が短く上げた悲鳴。ヘッドセットを乱暴に剥ぎ取られる、ガサッという大きなノイズ。その後無音になって、また発信機の信号が途絶えた。
の身に何か起こったのは確実だ。パニックに陥りそうな頭をフル回転させて、シドは彼女の言ったことを思い出していた。
『あなた、本当にマルコなの?』
がマルコと呼んだのは、はじめに発信機の信号が途絶えてすぐ、シドが慌てて連絡したナポリ支社の警備班に所属する社員だ。無謀にも暗殺者を捕まえてやると気炎を上げていたに、能天気に協力しやがった男。シドの認識の中でいうマルコとはそれだった。
マルコは、が無事にターゲットを捕えたか彼女の身に何かあった場合に、同僚のアンドレアを連れて現場へ出動する予定だった。の現在位置はインターネットで共有していて、どこに行けとシドの方から言わずとも、すぐにの元へ駆けつけられるような態勢を整えていた。
マルコという男に関わる情報の全てを頭の中で引き出して、シドは再びの発した言葉に立ち返った。――現場に駆けつけたマルコが、マルコでないと思わせる何かを察知しての発言だったのだ。つまり、それは恐らく追っていた暗殺者ではなく、会社の警備服を纏った何者かであるということ。そう仮定した場合、何故マルコではないのか。マルコでないことで起こりうるトラブルとは何か。
シドには見当もつかなかった。とにかく今すべきことは現状把握だ。
シドは慌ててナポリ支社の監視室に取り付けられた監視カメラの映像を保管するサーバーへアクセスした。いくら社員と言えども社内の機密情報――待機している警備員が何人いるかなどの警備体制を把握できるデータは、脅威となる対象に知られてはまずい機密情報に他ならない――にアクセスできる者は限られているし、フリーランスの彼にそんな権限が与えられているはずもない。言うまでもなくクラッキングしているのだ。
天才ハッカー、シド・マトロックにとって、アクセスコードの解析やロックの解除という作業は息をするよりも容易いことだった。彼は少しも労せずに監視室のライブ映像を自分のモニターへ映し出してしまう。
そしてすぐに、彼は我が目を疑うような光景を目の当たりにすることになった。
「こりゃ……一体、なん、なんだ。今、いったい何が起きていやがる……!?」
マルコとアンドレア。の元へ向かっているはずのふたりが、身包みをはがされた状態で待機室の床に転がっていた。ただ転がっているのではない。まるでミノムシのように何者かによって体をロープでぐるぐる巻にされ、粘着テープで口を覆われているのだ。どうやら生きてはいるらしい。それこそ幼虫のようにもぞもぞと体を動かしているのが確認できる。
マルコとアンドレアが生きているのは良かった。だが、は?今彼女の身に、一体何が起こっているというのか。
シドはナポリ支社、彼が今いる本社の待機班と、そしての父親でもある社長のロマーノ・に報告した。事態は急を要する。夜の、皆がもう寝床につこうとするか、早い者であればすでに深い眠りに落ちている時間帯だが、邪魔をしては悪いなんて、そんな悠長なことは言っていられない。
ここで警察に通報しなかったのは、彼が警察を嫌っていて信用もしていないし、何ならシドこそ犯罪者に違いないからである。それに、迅速対応を望むなら社員に頼ったほうが確実だ。未だに子離れできていないあの社長のことだ。娘の命がかかっているともなれば社員全員を叩き起こし、娘を探し出す為に駆り出すことだろう。
ロマーノは、さすが大手警備会社の社長とでもいうべきか、とても冷静だった。ここでシドに怒鳴り散らしたところで何の解決にもならないし、ただ時間を浪費するだけであると理解していた。彼は淡々とした調子でシドに報告を求めた。ただ――
『貴様はそこで大人しくしていろ。用ができたらこちらから連絡する』
――その静かで威圧的な最後の物言いから、ロマーノが少なからず自分に怒りをあらわにしていることが分かった。
社長が怒るのは当然だ。怒るどころか、殺されたっておかしくはない。何と言っても彼にとって自分は、娘の命を危険にさらした――か、或いはすでに死なせてしまった――も同然の小僧でしかないのだ。
シドは受話器を置いてオフィスチェアに身を投げ、モニターの発する明かりでぼんやりと青白く照らされたコンクリートの天井を見つめた。焦燥感で喉はカラカラに乾ききっていた。喉を濡らそうにも、唾液すら染み出してこない。極度の緊張でひどい頭痛がした。
挫折を知らない天才は頭を抱えた。この難局を、オレは果たして乗り越えられるのか。そして彼にとって最悪の結果を想像してしまう。
――ああ、やっぱり。ここに縛りつけてでも、をナポリになんか行かせるべきじゃあなかったんだ。
だが、が恐らく何者かに誘拐された――最悪、すでに殺されている――という事態に限って言えば、彼女をミラノで拘束しておけば起こらなかったとは現時点で誰にも断定できはしない。の話によれば、追っていた暗殺者はすでにその場から姿を消しているからだ。今起きている事件と、暗殺者を追ってナポリにいたことに恐らく関連性は無い。
普段のシドであればすぐにそんな結論にたどり着いただろう。ここで自分が苦悩したところで、思考回路を鈍らせるだけ無駄なことだと思っただろう。
だが、愛する者の生死にかかる局面において、その命の重さに押し潰されそうになっている今の彼には、すぐに立ち直って何か打開策を考えようとすることすら困難だった。
05: Deliver
リゾット・ネエロが寝支度を済ませベッドに横になろうとしていた頃、彼の部屋の固定電話がけたたましく音を立てた。デスクに乗ったその固定電話に連絡を寄越すのは情報管理チームのリーダーか、それより格上の者だけだ。しかも、こんな夜中にかかってくるのはとても珍しい。
寝ようとしていたところだというのに、という怒りよりも、所謂“嫌な予感”というやつが先行した。リゾットはおもむろにデスクへと向い、受話器を取った。
応答し、相手が誰か分かった途端にリゾットは目を剥いた。声の主は、よもや直に連絡を取ることは一生無いだろうと思っていた相手だった。
時を同じくして、アジトに千鳥足のホルマジオが帰ってきた。酒を呷って夜更しを決め込もうとリビングにたむろしていた、リゾットとイルーゾォ以外の全員が彼を迎えた。
「飲みに行って女引っ掛けてくるとか言ってたのはどうなった」
プロシュートがホルマジオを見やった。ホルマジオは千鳥足でも頭の方は少しは働いているようで、会話くらいはできるらしい。首を横に振った後落胆した様子で応答する。
「さんざん奢らされた後に逃げられた」
「ケッ。ざまぁねーな」
ギアッチョが鼻で笑う。彼の悪態に反応できるほどの気力は無かったホルマジオが、ソファーの空いたスペースに腰をおろして溜息をつく。しばらくして、そう言えば、と話を切り出した。
「イルーゾォのヤツは帰ってねーのか?」
「帰ってねーな」
「ふーん」
別に門限などあるわけではないし、携帯電話を携帯してリゾットからの緊急連絡を受けられる状態でいればどこにいようと問題は無い。ただ、女をお持ち帰りにすることに非協力的態度で先に帰ると宣ったヤツがアジトにいないのが癇に障った。これでもし、自分を差し置いて潤沢な資金をもって他所で女を引っ掛けていたら許さない。ホルマジオはイルーゾォに身勝手極まりない反感を抱いていた。
そんな折、この時間には大抵日課のトレーニングを済ませ、しっかり睡眠を取っているはずのリゾットが突然リビングに姿を現した。
階段をばたばたと駆け下りるような音も立てずに颯爽と登場した彼に、驚いた皆の視線が集中する。リビングを一通り見渡したリゾットは、開口一番にこう言った。
「イルーゾォは帰ってないのか」
「帰ってない。……何かあったのか?」
それさっきオレが聞いた。ホルマジオはプロシュートが同じことを繰り返し答えたのを聞いてぼんやりとそう思った。ぼんやりしていると、リゾットの視線が自分に向けられてドキリとする。ホルマジオは少し気を引き締めた。
「ホルマジオ。お前はイルーゾォと飲みに行ったんだってな。あいつと離れたのはいつ、どこでだ」
「一時間半くらい前だったかな。いつも飲みに行ってるバーで別れた。先に帰るって言ったぜ、確か」
「そうか」
皆が疑問に思った事を、プロシュートが代表してリゾットに投げかける。
「ケータイには出ねーのか?」
規律と自分と他のチームメイトに厳しいプロシュートは機嫌を悪くして眉根を寄せた。暗殺者チームの暗殺者たるもの、リゾットとは常に連絡が取れるようにしておかなければならない。そして、イルーゾォには今仕事は振られていない。電話に出られない理由などあるはずもないし、そもそもあってはならないことだ。
「電話に出ないんじゃあない。繋がらないんだ。電波が届かない」
「じゃああいつは今、てめーの能力を使ってるってことか?」
「その可能性が高いとオレは踏んでいる」
充電を切らすなんてへまをやらかしていたり、故意に電源を落としていたことがバレようものならイルーゾォに命はない。そこそこ古参のイルーゾォならそのことは重々承知しているだろうし、彼は高慢ではあるが仕事でミスを犯したことなど一度も無い。仕事をすっぽかしたり、電話に出なかったりしたこともまた然り。嫌なヤツと思うことは多々あれど、信頼できる仲間に違いない。なので、能力を使わざるを得ないような、特別な事情があるのだとリゾットは考えた。ではその特別な事情とは何か。
「女でも連れ込んでお楽しみの最中とか、そんなんじゃあねーのか」
もしもそれが本当なら、アジトに帰るなり血祭りにあげられるのは確実だ。というか、本当であれ。リゾットに血祭りにあげられて死ね。――ホルマジオがほとんど悪口のつもりで言ったことだったが、その発言を受けてリゾットは何か合点がいったような表情を見せた。
「ふむ……。だといいんだがな」
「は?」
「おいリゾット。一体イルーゾォのヤツがどうしたって言うんだ」
「情報管理チームを統括する幹部のロマーノ・から直々に、先ほど電話連絡が入った」
幹部。そう聞いて皆が一様に目を剥いた。
「もしイルーゾォが娘を殺していたり、万が一にも娘が死んでいたりしようものなら全員に死んでもらう。死にたくなければ娘を生かして連れ戻せ。そう指令を受けた」
「……はあ!?」
納得できる理由も何も説明されない内に死刑宣告を受けた皆が一様に、さらに目を剥いた。こういった訳の分からない事態に一番耐性が無いのはギアッチョだ。
「ワケわかんねー指示してくんじゃあねーよクソ幹部!!おめーが死ね!!」
クレッシェンドのすぐ後にフォルテッシモを付されたように、怒りを表現してすぐ暴れ出さんとするギアッチョを物理的に押さえ込もうと、ホルマジオ、プロシュート、ペッシの三人が立ち上がった。それに加担するつもりもなく、ことのほか冷静な態度でソファーに腰を下ろしたままでいたメローネが、リゾットに話を続けるよう求めた。
「娘ってのは……幹部のロマーノってやつの娘のことか?」
「ああ。名は・」
リゾットはロマーノから送られてきた娘の写真をローテーブルの上に放り投げた。どれどれと皆が顔を寄せる。
「美人じゃねーか」
ぱっと見でそう言ったホルマジオは、写真を取り上げてまじまじと観察を始める。――どこか既視感を覚える顔立ちだ。はて、誰だったか。
「ロマーノの経営する警備会社で働いている」
「それで、この女とイルーゾォに何の関係があるんだ」
「……この間イルーゾォにミラノでの仕事を任せたろう。ターゲットの男はロマーノの警備会社に警備を依頼していたんだ」
イタリア一の警備会社のガードがあることは、事前調査を行ったメローネと、現場へ向ったイルーゾォは知っていた。だから仕事はイルーゾォに任せたのだ。だが、その警備会社の現社長がパッショーネの幹部の男だとは知らなかった。ちなみにこの衝撃的事実はトップ・シークレットで、口外しても始末されるらしい。
「その現場を監視していたカメラが、イルーゾォの姿をとらえていたらしい。ギャングの娘の割に正義感の強い命知らずのその女が、イルーゾォを捕まえてやると追ってこちらへ来ている」
「まさか、あいつがそんなへまを」
「もちろん、実際に現場を歩き回っていた訳ではない。鏡だ。驚くことにロマーノの娘は、暗視カメラで撮影された動画の中の、一秒と無い間鏡に映っていただけのあいつの姿に気づいて、動画を解析し、イルーゾォの姿と生活拠点を割り出したらしい。……一体どうやれば公的なデータも何も存在しないあいつの居場所まで、たったそれだけの情報を頼りに割り出せるのか皆目見当もつかない。だが現に、さっきまでホルマジオとイルーゾォのふたりがいたレストランの名前を言い当てられてしまった。はそのレストランにいて、ミラノにいるハッカーと共謀しイルーゾォを尾行していたらしいぞ」
ミラノの方ではハッカーがイルーゾォにしかけた発信機と娘が持っていた発信機の信号を受けていた。その信号がある場所で一度途絶え、同じ場所で復活したかと思ったら五分と経たないうちにもう一度同じ場所で消え、それきり娘とイルーゾォの居場所は分からなくなった。リゾットはそんな補足をする。
「それで、イルーゾォに娘殺しの疑いがかかっているわけだ」
ホルマジオは、イルーゾォに発信機がしかけられるようなスキがあったかどうか、酔った頭で必死に思い返した。ふと、とある情景が頭をもたげた。
「レストラン…………?ああ!!思い出したぜ!!」
ホルマジオは興奮した様子でソファーから勢いよく立ち上がった。しっかり手に持ったまま穴が開くほど眺め続けていたの写真を皆に見せながら続ける。
「この女、バーに行く前にメシ食ったレストランにいたぜ!トイレに向かう途中、店から出ようとしたイルーゾォにぶつかってやがったんだ!そんときゃ髪はブロンドだったんで今まで気づかなかったが、確かにいた!イルーゾォのやつ、好みだとか何とか言ってたし、襲っちゃいるかもしれねーが、殺してはいねーと思うがなぁ」
「そうか。ならばひとつ心配ごとは消えたな。確証が得られたわけではないから、あくまで希望が持てる程度だが」
皆は何となく、事の発端と今に至る経緯は理解できた。ただ、理解できたからと言って納得できた訳では無い。やはりギアッチョの腹の虫はおさまらな買った。
「納得いかねーぜ!!おいリゾット!!希望がどうとかそんな話は置いておいてよぉ。もし、イルーゾォのやつが娘をぶち殺しちまってたら、オレ達全員が連帯責任を負わされるってのか!?そもそも、テメーの娘の躾ができてりゃあ、テメーが幹部やってるギャング組織の暗殺者を追ったりなんかしねえはずだよなあ!?もっと根っこの話をすれば、何でテメーが幹部やってるギャング組織のボスが殺せと命じたヤツの家にテメーの会社の監視カメラなんかつけてんだよ!?ワケわかんねーだろうがァ!!それってよォ、ほとんど自業自得だよなァ!?ふざけてんのか!!むしろ娘を生かして連れ帰ったあとにぶち殺してやろうか!?」
「落ち着けギアッチョ。それじゃあ娘を生かして連れ帰る意味が無いだろうが」
リゾットはギアッチョをたしなめながらも、彼が言うことはもっともだと思っていた。理不尽極まりない指令だ。幹部の娘の命は、ギャング七名の命よりも重いとでも言いたいのだろうか。イルーゾォが「仕事以外の殺しはご法度」というチームの決め事を無視し、娘を殺してしまっていたのならば何かしら落とし前を付けなければならないのはまだ分かる。だが、あの幹部の言い方から察するに、イルーゾォがやったか否かにかかわらず、娘が死んでいたらメンバー全員の死をもって暗殺者チームを解散させるつもりだ。理不尽が横行するギャングの世界ではあるが、もしそんな事態に陥れば、さすがに反旗を翻して自分たちの命の為に戦ってやる。リゾットは口には出さずともそう覚悟を決めていた。
「期限は」
プロシュートが真剣な眼差しでリゾットに問う。
「明日中だ」
もうすぐ日を跨ぐ。要は、一日しか猶予は与えられなかったということだ。やはりどこまでも理不尽だ。皆がそう思った。
とにかく、娘の生死とイルーゾォの居場所も何も分からない今すべきことは、彼と連絡を取り付けること。それができるか否かに関わらず彼の居場所を突き止めること。この二点に尽きる。とは言え、居場所を突き止めようにも、人探しに使える能力を持った者はメローネ以外にいない。イルーゾォのDNAを血液以外で得られるかどうか分からないが、あとはなんの罪も無い女の命さえあればイルーゾォの居場所は突き止められるだろう。だが、それは最終手段だ。
「ひとつ言えることはよ」
ホルマジオが言った。
「あいつが死ぬわけはねーということだぜ」
「うむ。それはそうだ」
自分の世界を持つイルーゾォは、ほとんど最強と言っていい男だ。それはチームの共通認識だった。彼を殺せるのは彼と同じスタンド使いで、なおかつ彼の能力を無効にする能力を持つ者か、彼の能力に与えられる成約を克服できるだけの頭脳を持った者だけ。――そんな人間が存在するはずがない。今はそう信じるしかない。
チームは、捜索班と待機班とに別れた。リゾット、プロシュート、ペッシはアジトに残り、ギアッチョ、ホルマジオ、メローネは外に出てイルーゾォと幹部の娘を探すことになった。
捜索班が外に出るなり、メローネが恐ろしい事を言い出す。
「イルーゾォの血液はあるからな。女さえいれば、いつだって追跡できる」
「…………は??何でお前イルーゾォの血持ってんだよ?」
メローネはホルマジオに意味ありげな笑みを見せただけで何も答えないうちに、娘の消息が途絶えたと言われる場所へバイクを走らせ始めた。ギアッチョとホルマジオは、その後を車で追った。
「え?ちょ、待てよ。ギアッチョ、お前知ってた訳じゃねーよな?」
「……し、知るわけねーだろうが!!初耳だわ!!まさかよぉ、お、おお、オレのも持ってんじゃあねーだろうなあいつ!!」
「え……?マジで?怖っ」
「おいメローネぇ!!待てやコラァあああ!!!」
赤いロードスターが爆音を鳴らしながら暗い夜道を駆け抜けていく。こうして、最悪の場合上司に死と言う名の償いを迫られるかもしれない彼らの、長い一日が幕を開けた。――捜索班に限って言えば、そんな辛く長い一日の始まりにしては賑やかなスタートであった。