The Catcher in the Mirror

 壁際にあるテーブル席で、イルーゾォとホルマジオのふたりは女ふたりをはべらせ安酒を呷っていた。とは言ったものの、はべらせているつもりでいるのはホルマジオだけで、イルーゾォは心ここにあらず。彼は店内でけたたましく鳴り響くクラブ・ミュージックに呑み込まれるような感覚に陥りながらぼうっと虚空を見つめていた。

 そんな彼のことはさておき、両脇に好みの女を抱えるホルマジオは鼻の下を伸ばし、尻派だと言ったその口で、盛られて曝け出された女の乳房に接吻したり、手で揉みしだこうとして女に口先だけで、ダメよ、やめて、なんて言われてキャッキャウフフと楽しそうにしている。

 そうやっているうちにテンションが上がって騒ぎ出したホルマジオが膝でテーブルを蹴り上げた音で、イルーゾォは考え事から意識を開放されてふと思った。

 今日は気分じゃない。

「お、おいおい!イルーゾォおめーどこ行くんだよ!」
「帰る」
「帰る、じゃあねーよ!オレは今日持ち合わせが」
「知るか。完全にオレの報酬にお世話になるつもりでいたテメーの自業自得だ」

 ホルマジオはちら、と席に残した女ふたりとテーブルの上を見やった。さっき奢りだと宣言してからもう何杯も酒を頼んでいる。空になったグラスの中身の合計額がいくらかなんて考えてもいなかったし、自分の財布の中にいくら残っているかもよく覚えていない。酒が入った頭でなんとかしぼり出した答えが――

「金を貸してくれ!」
「返すときに色付けるなら貸してやる」
「ああ、もう、色でも何でも付けるからよ!」

 普段なら誰にも金など貸してやらないのだが、イルーゾォは早くこの騒がしいバーから抜け出したかった。なので給料袋から十分足りるだろうという量の札束を――もちろん、何十万リラかしっかり数えて――取り出しホルマジオに渡してやった。情けないヤツだと言う哀れみの目も添えて。

「ありがてえ!よーし、おねーさん方!もっと楽しもうぜぇー!!」

 フゥ〜!なんて歓声を広い背中にぶつけられながら、イルーゾォは店の出口へと向った。やれやれ。こんな男のおこぼれにあずかろうなんて考えていたオレもオレだが、あのハゲも大概だな。大きな溜息を吐き出して、彼はまた例の考え事に意識を囚われた。

 このバーに来る前に出会ったあの女の姿が、頭から離れない。

 今からあのレストランに戻ったってもういないだろうし、そもそもレストランが店仕舞いしていそうな時間だ。あの時連絡先でも聞いておくんだった。これが一目惚れってやつだろうか。このオレに一目で気に入られるなんて大した女だ。

 イルーゾォは上から目線で、しかも心の中でブツブツ言っている。上からだが、彼は彼女の電話番号も名前も何も知らない。ただ、その美しい容姿と声音だけが意識を捕らえて放さない。分が悪いのは完全に彼の方である。

 また、どこかですれ違ったりしないだろうか。ああ、でもあの格好、きっと仕事か何かで南に来ているだけの北の金持ち女だ。仮に出会えたとしても、相手にもされないのがオチだろう。

 また深い溜息を吐いて、イルーゾォは出口の扉を押し退け外に出た。人肌が恋しかったが、例の美女以外の女と何かしたい気分でも無かった。今夜は終ぞ叶わぬ願望と夜を明かすことになりそうだ。

 こうしてイルーゾォは、ひとりアジトへの帰路についたのだった。



03: I'm in Love with a Monster



 シド・マトロックは、こんな割に合わない仕事は初めてだとむかっ腹を立てていた。デリバリーで頼んだピザを貪りながら咀嚼した物を炭酸飲料で飲み下しつつ、とターゲットの現在位置を映し出すモニターを睨みつける。

 モニターの様子にしばらくの間変化は見られない。だが、いつ男が動き出すとも知れないので中々席を立てない。クソしてくる、と言ってトイレに行きたいような腹具合だったが、社長令嬢の上司の命がかかっているとあってはそうも言っていられない。だが、ストレス解消のためにピザをかっ食らうのは止められそうになかった。

 そんなことを考えているうちに、しばらく動かなかった殺し屋の位置を示すポインターが、モニター上でゆっくりと動き出した。そしてすぐに、ヘッドホンの向こうからの慌てた声が聞こえてくる。

『嘘でしょ!?』
「どうした」
『アイツ……ひとりで出てきやがったわ』

 シドは拳を天に掲げ喜んだ。まさかさすがのも、女も連れずにひとりで帰路についた殺し屋を夜道で追うなんてバカなことをするはずが無い。この割に合わない仕事ともようやくおさらばだ!さっさと帰ってきて金をよこしやがれ!

『追うわ』
「追うのかよ!もう帰ってきてマジで頼むから」
『いやよ!あんな、思いっきり社名入った発信機仕込んだままになんかしてられないでしょ!』
「全部自業自得だろうが!それでも、人命優先だから帰ってこい!マジに殺されるぞ!ああおいもうほんと何歩き出してんだよファアアアック!」
『しばらく黙って追跡するわね』
「最高だな。あんたのことどう罵倒しようとお咎め無しってワケだ。あのな!バカはやめてさっさと帰れ!いいか、暗殺者ってのは常に周りに気を配ってるんだ。女も連れずにいる暗殺者相手に素人が尾行なんかできるもんか。アンタが突こうとしてるスキなんか絶対に見せやしねえよ!」

 最高だなと言った手前文句は言えなかったが、説教しても反応が返ってこないとそれはそれで腹が立つ。

 シドは一定の距離を保ちながら同じ方向に向かうポインターを恨めしそうに睨みつけた。分かってはいたのだ。ここまできたら、こっちももう腹を決めるしかない。シドはいつが悲鳴を上げてもいいようにと携帯電話を握りしめた。いつでもナポリ支社の助人を呼べるように。

 やがて男は大通りを外れ隘路へと入り込んでいった。シドは声を荒げた。

「おい!もうマジでやめろ!」
『大丈夫。何かあったら声を上げるから』

 そんなささやき声が聞こえてきた。一体何を根拠に大丈夫だなどと宣うのか。

「あんたが死んだら、オレはオヤジさんに何て言やあいいんだ」
『もしもの時のために手紙を書いてる。だから、あなたは何も心配しないで』

 そうじゃない。心配してるのは、自分のこれからの人生じゃない。オレは、あんたがいない世界でなんか生きていたくない。そう言いたいのに、本心は口から出てこなかった。シドはそれ以上何も言えず、代わりに下唇を噛みつける。

 やがてもまた、男を追って隘路を進み始めた。人通りなど無いに等しい静まり返った一本道だろう。これからは、のイヤホンの向こうでがなり立てることすらできない。

 まばたきもせずにシドはポインターを見つめていた。複雑に入り組んだナポリの隘路の角を男が曲がる。そして次の瞬間、ポインターはモニターから忽然と姿を消した。

!止まれ!男が消えた!!それ以上進むな!!」

 ポインターが姿を消した。つまり、発信機からの信号が途絶えたのだ。発信機がポケットに忍ばされていることに気付き、素人じゃまずどこに電源があるかも分からない小さなボタン状のそれのスイッチを暗がりを行く間にオフにしたか、足で踏みしだいてぶち壊したか。そのどちらかだ。

 だが、そんなこと――ポケットを漁っていたり、手元の小さな何かに目を凝らしながら歩いていたり、小さな何かを地面に落として踏みしだいたり――をしていればが気づくはずだ。

「何か嫌な予感がする……!、引き返――」

 言い終わる前に、のポインターもマップ上から忽然と姿を消した。

……?おい、!!!!」

 声を上げると言ったじゃないか。そんな文句を垂れることもなく、応援をよこそうと電話をかけるまでの数十秒間、シドはがいた場所をじっと見つめ、何が起こったのか理解できないまま呆然としていた。



 所々民家の窓から漏れる照明の光と建物の影になっていない所が月明りで照らされるだけの暗い隘路を、は男の背を遠目に見失わないよう慎重に進んでいた。

 男と自分以外の人通りなど無い一本道だ。このままじわじわと距離を詰めて、スタンガンを手に持って突進するのが手っ取り早い。はアウターのポケットに忍ばせておいたスタンガンを手に持って電源を入れた。男との距離は目測60メートルといったところ。もう少し気づかれないように距離を詰め全力疾走すればいい。

 だが、なかなか決心がつかなかった。極度の緊張で胸はばくばくと音を立て、喉は押さえつけられているかのように息苦しい。そんな調子でただ後を追うことしかできない内に、男は曲がり角の向こうに姿を消してしまった。瞬間、イヤホンの向う側でシドが声を荒げた。

!止まれ!男が消えた!!それ以上進むな!!』
「――!?」

 は咄嗟に足を止めた。男が消えた?シドがそう言うということは、発信機からの信号が途絶えたということなのだろうか?だが、男はバーを出てからと言う物ポケットなんてあさりもせずに悠然と歩いていたし、男が消えたと聞いたのは男が角を曲がってすぐだ。恐らく見つけてすらいない発信機を、ポケットから取り出して踏みしだき壊す時間など無かったはず。ならば一体何故?電池切れか?いや、それはない。念には念をと、あのやたらと美味いマルゲリータを出すレストランに入る前に、発信機の中のボタン型の小さな電池は新品と交換していた。

 一体何故?だが、ここで足を止めていては男を見失ってしまう。は駆け出そうと利き足を一歩前に出した。その時、視界の隅できらりと光る何かを捕らえた。は自身の進行方向に向かって左手に見えた気がしたそれを見やった。

 ――鏡だ。そこにあったのは、アンティークショップのショーウィンドウに置かれた、楕円形の壁掛け鏡だった。

 鏡の中の男。今、自分が追っていたのは、鏡の中にしかいなかった男だ。は何故かそのことが頭に浮かんで鏡をじっと見つめた。よく見ると、鏡に映る自分の背後に男が一人立っていた。はぞっとして、小さく悲鳴を上げそうになった自分の口をとっさに掌で覆った。男の顔は全部が映っておらず、にやりと口角を吊り上げている様だけが不気味に際立って見えた。は恐ろしくなって、ますます顔から血の気が引いていくのを感じた。そして、たまらず声を上げた。

「シド……!シド!!?」

 だが、マイクに向かって部下の名を呼んでも、イヤホンの向こうから返事は無かった。

「どうした?迷子にでもなったか?」

 聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。心細いだろうと同情して迷子を気にかけていると言うより、捕えた獲物を手にしようと嬉しそうに詰寄る狩人の独り言のようだった。人を獲物にして金を得る、狩人だ。ついさっきまでこちらが追っていたはずの男に、今は何故か背後を取られている。

 は固唾を呑んで、声を上げようと緊張でカラカラに乾いた喉を潤した。

「夜道を一人で歩いちゃあ危ない。しかもこんな、治安の悪い街の裏道なんかは特にな。命知らずにも程がある。それにしても――」

 男は乱暴にの肩を掴んで表を向かせ、背後のガラス窓に彼女の背を押し付けた。未だに大声すら上げられずにおし黙っているの顔を、男は目を細め訝しげにねめつける。

「――ひどく落ち着いているな?普通悲鳴の一つや二つ上げそうなものなのに。まるでオレが誰か知ってるみたいじゃあないか?なあ、ねーちゃんよ」

 男の端正な顔がゆっくりと目の前に迫りくる。心臓がばくばくとけたたましく音を立ててうるさい。おかげでやっぱりまだ声も上げられない。
 
 ちょっとまって、彼、ハンサムすぎない?暗殺者って皆こんななの!?ああもう!こんな今にも殺されるって時に、何考えてるのよバカ!だって、見てよこの綺麗な目!きっと中東かどこかのプリンスよ!中東のプリンスがイタリアで暗殺者になんかなるもんですか。バカなこと考えてないで、いい加減目を覚ましなさい!!

「あ、あの、道に、迷っちゃって……その」

 が内なる女神に急かされて間の抜けたことを言っている間も男の顔は近付いてくる。

「ん?待てよ、お前のその顔……見覚えが」

 ま、まずい!気付かれる!!はとっさに手に持ったままだったスタンガンを男の体に突き付けようと腕を動かした。だが、武器を構えた手は当然のごとく男に掴まれて止められてしまう。

「あの、レストランでぶつかってきた女か?髪の色も着ている服も違うが、確かにそうだな」

 男はどこか嬉しそうにくつくつと喉から声を漏らして笑っていた。そして、の手首を掴む手に力を込める。痛みに顔を歪めた彼女は、たまらずスタンガンを手放した。そして男のもう片方の手はの喉に添えられた。今はまだ、添えられているだけ。彼女は唐突に素肌に触れられ、場違いにも程がある興奮を覚えてしまう。

「なあ、どうしてオレを追ってきた?いい加減白状しろよ。お前がオレを尾行してることなんて、とっくの昔に気付いていたんだぜ。今さら白を切ろうなんて腹づもりなら、止めておいたほうが身のためだ」

 恐らく、いや確実に、ここから形勢逆転は不可能だ。ならば自分がすべきことは、自分の命を守ること。だが、この男の全てを見透かすような美しい瞳に囚われていては、元来嘘をつくのも苦手で考えていることが顔に出やすい性格のに、口からでまかせを言ってはぐらかし、男の機嫌を取って命を助けてもらうなんてことができる気がしなかった。

 真実をありのままに話せば消されるだろう。だからと言って、それ以外のことを話しても嘘と悟られ消されそうだ。この男の尾行を始めた時点から、自分の運命は終わりへ向かってひた走っていたのかもしれない。シドの助言を聞いておくんだった。

 は少しだけ後悔したが、不思議と死への恐怖は感じなかった。男を知りたい。その一心で、暗がりでギラつく男の赤い瞳を見つめていた。

 男は、早く答えろと言わんばかりにの喉に添えている手に力を込めた。即座に死を予感したは、頭に浮かんでいた言葉を押し出されるかのようにそのまま吐き出した。

「あなたミラノで、つい最近人を殺したわね」

 男は一度大きく目を見開いた。だが、それきり取り乱すこともせずに、の次の言葉を待った。

「その現場の鏡に、あなたが映っていたの」
「ふむ。それで、お前は警察とか探偵といった類の人間なのか」
「いいえ。あなたが殺した男の、護衛を任されていた警備会社の者よ」
「オレのことはどこまで知ってる」
「パッショーネの暗殺者ってところまで」

 男はの瞳をじっと見つめてしばらくの間黙っていた。

 選択の余地など無いはずだ。一体何を考えているのだろう。未だ首に添えられた手には、人を死に至らしめる程の力は込められない。少し息苦しい程度で壁に固定されるだけ。死にたいわけでは無いが、自分を殺す以外の選択肢が男の頭に浮かんでいるはずもないと思っているには、この沈黙の時が永遠のように長く感じられた。

 そしてその永遠の間に、は恋に落ちていた。胸がどきどきと早鐘を打つのは死を恐怖してではない。男の美貌、その顔で光る赤く静かに燃えるようなふたつの瞳、手から伝わる体温と、そしての鼓膜を震わせる声。全てがを捕らえて放さなかった。

 だから、死にたくないと思った。もっとこの男のことを知りたい。何故殺さないのだと思いながらも、は殺さないでくれと目で訴えていた。

「最後の質問だ。お前の目的は何だ」
「あの警備システム、私が開発したの。それをあなたに破られて気を悪くしてる。だから、どうやって部屋に入ったのかトリックを聞かせてほしくて、今ここにいるのよ」
「ふっ、お前はバカか?そんなことのために死にに来たのか。死んだのはただの顧客だろう?仇討ちでも何でもない。それを知って一体何になるって言うんだ」

 十も年下の男につい最近言われたことをそのまま言われてしまう。は悔しそうに眉根を寄せて男から視線をそらした。

「まあいい。お前にチャンスをやろう」
「チャンス、ですって?」

 男はの首と手首からゆっくりと手を放し腕組みをすると、値踏みするかのような目での頭の天辺から足の爪先までを見下ろした。

 対するは、男が言ったチャンスという言葉に、僅かばかりの希望を見出していた。