New Rules

「何かあったの?ホルマジオ」

 女はうつ伏せのまま、ベッドから出て身支度を始めた男の背に語りかけた。ホルマジオは一瞬手を止めて何か考えるような素振りを見せ、別に。と一言声を上げると、穿きかけていたズボンを腰まで引き上げる。

「そうかしら。いっとき顔を見せないと思ったら、最近また頻繁に私の相手してくれるようになったじゃない?冬眠してたクマが発情期を迎えて人里に降りてきたみたいだわ」
「おいおい失礼だぜ。人を盛りのついた動物みてーに言うもんじゃねーよ」
「……ガールフレンドでもできたの?」
「……まさか」
「冬の間その娘と一緒にいたけど振られちゃったとか?それで最近また遊び始めたんでしょ」
「だから、そんなんじゃあねーって言ってんだろ」

 再度少し考えてから、椅子に掛けていた革ジャンを掴んだ。女とベッドに入る前、雑多に脱ぎ捨てておいた靴を履いて、胸ポケットに突っ込んでいたタバコを一本取り出し口に咥える。そんなホルマジオの様子を見て女は彼を窘めた。

「タバコ、吸うなら通りに出てからにして。旦那がその臭い嫌いなの」

 ホルマジオは唇を突き出して不服の意を露わにすると、咥えたタバコを利き手に移した。そして何かあったのかと聞かれてから――いや、実のところは聞かれる前からずっと――思い浮かべていた女のことについて、話してみようと思った。ひとりの男と恋に落ち、結婚をして子供をもうけ、育て上げ巣立たせた後、自分と肉体関係を持っているこの女になら、世の女性の心理ってもんが粗方分かるんじゃないか。そう思ってのことだった。

「……なあ。オンナが突然シカトかますようになるのって、何でだ?」
「ほらね。やっぱり何かあったんじゃない。振られちゃったんだ」
「振られるも何も、付き合ってたワケじゃねーし」
「あなたに付き合ってる気が無くたって、男とセックスし始めたら女は誰だって付き合ってるって思い込むものよ」
「……そんなもんか?じゃああんたは何なんだよ」
「私はレアケース。みんながみんな私みたいだと思ってたらそのうち刺されるわよ?その娘……あなたに他に女がいるって知って怒ってるんじゃないの?なーんにも知らない私が想像できる限りで言ってることだけど」
「いや、だってよー。オレ、あいつに言ったためしなんかねーんだぜ。他に女がいるとか。だって気分悪いだろ。そんなこと言っちまったらよォ」
「その気持ちが分かるのに他の女と遊びまわってるあなたの神経がわかんないわ。遊んでもらってる私が言うのも何だけど。とにかく、あなたが言ってないなら、その娘が他の女とあなたが遊んでるところを偶然見ちゃったとか、それか他の誰かに聞いたか。そのどちらかじゃないかしら」

 女はベッドから出て床に放っておいたバスローブを取り上げ身に纏い、キッチンへと向かった。キッチンカウンターに据え置いたコーヒーメーカーの生温いコーヒーをマグカップへ注ぐ。悩まし気な表情を浮かべ虚空を見つめる、十歳以上年下にもなるホルマジオの横顔を眺めながら、女はコーヒーを啜った。

「……あなたはその娘とどうなりたいの?」

 ホルマジオは虚空を眺めたままうーんと唸る。

 別に貞節を誓い合う恋人など持ちたいと思ったこともない。家庭を築いてパートナーと寄り添いながら夜を過ごしたいなどという夢物語も描いたためしがない。そんなホルマジオにとって、は良き理解者だった。少なくとも、彼はそう思い込んでいた。他の女と違ってしつこく私生活に首を突っ込んでくることがないのが良かった。それに同業者というだけあって仕事の話ができる。話を黙って聞いてたまに笑ってみせる、ホルマジオはそんなのことが好きだった。

 事のはずみで肉体関係を持ってしまったが、まあ、それは自然の流れと言うかなんというか。チーム内であんなの落とせる気がしないと専らの噂になっているという女が、自分の前でだけ見せる表情が好きだったし、ことの他体の相性も良かった。だからといって、彼女とどうなりたいとか最終的なゴールみたいなものを、ホルマジオは思い浮かべられない。彼は束縛を嫌うし、もそうだと思い込んでいた。ただ、という自分にとっての癒しが、ずっと傍にあればいいと思っていただけなのだ。

 そんな存在を何と言うんだろう。友達?セフレみてーで嫌だな。まあでも、オレにそんな気が無くったって世間一般的に傍から見ればセフレになっちまうのか。まったく、物事にレッテルを貼って白黒付けたがる世の中ってのは窮屈だ。面倒くせえ。

「あいつとは……いい友達でいたい」
「きっとその娘はそう思ってないわね。女ってのは、自分を特別扱いしてくれる男が好きなの。自分以外に女がいれば自分は特別じゃなくなる。他の女と男をシェアするなんてもってのほか。手に入らないなら顔も見たくない。そう思ってるはずよ。私も若い頃にそんな経験したから分かるわ」
「……じゃあオレはもうアイツとは一緒にいられねーのか」
「一緒にいたいなら他を切るしかないわね。私はあなたっていうオモチャを手放すことになって辛いけど」

 ホルマジオは深い溜息を吐いて再びタバコを咥えると、女に向かって別れの意味を込めて手を振り家を出て行った。バタンと玄関の扉が閉まる音を聞いて、女は自嘲的な笑いを浮かべる。

 若い頃にって言ったけど、ウソよ。最近やっと割り切れたけど、あなたと初めて会った時は旦那と別れて一緒に暮らしたいとまで思った。でも、あなたはそういう男じゃないのよね。

 もしホルマジオがこれを最後に二度と訪ねて来なくなったら?そう思うと胸が痛んだ。そしてホルマジオが思い浮かべていたであろう、名前も顔も知らない女を羨んだ。しかし不思議と、もっと若ければ、とか、もっと早くに出会っていれば、などという後悔は彼女には無かった。もしそうであってもきっと、ホルマジオという男に自分だけを愛させることなどできはしないのだから。



 ホルマジオは夜道をふらふらと歩きながらタバコをふかしていた。

 何故に知られたのか。それが気になった。彼女はあまり外に出たがらないので、他の女と遊び歩く自分の姿を見たという可能性は低い。その上、自分の話をされることを嫌うので、相手にも自分の話をするように強要もしなければ探りを入れようとすらしない。たぶん彼女は、基本的に他人に興味が無い。そんな彼女が自分の素性を知る機会に恵まれるとすれば、第三者の言伝以外にありえない。

 そもそも、他の女とも肉体関係を持っているなんてことは隠し通そうと思っていたわけでもなんでもない。に聞かれなかったから自分から率先して伝えるようなことでもないと思って言わなかっただけのことだ。しかし、それを知って彼女が自分を避けるようになったというなら問題だ。言いつけたヤツがいたとすれば、そいつはデリカシーって概念を母親の胎内にでも忘れてきた不届き者だ。

 よくよく考えてみれば、に避けられるようになってから一ヵ月もの時が経とうとしている今も尚、暇な頭で思い浮かべるのはのことだった。それは他の女を抱いている時も、ひとりで飯を食ってる時も、ひとりで寝る前も、酒を飲んで人肌が恋しく思うときも、いつでもだ。完全に“失くした時にこそ失ったものの大切さが身にしみる”という現象に陥っている。 

 大切?そう。大切だ。大切に違いない。自分が彼女を悲しませたのなら、それはあってはいけないことだ。だが、知らなくてもいいことをわざわざ知らしめて、彼女を傷つけたヤツがいるとしたら、それこそ許されない。

 少し整理してみよう。と関わりがあって、オレのプライベートを多少なりとも知っていて、あろうことかにそれを漏らした人間がいたと仮定するならば、それは誰だろうか?彼女はパッショーネの暗殺者チーム以外のコミュニティに属していない。その中でも積極的――とは言っても、かなり消極的寄りな積極性だが――に会話を交わすのは自分か、リゾットか、よく一緒に仕事をしているイルーゾォだけだ。……ああ分かった。他人様の色恋沙汰に首を突っ込んでくる男がどっちかなんて、考えるまでもない。イルーゾォだ。さてはアイツ、に惚れてやがったんだな?オレがと寝てるって知って気を悪くして、仲を引き裂いてやろうなんて陰湿なこと考えていやがるんだ。全く、余計な真似しやがって。

 ホルマジオは舌打ちをしてまだ半分以上残っているタバコを歩道に打ち捨て、足で踏みにじって火を消した。そして足早にの家へと向かう。

 彼女が金輪際自分と深く関わりたくないというのであれば、それは仕方のないことだ。しつこく食い下がって、一緒にいて欲しいと懇願するつもりなど毛頭ない。ただ、拒絶されるならばそれなりに理由を明らかにしておきたかった。これまで考えてきたことが全くの見当違いということだってあり得るかもしれない。そうしてわだかまりを解消した後は、アジトで顔を合わせた時くらい普通に良き友人として接して欲しい。

 着信拒否され、アジトで無視をされて打ちのめされていたホルマジオは、これまで彼女の家に行こうとは思わなかった。彼女と繋がりを持てる最後の場所を完全に閉ざされてしまうのが恐ろしかったからだ。だが、もう彼女を思ってフラストレーションを貯め込んで、らしくもなく日々思い悩むなんてことは終わりにしたい。その一心で、の家までの道のりを急いだ。

 彼女の住むアパートの前に到着する。足繁く通った彼女の部屋へ、階段を段飛ばしで登り、向かう。そして彼女の部屋の扉の前に立つ。腕時計を見ると、時刻は夜9時。確か今日は何も仕事が入っていないはずだ。扉の向こうに、おそらくはいる。そして扉をノックする。

 ――返事はない。扉の向こうからは物音ひとつしない。

 少し待って、また扉をノックした。やはり返事は無かった。ドアスコープから覗いて、玄関の向こうにいるのが自分だと分かって黙っている、という訳でもないだろう。とホルマジオは思った。本当に物音ひとつしないのだ。

 彼女と一緒にいる時彼は、これまでひとりの時は何をして過ごしていたのかと聞いたことがあった。確か、たまにひとりで外に飲みに行くと言っていた。今夜がそれなのか?もしそうだとすれば、たまに、という頻度のそれに、たまたま今夜当たったのか?それとも、もう寝ている?いや、早すぎる。他に男でもできてそいつの家に転がり込んでる?はたまたもうこの家を引き払って別のアパートにでも移ったか?実は部屋の中にいて、奥の方で息を殺してオレが帰るのを待っている?……それが一番精神的に応える。

 再びモヤモヤとした思いが湧きおこる。家に行って悩みの種と話ができれば、そんなモヤモヤも解消できるはずと思い込んでいた。尚も静かな扉を前にして顔をしかめると、彼はアジトへ戻ろうと踵を返した。

 そして、こんなことを何度も続けて結果会えないともなれば、まるで自分がストーカーにでも成り下がってしまうようで気持ちが悪い。そこで、次に彼女に確実に会える日はいつかと考える。確かは昨日イルーゾォと仕事を済ませている。ならばその後の分け前の話をする時か、報酬を受け取りに来る時。それがチャンスだ。その時までこのむかむかとした良くない感情が解消されないのは癪だが、相手がいる話だ。いつでも自分の思い通りに事を運べるわけではない。

 ホルマジオは深呼吸をした。のアパートからアジトまでは五百メートルと離れていない。アジトにはイルーゾォがいるかもしれない。それとなく話を振ってみようか。そんなことを考えながら歩いた。そしてアジトにたどり着く。玄関を開け、リビングに向かう。皆が集まって夕食を取るか、酒を飲んでいるかしている時間だ。だがそこにはイルーゾォの姿が無い。いるのはリゾット、メローネ、ギアッチョの三人だけだった。あの野郎。とホルマジオは眉間に皺を寄せた。

 がアジトにいないのはいつものことだ。イルーゾォがリビングにいないのだって、別に珍しいことではない。ただ、遊び相手の話を聞いて問題の原因がイルーゾォなのではないかと思い至った後、いつも家にいるはずのに会えず、アジトにイルーゾォがいない。そんな現状が、ホルマジオに更なるフラストレーションを与えた。リビングで静かに寛いでいた三人が、いつもヘラヘラと陽気なホルマジオが珍しく目に見えてイラついている様子を目にして驚いていた。ギアッチョに至っては沸点が著しく低いが故に、ホルマジオに触発されてイライラし始めている。

「どうしたホルマジオ。今日はやけに機嫌が悪いな?」

 そんな何気ないメローネの声掛けにすらイラついて、ホルマジオは悪態をつきかけた。イラつきをほとんど表に出して、彼はメローネに問いかける。

「イルーゾォの奴はどうした」
「昨日仕事の後報告を済ませて出て行ってからは……見てないな。何か用事でもあるのか?」

 メローネのそんな回答を得て、ホルマジオの立てたなんの根拠も無い予想や予感が確信へと傾いた。ひょっとすると、彼女はさっき家にいたのかもしれない。そしてイルーゾォの奴に……。

「別に。ちょいと聞きたいことがあっただけだ」

 メローネに詮索されない内にと適当に返答すると、冷蔵庫から瓶ビールを取り出しつつホルマジオは自問した。仮にがイルーゾォに寝取られていたとして、何か問題でもあるか?

 とは付き合っているわけではない。彼女がどこの誰と寝ようがそれは彼女の自由だ。そもそも寝取るという言葉を使うのも似つかわしくないような間柄だった。それじゃあ何で、オレは今こんなにもむかっ腹を立てているんだ?それは、をイルーゾォに“奪われた”と思っているからなんじゃないのか。自分の大切な物を、大切な所有物を奪われたと。そう思っているんじゃないのか。自分は好き勝手に複数の女と関係を持っていて束縛を嫌うタチなのに、のそれは許せない?手前勝手にも程がある。――だがやっぱり許せない。そして、奪われたならば奪い返せばいい。

「なあリゾット。次報酬入るのはいつだ?」
「明日だ。配分も明日決める」

 案外早い内にに会えそうだ。翌日、彼のそんな見立ては的中することになった。



03:3. Don't be his friend



 

 これはいわばはずみでしかない。ドアの向こうにいるのがホルマジオであればホルマジオを受け入れていただろうし、それ以外ならそれ以外を受け入れていた。それ以外、というのがたまたまイルーゾォだっただけだ。もし誰も訪ねてこなかったら?酒に酔いつぶれて意識を失うか、最悪急性アルコール中毒にでもなって死んでいたんじゃないか。それだけのことだ。はずみ。事故。落石注意の看板。どう注意しろと?そんな感じだ。

 はイルーゾォがベッドから出て身支度を終えアジトへ戻った後、夜遅く――とは言っても、これまでよく眠れなかった彼女にとってはだいぶ早い時間だったが――に眠気が襲ってくるまで、もう二度とあの男とは寝ない。と、何度も何度も心の中で復唱していた。それはホルマジオを未だに愛しているのに、他の男と寝てしまったことを後悔してのことだった。また、ホルマジオを突き放した自分が、彼を突き放す要因となったのと全く同じ行為に及んでしまったことを嫌悪してのことでもあった。彼女の倫理観が、イルーゾォと行為に及んだことを許さなかった。

 そうして迎えた翌日、二日酔いで軽い頭痛に苛まれながらもはイルーゾォと仕事を済ませる。すると彼は鏡の中の世界で、出入り口にしていた鏡の前に立ち早く出せと催促する彼女を何も言わずに後ろから抱きしめた。はそれを拒めなかった。耳元で今夜もお前の家に行くと言われて彼女が何も答えずにいると、いいよな?と念押しのように問いかけられる。そして彼女はこくりと頷いた。彼女の心のど真ん中でぽっかりと口を開けた穴がそれを埋めようと、彼女の倫理観をまるでブラックホールの様に吸い込んで無きものとした。そんな感覚だった。



 そしてがイルーゾォに慰められ始めて三日目の夜。玄関のドアがノックされる。瞬間、イルーゾォはの口を手で覆い、動きを止めた。彼女とは下半身で繋がったままだった。は目に見えて動揺している。玄関の向こうにいるのが誰かなど、ふたりには容易に想像できた。ホルマジオだ。しばらく間をおいて再びノックされたが何の反応も無いと痺れを切らしたのか、扉の前から発された、靴底がアパートの廊下を叩く音は次第に遠のいて行き、やがて消えた。

 チッ……邪魔が入ったな。

 イルーゾォがの口から手を離す。するとは瞳に涙を滲ませはじめた。

「おい……。何だァ?その顔は」

 イルーゾォはの腰を掴み律動を再開させた。乱暴に何度も奥を突いて、良からぬ思いを抱かせまいと攻め立てる。だが、そうすればするほど、はぼろぼろと涙を零し、果てには嗚咽までしはじめた。

「あの男に懲りてねーんだな。……まあ、それもそうか。お前は実際にアイツが他の女と一緒にいるところを見た訳じゃあねえもんな。ならよォ……」

 耳元に口を寄せ、まるで幼子をなだめすかすように、ゆっくりと落ち着いた声音で、イルーゾォはに提案する。

「あいつに、付き合おうって言ってみろ。他の女とは手を切れって、言ってみるといい」

 は途端に不安になった。なぜこのタイミングで不安を覚えるのか、その違和感に気付きつつも、イルーゾォの口から吐かれる次の言葉を待つ。

「言っちゃなんだが、ホルマジオとの付き合いが長いのはオレの方だ。気持ち悪がらないで欲しいんだが、きっとお前よりもオレの方がアイツのことを知っている。……断言してやる。アイツはお前と付き合ったりなんかしねえ。あいつは束縛を嫌うんだ。オンナにがみがみ言われながら、他の女とセックスできねーなんて不自由は絶対に選ばねえ。それを分かっていても、敢えてお前が傷つきに行くってんならオレは止めはしねーよ。実際に痛い目にあってみるといいんだ」

 このイルーゾォという男はひどく自信過剰で、自分から私が離れるはずが無いと思っているのか?それは全くの見当違いで、私のことなんてオモチャ位にしか思っておらず、この男にとっては替えなんていくらでもすぐに見つけられるような大量生産品でしかないのかもしれない。――ここでイルーゾォにまで突き放されたら?私はこの先やっていく自信が無い。

 がそんな不安に苛まれていると、イルーゾォは怒りに任せ吐き捨てた言葉から一転して、を慈しむように優しく頭を撫でた。イルーゾォの上半身が近づいて、連れたってゆっくりと最奥まで彼を埋められ、は身悶える。そして薄闇に浮かび上がったイルーゾォの紅い瞳に視線を奪われた。息をすることも忘れ、美しいとすら思ってしまうそれに見入っていたためか、いつの間にか嗚咽も止んでいた。

「だがなあ、。これだけは覚えておけ。お前はあんな男に……遊ばれていい女じゃあないんだ。少なくともオレにとってお前は……そういう女なんだ」

 沈痛な面持ちでイルーゾォはに一度口づける。そして少し何か躊躇うような素振りを見せた後、続けた。

「ずっと言えないでいたが……お前をオレの世界に入れるたびに……オレはお前を抱きしめたいって思ってた。オレはきっと、そんな感情を抑えられなくなっちまったら無理にでもお前を抱いただろうな。鏡の中ならお前を無力化するなんて簡単なことだ。でも、そんなんじゃあお前の心は離れるばっかりで……拒絶されるのが落ちだって、いつの間にかお前をオレの物にするのは諦めていた」

 イルーゾォの唐突な告白には面食らった。 

「後は分かるだろう。結局オレは……お前をこうせずにはいられなかった」

 情けなく歪んだ顔を見せまいとするように、イルーゾォはの耳元に顔を埋め耳朶を甘噛みした後、首に舌を這わせた。ゆっくりと下に降りていく淡い快感。一度肩に吸い付かれ、唾液を纏わせた舌が再び下へと降りていく。舌は鎖骨に乗り上げ通過して、やがて乳房に、そしてその先端へと到達する。固く突き出たそれを口に含まれ、舌先で転がされ、は下腹部に埋められたイルーゾォの熱い塊を意図せず締めつけた。

「言わなきゃよかったとも思ったが、我慢ならなかったんだ。お前がホルマジオなんかにいいようにされてるのを……オレは見てられなかった」

 ペニスをゆっくり引き抜かれ、それをまた奥へ向かって埋められる。乱暴だったり、壊れ物を扱うように丁寧で優しかったり、情緒不安定な動き。怒りだったり、悲しみだったりが入り乱れた、彼の心の奥底から溢れ出てきたような言葉。そんなイルーゾォの歪んだ愛情表現は、確実にの心を捕えていた。は胸元付近にとどまっていたイルーゾォの顔を頬に両手を添えて引き戻すと、自らイルーゾォに口づけた。唇に舌を割り入れて、彼の舌を手繰り寄せるように口内をまさぐった。

 感情に整理がついたわけでは無い。は初めて明かされたイルーゾォの思いに打ちのめされただけだ。これまで自分への感情を押さえつけていたという、目の前の男に告げられた話が、全くの出鱈目でも良かった。今この時だけはイルーゾォのことだけを思って、そして彼の思いを受け入れたいと思った。そう簡単に他人を受け入れるような性格ではない彼女だったが、今のイルーゾォはまるで人間嫌いの不器用な自分を見ているようでたまらなかったのだ。

 長い口づけの後、はイルーゾォの瞳を見つめた。イルーゾォはその瞳に明確な答えを求めた。しかし、彼女はそれ以降言葉を発さなかった。彼には分かってしまった。彼女がホルマジオへの思いを捨てきれずにいることを。そんな真意を悟られまいとするように、はイルーゾォの首に腕を回し抱きついて、繰り返し与えられる下腹部を突き抜けるような快感に身を委ねた。



 翌朝。目を覚ました時、隣にイルーゾォはいなかった。は彼の温もりがまだ少しだけ残っているシーツを撫で、眉を顰めた。ずきりと胸が痛むような気がした。そして彼に初めて抱かれたあの夜に、自分が本当に求めているものが何かじきに分かると言われたことを思いだした。

 あんたのせいで、ますますわかんなくなったわよ……。

 ホルマジオの優しい抱擁を恋しく思いながら、イルーゾォにぶつけられた感情を受け入れたいと思っている。自分はこれからどちらか選択しなければいけない。自分はどちらの愛を求めている?どっちももらえるなんてなんておいしい話は絶対にないから、よく考えるんだ。後悔しないように……。

 は枕元のクッションを抱え、ひとまず落ち着いて、現状を整理しようと息を吸い込んだ。

 ホルマジオを愛している。しかし彼の愛を独占することはできないらしい。イルーゾォにけしかけられたように、自分の思いを打ち明けてみるか?しかし、拒絶されるのは怖い。拒絶されるということは、やはりホルマジオには他に女がいると言うことであって、それを彼の口から聞くのも怖い。ならばこのどうしようもない独占欲を押さえつけて、また夕食をたまに一緒にするだけの、良き友人に戻ってみるか?――そんなの絶対に無理だ。少し気を緩めて家に入れたりでもしてみろ。押し倒されたが最後、抵抗なんてできる訳がない。

 だから、やっぱりダメだ。

 ホルマジオからの電話なんて取っちゃいけない。
 ホルマジオを家にも入れちゃいけない。
 ホルマジオと友達になんてなっちゃいけない。

 彼は私のことを愛してなんかないんだから……。

 は何度も自分に言い聞かせた。そして呟いた。独り言をぶつぶつと。新しい三つの決め事を自分に言い聞かせた。ホルマジオを冷たく突き放したのは間違いでは無い。それをこれからも続けていくべきだ。だから、頭に叩き込むんだ。忘れないように、二度と、過ちを犯さないように。

 うわ言の様に何度もぶつぶつと目をつむって、自分に課したルールを唱えていると、電話の呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。はどきりとして、三コールほど呼び出し音を聞き入れてから、ベッドから慌てて抜け出した。文字盤に並ぶ数字は、発信元がアジトの固定電話であることを示している。はゆっくりと受話器を持ち上げ耳に当てた。が返事をしないでいると、もしもしと、低く落ちついた声音が聞こえてきた。――リゾットだった。

『……寝ていたのか』
「い、いえ。起きていたわ」
『そうか。今日はすっぽかすんじゃあないぞ』
「分かってる。……これから向かうわ」
『十時までに来い』

 ブツリ。と音を立て、通話は終了する。は受話器を置いて、壁掛け時計を見やる。朝八時だ。まだ時間に余裕はある。シャワーを浴びて、身なりを整えて、毅然とした態度でアジトに行くんだ。何も気取られないように。何も無かったかのように。ホルマジオはジャガイモとでも思うの。

 ジャガイモ、ジャガイモ、ジャガイモ、ホルマジオはその辺に落ちてるジャガイモ……。

 あ、そう言えば私、お腹空いてる……。

 久しぶりの感覚だった。ヤケ酒で浴びるほどウイスキーを胃に流し込んで、気絶するように寝た後は食欲がわくどころか、便器に顔を突っ込んで吐くばかりだった。昨晩はイルーゾォと夕食を取った後、食後に一杯ワインを飲んだだけだったから、腹が空いているのだ。

 そんな自身の体調の変化を受け、もしかすると立ち直れるかもしれないと淡い期待を抱いたは、足取り軽くバスルームへと向かった。
 




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