The Catcher in the Mirror

 男が二人、の目の前に立っていた。覚醒したは暗がりで懸命に目を凝らし、その二人が一体誰なのかを確かめようとした。だが、何か薬でも盛られたのか意識は朦朧としていて、いくら目を凝らそうとも一向に視界は晴れなかった。

 それにしても、ここは一体どこだ……?は男たちの顔への執着を止めて周囲を見渡した。

 部屋――打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた、四メートル✕六メートルほどの空間だった。部屋と呼ぶより物置き部屋に近いかもしれない。家具らしいものはなにもない。ただ、手洗い用か?シンクのようなものが向かいにあるが、おそらく蛇口をひねっても水は出てこないのだろう。窓ガラスは割れたまま。天井はひび割れていて、雨漏りしたようなシミが見える。ここは廃墟だ――は暗い。窓はそう多くないが、うかがい知れる限りではまだ夜は明けていないらしい。隅に置かれた木箱のような物の上に古めかしいランプが乗っているが、その明かりだけが部屋の中を、そしてこちらに顔を向ける男たち――体格的に女には見えない――の顔半分を照らしていた。急にに近い方に立っていた男の口が弧を描いたように見えて彼女はぞっとした。

 危険を察知したの脳はすぐに逃げるようにと四肢へ信号を送った。だが、動かそうにも腕も足もダクトテープか何かで縛られていて、その場で立つことすらままならない。大声を出そうとしても、口もテープで塞がれている。

 ここまできてはやっと、自分がなぜこんな状況に追い込まれているのかを思い出した。

 現場に駆けつけてきたのが、マルコとアンドレアではなかったのだ。私の彼氏――名前も知らない暗殺者――を捕まえたか、自分の身に何かあった時のために呼びつけるつもりでいたふたりではなかった。

 これは誘拐だ。私は、誘拐に遭ったのだ。

「目ぇさめたみてーだな?」

 壁に背を預け、途方に暮れて項垂れたの前に男がしゃがみ込み、顔色を伺うように顔を傾けた。まぶたが半分閉じたような気怠げな目が、の顔に向けられる。その視線はゆっくりと下へ這っていく。生理的な嫌悪感を抱き、は身を固くして眉根を寄せた。

 目線をの顔へ戻した男は、彼女の口を塞ぐグレーのダクトテープをゆっくりと剥がした。ひりひりと口周りが痛む。中々の粘着力だ。ただのテープのくせに、手も足もなかなか拘束が解けない訳だ。

 は一度深呼吸をして心を落ち着かせると、キッと目を細めて男を睨みつけた。

「何が目的?身代金でも要求するつもり?」
「ほう。……案外冷静だな。気丈な女だ」

 男はふたたびニヤリと笑うと、懐からジャックナイフを取り出し、柄を持ち振って刃先を露わにした。はひっと息を呑んで仰け反った。背後の壁に貼り付いて顔を背けても、すぐにナイフの刃に追いつかれてしまう。刃先を喉元へ向けた状態で顎の下にナイフの腹が当てられた。は突如として襲ってきた死の恐怖に怯え震え上がった。

「身代金ね……。いい線行ってる。が、違うんだな。お前をウチに返してやるつもりなんか、これっぽっちもねーからな」
「どういう、意味?」
「殺せと言われてる」
「い……一体、誰に?どうして……」
「そりゃあ……守秘義務ってやつがあるので言えない」

 男の持つナイフの切っ先がの喉を撫で下ろし、鎖骨の間を通って胸の谷間へと向かっていった。男は色欲をたぎらせ目をギラつかせている。

 高鳴ってばかりのの心臓は、疲弊することもなく尚も早鐘を打ち続けていた。一日に二回も殺されそうになるなんて、心臓の方だって予想だにしていなかっただろう。だがその役目も、そろそろ終わりを迎えるかもしれない。

 ――かもしれない?いや……。確実だ。

 確実な死の予感に、は絶望した。背後には壁。前方には男ふたり。手足の自由はきかず、立つことすらままならない。――逃げおおせられるわけがない。

「いつもなら、攫いなんかしないでその場で殺しちまうんだよ。だが死んだと知られないようにしろって言われてな。つまり、道端にあんたの死体を転がしておくわけにもいかないから、こうやって使われなくなった港の倉庫にまで来てるんだ。下に船もある。あんたのことは殺した後に海に沈めようと思ってる。だが――」

 プツ、プツと音を立てて、ブラウスのボタンが布から断たれていく。そうして露わになった胸元をナイフの刃先が這う。膨らみの上に乗ったそれは、心臓の上のあたりで肌に埋められていった。もう少し力を込められれば、皮を突き破り血が滴り始めそうだ。は泣き出しそうになるのを必死に堪え、懇願する。

「いや……。やめて、お願い……」
「まあ、聞けよ。このままぶっ殺しちまうなんて、もったいねーと思ったんだ。あんたの顔は依頼を受けたときから知ってた。だが、実際に見てみると写真よりいい女だと思ったよ。だから……分かるだろ?」

 男はナイフを左手に持ち替えて、今度は胸元から注射器を取り出した。

「死ぬ前に、オレと一緒に気持ちよくなろうぜ?」
「何、それ、まさか……。や、やめて……!」

 は暴れた。頭を大きく左右に振ったり、体を横に倒し男の前から地を這って抜け出そうともした。だが、そんな抵抗も虚しくは肩から床へ押さえつけられ、身動きが取れなくなってしまう。

「おいおい落ち着けって。これで苦しまずに楽に死ねるんだ。ほら、安楽死ってあるだろ。あれとほとんど一緒だ」

 男の手元を見上げたところで、注射器の光る先端から透明の液体が滴っていた。注射器の中を満たすのは恐らく麻薬の類だろう。もちろん、優等生のは麻薬など一度もやったことがない。

 ストリートでは大麻の粉末を鼻から吸い込んで粘膜摂取するのが主流と聞くのに、注射器で静脈摂取なんて初めての私にはハードルが高すぎる。下手をすれば、殺される前に急性中毒で死んでしまう。――じゃなくて!意識が朦朧とする中たぶん犯されて、その後、使用済のコンドームみたいに海に捨てられるって言うのよ!?冗談じゃないわ!!どうにかして、注射器を奪って――一体どうやって?少しも見動き取れないのに。もう、無理よ。私、ここで死ぬのよ……。――ついさっきまでの威勢の良さはどうしたのよ!?もっと足掻いてみせなさいよ!――体は好きにしていいから、命だけは助けてって?……好きでも何でもない男に、体を好きにさせるなんて言ってやるつもりは無いわ。それに、万が一好きにさせたのが私のボーイフレンド(仮)にバレたら、どちらにせよ殺されるんじゃない?情状酌量の余地があるなんて言ってもらえるかしら?……人を殺して生きてるヤツに期待なんかするのが間違いだったんだわ。

 内なる女神が闘争心を鼓舞しようとするが、希望など微塵も見いだせないはただ涙を零すことしかできなかった。

「おいおい泣くなよ。……ああ、でも、泣いてしおらしくなった女って、どうしてこうもそそるんだろうなぁ?」
「この、サディストの下衆野郎っ……!殺すならさっさと殺しなさいよ!あんたなんかにヤられるくらいなら、このまま死んだ方がマシだわ!」
「チッ……。お前の思い通りにはしてやらねーよ。オレの子種をたっぷり注いで腹ボテにした後、散々いたぶってぶち殺してやる……!」

 後ろ手に拘束された腕を乱暴に引き寄せられ、そこに注射器の針が迫った。

 明日、会わなければならない男がいるのに。死の淵に立ったが最後に思い浮かべたのは、あの、名前も知らないボーイフレンドの姿だった。

 ――名前くらい、知りたかったな。期待なんかするのが間違いって思ったけど……やっぱり、会いたかった。すごくハンサムだったし。彼になら、殺されたって文句は言わなかったかもしれない。

 が生きることを諦めかけたその時、ドサッと何かが床に倒れる音がした。麻薬を摂取させようとしていた男はとっさにの首にナイフを押し付け音のした方へ視線を向けた。

 見るに、床に転がったのは人間だった。男の相方――アントーニオというガタイのいい方の、始終を持ち運んでいた男だ――が立っていたはずの場所に倒れ突っ伏している。

「アントーニオ?……お前何で突然何もねーとこですっ転んで――」
「おい」

 男のすぐそばで聞き慣れない男声が響いた。恐る恐る声のした方に目をやると、女がいたはずの場所に一回り大きな体をした――ブルネットの長髪を五つか六つに結い分けた――男がしゃがみこんで、ニヤけた笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 何が起こったのか理解できずに情けない悲鳴を上げ、ナイフも注射器も放り投げた後尻もちをついて後ずさった。

「てめぇ。オレの女をヤク漬けにして犯そうなんて、いい度胸してんじゃあねーか」
「お……おお、お、お前ッ!い、一体どこから湧いて出てきやがった!?いつから、そこに……!?」

 幻の様に姿を現したブルネットの男は、その長い腕をぬっと伸ばして首を掴む。

「オレは最初からずっとここにいたんだがな?」

 彼の言うことに嘘は無かった。

 彼の能力が作り出した鏡の中の世界に、彼はずっと身を潜めていたのだ。



06: Dope



 早くも幻覚が見えだしたのかと思った。男が忽然と――いや、忽然と、と表現するには値しないかもしれない。男の体が頭から下に向かって、幾千ものブルーのガラスの欠片に変わりながら、変わったその場から霧散するように消えていったのだ。男の手から離れたナイフと注射器は床に乾いた音を立てて落ちた。

 だが、まだ気は確かだ。――いいえ。ナポリに行くって言いだした時からあんたは気が違ってる――とにかく、まだ麻薬は注入されていない。だから幻覚ではない。目は擦れない代わりに、何度も瞬きをして前を確認したから確かだ。ついでに壁に軽く頭を打ち付けてもみた。ガタイのいい方の男は、気絶しているのか床に突っ伏したままだし、やっぱり最低のゲス野郎は姿を消したままだ。

 の頭は混乱を極めていた。だが、このチャンスを逃すわけにはいかない。彼女は一度きつく目をつむって大きく息を吸い込み、勢いよく吐き出した。

 まずは、テープでぎちぎちに拘束された腕をどうにかしなければ。目の前で気を失っている男が、いつ目を覚ますか分からない。急げ!

 体勢を立て直し部屋を見渡すと、の左隣、現在位置から三メートルほど離れた部屋の角のところに空調ダクトが立ち上がっていた。ダクトを等間隔で支える細い支柱は鉄製で外に張り出している。は再度芋虫のように床を這った。そして目当ての場所に到達すると、その錆びついた鉄製の支柱にダクトテープをこすりつけ、ノコギリで木を切るような要領でテープを切断しにかかった。

 心臓はバクバクと鳴りっぱなしだ。きっと脳内でアドレナリンが放出されまくっているのだろう。今なら何だってできる気がした。内なる女神は早く早くとまくし立てる。今やってる!ちょっと黙ってて……!

 見えもしない背後を振り返りながら、は懸命に腕を動かした。なるべく、こする部分は変えないように、けれど手早く――

 ドサッ!

 また大きな物音がした。はびくりとして音のした方を見やった。自分をヤク漬けにして犯そうとしていた卑劣なレイプ魔が、消えた場所と寸分違わぬ場所に倒れて突っ伏している。突っ伏した男の手元にはナイフがある。――失敗した。隠しておくんだった。

 だが不幸中の幸いか、床に突っ伏したまま男はぴくりともしない。そして、この光景を見たは今になって思い出した。

 ――これとほとんど同じ光景を見たことがある。もう、何千回と見直した、あのビデオだ。あの監視カメラの映像を見て、ナポリに来た。あの男を追って、今、私はここにいるのだ。



 聞き覚えのある声だった。低音で、セクシーで、名を呼ばれただけでお腹の底から何とも言えない高揚感がこみ上げてくるような――最期と思ったその時に、思い出していた人の声だった。

 声がしたのは目の前だ。まるで魔法のように、彼が――未だ名も知らぬボーイフレンドが、瞬きの間に姿を現したのだ。

「あ……あなた、どうしてここに……!って、言うか、どうやって……!?何をしたの!?」

 男は足元に転がったナイフを手にとってしゃがみこむ。そして、の拘束を解きながら言った。

「一度にする質問はひとつにしろ……。全く、危なっかしくて目を少しも離せねー赤ん坊かお前は」

 拘束を解いた後、男はナイフを床に放り投げての顔を見つめた。そしてぎょっとした。

「――ッ、お、おい。なんで助けてやったのに泣いてんだよおめーはっ……!」

 緊張が解けて、ダムが決壊したかのごとくの瞳から涙が溢れ出していた。どうしようもない怒り、無力感、後悔に、焦燥感、そして安堵。目まぐるしく変わりつつ肥大した感情が胸を押しつぶして、それで涙が込み上がってきたのだ。

「ごめん、なさいっ……!私、怖かった。死ぬのが、怖かった……!」

 は、自由になった両手で溢れ出る涙を拭いながら、子供のようにむせび泣いた。男はお、おい。と声を漏らし、出しかけた手を引っ込めることもできずにどうしたものかとあたふたしていた。

「でも私……ああ……今生きてるわ。生きてるのよ……!嬉しい。私、嬉しくて、泣いてるのよ……!」

 確かに生きている。それを感じたくて、はとっさに男に抱きついた。幻ではない。確かな体温が感じられる。冷血な暗殺者のはずなのに、暗殺とは真逆のことをしてくれた。――救ってくれた。

「お願い。約束の時間より少し早いけれど……あなたの名前が知りたいわ。あなたの名前を呼ばせて……」

 は男の頬に手を伸ばし、愛し気にそっと撫で付ける。その間、男の美しい瞳を、深い赤を見つめながら言葉を探していた。安堵の先の感情に、ぴたりと当てはまる言葉を探していた。

 この男になら、殺されても構わないとすら思った。それは何故?……ひと目見たときから、この男のことが好きだった。さっき街中で会った時に、完全に恋に落ちた。でも、好き?好きなんて、軽い言葉では言い表せないような――待って、。この男は人殺しよなのよ――分かってる。分かってるけど、私のことは救ってくれたわ。この人に救われた命。彼が本心で欲しがってくれているかどうか分からないけれど、この身体も心も、全部彼の物。この思いは、もう誰にも止められない。この思いは――愛だ。この人に、私は何もかも捧げるわ。

 内なる女神は額を手で覆って天を仰いだ。この、という女は思い立ったが吉日で、その後はもう誰の助言も聞き入れない。もう自分が何を言ったって無駄だろう。少しの間、黙っておいてやる。一命はとりとめたようだし、今は生の喜びを嚙みしめてセンチになるのも仕方がない。

 片や男は、突然の抱擁との艶めいた眼差しにたじろいで胸を高鳴らせていた。

 さっきキスをしたばかりだというのに、なぜこうも少年のように緊張している?さっきまでは完全にこちらのペースだったはず。……涙のせいだ。涙を流すを前にしていると、意地の悪いことが言えそうにない。

 早く安心させてやりたい。出し惜しみなどせずとも、彼女の身の潔白は証明されたも同然だ。死ぬ覚悟までして、オレ以外の男を拒んだのだから。

 強く気高く美しい、オレの女――。心の底から愛おしく、誇らしい。

「イルーゾォ。……オレの名前だ」
「イルーゾォ……。イルーゾォ。あなたも素敵な名前だわ。ほんと幻みたい。でも、幻じゃない。あなたは確かに今、ここにいる……」

 ゆっくりと近づいてくるの潤んだ瞳から目が離せない。美しく、透き通るような眼。自分のそれとは真反対の、澄んだ瞳。

 一目で恋に落ちていた。もう二度と会えないだろうと自身の出自すら呪わせた――そんな風に自分を卑下したのは覚えている限りだと初めてだった――女が今、確かに自分を求めている。やはり、これは運命だ。オレ達は、こうやって結ばれる運命だったのだ。

 イルーゾォはその運命に任せ目を瞑った。やがて唇が重なり合う。一度目よりも、長く、深く。そして溺れるように、ふたりは互いを求めあっていた。