「見つけた……!犯人はコイツだわ!」
・は探していたものをやっとのことで見つけた。必ず見つけ出すと心に決めてから、5日が経った頃のことだった。
その間、彼女はデスクから離れなかった。父に譲り受ける予定のマホガニーの高級品だ。幼い頃から見ているそれは、廃れることなく今も威厳を放っている。そのデスクに突っ伏して寝てしまい、だだっ広い天板の中央によだれをたらし、エスプレッソをぶちまけたことは父には内緒にしている。
話を戻そう。彼女の探しものは、デスクに据え置かれたデスクトップパソコンのモニターの中に映っていた。もう何百回と繰り返し見た、顧客の寝室に設置した監視カメラの映像だ。
普通寝室にまで監視カメラを付ける?赤ちゃんじゃあるまいし!恰幅のいい五十を超えたおっさんの寝姿なんて見たくない。監視させられる方の気持ちも少しは考えてほしいものね。
は最初そう思ったが、顧客の要望には顧客の安全が保たれる限り最大限に応えるのが我社創設以来のモットーだ。それに、今回ばかりは寝室にまで監視カメラを忍ばせておいて正解だったと言えるだろう。――もっとも今さら犯人をみつけたところで、顧客、もとい殺された被害者と自社の名誉の為にしかならないのだが。
モニターの中――ベッド際の壁に貼り付けられた姿見に男が映っていた。暗闇の中、下半分見切れた形で画面の隅に映し出された鏡の中だ。しかも犯人が鏡の前を横切って、被害者の眠るベッドの方へと向かうほんの一秒か一秒と経たない間に映っただけ。しかも驚くべきことに、鏡の前を
横切った、と表現したが、鏡を見る限りそう見えるというだけの話で、実際は鏡の前に男の姿は無かった。あればそもそも警察ももこんな苦労はしていない。解像度を上げ、画面の明るさやコントラストをいじって、穴が開くほどPCのモニターを睨みつけ何度も何度も繰り返し動画を流して、やっと見つけられるくらいの些細な変化だった。警察が見落すのも仕方がない。
は次なる目標を定めた。
この男は私が必ず捕らえてやる!この、鏡の中の男を!
01: BO$$
「やめておきなさい」
父親は、開口一番そう言い放った。
「今さらなんだ。もう済んだことだ」
警備会社の社長、ロマーノ・は高価なオフィス・チェアに腰を下ろし窓の外を眺めながら続けた。
大開口の窓の向こうに広がるのはミラノのオフィス街だ。オフィス街と言っても多数の歴史的建造物と共存するイタリア第二の都市であるこの街では、景観を保持するためか近代的な高層ビルの類はあまり見られない。そんな町並みの中で、この強固な鉄筋コンクリート造の5階建てのビルは一際異彩を放っていた。
警備会社が顧客に抱かれるべきは、堅牢な守りや、近代的かつ最新鋭といったイメージだ。何百年と前の石造りの建物だと格好がつかないのは想像に難くないだろう。
「父さん!どうしてそう消極的なわけ!?会社のセキュリティが破られて、顧客がひとり死んだのよ?そして警察でも見つけられなかった犯人を私が見つけたの!早く通報すべきだわ!」
「それでそんなに酷い顔をしているんだな、」
ロマーノは溜息を吐きながら呆れたと言わんばかりに首を横に振った。
「いいか?お前はもうじき、正式にこの会社の社長になるんだ。社長っていうのは駒をうまく動かすのが仕事だ。調査の類は部下にやらせるもんだろう」
は目を丸くして口を開いた。開いた口が塞がらなかった。
「父さん、私、そんなことするためにわざわざケンブリッジで情報システム工学を学んだわけじゃあないわ!やっぱり、社長なんて私には向いてないのよ!」
「。その事については話をつけただろう。大学院を主席で卒業してうちの会社でシステム開発に携わった優秀なお前なら、皆なんの文句も言わずについてくるさ」
まさか!大学で専攻したことならともかく、経営なんてからっきしで興味すらないのに、どうして社長なんかやれるもんか!やっぱりこの話は断りたい!
あまりにも父親がしつこいので、しぶしぶ、そしてなくなく社長になると言ったのがつい三週間前。安請け合いをしてそろそろ社長の座に就任しようと言うときに起こったのが、今が蒸し返そうとしている殺人事件だ。
事件発生は一週間前に遡る。警備会社による24時間の監視体制と、主要な扉に最新式の人体感知センサー警報システム、生体認証システムを搭載し万全を期していたはずの、とある大手広告代理店の社長が何者かに殺害された。
完全なる密室殺人だった。警察の捜査は難航しており、今の所検視解剖によって被害者の死亡推定時刻と死因と他殺であるということが分かっているだけだった。
家中どこの扉も開いていないし、警報も作動しなかったのだ。まるで幽霊にでも殺されたかのように、現場や周辺に犯人の痕跡もなかった。この国の警察にそれをやるだけの気概があったのか甚だ疑問でしかないが、犯人の髪の毛一本、小指の指紋のひとつ見つからなかったという。
もちろん当初は警備会社が槍玉に上げられた。警備システムの故障だとか、システムに穴があったとか、警備員の怠慢だとかと叩かれた。だが、事件発生から一週間が経った今マスメディアはことの他静かで、会社の責任を追求するものはいなくなった。どうもきなくさい。
「それはさておき、例の事件についてはもう忘れなさい。私がせっかくしつこく嗅ぎ回るジャーナリストや口ばっかりの警察やらを金で黙らせたのに、お前はそれを台無しにするつもりか?」
きなくさいとが思った瞬間、父親によって漠然とした疑問に対して答えが提示された。は幻滅して言葉を失った。揉み消しとか賄賂とか、そういう不正は気に食わないし性に合わない。やっぱり社長なんて私には向いてない。
「父さん。私、そういうの嫌いよ。……うちのシステムが破られるなんてあり得ないの。何かきっと裏があるはずよ。それを明らかにしないうちに、私はその席に座ったりなんて絶対にしないからね」
ついさっきまで、父が今肘をついているデスクの天板に突っ伏し唾液を垂れ流していたことは伏せておこう。
「はあ……頼むから、深入りしないでくれ」
はモニターに映った犯人と思しき男の姿を切り抜き拡大した写真を父親に提示した。写っているのは恐らく人間の横顔だ。ひどくぼやけていて、到底人物の特定などできそうにない写真だった。この程度のものならが犯人にたどり着くまで向こうニ十年はかかるだろう。ニ十年の内に技術革新が起こることに期待するしかない。
「これが犯人だって?はっ!人かどうかも怪しいじゃないか」
ロマーノが嘲笑うように言った。腹が立つのは、全くもって反論の余地がないということだ。鏡に映っているのに、その鏡の前に男はいない。人かどうか怪しいというのは自身も少しは思っていることだ。
は警察に押収される前にコピーして保持しておいた例の動画を思い返した。男が鏡の前を通り過ぎてすぐにザザッと画面が乱れた後、被害者は忽然とベッドから姿を消していて、数十秒後再び画面が乱れた後、消える前と同じベッドの上にうつ伏せになり、後頭部から血を流す被害者の姿が現れた。動画には切り貼りなど加工編集の痕跡は無かった。
これが一連の時の流れの中で起きたことだ。そう諭された者は真っ先に思うことだろう。これはきっと幽霊か何かの仕業だ。も最初はそう思った。
だが、解剖記録が示す死亡推定時刻はあのビデオが撮られた時と一致している。それに、警備チームの人間は2人体制で被害者の寝室を見張っていてふたりとも目は離さなかったと証言しており、事実被害者が消えた5秒後には警備主任に指示を仰ぐために電話を入れていた。これらのことからは確信していた。
幽霊に人は殺せない。だから、この鏡に映るのは幽霊でもなんでもない人間だ。人間に違いない。この鏡に映る男こそが犯人だ!
正直な所、システム開発者と実働部隊との間に信頼関係は無い。開発者はヒューマン・エラーを嫌いシステムの性能向上を図り、実働部隊は機械など信用ならんと体にムチを打ち現場に目を光らせる。
だが、は父が一代で築き上げた警備会社の社員たちを、どこの部署に配属された者かとかそういったことは関係なく皆一様に信頼していた。それは父を尊敬し、信頼していたからだった。だからこそこの事件に関しては全てを明らかにした上で汚名を挽回したかったのだ。
――だがたった今、その信頼も瓦解した。父が働いた不正によって。
よもや社長の座などに未練はない。真実を明らかにして社員たちを守り、父の不正を白日の下に晒してやる。
「父さん。私、いっときの間お暇もらうわ」
「ああ、。休むのはかまわない。だが、頼むから余計なことに首を突っ込まないでくれよ。父さんはもう面倒事はこりごりなんだ」
「会社に迷惑はかけないわ」
父さんに迷惑をかけないとは言ってないけれど。それを言うのはぐっとこらえ、は父の前から写真をひったくって社長室を後にした。
そしてが真っ先に向かったのは、会社が雇うフリーランスの調査員が仕事場として使っている地下にある一室だった。
「シド!シド、いる!?」
は社員証に組み込まれたICチップをかざし、ロックされた扉を開けるなり英語で男の名を呼んだ。開けた向こう側の闇にモニターの放つ青白い光が浮かび上がっている。恐らく彼はここにいる。居なければ、便所かシャワー室にいるだろう。が英国から連れてきた齢十九の天才ハッカー、シド・マトロックは会社の地下室に住んでいる。
左手に整理棚が5つ列を成していて、最も奥の棚の角を曲がり20メートルほど歩いた突き当りに、無数のデュアルモニターが無作為に壁に取り付けられている。その壁の前に、背中を丸くして座るシドの後ろ姿があった。彼の2メートルほど後方に仁王立ちになったは、返事をしない部下を叱りつける。
「ちょっと、いるなら返事しなさいっていつも言ってるでしょ」
「あんたの怒鳴り声って鈴を転がすような声だから何度も繰り返し聞きたくなっちゃ――」
「その皮肉もやめろって言ってる」
「あのさ、おばさん。オレ、ここにいなかった時あった?返事が返ってこないのわかってて毎度聞いてくんだもんな」
「今度私のことおばさんって言ったらあんたの報酬が目減りするわよ」
「すみませんでした」
いつものじゃれ合いを済ませてひと息つくと、は再び口を開いた。
「仕事よ。シド。今どうせ暇してるでしょ。そろそろお小遣いもほしい頃なんじゃない」
シドはやっとのいる方へと振り向いた。
「そうやってあんたがオレのこと子供扱いする内は、おばさん呼びは無くならないからな」
彼の顔はいつもどおり、ゴーグルと一体になった黒いフェイスマスクで覆われている。彼の素顔は、イギリスのとある刑務所にぶち込まれていた彼と面会室で話した時以来久しく見ていない。
確か何故隠す必要があるのか分からないような、なかなかに端正な顔立ちをしていたはずだ。それにぼそぼそと端切れの悪いイギリスなまりの英語で話すものだから聞き取りづらくてたまらないので、その物騒な――口と鼻を覆っている部分の黒いメッシュ生地には銀のスタッズが散りばめられている――マスクを取れと言っても、シドは頑なに拒否した。彼は食料調達すらデリバリーで済ませてほとんどこの建物から出ない生活を送っているのだが、は玄関先でピザの配達員が珍妙なマスク姿の彼を前にして怪訝そうな顔をしている場面を何度か目撃したことがあった。
「……で?その仕事って何だよ」
「この男を探してほしいの」
は先程父に見せた写真をシドの散らかったデスクの上に放った。すかさずシドはデスクに取り付けたアームライトの傘を掴んで明かりを写真に寄せ、丸まった背中をさらに丸くしてまじまじと提示された写真を観察した。
「うわー。いつにも増して無茶振りだな。これって、がここんとこずっと繰り返し見てた例の殺人事件の動画の切り抜き?」
「そう。私も手伝うから、お願い」
「いいよ。この動画のオリジナルはあるんだよな?」
「ええ。あるわ。――報酬は450万でどう」
「ケチケチすんなよ。もうすぐ社長だろ?じゃなくったって社長令嬢なんだからもう少し奮発してくれたっていいんじゃあねーの」
「3日以内に突き止めてくれたら倍払ってあげる」
「おお!俄然やる気出てきたぁあああ〜!!」
はシドの上手い扱い方をよく知っていた。子供扱いするなと言う彼の集中力、探究心はまさしく子供さながらで、そこに類稀な知能とハッキング能力が加われば最早彼にその所在を突き止められない人間など存在しない。
シドの駆使する技術は、完全に法に触れるものだ。なにせ、彼は恐らくこれから無断で警察の道監システムや他所の会社の警備システムのネットワークに入り込み、何の痕跡も残さず情報を引き抜くだろうからだ。はそれを必要悪と思っている。
己の正義のため。そして我が社の名誉のため、毒をもって毒を制すのだ。父への裏切りもまたしかり。父は私の信頼を裏切った。裏切りには裏切りを。
だが後に彼女は父が深入りするなと言った理由を、その身を持って思い知ることになる。
正義とは、悪とは何か。――愛とは何か。
そんな葛藤に苛まれつつも、スリリングで刺激的、かつロマンスに満ち溢れた濃厚な一週間が、この日幕を開けた。