朝九時五八分。がアジトに姿を現さない。リゾットは溜息を吐いた。前回に引き続き今日もまた顔を見せないつもりか。もしそうなら、アイツの分の報酬は全額ここの食費やら諸雑費やらに充ててやる。
リビングルームには以外のメンバー全員が顔を揃えていた。ぽつりぽつりとチームメイト同士が会話を交わすだけの比較的静かな雰囲気の中、リゾットは額に手を当て忌々し気な様子で床を見つめていた。元から彼女には十分前行動とかいう行動規範は無かったが、指定した時刻まで残り一分を切るという時にまで姿を現さないということは無かった。定刻を過ぎても姿を現さなかった前回を除けば。
リゾットがは今日も来ないのだろうと諦めて口を開こうとした瞬間だった。部屋の扉が控えめな音を立てて開かれた。皆の視線がそちらに集中する。扉を押し退け部屋に入ってきたはそのことをさして気に留める様子も無く皆の集まる場所へと向かって歩み、リゾットのテーブルやソファーを挟んで真向かいの壁に身を預け、腕を組んで目を閉じた。さあ早く話を始めろ、とでも言いたげな彼女の態度にリゾットは閉口した。
……まあ、時間には間に合っているし文句は言うまい。
リゾットは再び溜息をひとつ吐くと話を始めた。
は敢えて定刻ギリギリにリビングに足を踏み入れた。実のところ彼女はアジトの前に九時五五分までには着いていて、玄関の扉脇で四分間三つのルールを呟いていたのだった。彼女は不安に思っていた。久しぶりにホルマジオを前にして、ルールを守れるかどうかが分からなかった。実際、明らかに弱みにつけこんできたと思われるイルーゾォを拒めなかった弱い自分が自分に言い聞かせたところで、ホルマジオに少しでも体に触れられてしまえば簡単に元の自分に戻ってしまいそうだという自覚があった。だから彼女はそうした。全ては昨晩夜遅くに自分の家を訪れてきたホルマジオを避けるためだ。
おかげでリゾットの視線は痛みを感じるほどに冷たく刺さったが、上司からの無言のお咎めを気にしている場合では無かった。とにかく話が終わったらすぐにこの場から離れて、ホルマジオが話しかけてくるなんて事態に陥らない様にしなければ。皆には変に思われるだろうが、話が終わった途端ダッシュしてやる。はリゾットの話もまともに聞かずにそんなことばかり考えていた。
そして、文句があるヤツは?というリゾットの声がしてリビングにしばし沈黙の時が流れる―――まれにこの間にソルベが分け前について文句を言った――。声が上がらず、これでミーティングは終了だ。とリゾットが言い放った瞬間、は脇目もふらず足早に部屋の出口へと向かった。
そんな彼女をホルマジオは追った。他の連中に何を思われたって構わないと、弾かれたようにソファーから立ち上がり駆けだした。が開けた玄関の扉が音を立てて閉まる前にそれに手をかけて押しのけ、外に出た彼女の、後方に勢いよく振り出された腕を掴んだ。
「おい。何そんなに急いでんだ」
「……放して」
「いいや放さねえ。お前が何で最近オレを避けてるのか、納得のいく理由を説明するまではな」
スラムの一角で人通りなど無いとは言え白昼堂々の痴話喧嘩はいかがなものか、とホルマジオは思ったが、彼は構わず、何とか振り切ろうと力がこめられたの腕をうっかり放してしまわないようにしっかり掴んだまま、少々乱暴に体を引き寄せて彼女の肩を家の壁に押し付けた。
久しぶりに見るの顔はひどくやつれて見えた。少し痩せたようにすら見える。はホルマジオと目を合わせた後、すぐに顔を伏せた。
「何があったんだよ」
そう問いかけてもは視線を地面に投げて黙りこくっている。ホルマジオは辛抱強く彼女に話しかけた。
「少しは気が引けたりしねーのか?今まですげー仲良くしてた相手に突然シカトかましはじめやがって」
「……そのことは悪いと思ってる」
「ならちゃんと理由まで聞かせろ。オレが理解できるように説明しろよ」
あんたは私を傷つけた。は口を滑らせそうになるのを必死に堪えた。早く何か言えと言いたげに、肩を抑えつけるホルマジオの両手には更に力がこもってくる。
心の底では、ホルマジオに自分を傷つけるつもりが全く無かったことは分かっている。彼は悪くない。むしろ悪いのは、彼に恋をしてしまった自分の方だ。ホルマジオは女たらし。彼にとって私は、せいぜい気晴らしの相手でしかなかった。いつもひとりで寂しそうにしている引きこもりのカタブツ女に同情して、抱いてくれていたに過ぎないんだ。それに気づかず浮かれていた自分の落ち度だ。
は警戒を解いて人生にホルマジオという男を招き入れてしまった自分を激しく呪った。彼と顔を合わせない間に自分で自尊心をめちゃくちゃにしては酒に溺れた。そして自棄を起こしてイルーゾォを――性懲りもなく――受け入れた。今のそんな情けない自分の有り様を、ホルマジオにだけは絶対に知られたくない。
彼女は必死に言い逃れられそうなもっともらしい言い訳を考えた。が、ホルマジオに他に女がいると知ってしまったという本当の理由以外、彼を断固として拒絶して当然と自他ともに納得のいくようなエピソードがすぐには思い浮かばなかった。
「あんたといると、ダメになるの」
「……なんだそれ。意味がちっともわからねェ。説明になってねーよ」
「私は自分を見失いたくない。あんたに依存したくないの。だってあんたって、私のこと愛してるわけじゃないんでしょ?」
気付いた時には、答えを聞くのが怖くて問いかけたくなかったことを、つい口にしてしまっていた。だが致し方ない。全てはこれ以上の追求から逃れるため。そして、ふたりの関係を明らかにして、自分が踏ん切りをつけるため。は意を決してその質問をホルマジオに投げかけた。イエスかノーか、明瞭な答えが返ってくることを期待して。だが彼の答えはひどく曖昧で、前進しようとする足をいたずらに絡め取るようなものだった。
「……お前が笑ってる顔をみたいって、お前といると癒されるって……。こういうオレの気持ちがそうなんじゃねーのか?」
「質問を質問で返して誤魔化さないで」
「……ったく。今日初めてお前のこと面倒くせーって思っちまった」
「今ので私が、あんたにとって面倒くさくない、良いようにできる丁度いい女でしかなかったってことが良く分かった。ねえ、もういいでしょ。放してよ」
「なあ。お前、なんかオレに隠してねーか?」
「仮に隠してたら何なわけ?別に付き合ってるワケでもなんでもないのに、彼氏面しないで」
「そこなんだよ。おかしいよな……」
ホルマジオは突然、の肩から手を離して腕を組み、何かつっかかる、と考えるような素振りを見せた。
「ひと月前まで付き合うとか付き合わないとか、愛してるとか愛してないとか……そんな、まるで恋人みてーな話少しもしなかったのによ。突然どうしたんだよ」
まるで恋人みたいな話……か。
はズキズキと胸が痛むのを感じた。自分は彼のことを恋人だと思い込んでいた。けど、やっぱりそうだった。ホルマジオは私のことを恋人だなんて少しも思っていなかったんだ。
が落胆している間、ホルマジオは何か既に見当をつけているような、余裕綽々といった顔でを見ていた。は居心地の悪さに居ても立っても居られず、ホルマジオから解放されたのをこれ幸いと逃げだそうとして壁から背を離した。が、途端に彼の手が壁を突いて行先を閉ざす。おまけに体を寄せられた所為で、彼の顔が目と鼻の先にまで迫っていた。
「おいおい。まだ話の途中だぜ。何逃げようとしてんだ」
の胸は早鐘を打っていた。嫌な汗が噴き出してくる。はホルマジオから顔を背けるが、顎を掴まれ正面を向かされる。乱暴と言う程では無いが、がこんな扱いを彼に受けるのは初めてのことだった。
「何かあったとしか思えねェ」
「どうだっていいでしょうそんなこと」
「よかねーよ。なあ。この件については腹ァ割ってしっかり話つけようぜ。少なくとも、お前がオレに感じの悪い態度を取らなくなるまで引き下がらねーぞ?」
「あんただって十分面倒くさい」
「お互い様で丁度いいじゃねーか。今夜お前んち行くから、酒でも飲みながらゆっくり話そうぜ」
「来ないで。家に上げるつもりない」
「最悪リトル・フィートでちっこくなっちまえば、お前のあのボロアパートの気密性に乏しい玄関なんて余裕で潜れちまうだろーけどな?」
「……っ!」
「ああ、誤解のねーように言っておくと、今までその手段で勝手に家に入ったことなんかねーぞ?今のお前が聞き分けわりぃから、最終手段に出ちまうぞって脅しかけてるだけだ」
相手が特殊能力も何も使えない、ピッキングもできない一般人なら気兼ねなく突っぱねて最後だったのに。家じゃなく、レストランで夕食を共にしている間に話をしようと持ち掛けてみるか?いや、そうこうしている間に言いくるめられて最終的にはこいつとふたりでベッドの中に潜り込むことになるだろう。ここでバッサリと切る以外ない。お前なんか嫌いだ、顔も見たくないと言えばそれで済むはず。でも、どうしてそれが言えない?
答えは簡単だ。未だに、この男のことを愛しているからだ。自分に嘘が吐けないだけなんだ。
……これで最後にすればいい。
どうやって最後にするのか。という問題の解決策をは用意できていない。そもそも、家だろうがレストランだろうが、彼と話をするということに変わりはない。むしろレストランよりもベッドまでの距離が近い家で話をするという自分の選択が完全に間違いだと気付けないでいる。
要するに、ホルマジオと話をしてしまった時点では彼に、そして彼女自身に敗北していた。
04:Don't don't don't don't……
ここひと月インスタント食品で適当に食事を済ませていたからか、それとも深酒による睡眠不足が祟ってか、最近のの体調はすこぶる悪かった。今朝は普段滅多に出てこない顔の吹出物に悩まされ、それを忌まわしく思った。若干のポジティブシンキングができるようになった彼女は、久しぶりに自炊して体のためにも野菜たっぷりの料理を作ろうと思い至り、生鮮食品を扱うスーパーマーケットへ赴いた。夜に来ると言ったホルマジオ相手に手料理を振舞うつもりは全くないので、買った物の量はもちろんひとり分。紙袋を抱えた時、ひと月前よりも一度に買う量が減ったことに気付き少しばかり寂しさを覚える。店を出たところでセンチになるのはよせと頭を振り、彼女は家路を急いだ。
は帰るなりカポナータをこしらえると、茹でたフジッリにそれを乗せて昼食を済ませた。時刻は昼二時十分前。夜までまだだいぶ時間がある。そこで、今まで雑にしかしていなかった掃除でもするか、とダイニングテーブルを離れた彼女は掃除を始めた。掃除を終えた彼女は、ここの所さぼっていた日課のトレーニングのために外に出た。久しぶりに見た、夕焼けに染まるナポリの街は美しかった。そして夜七時頃家に着き、シャワーを浴びて夕食を済ませ、リビングのソファーに身を預けた。久しぶりに充実した一日だった。と、赤ワインを注いだグラスを傾けながら本を読み始める。
しかし、普段は全く気にも留めない時計の秒針が動く音が気になってしょうがない。結果、読書には身が入らなかった。
全部、これからこの家を訪れるであろう、あの男のせいだ。
はそう結論付けると本を本棚へ戻し、グラスに残ったワインを飲み干してベッドへと向かった。そしてうつぶせになって枕に顎を乗せる。ぎゅっと枕を抱きしめて目を瞑ると、思い浮かべるのは昼間のホルマジオとの会話だった。
……結局ルール破っちゃったな。
既に後悔の念を抱いているは、どうすれば良かったのかと考えるだけ無駄なことで頭をいっぱいにしていた。そしてとりとめのない考えで頭が飽和すると、次第に眠気が彼女を襲いはじめる。目をこすり睡魔に抗おうとしたものの、彼女はまどろんでしまった。しかし突然物音がして、彼女はすぐに身を起こし覚醒した。驚くべきことに物音は玄関の向こう側から聞こえてくるわけではない。カツカツとリビングの床を叩く音がすぐそこから聞こえてくるのだ。
合鍵なんてホルマジオに渡した記憶が無いし、そもそも玄関のドアが開く音すら聞こえなかった。今の今まで確かに眠ろうとしていたが、さすがに玄関のドアが開いて閉じられる音には気づくはず……。まさか、ホルマジオが例の方法で勝手に家に入ってきたのか?
はとっさにシーツを手繰り寄せ、ベッドのヘッドボードへと身を寄せる。音が自分に近づくにつれて、黙ってこちらに向かって来るのが誰かということよりも、一体何が起こっているのかという恐怖心と緊張の方が勝っていった。彼女は自身のスタンドを出す準備を始め、寝室の入り口をじっと見つめる。――やがて、足音の主がゆっくりとの前に姿を現した。
「い……っイルーゾォ!?なんで」
が驚いて大声を出した瞬間、イルーゾォはベッドの上の彼女へと覆いかぶさった。そして手のひらで彼女の口を押さえ、困惑を極めた様子でいる彼女に囁いた。
「なあ。お前結局、アイツのこと諦められなかったんだな?」
それ以前に、どうやって不法侵入したのか説明しろ。と、は自身の口を封じるイルーゾォの手を離そうと躍起になった。両手でイルーゾォの手首を掴み押しのけようとするが、身長百九十センチメートルにも迫ろうかという男の力の前では成す術もなく、彼女は動かせる部位をやみくもにばたつかせることしかできなかった。
「じっとしてろ。そしてオレの話を聞け。いいか。静かにしろって言ってるのにはちゃんとワケがあるんだぜ。何たって、もうじきホルマジオの野郎がここに来るからなァ。オレと一緒にいるってバレたくなきゃあ、昨日みたいに黙ってろ」
――いやだ。最も避けたかったことだ。イルーゾォと寝たとか、今どうしてか家に一緒にいるなんてことは、ホルマジオにだけは知られたくなかったことなんだ。
はイルーゾォの言うことを聞く他なかった。スタンド能力を使おうとも思ったが、ベッドのすぐ横の壁には大きな姿見を貼り付けている。すぐに鏡の中に引きずり込まれ、無力化されるのが落ちだ。そこまで考えて、彼女はイルーゾォがどうやって玄関を開けずに家の中へ侵入できたのかという疑問に大方の解を見出した。
彼のスタンド能力が作るのは鏡の中の“死の世界”だ。そこでは現実の空間はそのまま――左右反転はしているが――現実で起きる変化はリアルタイムで再現される。家の外の、スタンド能力の及ぶ範囲のどこかで鏡の中の世界に入り込み、私が家に帰って扉を開けたタイミングで一緒に家の中に入ってしまえば、あとは家の中にある鏡のうちのどれかひとつから現実世界へと戻るだけだ。
だが、問題はすでにそこにはなかった。
「なあ。オレはお前にもう二度と傷ついてほしくないんだ。間違ってもあいつとよりなんか戻しちゃあいけねー。だからオレが手伝ってやるよ」
はかぶりを振ろうとするが、尚も口を覆うイルーゾォの手にそれを阻まれる。
「大丈夫だ。オレは鏡の中に隠れておく。だがくれぐれも変な気は起こすなよ。オレの言う通りにするんだ。分かったな?」
そう聞いては泣く泣く頷いた。やっとイルーゾォの手から解放された彼女は、呼吸を整えてイルーゾォを押し退けベッドから降りた。彼に背を向け、とにかく今はこの男から離れていようと足を踏み出すと同時に、玄関の鍵を開けてこいと言われる。何故そんなことをしなければならないんだと意見すると、言う通りにしろと言ったはずだと突き放された。は溜息をついて玄関の鍵を開けに行った。するとイルーゾォは彼女の背後について離れようとしない。
情けない。……言いなりじゃない。それにしたって、こいつは一体何を考えてるの?
が玄関の鍵を開け部屋の奥へ戻りながら、イルーゾォの思惑は何かと考え始めた時、玄関の向こうから足音が聞こえてきた。昨日も聞いた音だ。はごくりと唾を飲み込んだ。
「おっと。客が来たみたいだな?」
イルーゾォはを背後から抱きしめた。
「何してるの……早く鏡の中にひっこみなさいよ」
が小声で意見した瞬間、背後から回されたイルーゾォの手が彼女の顎を掴む。
「いつ能力を使うかはオレが決めることだ。大人しくオレの言うことを聞いていろ。それができないってんなら、今すぐにでもその扉から出て行って、ホルマジオに帰れって言ってやっていいんだぜ」
言いながら、イルーゾォはを背後から抱きしめたまま後ろ向きに歩き始めた。玄関前に戻っていることを不思議に思った彼女だったが、今はされるがままたどたどしく彼につられて歩を進めるしかない。そしてふたりはバスルームへと足を踏み入れる。背後には大きな鏡。未だ体の自由は許されないが、はイルーゾォに鏡の中の世界に入る意思はあるのだと安堵した。それも束の間、玄関のドアがノックされる。すぐに彼女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。ホルマジオだ。だがイルーゾォは尚も身を隠そうとはしない。
「鍵は開いているから入れと言うんだ」
耳元で囁かれ、は眉を顰める。はやく引っ込めと怒鳴りたくても、この期に及んでしまってはそれも叶わない。は必死に首を横に振るが、イルーゾォは早く言えと言わんばかりに顎を掴む手に力を入れる。観念したは声を上げた。
「入って。……鍵は開いてる」
ガチャリ、とすぐ傍で玄関のドアが開いた。
「ったく不用心なやつだな。鍵くらいちゃんと閉めとけ……」
呆れたようなホルマジオの声がすぐそこで聞こえた。だが、バスルームの出入り口を横切る彼の姿はいつになっても現れない。そこでは気づいた。――私はいつの間にか鏡の中に引きずり込まれている。
「……イルーゾォ。いい加減にして」
の声は震えていた。
「あんたが何を考えてるかわかんない」
イルーゾォは何も答えず、彼女の腕を掴んでバスルームから引きずり出す。そしてリビングを突っ切って寝室へと戻り、彼女を姿見の前に立たせる。彼女の顔から血の気が引いていく。
「あいつに分からせてやるんだよ。お前がオレのモノだってことを」
「いやっ!やめて。ちゃんと……私、アンタのモノになる。ホルマジオにも、ちゃんともう会えないって言う。……だから放して」
「いいや。お前には無理だ。無理だったから今ホルマジオがここにいる。オレは何か間違ったことを言ってるか?」
確かにその通りだ。きっとイルーゾォがいなければ、結局明日の朝ホルマジオが寝ている隣で目を覚ますことになっただろう。はホルマジオが家に来ることを了承した時点で、そうなることを少しは予見していた。イルーゾォの言うことは間違いでは無い。
が反駁の余地が無いと押し黙っていると、彼はくつくつと喉の奥から笑い声を上げ始めた。
「やっぱりオレが前に言った通り、お前は一度痛い目に遭った方がいいと思うんだ。可哀想だがなァ」
には、可哀想と哀れむような言葉を吐くイルーゾォの顔が鏡越しに見えた。言葉に反して嗜虐的な笑みで歪むそれを前に、は言葉を失った。
「ちゃーんとアイツに言ってやるんだ。お前が誰のモノかってことをしっかりと聞かせてやれ。これからお前をここから出してやる――」
ホルマジオは過去を振り返り、の家に訪れた時、鍵が事前に開けられていたことなどあっただろうかと考えた。だが彼の記憶の中でそんなことは一度も無かった。何か妙だと思い、視線を前に向ける。だが、の姿が無い。確かにすぐそばから入れと聞こえてきたのに、彼女の姿がすぐ傍に見当たらない。
ホルマジオは後ろ手に鍵をかけると、玄関から中に入ってすぐ右手にあるバスルームを覗き見た。そこにの姿は無い。勝手に部屋の奥へ進み、リビングを通り抜けてキッチンを覗き込みの姿が見えないことを確認する。そのまま首を振って寝室を覗き込んでみてもやはり彼女はいない。
鍵を開けっぱなしで家を出るような女じゃあねーし、そもそもさっき聞いたの声は幻聴でも何でもねぇ。クローゼットの中にでも隠れてやがるのか?……まさかな。どっかに隠れに行くような足音すら聞こえなかった。
ならば今、何が起こっているのか?ホルマジオは顎に手を当て首を傾げながらリビングへと戻り、ソファーに腰を降ろした。テーブルの上には使われた後のワイングラスがひとつ乗っている。
別に男を招き入れてたワケでもなさそうだな……“正式には”。
がついさっきまで確実に家にいたとすれば彼女が忽然と姿を消した方法を考えなければならないが、ホルマジオは既に見当を付けていた。
オレがアジトを出るちょいと前にイルーゾォの奴が出て行った。と、すれば、は今アイツの世界の中だろうな……。チッ、つくづくイラつく野郎だぜ。わざわざオレを招き入れて何をするつもりだ?ったく、何を考えていやがるんだあの根暗野郎は。
ホルマジオは項で手を組んで天井を仰ぎ見た。そのまましばらくぼうっとしていると、寝室の方から何やら音が聞こえてくる。女がすすり泣くような、それを必死に堪えようと口を噤んでいるような、くぐもった……声だ。
ホルマジオは眉間に皺を寄せ、おもむろに立ちあがった。その声の主は間違いなくだろう。そしてイルーゾォは何かを企んでいる。彼の思惑が何かホルマジオに正確なことは分からなかったが、少なくとも現時点で考え得ることは、寝室でこれから見ることになる光景は、決して良い物ではないということだった。
だが白黒はっきり付けに来たホルマジオの頭に撤退の二文字は無い。彼は覚悟を決めて寝室へと向かった。
その光景を見た瞬間ホルマジオの頭に浮かんだのは、金持ちや狩猟を趣味にする人間の家の壁にかかる鹿のはく製――ハンティングトロフィーだった。牡鹿の首が壁から生えているように見えるアレだ。
今のはまさしくそれだった。高さ160センチメートル、横幅八十センチメートル程度の大きな姿見の中央より少し下のあたりからが飛び出している。鳩尾周りで鏡面に固定され、それより上がひょっこりと出て来ているのだ。
イルーゾォの能力を知らない、スタンド能力も何も知らない人間が見ればホラー映画のワンシーン以外の何物でもないそれを前に、ホルマジオはいたって冷静だった。
両腕の自由は利いている彼女は頭を下げ、手のひらを鏡面に当てて必死にそこから抜け出ようともがいている。無駄に体力を削るだけの無駄な足掻きと恐らく分かってはいるだろうが、彼女は声を押し殺しながら必死に鏡の中の世界から出ようとしていた。ホルマジオは尚も自分の姿に気付かないにゆっくりと近づき、と、恐らく――いや、確実に――鏡の向こう側にいるであろうイルーゾォに向き合うように立った。ホルマジオの靴先が視界に入ったのか、は身体をピクリと震わせたきり動くのをやめた。彼女は顔を上げないまま黙っている。ホルマジオはしゃがみ込んでの顎を指先で持ち上げた。
「何されてんだ」
紅潮した顔、八の字に垂れ下がった眉、涙を浮かべた瞳、きつく引き結ばれた口。ひどく憐れに見えるの表情を、ホルマジオは黙って眺めた。
「何も……されてないよ」
声が震えている。今にもむせび泣きしそうに見える彼女は、滑稽ともとれてしまうような返しをした。ホルマジオは鼻で笑って反駁する。
「お前この状況で何もされてないって言われて納得できると思ってんのかよ」
「……ごめん、ホルマジオ。帰って…………。っあ、やだ、やめて……やめてイルーゾォ!お願い、イヤ、っあ、ああっ、言うっ……ちゃんと、ちゃんと言うから、やめてお願い……ホルマジオの前で、っ……こんなこと、しないでっ……!」
先程ホルマジオが憐れんだの表情は、どうやら悲しみが故に現れたものでは無いらしい。鏡の向こう側でがイルーゾォに何をされているのかなど、息を荒げよがる彼女の姿を見れば一目瞭然だった。理解した瞬間、ホルマジオの頭の中で“何か”が瓦解し始めた。
「もう、私っ……イルーゾォの女になっちゃったのっ!だから、もう、アンタに会っちゃダメなの……!帰って……お願い……」
は泣きながら必死に訴えた。とにかく早く、ホルマジオに帰って欲しかった。だが彼が踵を返す様子は無い。目の前にあるホルマジオの顔を直視できず力を込めて閉じていた瞼を持ち上げると、彼女が求めていた、優し気なホルマジオの表情はそこには無かった。
「バーカ。こんなエロい顔したお前を置いて帰れるかよ」
――ホルマジオの理性はこの時、完全に瓦解しきっていた。