The Catcher in the Mirror

 イルーゾォには自分が追われる者であるという認識は微塵も無かった。追ってきた女に殺人現場の鏡に映る姿を見たと言われ、それが自分では無いと言い逃れることすらしない。絶対に捕まえられないという自信がある。万が一捕まえられたとて、彼は鏡さえあればどこまででも逃げおおせるのだ。

 マン・イン・ザ・ミラーの能力でまんまと鏡の中の世界に囚われた無用心な目の前の女が、自分と同じスタンド使いとは思えない。絶対的優位にあるのは最初から最後まで自分の方だ。

 自分を暗殺者と知って愚かにも尾行をしてきたのが男か、タイプでもなんでもない女なら一応リゾットに判断を仰いで許可が下りれば殺すだろう。だが何のめぐり合わせか、今目の前にいるのはもう一度会えればと恋しく思っていた美女だ。驚きの後に沸き起こったのは焦りではなく、紛れもない喜びだった。このまま捕らえて自分の好きにしてしまいたい。このチャンスを逃すわけには行かないし、最早これは運命だ。

 だから彼はまだ名も知らぬ女を口説きにかかったのだ。

「オレは暗殺者だ。そこらのギャングのように落とし前をつけるためとか、箔をつけるために人を殺すわけじゃあねぇ。殺しが仕事なんだ。仕事に支障が出るのでプライベートで人を殺すなと言われている。だが、この場合はどうだ?プライベートと言えなくもないが、仕事のやり残しと取れなくもない」

 蛇に睨まれた蛙のようにその場で動けなくなっている女に、イルーゾォは再度迫り寄った。逃さないと言わんばかりに女の背後にあるガラス張りのショーウィンドウに片手をついて顔を近づける。

 極度の緊張で目を大きく開きっぱなしにしてしきりに唾を飲み込んでいる女は、掌と背中をガラスに張り付けた。さっきまでの威勢の良さはどうした?そう煽ってやりたくなる。――ああ、これだ。これ。我の強そうな女が押し黙ってオレに言いなりになるってのは、最高に興奮する。そんなことを思いながらイルーゾォは続ける。

「死にたくないだろう?」

 鼻先が触れ合うか否かといった距離で囁いた。女はまたごくりと喉を鳴らす。

「ん?どうだ?ちゃんと答えろよ」
「死にたく、ない」
「そうだよな。だから、どうすれば生きていられるか教えてやる。聞きたいか?」

 女は小さくこくりと頷いた。

「お前がオレの仕事のことを綺麗サッパリ忘れた上で、オレとプライベートな仲になればいい。そうすればお前は生きていられる」
「それってどういう……」
「オレの女になれ。そうすれば生きていられると言っているんだ」

 これほど高圧的な口説き文句があるだろうか。オレの女になれ。でなければ殺す。要するにそう言っているわけだ。普通の口説き方じゃないのはイルーゾォ自身が重々承知していた。むしろ口説いていると言うよりも脅迫に近い。だから断らないだろうと思ったのだ。生きるか死ぬかの選択なのだから。

「そ、それ本気で言ってるの?」
「ああ。本気も本気。大マジだぜ」

 今の今まで怯えきって絶望しかけていた女は、今度は呆気に取られてぽかんと口を開けた。イルーゾォは、その今にも地面に向かって落ちていきそうな顎を掴んで熱っぽく囁いた。

「殺すには惜しい。……オレはお前をひと目見た時から、お前のことをモノにしたいって思ってたんだ。運命の出会いなんてもんは存在しねえと、オレは思ってた。けど確かに感じるんだ。これが運命ってヤツだ、とな。このチャンスを逃すくらいなら、オレは殺してでもお前をオレのものにするぜ」
「……もし、断ったら?」
「断らない方がいい」

 ただ、どうなるかは教えてやっていても損は無いな。そう断って、イルーゾォはとうとうと語り始めた。

 もしこの素晴らしい誘いを断れば、このまま捕らえて一週間程度監禁する。一週間もすれば殺しちゃまずい人間かどうかが分かる。そして殺した後に事故死を装ってどこかに遺棄する。死にたくないお前は命を失うどころか、命を捨ててまで欲しがった情報を得られずじまい。

 対して、もしこの誘いに乗れば命が助かるどころか、命をなげうってまで得ようとした情報を入手できるかもしれない。そう。このオレと秘密の共有ができる程の仲になればいいのだ。

「断る理由なんて無いはずだ。……そろそろ答えを聞かせてくれないか」



 え、ちょ……ちょっと待ってちょっと待って、え?何この状況!?私、これ、え?口説かれてる?口説かれてるの!?この状況で口説いてくる男いる!?頭おかしいの!?

 オレとプライベートな仲になれ、とパッショーネに組するギャング――しかも暗殺者だ。の仕事は彼らの魔の手から善良な市民――必ずしも顧客みんなが善良とも言えない因果な商売だ。ギャングの怒りを買うような連中は大抵ギャングと同じくらい汚いことを裏でやっていたりするものだ――を守ることなので、この男は敵であるが、裏を返せば良きビジネスパートナーと言えなくもない。彼らギャングが好き勝手にやってくれるおかげで儲かるのだ――に迫られたの頭の中は大混乱を極めていた。恐らく、彼女の人生史上最高にぶっちぎりで混乱している。

 頭がおかしいのはお互い様だ、とこの場にシドがいれば十中八九ツッコまれてしまうだろうが、今のに現状を客観視できる程の冷静さは無い。唯一の救いは、彼女の精神に宿る内なる女神が常に平常心を保っていてくれることである。

 。あなた今脈拍が凄いわ。寿命が縮む勢いよ。落ち着きなさい!……今はこの状況を打破することだけを考えるの。どうすれば生き残ることができるか。それだけでいい。だから、今すぐ正気に戻りなさい!

 内なる女神が叫ぶ。彼女はの生命と精神の源なので、彼女が生きのびるための道すじを明るく照らしてくれるのだ。

 そ、そうよね。そう。だから、生き残るために、生き残るためだけに、私はこのギャングで暗殺者やってる人でなしのイケメンに、あなたの女になりますって言うの。そう。別にこの男のものになりたいなんて少しも、クマムシ一匹分たりとも思ってないけれど、生きのびるために、嘘でもそう言うのよ!

 ……クマムシ?よく分からないけれど、あんたそれ嘘じゃないわよね。絶対本心よね。この男のことイケメンって言っちゃってるからね。まあいいわ。とにかく、今すぐ答えなさい。あとのことはこれから考えるのよ。クールに振舞うの。死にたくなくて必死だって。……それってクールとは程遠いけど、要するに私が言いたいのは、冷静になりなさいってことよ!

「……分かった。私、あなたの女になるわ」

 男は満足気に片側の口角を吊り上げて、ふっと鼻から息を漏らすとおもむろに口を開いた。

「お前の名前は」

。いい名前だ」
「あなたの名前も教えてよ」
「さすがにオレの名前までは知らないんだな」

 は悔しげに唇を引き結んだ。彼女の優秀な部下である天才ハッカー、シド・マトロックは男の顔から名前を始めとする一切の情報を割り出そうとした。が、男の顔と一致する国民データはいくら探しても無かった。考えてみれば当然のことだ、とシドはやった後に思った。ギャングが国に納税者番号なんかを付与されて大人しく納税しているわけもなければ、健康保険証を持ってヤブじゃない医者の元にのこのこ訪れるはずもない。

「知りたいか?」
「当たり前でしょう?私の……ボーイフレンドになるっていうなら、知ってて当然だわ」
「ボーイフレンドか。いいな、その響き。だが、そうなる前に確かめておきたいことがある」

 未だ名も知らぬのボーイフレンド(仮)は、耳元に口を寄せ低周波で彼女の鼓膜を震わせた。

「お前が本心でそう思っているか。ただ助かりたいってだけで、その場しのぎでオレの女になると言ったわけではないと確かめておきたい」

 その点については大丈夫だ。ほとんど本心で男の誘いに乗っている。そういう自覚がにはあった。内なる女神がやれやれと首を横に振って項垂れた。

「だから、明日だ。明日、今日お前がいたレストランに来い。お前が座っていた席で、オレはお前を待つ。昼前の十一時きっかり。遅れたら許さない」
「え?私のこと、自由にするの……?」

 これから捕らえられて、彼の家かどこかで軟禁されていいようにされる――むしろされたい――とばかり思っていた。いい加減にしろ、と内なる女神が毒づいた。

「なんだ。自由にされてマズいことでもあるのか?オレはな、。お前を心から信用したいと思ってる」

 男は両手での頬を優しく挟み少し持ち上げて、紅く大きな瞳に彼女の顔を収めた。物理的に拘束されている訳ではないのに、体を少しも動かせない。まるで呪文だ。男の瞳が、声が、掌から伝わる体温が、に自分は男のものであるという自覚を否応なく根付かせる。全身が微熱で徐々に解けていくような、そんな甘い感覚に陥ってしまう。相変わらず胸は早鐘を打っていて、熱い血液が凄まじい勢いで全身を駆け巡るのが体感できる。――こんな状態で落ち着け、なんて言われたってどうしようもない!

「男女の仲ってのは、離れている間にこそ試されるものだ。オレの女になると言ったその口で、助けを求めたり、応援を呼んだり、ましてや他の男にキスをしたりなんてことは、オレへの裏切りになる。分かるな?」
「……それはそうだわ」
「あともう一つだけ忠告しておこう。どうやらまっとうに生きているらしい納税者であるお前の居所なんて、いつだって調べて会いに行けるってことを覚えておけ。そっちには相当優秀なハッカーがいるらしいが、こっちにだってそれなりのヤツがいるんだ」

 はもちろん国に納税者番号を振られているし、月に何千万という――次期社長となる彼女の会社の納税額にまで話を広げれば億単位にものぼる――納税もしている。つい最近新聞に載せた社説には顔写真まで載っている。男の言うとおり、彼女の居場所を突止めることなど名前一つで簡単にできてしまうだろう。

「明日、無事にオレの信頼を勝ち取ることができれば、オレの名前くらいは教えてやるよ」

 男の唇が近づいてくる。は慌てて目を閉じた。

 ああ、やめて。私から早く離れて。気づかれたくない。人殺しの人でなしに恋してしまってるなんて。――これ以上、私を興奮させないで!

 黙って震えているだけのの気持ちが男に伝わるはずもなく、やがて唇は重なり合った。そしてすぐに男の唇は離れていく。名残惜しいと思ってしまう程短い間の口付けの後、はゆっくりと瞼を持ち上げた。



04: Sledgehammer



「――あ、あれ?」

 男は目の前から忽然と姿を消していた。は左右をチラチラと見やった。それでもやはり、男の姿は見えなかった。そして呆然としながら手の指先で自分の唇に触れた。これは夢だろうか。だが、確かに感触があった。男の唇が触れた感触が。頬をめいいっぱいつねってみる。……普通に痛い。だから夢を見ているわけでは無い。

 そして、さっき起きたことが夢でないという――彼が今の今まで傍にいたという――証拠はこれだ。この、体の内側からスレッジハンマーで打ちつけられているかのように脈打つ血管と鼓動。

 息が詰まる。緊張が解けてくらくらとする。足元の床が崩れ落ちてそのまま地の底に落ちていくような気がして、は隘路の際にへたり込む。そして胸に手を当て呼吸を整えようとした。

 ……とにかく、明日朝の十一時に、約束のあの場所に向かわなければ。行くしか無いわ。行かなきゃ殺される。ああ、でも、行った先に彼がいなかったら?さっき起きたことが夢だったら?がっかりして、それこそ死んだ方がマシだって思えちゃうかも……。また彼に会いたい。……いいえ。違う。彼と親密な仲になって、彼の秘密を探るのよ。そのため。そのためよ。そのために、彼に近づくのよ。

 勉強一筋でろくに恋愛経験を積んでこなかった。彼女の周りにいた男は、そのほとんどがパソコンが恋人のオタクばかりだった。美しいに言い寄ろうなんて気概を持った男は皆無。そしてマスタークラスを卒業し就職して、気づいた時にはバリキャリになっていた。彼女の生まれと経歴と才能と財産にプライドを打ち砕かれるだけと知ってか、やはり言い寄ってくる男などほとんどいなかった。

 だからは自分に女性としての魅力が無いものと思い込んでいた。つまり男慣れしていない。彼女のこれまでの人生でほとんど初めて男に熱烈に言い寄られたから見境を失くしているのだ。それを女神は知っている。

 ああ、どうして……。よりにもよって、どうしてパッショーネのギャングの暗殺者なんていう危なすぎる男が相手なのよ!?――女神もの内側で頭を抱えてへたり込んでいた。

『――い!おい!聞こえてるか!?』

 男が忽然と消えてすぐに、付けていることすら忘れていたヘッドセットのイヤホンからシドの必死そうな声が聞こえてきた。は一度深呼吸をして、息を整え応答する。

「ええ。聞こえているわ。……無事よ」
『ああッ……良かった、良かった!生きてたッ……。オレ、焦って呼んじまったよ!ナポリ支社のヤツをよォ!!』
「心配かけたわね。ごめんなさい、シド」
『謝って済むと思ったら大間違いだからな!?報酬は倍払えよ!!マジに寿命縮んだぜこれ!!オレの命だ!高くつくんだからな!?……つか、あいつは!?ファッキン暗殺野郎は捕らえたんだろ!?』
「え?い、いえ。捕まえ損ねたわ。……残念ながら」
『はあ!?じゃあなんで発信機の信号がふたつ同じ場所にあんだよ』

 は慌てて自分のポケットというポケットを漁った。すると、男のポケットに忍ばせていたはずの発信機がジャケットの外ポケットに入っていることに気付く。

「――あ、あいつ!」
『……逃げられたんだな』

 いつ入れた!?は目をきつく瞑って額に手をあて必死に思い出そうとした。だが、やるだけ無駄だと気づいてすぐに諦める。男に見惚れてしまっていたせいで心臓発作でも起こったかのように全身が疼いてそれどころでは無かったのだ。あの美しい顔を思い出すだけで、また胸が一度大きく鼓動を打った。

『これでもうこりたろう?さっさと帰って来いよ。寂しくて死にそうだ』
「嘘つきなさい。報酬が欲しいだけでしょ。……私、まだしばらく帰らないわよ」
『はあ〜?金が欲しいんだが』
「本性出したわね。……明日、銀行口座に振込んでおくから勘弁して」

 シドと会話をしているとはいつもの平常心を取り戻し始めた。そのうちに何故ミラノに戻ってこれないのか、理由についてシドに問いただされたが、さっき起きたことを一から十まで話すわけにはいかない。あの神出鬼没の男がどこで見張っているかも分からない。もしも真実を話してしまったら、シドは今度こそをひとりにしておかないだろう。男に応援を寄越したと勘違いされては、今度こそ殺されかねない。それに、の真の目的は大方達成した。あとはボーイフレンド(仮)に事の真相を喋らせるだけだ。そう上手くいくかどうか定かではないし、男の言ったことが全て本心とも限らないので浮かれてもいられないが。

 男の元を離れた今はそう思えているだったが、この冷静さを明日の朝十一時から保っていられるかどうかを自分でも怪しんでいた。

「私の休暇はまだ三日残っているし、せっかくナポリに来たのに何もしないで帰るのはもったいないじゃない。少しゆっくりして帰るわ」
『……まさか、まだあの男を追おうなんて考えちゃいねぇだろうな?』
「まさか。さっきので私、凝りたわ」
『ならいいけど、あんまり長居――』

 シドが話している途中では空いた方の耳で足音をとらえ、すぐさま音のする方を見やった。

「お嬢様。ご無事ですか?」

 会社の警備服に見を包んだ男がふたりこちらを見ていた。イヤホンの向こうで異変を察知したシドが声を上げる。

『オレが呼び付けたナポリ支社の連中か?』
「そうみたい。……せっかく来てくれたのに、ごめんなさい。件の男は逃しちゃったのよ」

 男は地面にへたり込んだままのにゆっくりと近付いて膝をついた。

「そうでしたか。しかし、ご無事で何よりです。さあ、ナポリの夜の裏道を女性ひとりで歩くなんて危険です。車で送ってさしあげます」

 は事前に来るように打合せをしていた男かどうか確かめるべく、近づいてきた男の顔を見ようとした。だが、深々と帽子を被っていて、明かりも少ない夜道にいるせいで確認できない。

「ありがとう。でも、大丈夫。ホテルには歩いて戻るわ。……ところであなた、本当にマルコなの?」

 十一時に間に合うように起きないと死ぬ。なので送ってほしいのはやまやまだが、何か胸騒ぎがした。

 お嬢様?なんて、打合せの時に言ってたかしらこの人。それに、勘違いじゃあなければ、声が違う。マルコはもっと優しい声だった。こんなしゃがれ声じゃ……。

「チッ……ごちゃごちゃやかましいんだよ」

 腕を掴まれ体を引き寄せられた。突然のことに驚いて、は短く悲鳴を上げた。そしてすぐに男の大きな掌で口を覆われる。

『お、おい!?』

 途方も無い虚脱感が襲い来る。声を張り上げてシドに助けてと叫ぼうとしてみたものの、腹に力が入らない。腹だけではない。四肢を動かし藻掻こうにもぴくりとも動かせない。はなんとか保てている意識だけはと気を張ったが、それもやがて途切れ途切れになって薄れていく。

『おい!返事しろよ!今度は何だってん――』

 ごちゃごちゃやかましいと言った男はの片耳についたヘッドセットとポケットにしまってあった携帯電話、そして小さな発信機を取り出し、ひとつひとつ丁寧に電源をオフにしていった。

「おい、アントーニオ。さっさとしろ」

 もうひとりの男が苛立たし気に言った。そう言うならお前がやれと毒づきつつも、アントーニオは作業を進めた。

 が察していた通り、男は事前に打合せをしていた者では無い。恐らくもうひとりも違うだろう。だが、どういう訳か意識を失ってしまい、アントーニオと呼ばれた大男の肩に担がれて車のトランクに押しこまれたには、それを知る由もなかった。