は父親のプライベート・ジェットでミラノへ戻ることになった。朝焼けの中降り立った滑走路の先には、ロマーノが呼びつけたらしい黒塗りのキャデラック・エスカレードが一台止まっていた。持ち物らしい持ち物もほとんど持たず、は着の身着のまま車に乗り込んだ。そのまま自分の住まい――父親が就職祝いとして市街地に買ったマンション――に帰してもらえるかと思いきや、運転手は車をミラノの中心地から外れの方へ走らせた。そうして二時間ほど走った末に着いたのは、郊外の別荘だった。
父が母の休養のためにと建てたもので、母が最期を過ごした場所でもある。モダンテイストに仕上げられた鉄筋コンクリート造の家屋は、不思議と辺りの自然に溶け込んでいる。延床面積百五十平米程度の平屋だ。建てられてから十数年が経った今も尚、壁にはクラック一つ見当たらない。父が手入れを欠かしていないのだろう。近くには小川が流れていて、川のせせらぎに耳を澄ましながら休息できるような広いテラスも備えられている。
は何度かここに訪れたことがあった。それこそ、母が体を悪くしてからは、学校が休みの日のほとんどをこの家で過ごした。だが、母が亡くなってからはすっかり足を運ぶこともなくなった。意識的に遠ざけていたのだ。母のことを思い出すことになったし、何より、母が亡くなる前と後とで父の表情が全く異なると思い知らされるようで嫌だった。
母が亡くなって十年以上が経つ今も、その忌避感は薄れていないらしい。は車から降り、玄関の向かいに立った時に足がすくむような思いがした。家の前の広場には会社のバンが数台停められていて、アサルトライフルを構えた警備員数名が家の周りを囲っている。ますます気が滅入った。
「お前はしばらくここに身を隠していろ」
ロマーノはの背を押し、玄関へと向かいながら言った。
「……どうして」
「言わなくても分かるはずだ。お前を殺そうと企てたやつがまだ息をしている」
「殺すの?」
「当然だ。そうしなければお前はこの先ずっと、いつ死ぬかも分からない恐怖に怯えて過ごすはめになる」
確固たる信念の元にそう言っているらしい。父親の瞳には一片の迷いも見られない。殺すと覚悟を決めた眼差しなのだろう。普段の冷静沈着な父の姿と変わらないはずなのに、今となってはまるで別人のように見える。――父はこれまで一体どれだけの人に、人を殺せと命じてきたのだろう。
は父親に嫌悪感を示すように、背中を押す彼の手から離れ、自ら足早に宅内へと向かった。入口に立つ警備員が扉を開ける。室内に入ってすぐ玄関口のそばで立ち止まると、は後ろへ振り向いた。
父親。――ロマーノ・。
自分が今まで一番に尊敬してきた人間だ。それがギャング組織の幹部で、しかも殺人を幇助するような外道だったとは。彼を尊敬し、彼のためにと生きてきた自分の人生が、人命を護るためと信じてやってきたことが、一人の顧客の死によって全て水の泡と化した――否。無になったというより、重い罪を背負わされたのだ。償おうにも償いきれない。人ひとりの命を、他の何かで代替できるはずもない。
は軽蔑するような目で父をねめつけた。だが、ロマーノは終ぞ娘と目を合わせぬまま背を向ける。そしてゆっくりとした足取りで車へ戻りながら、彼は言った。
「お前は死んだと思わせるんだ。だから、絶対にそこから出るな」
「いつまで私をここに軟禁するつもりでいるわけ」
「お前を殺したいと思っている者が死ぬまでだ」
「そいつを、一体どうやって見つけるって言うのよ」
「お前には関係ない」
「関係ない!?殺されそうになってるのは私でしょう!?関係ないわけ――」
バタンと音がして、父親が乗り込んだエスカレードの後部ドアが閉じられた。玄関の扉も警備員によって閉じられて、カチャリと鍵をかける音がした。ついでにピーっという電子音も。警報システムの作動を告げる音だ。外から扉を開けられた時のみならず、内側から開けてもけたたましい警報音が鳴り響くことになる。
怒り狂いそうになるのを必死に堪え、とりあえず一息ついて落ち着きを取り戻そうと、はキッチンに向かった。大開口の窓の向こうには陽の光に照らされた新緑が広がっている。美しい自然に包まれながらエスプレッソでも嗜みたいものだが、生憎窓すら開けられない。窓ガラスの向こう、テラスの両サイドに警備員が一人ずつ張り付いている。
――何て目障りなの!?
キッチンカウンターの上にエスプレッソマシン。戸棚には砂糖や塩や各種スパイスが置いてある。冷蔵庫の中には魚やら肉やら野菜やら、事前に用意されていたであろう食料がそこそこに詰められていた。当面の間、餓死はせずに済みそうだ。だが、餓死する前に暇過ぎて死んでしまいそうだとは思った。
父には携帯電話を取り上げられたし、ここには衛星電話以外何も置いていない。この家にはブロードバンドも引かれていないので、外との通信はおろか暇つぶしにニュース記事を見ることすらままならないのだ。
絶対にここから出るなと言われただったが、既に逃げ出したい気分で一杯になっていた。
エスプレッソが出来上がると、カップに注がれたそれにしこたま砂糖をつぎ込んで、苛立たしげにスプーンでかき混ぜた。カップを手に取りだだっ広いリビングの真ん中に鎮座するカウチソファに腰掛けると、は窓の外を見ながら思索にふけった。
がイルーゾォを追ってナポリに行くことになったのは、イルーゾォの所為だと父は言った。だが、それは誤りだと彼女は思った。
パッショーネという犯罪組織に、その幹部としてターゲットの居場所や警備情報を流した父の所為だ。それさえ無ければ、自分はイルーゾォを追ってナポリへ赴きもしなかっただろうし、あの大手広告代理店の社長も死ななかったかもしれない。――少なくとも、自分の目の届く範囲では。
だが、そう思い至ると同時にやるせない気持ちになった。彼の死については恐らく、自分にはどうしようも無かったからだ。パッショーネのボス――あるいは彼を殺せと命じた者――に睨まれたが最後、遅かれ早かれ彼は死ぬ運命だったのだろうから。父が情報を流そうが流すまいが、殺害現場が自分の目の届く範囲にあるかないかという違いしかなかったのだ。
イルーゾォは元より、父もまた、ボスにそうするよう言われたから仕方なく命令に従ったに過ぎない。誰も殺したくて殺している訳ではない。
だからと言って、父が許せる訳ではなかった。殺人を幇助した――犯罪組織の指揮を取るかたわら犯罪から一般市民を護る会社を経営する。良くできた自給自足だ。経営者倫理が聞いて呆れる――とか、そういう話の前に、ギャングであるという事実を血のつながった唯一の娘である自分に隠していたことが一番許せない。それさえ分かっていれば、自分は早々に父親とは縁を切っていて、自分の人生における限られた貴重な時間を浪費せずに済んだかもしれないのに。
そんなやり場の無い思いをぶつける相手すら、ここにはいない。完全に一人ぼっちだ。ひとりと意識せずに済む間なら、ひとりでいることには慣れている。だが今は、成すすべなくひとりでいることが苦痛でしかなかった。
は左隣の壁に掛かった壁掛け時計を見やった。整備が行き届いていて時間に狂いが無ければ、もう少しで十一時になる頃だった。
もしも自分が誘拐に遭わなければ、今頃イルーゾォとは一緒にいられたかもしれない。
は、ふいに訪れた胸の高鳴りに身を強張らせた。カップを持つ手に力が入る。
彼もまた、人殺しに違いない。自分が彼に救われたのは、運良く彼に好意を持たれたからだ。そうでなければ彼は自分を見捨てていただろうし、そもそも対面したその場で殺していたかもしれない。だが仮にそうだとしても、彼は自分の命の恩人でもあるのだ。彼が父の前で言ったことは最もだ。昨晩彼と一緒にいなければ自分は死んでいた。
父親を悪と断ずる正義の心と、衝動的な恋心の狭間では自分がこれからどうすべきか決めかねていた。
イルーゾォを受け入れるのであれば、父親もまた許さなければならない。父親は許したくないが、イルーゾォは受け入れたいのだ。なんて軸のぶれた考え方だろう。ドーパミンとかいう脳内物質が理性的かつ合理的判断を阻害しているという事実を如実に突き付けるような心理状態だ。
自分はこれからどうするべきか。その前に、自分はどうしたくて、どんな自分でありたいのか。
本来、就職活動を始める前に考えておくべきだったに違いない課題に、は今まさに直面していた。
身も心もどん詰まりだ。じっとしていると、底なしの無力感に蝕まれて心が死に行くような気がした。
だが、そんなを生かす思いが一つだけあった。人生という長いコースの振り出しに戻されたこの時に思い浮かべるのは、イルーゾォという一人の男のことだった。とにかくは、今はただ、あの美しい暗殺者に抱きしめられたいと願ったのだ。
09: Going Nowhere
誰がの殺害を目論んだのか。
その問いに対する答えを用意するのは、シド・マトロックにとっては容易なことだった。もちろん、確固たる証拠を元に全てを証明せよと言われれば今は無理だが、もう少し時間があればそれも不可能なことではない。
刑事物や探偵物のドラマを見る時、誰しも「きっとこいつが犯人だ!」と、大した根拠もなくあたりを付けたりするはずだ。最初はシドも、そんなあたりを付けるのだ。あたりを付けて根拠付けをしていって徐々に的を絞れば、後は他の選択肢を削っていくだけだ。たまに的が外れる時もあったが、それは彼がこれまで立ち向かった問題の内の一パーセントにも満たない数だった。
人が何か行動を起こすとき、そこには必ず何かしらのメリットがある。行動を起こす本人にとってのメリットばかりとは限らないが、こと殺人に置いては殺す者、殺しを教唆する者にメリットがある場合がほとんどだ。快楽殺人なども例にもれず、殺すこと自体に、殺しを嗜む本人にとって快楽を得られるというメリットがあるから行うものだ。
つまり、が死ぬことでメリットを得られる者が誰かと考えれば良かった。――次期社長となる予定のの死を、心から望む者が誰か。
それは現副社長、ロベルト・ロッシーニ。彼はロマーノの下で古くから働いてきた、齢五十六になる男だ。ロマーノがいない場所では何かと自分は次期社長になる男だと部下に触れ回っており、相当な野心家であると皆に噂されている。
ロマーノがに会社の後を継がせると決めたのはつい最近の話だ。彼が前々からそのつもりだったかどうかシドには知る由も無いが、振られた本人が相当驚いていた――たった二か月前の話だ――のだから、ロベルトはもっと驚いたに違いない。やっと副社長の座にまで上り詰めたというのに、この世に生を受けて三十年も経たない小娘に先を行かれたのだ。が就任後優秀な経営者としての才覚を見せれば、年齢的にも自分に社長の座に就任するという栄光は無い。そんな絶望に苛まれた彼ならば、いっそのことを殺してしまえと思うに違いない。
「――と、思うんですよね。お父さんはどう思います?」
「貴様にお父さんと呼ばれる筋合いは無い」
を別荘に置いて一人会社へと戻ったロマーノは、シドの仕事場兼自宅――に勝手にされてしまっている地下倉庫――に向かい、マスクで素顔を隠す胡散臭い青年と対面していた。
「私は、そんな素人にもできるような推理を聞く為にここに居る訳じゃあないんだ」
「あ、やっぱ心当たりあります?」
「……私が求めているのは、ロベルトが殺し屋を雇い、を殺そうとしたという明確な証拠だ。それが無いうちは、絶対にが生きていると誰にも悟られるな」
「オレ、この部屋からほとんど出ないのに。一体誰にそんなこと思わせられるって言うんです」
「そのいかにもイギリス人らしい皮肉っぽい喋り方をやめろ。いちいち癇に障る」
シドはマスクの下で口を尖らせた。ロマーノはシドに背を向け出口へと向かう。そして扉を前にしてふと足を止めた。
「シド。お前はを止めなかった」
「……ええ。すみません」
「だが、を見つけてくれた」
「まあ……さんにはお世話になっているので」
「……ありがとう」
シドはマスクの下で眉根を寄せてロマーノを見やった。彼は扉の前にへたり込んでいる。どうも様子がおかしい。
「本当に……、生きていて良かった……!!……ああ、……。私の宝……。うおおおあおッ!!」
「は!?お、お父さん!?」
「貴様に、お父さんと呼ばれる筋合いは……無いと言っとろうが!!」
娘の前でだけはこんな情けない姿を絶対に見せないと気張っていたロマーノが、堰が切れたかのように泣き始めた。いつも威厳たっぷりで、感情など持ち合わせていないのでは無いかと思わせるような、完全無欠の最高責任者が今、会社の地下室で床に崩折れむせび泣いている。
シドは我が目を疑った。だが、どうやら演技では無いらしい。そもそも、社外はもちろんのこと社内でも威厳や強固な守りというイメージを他者に持たせなければならない社長が、演技で弱みなど見せるはずもない。
これがロマーノ・の本心だった。彼はたった一人の娘――彼が最も愛した女性が生きていたという証。そしてその女性とロマーノが愛し合っていたという証――を、何よりも大切に思っていて、何よりも愛しているのだ。
シドは驚きつつもを羨ましく思った。自分は運悪く、ここまで自分のことを思ってくれる親の元に生を受けることができなかった。
泣いてスッキリしたのか、ロマーノは呼吸を整えるとすっくと立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
「……私が泣いていたなんて、絶対にに言うんじゃあないぞ」
「あ、はい」
「絶対だからな。……お前はさっさと証拠を見つけるんだ」
「りょーかいです」
かわいいオッサンだな。と、シドは思った。そして、絶対にクビを宣告されると身構えていたのに、そうはならなかったことに安堵した。――まだ家の元で自由気ままに仕事を続けていけるのだと思うと嬉しかった。
さあてやるぞ!と意気込みたいところだが、シドは丸一日寝ていない。やる気を出そうにも、体力が持ちそうに無かった。暇なときには徹夜でネットゲームに没頭することはままあれど、それは楽しいからできることである。精神的に極限にまで追い詰められた後、休息も何も無しにぶっ続けで仕事は出来ないし、しない方がいい。痕跡を残さないようにハッキングするには、高い集中力が必要になるのだ。
シドはシャワーを浴びて、三時間程度仮眠することにした。地下倉庫から抜け出し、宿直の社員が利用する一階のシャワー室へと向かう。今は昼間とあって誰も利用していない。がらんとしたロッカールームで彼は脱衣を始めた。マスクを取るのはいつも最後だ。いつものことでやはり気は進まないが、外さなければ顔面でかいた嫌な汗も流せない。
シャワールームには、シャワーヘッドが五つと、その一つ一つを区分けする磨ガラスの仕切り板が並んでいる。撥水性のカーテンで個室にできる仕様だ。シドは腰にバスタオルを巻いて一番奥の区画に足を運んだ。
向かいの壁には縦長の鏡が設置されている。シャワーを浴びるには、見たくもない鏡と対面することになった。
シドの顔の右半分は青黒い痣で覆われている。生まれつき白い肌に浮き彫りにされたそれを、シドは自分ですら受け入れることができていなかったのだ。
鏡はあまり見たくない。だが、このときばかりはそうも言っていられない。シドはカーテンを閉め、深い溜息をついて鏡と対面し、鏡の真下にあるシャワーハンドルを回した。
ぬるいお湯に打たれる間に、シドはちらと鏡を見た。いつの間にか、きちんと閉じたはずのカーテンに隙間が生じている。じっと鏡に映る隙間を見つめた。すると、その隙間から骨張った長い指先がぬっと伸びてきた。
シドはぞっとしてとっさに振り返った。だが、鏡で見た隙間など無いし、人の気配もない。
ああ、きっと疲れてるんだな。
そう思って鏡の方へ向き直った。すると鏡には、全開になったカーテンの向こう側の壁に背中を預けこちらを見る、一人の男の姿が映っていた。
「うわあッ!!」
シドは悲鳴を上げた。そして再度身を翻して壁伝いに下りて尻を床へ、背中を壁へ貼り付けて、頭上から降り注ぐシャワーのカーテン越しに、突如姿を現した男の姿を見た。
こんな幻覚を見るほどオレは疲れてるのか!?
だが、目の前の幻はいくら目をしばたたかせ、きつく瞑ってしっかと見開こうとも消えないのだ。まばたきを繰り返し幻影を消し去ろうと試みたシドだったが十秒程度で諦めた。目の前で起きていることは現実なのだと結論づけると、今度は目の前にいる男は一体誰かと考えた。
百九十センチメートルはあろうかという身長。ブルネットのサラサラした長髪。それを五つか六つに分けて結っている。
腕を組んで自分を見下してくるその男に見覚えがあった。今シドの目の前にいるのは、名も知らぬパッショーネの暗殺者――が命をなげうってでもムショにぶちこんでやろうとしていた男――だった。