった。故に、彼はが務める会社の名を知らなかった。こんなことなら覚えておくんだったとイルーゾォは後悔したが、打合せの時点では、運命の女と運命的な出会いを果たすことになるとは露にも思わなかったのだ。こればっかりは仕方がないと、彼は気が進まないながらも図書館へと足を踏み入れた。
例の殺人事件の犯人にとっては、殺害現場や殺された男の名前――ターゲットの男の名前くらいならイルーゾォもさすがに覚えていた――など思い出すのは容易なことだった。そして、男の警護にあたっていた警備会社を槍玉に挙げたネットの記事はまだ残っていたので、会社の名前もすぐに分かった。
本社はすぐ近くだ。彼はインターネットのブラウザを閉じ席を離れると、空港の待合スペースで手に入れたミラノの観光案内マップを片手に本社へと向かった。
本社ビルの向かいに立ち、エントランスの様子を伺う。出入り口には警備員が二人。中へ入る者に目を光らせ、中へ入ったものは真向かいの受付に吸い込まれるように向かっていく。だだっ広い受付カウンターの両サイドにゲートがある。社員は社員証を、客は来客用のカードをパネルにかざさなければゲートは開かず、内部には入れない仕組みだ。
だがそんなもの、イルーゾォにとってはあって無い様なものだ。ゲートと言っても駅の改札と大して変わらない。止める者さえいなければ、簡単に飛び越して向こう側へ行けてしまう。鏡さえあればいいのだ。彼の能力、マン・イン・ザ・ミラーの力の及ぶ範囲に鏡さえあれば。
イルーゾォはちょうどビルの前に乗付けたタクシーに客を装って乗り込むと、ドアは開けたまますぐさま能力を発動し、バックミラーから鏡の中の世界へと移動した。
「お客さん、どちらまで……」
そう言って後部座席へ振り向いたタクシーの運転手は、たしかに客が乗ってきたはずだが、と小首をかしげたのだった。
「だったら何だってんだよ、オッサン」
「おっさ……」
シドはやっとハンドルから手を離し――結局、シャワーヘッドからぬるいお湯は出たままだ――、イルーゾォを見やった。オッサン呼ばわりされた名も知らぬ暗殺者は、余裕の表情を少しばかり引きつらせている。
「……まあいい。今日のオレはツイてるから機嫌がいいんだ。おまえも自分の強運に感謝するんだな」
そう。確かに、イルーゾォはツイている。
まず、イルーゾォはここにがいるとは思っていなかった。は追われる身だ。そんな彼女の生死をわざわざ明らかにするようなこと――要は、白昼堂々を本社や自宅に連れ帰るなんてこと――をロマーノがするはずがないと踏んだのだ。そうすると、イルーゾォにの居場所を知る手段は無い。と思われるのだが、イルーゾォはある男のことを覚えていた。
が死なせたくないらしい、“シド”と呼ばれる男の存在だ。
その男のことをロマーノは、が囲っているフリーの調査員、と言っていた。その調査員というのが仮に、が非公式に――非公式の仕事をさせるために――雇うハッカーの類だとした場合、順当に考えれば、と一緒に自分を付け回し、野良の殺し屋にさらわれたの居場所をつきとめ、ナポリにいるロマーノへ報告したのもその男だと考えられた。
港の廃墟からアジトへ帰る間、ホルマジオにも聞いていた。お前の居場所をつきとめたのは“ミラノにいる”ハッカーらしい、と。
ミラノにいるシドにさえコンタクトが取れれば、の居場所など容易に分かるはずだ。何と言っても、ヤツはミラノにいながら、まともな国民データを持たないこのオレの居場所を突き止めたのだから。つきとめるまでもなく、すでに居場所を知っている可能性だって大いにあり得るのだ。
ロマーノは、の命を危険にさらしたシドを始末する、なんてことを言っていた気もする。つまり、ロマーノはシドをどこかに拘束している。少なくとも、シドの居場所くらいは知っている。もっと言えば、を殺そうとしている者をつきとめるため、シドを働かせているかもしれない。
自身のスタンド能力さえあれば、社長室にだって潜り込める。シドの居場所を知っているロマーノの執務室にでも侵入すれば、何かしらの手がかりを掴めるはず。
だからイルーゾォは、この会社に乗り込んだのだ。全てはシドとコンタクトを取り、の居場所を吐かせ――言うことを聞かないようなら脅してでもやるつもりだ――、と再会するため。
運が良ければ、シドはミラノの本社にいるかもしれない。運が良ければ、社長室に乗り込むまでもなく遭遇するかもしれない。恐らく、シドという男は夜通しの為に働いていたはずだ。ちょうど今頃、ひとっ風呂浴びてスッキリして、軽食でも挟んで仮眠でも取ろうとしてるんじゃないか。
そんなヤマカンが当たったのだ。
社内で自由に動き回れるように警備服を拝借しようと、たまたま開いたシャワー室の鏡から現実世界へ戻ろうとしたとき、鏡の向こうにいる異様な姿をした男に目が留まった。
室内で黒いパーカーのフードを深々と被り、顔面を物騒なデザインのマスクで覆ったひょろっとした猫背の男だ。とても正社員には見えなかった。だが、社内のゲートの向こう側でシャワーを浴びている。――待てよ。ひょっとして、こいつがシドとかいう、が雇っているフリーの調査員なんじゃあないのか……?
これが、イルーゾォがツイてると言った背景の全貌だ。確かにかなり運がいい。彼はますます、との運命を強く感じたのだ。
「で?あんたさ、一体ここに何しに来たんだよ。のぞき?」
「ナメた口ばっかりききやがって。いいか。オレに素っ裸の男の姿を眺めて悦に入る趣味はない。オレはさっさと用事を済ませたいんだ。協力してくれないか、シド」
「……オレの名前まで知ってんのかよ。ますます気持ちわりーや」
シドにはまだ言いたい事が山程あった。何故、シャワーハンドルが回らないのか。何故、戸口の場所が真反対側に移っているのか。そもそも、ギャングで殺し屋の男がどうやって社内に侵入できたのか。
そして、いまさらここに何の用だろうか。自分の正体をあぶり出した腹いせに殺しに来た?だが、ロマーノがパッショーネの幹部である――このことは、ここ最近で一番の“衝撃の事実”というヤツだった――と、今回の一連の騒動でこの男も知ることになっただろうし、わざわざ上司の隠れ蓑であるこの社内で騒ぎを起こすか?
シドには、イルーゾォが今ここにいる意味が全くわからなかった。とにかく、ロマーノの手前、自分をここで殺すこともないだろう。だからシドは、最初こそかなり驚いたものの、今は存外落ち着きを取り戻しつつあるのだ。
「オレはおまえに用があってここに来た」
「だから、一体何の用だよ」
「がどこにいるのか。それをオレに教えてもらう」
何故、自分がの居場所を、この信用のならなさと危険の極まりなさを合わせて鍋にぶちこみ煮詰めたような男に教えると思ったのか。何故、この男を捕らえてムショにぶち込もうとしていたに、わざわざ会いたがるのか。
このふたつが“言いたいこと”の山に、さらに乗っかった。いったいどこから手を付けていいものか分からない。が、シドが真っ先に思い浮かべた言葉はこれだった。
「ヤだね」
「……まあ、そう言うだろうとは思ったがな」
「何でオレがの居場所を知ってると思うんだよ。例え知ってたって、初対面のギャングで殺しやってるあんたに言う訳がねーだろ。頭弱いのか?」
イルーゾォは煩わしそうにシドを睨みつけた。だが、頭が弱いのかという煽り文句には大して腹は立てていなかった。今の自分が正気じゃないのは、彼自身重々承知していることだ。理屈ではない。考える前に、体が動いていたのだから。
「知っていなくてもお前にならつきとめることはできるだろう。そして、頭が弱いと言うのなら、それはおまえもだ。おまえは今オレに囚われている。要はおまえが生きるも死ぬもオレ次第。その事に気づきもしていないんだからな」
シドは付合っていられないと首を横に振ると、向かいの壁に背中を預けるイルーゾォの前を横切って、――何故だか来たときとは逆の方にある――戸口へと向かった。そしてドアノブに手をかけ、扉を開けようとした。が、ぴくりとも動かない。シドはドアノブに両手をかけ、ぶら下がって全体重を作用させたが、それでも動かなかった。
シドには自分が非力であるという自覚はあった。だが、ドアひとつ開けられないほど非力ではない。それに、扉の向こうから鎖か針金なんかで固定されているのなら、扉は開きはせずともドアノブが軋むくらいはするはずだ。それすら無い。本当にさっぱり、微動だにしないのだ。
イルーゾォは、追い討ちをかけるように、そして逃げようとするシドの方を見もせずに鼻高々に言った。
「おまえはオレが許可しない限り、この世界からは逃れられない。この世界を創造したオレ自身はここから出るもここに留まるも自由なので、腹が減れば外に出て何か食えるが、おまえにはその自由がない。餓死したくなければの居場所を吐け。そうすれば解放してやる」
「をどうするつもりなんだよ」
「殺しはしない。それどころか、オレがあいつを守ってやろうとすら思っているんだ。この、オレの能力で――」
「ちょっと待てよ。世界?能力?一体何の話だよ。あんたマジに狂ってんのか?」
信じるか否かはお前次第だとしながらも、イルーゾォはシドに自身の能力について説明した。
スタンド使いは自身の能力について語りたがらない。語ることで相手に弱点を突かれる可能性が高くなるからだ。だが、イルーゾォの能力は、そういう能力だからと何か対策できるものでもない。鏡さえあって、その鏡に姿が映り込んでしまえば誰であろうと“鏡の中の死の世界”に引きずり込めてしまうのだ。引きずり込んだ後は、ターゲットには為す術など何も無い。だから彼は、堂々と自身の能力について他者に開示する。
スタンドの存在すら知らない一般人相手なら、その躊躇いのなさは尚の事だ。ただ、普段は話す間もなく相手は死んでいるので、説明するのには慣れていない。完全に初めての経験だった。イルーゾォは、シドが納得はしないまでも、ただ自由になりたいがためにの居場所をすんなりと吐くことを祈った。
「はっ!……おっさんはおとぎの国の住人か?ここが鏡の中の世界?だから左右が反転してる?」
シドは冷や汗を流しながらもせせら笑う。だが、にわかには信じがたいことだが、男が言うことに嘘は無いのだろう。実際自分はこの男に囚われているせいでシャワー室から出られないし、下半身にバスタオルすら纏うこともできず、素っ裸で扉の前に立ち往生しているのだ。
シドは完全なる敗北を自覚した。人知を超えた特殊能力を前に、自分は為す術も何も無い。だから、この男の言う通りにするしかないのだろうと思った。何と言っても、素っ裸で餓死なんかしたくない。
とは言え、少しも抵抗なく話してやる気にはなれなかった。男が勇敢にも、幹部を相手取っての身代金でも要求するつもり――先程言った守ってやるという言葉を深読みするとそうなるだろう――でいるというのなら、情報の出どころをついうっかりロマーノに話されたら一巻の終わりだ。今度こそ確実にクビになる。というか、言葉通り首が飛びかねない。
「……はぁ。いいよ。の居場所、教えてやったっていい。ただし、教えるにあたっては色々とこっちの条件も呑んでほしい」
「条件?……まあいい。言ってみろ」
「まずさ、なんの為にのとこへ行くのか、正直なところを話して欲しいんだよ。それによって条件ってのも変わってくるんだ。まさかとは思うけど……ロマーノのおっさん相手に身代金要求しようなんて思ってるわけじゃあねーよな?」
イルーゾォはやっとシドの方へ顔を向けた。そして、目を丸くして、何を言っているのか分からないといったふうに口をポカンと開けて数秒間黙った。
「身代金……?ああ、金か……。まあ、普通に考えたらそうなるのか」
今までさんざん自信満々な態度で高慢ちきな物言いをしていた男が、人が変わったかのように歯切れ悪くぶつぶつと呟くように言った。だがそれも束の間、再び高慢ちきな男に戻る。
「ガキのお前には理解し難い話かもしれんが、聞かせてやるか。……いいか、シド。オレは、世の中に腐るほど溢れている金や金になるその他諸々の高価な物に今は興味がわかない。知っての通り、この能力で奪えるのは人間の命だけじゃあないんだ。そんな物はオレが欲しいと思えばいくらでも手に入れられる。今は気分じゃあないってだけなんだ。……だが、は違う」
胸がざわついた。シドはごくりと喉を鳴らして、心がかき乱されるのを何とか抑えようとした。だが、男はこちらのことなど気にも留めずに語り続ける。
「はオレの女になると言った。はオレのものだ。だから、おまえら一般人の粗末な警護になんか、オレの女を任せていられない。おまえらの警護が粗末だってことは、オレの仕事ぶりを見ていたおまえなら分かるはずだ。だから行くんだ」
どうせ今のオレみたいに囚われの身にして、オレの女にならなきゃ殺すとでも言ったのだろう。
そう口をついて出そうになった。だが、シドは知っていた。この、ギャングで人殺しの悪党を追っている時のが、何かに取り憑かれたかのように見境を失くしていたのを。
取り憑いたのが、この男に対する恋心だとしたら?
「どうして……」
いやだ。何でだ。どうして。……オレはとうの昔に諦めたのに。
「何でだ。何でだよ……」
この目の前の悪党は、どうしてこうも自信満々に、を自分の女だと宣っているんだ?
「どうしてアンタなんだよ……!!」
イルーゾォは傲然と言ってのけた。
「そういう運命だった。それだけのことだ」
10: Reflection
目を覚ますと、窓の向こうは夜の森だった。身動きが取れない今、できることと言えば考えることか惰眠をむさぼることくらい。そのどちらもしっかりと済ませてしまった。さあ、これからどうしよう。
はソファーからむくりと起き上がると、明かり――窓の両サイドに立って尚も警備を続けている警備員たちが森に向けて持つライトから漏れたものだ――を頼りに壁へ向かって歩いて、室内灯のスイッチを押した。
部屋に明かりをつけたところで、特に何かするつもりがあるわけではない。ただ単に、今は暗がりにいるのが心細いと思っただけだった。殺されかけたし、その犯人はきっとまだ捕まっていないのだろうし。それより何より、心細い、その一番の原因は――
はふと、丸一日シャワーを浴びていないことに気付き浴室へ向かった。崖下の小川に臨む大きな窓を持つ開放的な浴室だ。子供の頃は何の気なしに使っていたが、大人になった今になって急に気恥ずかしさを感じた。ともあれ、浴室にもしっかり手入れが行き届いていて清潔だ。蛇口を捻ればきちんとお湯も出た。
浴槽にお湯を張ってゆっくりしよう。
バスタブに栓をしてお湯を出したあと、溜まるまでリビングにいようとシンクの前を横切った時、はふと足を止めた。
――そう。心細いのは、イルーゾォに会えないからだ。
鏡を見て、そう思った。そして、鏡に映る自身に向かって語りかける。
「電話、するべきかしら」
イルーゾォに?あなた、そもそも彼の携帯電話の番号なんか知らないでしょう?
「そうか……。そんなことすら、私、彼に聞かなかったのね。なら……ほとぼりが冷めてから、彼らのアジトにお邪魔したら……迷惑かしら」
……ねえ、。頭を冷やすいい機会なんじゃない?今のあなたはイルーゾォにどうしようもなく恋い焦がれていて、正常な判断ができなくなっているのよ。
「でも、どうしようもなく会いたいの。今、彼に会いたい」
は鏡面に手のひらを乗せ、イルーゾォの姿を思い浮かべながら目を瞑った。彼のことを思うだけで、彼女の胸はやはり、大きく音を立てて鼓動を打ちはじめるのだった。