ナポリの夜の街を暗殺者ふたりが群衆に紛れて歩いていた。ひとりは給料袋を携えて、もうひとりはすれ違う女性をちらちら見ながら。幸い、この暗殺者たちは仕事で街に繰り出しているわけではないらしい。
「お前女いねーのか、イルーゾォ」
「オレのお眼鏡にかなう女がいねーってだけの話だ」
「けっ、お高くとまりやがって。そのクセ報酬入ってパーッとやろうってときに誘うのがいつもオレなんだもんな。可愛そうなヤツ〜」
「やかましい。そんな調子でもの言ってたら飲み代てめーに全部払わせるぞ」
「すまん。オレが悪かった」
報酬が入った。先週ミラノでこなした仕事の報酬だ。報酬の入った茶封筒を受け取るなり、イルーゾォはホルマジオの肩を抱き込み飲みに行くぞとアジトから連れ出した。
彼らが向かっているのは行きつけのレストランだ。行きつけの、と言ってもそう頻繁に行っているわけではなかった。暗殺者は人目を忍ばねばならないので、行きつけの店を作って懇意にしてもらうとか、そういった信頼関係を地元と築くべきではないのである。
だが何と言っても、その店の出すピッツァは格別だった。特にマルゲリータがいい。週に一度は食べたくなる。
そしてその食事のお供にと選んだ相手がホルマジオであるという点について言及すると、イルーゾォには連れ回せるようなガールフレンドはいなかったし、大して欲しいとも思っていなかった。こちらが望めばガールフレンドの一人や二人いつでも作れるというなんの根拠もない自信が彼にはある。だが、往々にして酒を飲んだ後というのは気が大きくなって、一夜を共にする女が欲しくなったりするものだ。その点、このホルマジオというスケコマシは使えるのだ。
ギアッチョとメローネは論外。リゾットは誘ったって来やしないし、プロシュートだと逆に女を全て持っていかれる。ペッシを連れて行った日には子守をしている親の気分になってしまう。
総じてホルマジオはもっともバランスがいい。うまいこと数名でつるんでいる女のグループを釣ってくる。そのおこぼれにあずかるのがイルーゾォの常套手段だった。
ふたりは店につくなりマルゲリータをふたつ頼んだ。ついでにワインもボトルで一本頼んだ。マルゲリータよりも先に出てきたワインで喉を潤す。至福の時だ。ホルマジオはそんな余韻に浸る間もなく店内を物色していた。忙しいやつだ。イルーゾォはやれやれと首を横に振ってピッツァが届くのを待っていた。
「おい見ろよ。あの女、すげーいい体してる。特にケツがいい!」
カウンター席に二人組で座る手前側の女を見ながらホルマジオは言った。
「ホルマジオ。知ってるか?猿ってのはメスのケツ見て発情するんだ。猿は四足歩行だ。んで、目の前に来るのがケツだから、猿がメスのケツ見て発情すんのは良くわかる」
「おい、おめぇ何が言いてーんだ」
「お前は人間だ。二足歩行をしてる。それにも関わらずケツ見て発情してるてめーは頭が猿から進化してねーんだってことを言いたいんだ」
「うるせーよ!じゃあ何だよ、おめーは乳派なのか?」
「乳でもケツでも太モモでもねーよ」
「は!?お前それでも男か?」
「体のパーツがどうのこうのというのは二の次だぜ。顔だな。好みの顔であれば他は人並みかそれ以上なら文句はない。そうだな――」
イルーゾォもまた店の中を見回した。すると、店の角のテーブル席にひとりで座る女に目が留まった。ナポリの街ではあまりお目にかかれないような瀟洒な風采をしている。ブロンドの長髪を後ろでコンパクトにまとめていて、スマートな印象を見る者に与えていた。そしてその女は目の前のマルゲリータを、まるでフルコースのメインディッシュでも食べるかのような上品な手付きで口へと運んでいた。
「オレはああいう女が好みだな」
どれどれ、とホルマジオがイルーゾォの視線の先に目を向けた。
「まあ、美人にゃ違いねーが……ちょっとこう、おっかなそうじゃあねーか?」
確かに、ミラノに本社を構える有名企業でバリバリのキャリア・ウーマンとして働いていそうでもある。男という男を顎で使い、女王様とお呼び、とでも言っていそうな風格すらある。それがとっつきにくさを醸し出してはいる。だが、それがいい。
「ああいうプライド高そうな女をひぃひぃ言わせるのがいいんじゃねーか」
「お前……サイテーだな」
「てめぇに言われる筋合いはねーな」
仲がいいんだか悪いんだか、つるみはすれど口を開けば罵り合うばかり。イルーゾォとホルマジオはいつもと同じそんな調子で食事を共にした。腹が膨れてボトルを一本空けると、バーにでも飲みに行くかという雰囲気になった。するとホルマジオが椅子から立ち上がりながら言う。
「便所行ってくるわ」
「なら、オレは金払って外に出とくぞ」
「頼んだ〜」
イルーゾォは近くの店員を呼びつけて会計を済ませると席を立った。出口へ向かう途中、先程目に留めた女が座っていた席を見やった。女の姿は消えている。
なんだ。まだいれば、声でも掛けようかと思っていたのに。
少し残念に思いながら出口へと顔を戻した時、片方の腕やら脇腹やらといったあたりに何かがぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」
あの女だった。ホルマジオ曰く、性格がキツそうなブロンドのバリキャリ女だ。
「服にワインこぼしちゃって、急いでお手洗いに行こうと……気を悪くしたかしら?本当にごめんなさい」
「いや。大丈夫だ」
イルーゾォは彼女がワインを零したという、ピッタリとしたひざ丈のワンピースを上から下へと見下ろした。太モモを覆う布地のあたりが確かに黒く濡れているが、深い紺色のそれなら大して気にもならないだろうと思った。
「シミにならないといいな」
「え、ええ。ありがとう。本当にごめんなさい」
女はそう言って足早にトイレへと向って行った。イルーゾォは名残惜しそうに女の後ろ姿を見やった。あのワンピースの背面には首筋から下へ向かって一直線にジッパーがついていた。スカートの裾まで一気に引き下げれば、あっという間に身ぐるみを剥がせる。
「おい見たかイルーゾォ」
ムラっとした所でイルーゾォは連れの声掛けで現実へと引き戻された。
「あの女も結構いい体してたな」
「お前口を開けばそればっかりだな」
あの女がホルマジオの毒牙にかけられる前に、さっさとこの店から出なければ。
とは言ったものの、この街にはホルマジオの様な手合いは山ほどいる。あんなセクシーな格好で夜の街をうろついていたら、つまらないチンピラ連中に絡まれること請け合いだ。そんな心配に駆られるくらいにはか弱く見えた。プライドが高そうで、男に謝ったりなんか絶対にしないだろう。そんな先入観を彼女は打ち砕いて去っていった。
だがまあ、あの女からすれば自分もそのチンピラ連中と何ら変わらない風に見えるのだろう。
後ろ髪を引かれるような思いでイルーゾォは次の目的地へと向かったのだった。
02: Worth It
「驚いたわ。3日でやれたらって言ったのをたったの1日半でやるなんて!」
ナポリの街を悠然と歩く暗殺者。その姿を捉えたどこだかの監視カメラの映像を切り取った写真を見ながら、は歓喜の声を上げた。
「があらかじめこの男のこと見つけ出してくれてたおかげだ。それがなかったら3日はかかってただろうな」
「私が5日かけた作業、オレなら一日半で終わらせたぜって喧嘩売ってるワケ?」
「まあそういうことになるかな」
はシドの座る椅子の背もたれごと足蹴にして怒りを発散した。
「乱暴だな。あんたホントに社長令嬢?」
「うるさいわね!口で言ったって勝てないヤツには武力行使するのが私のポリシーなのよ」
「原始人」
「うるさいっつってんの!」
口は上手い方ではないし、思い立ったが吉日で考える前に体が動くタイプだ。こういう性格だと自分で十分に理解しているから、社長になんて絶対に向いていないと分かるのだ。
鏡の中の男――ブルネットのサラサラした長髪を、五つか六つに分けて結った長身の男だ――が拠点にしている場所を示された途端、今すぐにでも急行列車に乗り込みたくなっている。はワクワクしていた。
「それにしても、一体どうやって居場所を突き止めたわけ?」
「企業秘密。まあ、殺されたヤツが殺されたヤツだし、大方のアタリはつけられるでしょ」
麻薬の根絶を謳い、政界に頭角を示し始めた男だった。新聞やネットの広告というのは案外侮れないものだ。大手広告代理店のCEOを努める彼を、麻薬売買を主な資金源としているパッショーネが疎ましく思うのは当然だった。
――パッショーネ。イタリアはナポリを拠点とするギャング集団だ。鏡の中の男は恐らく、パッショーネお抱えの暗殺者。
「ねえ、おばさん」
「はい50万リラカット」
「あ、ウソウソ、キレイなお姉さん」
「よし、60万リラプラス」
「あんた、なんでワクワクしてんの」
感情がすぐに表に出る。わかりやすい性格だ。相手が暗殺者と知って、その暗殺者に会いに行こうとしている。世界に名だたる有名大学の修士課程を修了したとは思えないほど賢明とは言い難い行為だ。
「相手がギャングってわかってんのか?鏡にだけは映るステルススーツとかワケわかんないもん着てるかもしれないヤツなんだぜ?やっこさんナポリじゃあ気ぃ抜きまくってるみてーだが、にしたって危険すぎるだろ」
「この男のこと調べさせたのはあんたにお小遣いあげるためじゃあないのよ。会社の汚名を返上するためなの」
「できるわけないだろ。捕まえて警察に突き出したって証拠不十分で留置すらされないのがオチだぜ」
「そんなのやってみなきゃ分かんないじゃない。要は自白させりゃいいんでしょ、自白させりゃ」
「自白なんかするわけねーよ。口割ったら仲間に殺されるんだ」
「それは……捕まえてからどうにかするわよ」
「無計画にも程がある。大体さ、捕まえられるワケねーって。身長二メートル近い男だぞ。女のあんたが勝てるワケねーよ。それに、暗殺者なんて身バレを最も嫌うんだ。絶対殺されるぜ。正直調べちまったオレ自身が今何か痕跡残してねーかってソワソワしてんのによ!」
「大丈夫よ。あんた天才だもの」
「まあオレは大丈夫としても、あんたが死んだら元も子もねーだろ。会社の名誉がどうとかさ、意味ないぜ」
「何言ってるの。私絶対死なないわ」
シドは深いため息をついた。こうなったら・という女は止められない。人の話を聞かないのだ。助言などしてもまるで意味はないし当たって砕けるのが彼女のスタイルで、トライ・アンド・エラーを苦とも思わない。
だが、今回に限ってはそれを容認できない。今回の場合、エラーとはつまりの死を意味する。シドにはが必要だった。はみ出しものの彼の存在を肯定してくれる、尊敬できるボス。何より金払いがいい。そんな彼女に死んでもらっては困るのだ。
「……。どうしても行くって言うならこれ、持っていけよ」
はシドに小さなボタンのような物をふたつ手渡された。彼女は目を丸くしてそれを見つめた。
「GPSの発信機?何のために?」
「あんたがどこにいるか、オレがリアルタイムで把握するため。絶対に接触は避けて欲しいんだが、あの男を捕まえる気でいるあんたに接触するなって言ったって聞かないだろう。それに、あんたがもし改心して捕まえるのをやめたって相手が尾行に気付かないとも限らない。だから万が一の時の御守りと思えよ。何かあったら、オレがあんたの父さんとナポリ支社に連絡入れる。警察なんかよこすよりは安心だろ」
「なるほどね。ふたつあるのはどうして?」
「予備だよ。失くしたり、ぶっ壊れたりしたとき用。絶対に別々に分けて持ち歩くこと。あとこれ持っていって。男を尾行してる間はオレとの連絡切らないでくれ。分かったか?」
次に手渡されたのは、片耳イヤホンとマイクが一緒になったヘッドセットだった。身辺警護の実働部隊が使う最新鋭の小型のものだ。彼らが留守の間にでも備品置き場か待機室からくすねてきたのだろうか。
「ありがとう、シド」
「……あのさ。しつこいようだけど、考え直さねぇ?こんなの、あんたが直接行くべきじゃない。ちゃんとあんたのオヤジさんに話を通して会社のプロを――」
「あの人は私の話なんか聞きやしないわ。正攻法でいったところで、会社の人間一人すら貸してくれるもんですか。だから私が行くのよ。これは当然会社の意向じゃない。私の自己満足よ」
正直な話、犯人を捕まえて警察に突きだすとか、そういうことは二の次になりつつあった。世間一般でいう正義のためにどうこうしようというのではないのだ。自分が開発し、改良に改良をかさね、やっとのことで実用に至った防犯システムを破られたことが悔しかった。そして、どうやってそれを破ったのか。トリックが知りたい。今となってはその探究心の方が強かった。
「自己満足に命かけるバカがいるかよ……。まあ、いいや。いや、良かねーが、言ったってあんたどうせ聞く耳持たねーし。ただし、ナポリに着くまでの間にちゃんと考えろよな。どうやって男を捕まえるつもりでいるのか具体的な方法をオレに話せ」
「はいはい。分かったわよ」
こうしては旅の支度もほどほどに、南へ向かう急行列車へと飛び乗った。およそ6時間の旅の間に頭が冷えて、冷静な判断でやっぱりやめたわ、と彼女が帰ってくることをシドは期待した。だが、彼の期待は大いに外れることになった。
『あんたバカか!?』
は齢が十近くも下の男に叱責を受けていた。片耳のイヤホンから発されるシドの怒鳴り声が脳天を突き抜けていく。もはやどちらが上司か分からない。
『予備って言ったろうが!しかも自分からぶつかりに行って話までしたのか!?何考えてる!』
アジトの場所は分かっている。だが、暗殺者の巣窟に乗り込む勇気まではさすがのにもなかった。そうともなれば男が外でひとりになるタイミングを狙うしかない。暗殺者相手にずっと尾行を続けられる自信もない。
「だからあいつのポケットにぶつかりざまに入れてやったのよ。発信機を」
『よく生きてるな!?』
「案外フツーだったわよ。ちょっと拍子抜けしちゃった」
『ああもう、あんたって人は!』
今までモニターの中でふたつ一緒に重なって動いていたの位置を示すマーカーが、ふたつに別れて動き始めた。が目標とする男に例の小さな発信機を仕掛けたというのは本当のようだ。シドは本社の地下で頭を抱えていた。
一方のは胸の高鳴りで息苦しいのをどうにか抑えようと、便所のシンクに備え付けられた鏡に向かって胸に手を当てた。
胸が高鳴っているのは何故か。
もちろん、あの密室殺人の犯人と接触したからだ。人を殺すことを日常の中の一部と位置付ける、良心のかけらも無いような殺人鬼にぶつかりに行って、発信機を仕掛けて今から追跡しようとしているからだ。
その殺人鬼があんなイケメンとか聞いてない!!
どうやら胸の高鳴りの原因は、相手が殺人鬼で恐ろしいからという理由以外にありそうだ。は一度頬を掌でパシッと挟んで目を覚ました。今から尋問しようという男の容姿に惑わされてどうする!
『おい!聞いてんのか!?もうバカな真似はよして帰ってこ――』
「シド。男の現在位置、あんたにしか分かんないのよ。ポケットに入れただけだから発信機にいつ気づかれたっておかしくない」
『……教えないって言ったら?』
「クビにしてやる」
『卑怯だぜ!クソ!この金持ちの性悪女!』
「シド。教えてくれたら、報酬上乗せしてあげるから」
『アンタが帰ってこなきゃそれをオレは貰えないってこと分かってるよな?』
「だから、あんたの仕事は私が帰ってこれるようにサポートすること。分かったわね?」
イヤホンの向こう側でシドが唸り声を上げている。いつも飄々とした態度でいる彼が心底困っているのはどこか愉快だった。
はにやにやと笑いながらハンドバッグの中の催涙スプレーやスタンガン、そしてスカートの中に忍ばせた――太腿のホルスターにしまっておいた――拳銃に手を伸ばしその所在を再確認すると、個室に入って服を着替えブロンドのウイッグを頭から外してバッグの中へしまい、足早にトイレを後にした。会計を済ませ店を後にすると、シドに男の居場所をたずねた。
『あいつ、オンナ漁りでもやるつもりか?バーに入っていったみたいだ』
「好都合ね。捕まえた女に注意が向いてる内は、まさか自分が尾行されてるなんて考えには至らないでしょう。時間が惜しいわ。シド、その店ってどっち?」
『そこから東に三百メートルくらい行った先の左手。なあおい!まさか、店の中に入るなんて言わないよな?』
「うーん、そうね。入らないわ」
一度接触してしまっている。ウイッグを取り去ったとは言え、顔を覚えられているとまずい。男が女を連れて店から出てくるのを待つのが一番だ。
「シド。手はず通り、頼んだわよ」
『後でオヤジさんにどやされてもしらねーからな……』
「大丈夫よ。殺されはしないから」
『そうだよな。オヤジさんにどやされる前に死ぬかもって時に言うことじゃあなかったよな』
「シド。少しは希望を持ちなさい」
男を無力化した後、ナポリ支社の警備員がふたり車で駆けつける予定になっている。そして男を支社に運んで尋問だ。
は時間が惜しいと言った。彼女が惜しむ時間とはすなわち、鏡の中の男と離れている時間のことだ。それが何故か。
真実に近づいている。だが、それだけではない。あの男にまた会いたい?そんな風に感じている自分がいる。緊張しているのか、緊張感が無いのかわからない。
はそんな興奮に突き動かされていた。