New Rules

「顔隠すなよ」

 行為の最中、ことさら面と向かって愛し合っている時、は歯を食いしばり腕を顔の前で交差させ、毎回と言っていい程に隠し通そうとした。快楽によがり理性を失った、みっともないと思っている自分自身の顔を。

「いや、っ……、見ないで。恥ずかしい」

 そんな言葉だけの抵抗などなんの意味も成さず、両の手首を掴まれ交差した腕も解かれて、そのままそれをベッドへと押し付けられる。赤くなった顔も、下から込み上げてくる快感に打ち震え、涙をうっすらと浮かべ潤んだ瞳も、男に暴かれてしまう。

「普段のお前からじゃあ想像もできねー顔だ。オレだけが知ってる、お前のその……色っぽい顔。もっとよく見せろ」

 ホルマジオはそう言って、の頬にキスを落とす。

 “オレだけが知ってる”という、彼の口から行為の度に紡がれたその言葉に、独占欲が滲み出ている。と、は思った。そして彼女はそのことを内心喜んでいた。

 彼女自身、驚いていた。彼女はこれまで散々、自分の生活圏内だけにとどまらず、周りを行き交う人々が自身を中心とした半径一m以内に踏み入ることすら嫌悪して生きてきた。他人とみだりに触れ合うなど以ての外。気が向いた時に、酒を飲んでガードを少し緩め、行きずりの、互いを全く知りもしない男とたまに寝て、それっきり会わない。そんな不健全極まりないことを、二、三ヵ月に一回かそれより少ない頻度でやる。なんて生活をしていた自分が、よもや同じ職場の人間と関係するなどとは、一時前の自分からは想像もできない事態に陥っている。同じ男と何度もセックスすることになるのも、これが人生で初めてだ。

 そんな自分が、誰かの所有物になって喜ぶような神経など持ち合わせて居ようはずもないと、これまでボーイフレンドを作ろうとさえ思わなかった。だというのに、ホルマジオに対しては一方的にボーイフレンドに対するものと同じような感情を抱いていた。

 私は彼だけのもの……。



 今も、そう思いたい気持ちはあった。だが彼は、自分だけのものではなかった。そう聞かされたのだ。

 眠れない……。

 明日はまた仕事だ。きちんと睡眠を取らなければいけない。だと言うのに、いくら瞼を閉じて寝ようとしても、記憶が蘇っては入眠を阻害する。それもそのはずだ。今彼女が寝よう寝ようと必死になっているこのベッドで、ホルマジオと愛し合っていたのだから。

 はホルマジオと一方的に距離を取り始めた時から、十分に眠れたためしがなかった。目を閉じれば条件反射的に思い浮かべてしまう、彼との甘い時間。

 はホルマジオを完全に愛してしまっていた。

 確かに、彼とは正式に交際していた訳では無い。なのでそもそもの話、自分が理不尽な怒りをホルマジオにぶつけているだけなのだ。別に付き合おうと言ってもいないし言われてもいない。同じデザインの指輪を右手の薬指にお互いはめているわけでも、相手のイニシャルを互いに身体のどこかに彫っている訳でもない。

 自分が、自分さえ我慢できれば、また彼に愛してもらえる。

 きっと、愛し合うカップルの形態など、自分が正とする理想像の他に色々と存在するのだろう。例えば、妻がありながら、体の相性がいいからと愛人と関係を持ちつづけたり、あろうことかその愛人との関係を妻が容認し、妻も妻で夫とは別の男と寝たり……。

 だが、私には無理だ。愛する人が、他の女と交わっていて、それを容認するなんて到底できそうにない。

 自分に向けられているあの優しい眼差しが、他の女に向けられている?優しい口づけを贈ってくるあの唇だって、他の女に貪られていて、私の身体を愛撫していた手が、同じように他の女の身体を撫でまわしていた……?

 気が変になりそうだった。そのことを思い浮かべただけで、嫌悪感と独占欲が、彼女の心の中で渦巻いた。どうして自分がこんなどす黒い感情を抱くのか、理由はよく分からなかった。ただ、ホルマジオだけにしか許したことの無いこの心と体は、自分のすべてだ。自分のすべてを許した男が、同じように自身のすべてを私に許さないのは不公平だ。他の女に分け与える愛など、彼の中にあっていいはずがない。はそう思った。

 これは、世の女性たちが抱くごく普通の感情だ。なのでは責められるべきではないが、ホルマジオもまた責められる理由などない。ひとつ、が失敗した点があってそれを責めるとすれば、ホルマジオという男をよく知ろうとしなかったことだろう。深入りする前にホルマジオがそういう男だと知っていれば、はここまで心を病むことはなかったかもしれない。

「どうしてよりによって、あんたなのよ。なんで……なんで、本気で好きになった男が……」

 愛し合っていると思っていたが、今となってはそのことにも自信が持てなかった。彼は一度だって、私に愛していると言ってくれたことがあっただろうか?そんなことすら、今の彼女には思い出せなかった。

 ブランケットを手繰り寄せ、涙を流しながら、は泣いた。これももう、幾度となく繰り返してきたことだ。泣いて眠気が当分襲ってきそうにないことを察すると、はおもむろにベッドから離れた。そしてキッチンの流しの下にストックしているウイスキーを取り出して、それをロックグラスに注ぐ。ストレートで一度それを飲み干すと、グラスとボトルを持ってダイニングテーブルについて、眠気が襲ってくるまで、生で何杯もウイスキーを呷った。

 彼女が何の理由も告げず、唐突にホルマジオを突き放して一カ月が経とうとしていた、そんな春の夜。男が、彼女の家の玄関前に立っていた。



02:2. Don't let him in



 

 イルーゾォが作り出す鏡の中の世界で、思い通りにならないことはない。――という女を除いては。

 彼女のスタンドには、大した戦闘能力がない。専らターゲットの現在位置、ターゲットの周辺状況、仲間の数の把握等を得意とし、その索敵能力を買われて暗殺者チームに配属された。戦闘を不得意とする彼女は、イルーゾォの能力が創造する鏡の中の世界を安全地帯として借りることで、敵の現状を、命の危険に脅かされることなく探ることができた。

 そういった理由で、イルーゾォとはよくタッグを組まされていた訳だが、基本的に他者のスタンド能力が自分の創造する世界に入ることを許可しないイルーゾォは、に対してだけは特別な措置を取らざるを得なかった。つまり、彼女を鏡の中の世界に招き入れる際、スタンド能力を除外することができないのだ。戦闘能力が無いと言っても、精神エネルギーが具現化したスタンドの姿はあり、人間以上の速さと力で殴る蹴る等の基本的な格闘能力は備えている。イルーゾォのスタンドと互角か、それ以上の能力を有するのスタンドとのバトルで絶対的勝算は得られない。もちろん、彼女とバトルする予定など無いし、例え何かの拍子でバトルに発展したとしても、彼女のスタンドだけを外の世界に追いやることなどいつだって可能だ。だが、彼の支配する世界において、そんなイレギュラーが存在すること自体、居心地のいいものではなかった。自分の気付かない内にスタンドを背後に回されて、息をする暇も与えない内にボコ殴りでもされたら、ひとたまりもない。彼女をスタンドごと招き入れている時点で、そんなことがある可能性はゼロではないのだ。



「あの新入りの女、どうなんだよ」
「どうなんだよって言われてもな。質問がアバウトすぎてどう答えればいいかがわからん」

 ホルマジオは興味津々といった表情をイルーゾォに向けた。眉間に皺を寄せ、イルーゾォはひどくぶっきらぼうなという女を思い浮かべたが、特段ホルマジオを面白がらせてやれるような話は思い浮かばなかった。

 がチームに配属され、何度めかの仕事を無事に成し遂げた日の夜のことだ。アジトに居候し、リビングにたむろする男連中は新入りの女の話に花を咲かせていた。

 彼女は配属初日、簡単な自己紹介を済ませると、居心地が悪そうにしかめっ面を見せた後、素っ気ない態度でアジトをすぐに後にした。アジトで他の仲間と親睦を深めようと言う意思は微塵も無いらしかった。そんな彼女の素性を何一つ掴めていないチームの面々は、あることないこと妄想しつつ、彼女に関する話題を度々酒の肴にしていた。

 イルーゾォはそんな同僚を前に、サンブーカを注いだロックグラスを呷った。呷った後、お前らが今話題にしている女はついさっき、仕事をオレと終えて早々に家に帰っていった。と、事実を報告すると、今日もそうなのか、と落胆の溜息がどこからともなく聞こえてくる。

「いい加減アジトで酒ぐらい飲んでいけってんだ。感じ悪りぃな」

 プロシュートがそんな文句を垂れていた。

「あいつがアジトに初めて来た日によォ、メローネ。お前がいつもの気色の悪い質問をするからいけなかったんだぜ。きっとお前のこと避けてこのアジトも避けてんだよ」

 ホルマジオがメローネを指さし、彼の過去の行いを咎めた。

「なあイルーゾォ。オレは母体にできないオンナに興味は無いから安心しろって、彼女に弁明しといてくれないか。ちょっと興味本位というか、いつものノリで聞いちまっただけなんだ。仲良くしたいとは思ってる」
「ああ思い出したぜ。よくよく考えてみりゃあ、好きな体位は何だって初対面の男に聞かれたら引くわな。お前の所為だったんだ。この、男ばっかで気が狂いそうになる殺伐としたアジトにが寄り付かねーのは」

 プロシュートは憎々し気な表情を浮かべメローネを見やると、ビール瓶を一口呷った。

 アジトに身を寄せる誰もが、少なからずと言う新入りを気にしていた。秘密の多い仕事柄、女とろくに関係が長続きしない彼らの元に、その秘密を共有し得る女が現れたのだ。少しは愛想良くして欲しいと皆が思っていた。

 イルーゾォは当初、チームの他の誰よりも彼女と時間を長く共有していた。もちろんそれは、仕事上でのみの話だが、誰もが気にしていると言う女との関係において、アドバンテージを取っているのは自分だと少々の優越感を抱いていた。はイルーゾォとの仕事の間、相変わらずにこりともしなかったが、少なくとも仕事に関することで幾分会話は交わしている。

「今度晩飯にでも誘ってみるかな」

 ホルマジオが唐突にそう言った。抜け駆けするつもりかとブーイングが起こったが、スキをほとんど見せないを相手取ってデートに誘う勇気を持つ男が、ホルマジオ以外にいなかった。イルーゾォはそんな彼を鼻で嗤った。

「あのカタブツを落とせるとしたら相当の手練れだ。ホルマジオ。流石のおめーでも無理だぜ」
「言ってろよ」



 そんな話をしていたのはいつだったか。イルーゾォは、ふたりの関係に気付いた時に思った。ホルマジオに、有言実行されてしまった。イルーゾォはそれが気にくわなかった。何故、よりによってあの男なんだと憤りを覚えた。その憤りは、を自分の創造した世界に招き入れる度に増していった。

 自分の世界ですら思い通りにできない女を、ホルマジオは思い通りにしている。アドバンテージは自分にあったはずだ。いつ機会を逃した?いつ、あんな女ったらしに先駆けを許した?

 そんな自問に答えなど見いだせず、イルーゾォは悶々としていた。そこで、とうとう耐えきれずに口走ってしまった。きっとにとっては知らない方が幸せだった事実を、彼女に伝えてしまったのだ。イルーゾォが伝えて“しまった”と思ったのは、真実を知った彼女が酷く狼狽えたからだ。は狼狽えて、涙を瞳に滲ませ、しばらくイルーゾォを睨みつけていた。きっと、イルーゾォに怒りをぶつけるのは見当違いだと冷静に判断したのだろう。彼女はしばらく黙りこくった後、何も言わずに帰路へと着いた。いつもならば「報告はよろしく」とか何とか素っ気ないことを言って別れるのだが、そんな事務的なことすら口にせず、足早にイルーゾォの元から離れて行った。

 イルーゾォは少なからず後悔した。ホルマジオが複数の女性と関係を持っていることなど、自明の事と思い込んでいた。話を進めるにつれて、そうではないことと、彼女が酷く傷ついていることに気付いたのだ。よせばいいのに、彼女のプライドを傷つけるような煽り文句を投げつけてしまった。まるで積み重なった自分のフラストレーションを発散するように。

 イルーゾォはに惹かれていた。そして、彼女の笑った顔を見てみたいと思っていた。しかし、自分の口から繰り出されるのは憎まれ口ばかり。彼女の笑顔を引き出すことなど到底できないものばかりだった。その点、女ったらしのホルマジオは、自分より一枚も二枚も上手だったのだろう。

 そしては最近、ひどくふさぎこんでいた。彼女は元来溌溂としているわけではなかったが、そんな彼女が目に見えて茫然自失としていた。仕事にも身が入っていない様子で、ぼうっとすることが多かった。それどころか、おそらくやけ酒の後、完全に酔いが醒めていない状態で仕事に臨む日すらあった。リゾットに報告した方がいいんじゃないかと思うほど、ここのところ芳しくない状態が続いていた。

 イルーゾォは、それが自分の告発によってもたらされた変化だと自覚していた。だが、悪いのは自分ではない。という女がありながらに、他の女とも寝ている節操のないホルマジオが悪いのだ。知らなくていいことを知らしめた?違う。完全にのめり込んでしまう前に、目を覚まして欲しかっただけだ。

 そんな思いは、彼女を思うイルーゾォのエゴイズムでしかない。そもそも彼は、ホルマジオには他の女がいると知らされた彼女が、既にホルマジオにのめり込んでいるということを知っていた。そして弱った彼女の心のスキに、あわよくば入り込もうとすらしていたのだ。

 時刻は夜十時。他人の家を訪ねるにはいささか遅い時間だったが、イルーゾォは彼女の家の玄関前に立っていた。そして数回に渡ってノックを繰り返す。しばらくして、扉の向こうで物音がした。酔ったが立ちあがる際、椅子にでも足を引っ掛けたような音だった。そして不用心なことに、彼女はチェーンをかけることも、ドアスコープから外を覗くことすらせずに扉を開けた。開いた向こうで垣間見えたのは、どこかで薄い期待を持っているような、儚げなの表情だった。顔は赤く目はとろんとしていて、いつもの狂犬の様な目つきが消え失せていた。ウイスキーの樽香までもがどこからともなく漂ってくる。相当酔っているようだ。

「……何の用。こんな時間に。ひとんち尋ねるのにはだいぶ非常識な時間じゃない?あんたに常識って無い訳?デリカシーも無いし、常識もない。ほんっと信じらんない……」

 酒が入っている所為か普段よりだいぶ饒舌だ。イルーゾォは片方の眉山を吊り上げて、やれやれといった風に口を開いた。

「殺しを生業にしてる女に常識云々言われる筋合いなんざねーよ」
「……で?一体何の用なの」
「最近のお前は目に余るんで、説教してこいとリゾットに言われて来た」

 それは、彼女がホルマジオの他に信頼を寄せているとすればリゾットだけだったので、彼の名前を出せば彼女がガードを緩めると期待して言った嘘だった。

「……あんた、チクったのね」
「お前の所為で仕事しくじったらオレまで迷惑するんだ。当たり前だろう」

 はイルーゾォから目を逸らし押し黙った。それはもっともだと言わんばかりにしゅんと項垂れている。しおらしく見えるそんなの態度に、イルーゾォは酷く興奮した。それは、今までスキなど少しも見せなかったが、初めてイルーゾォに弱みを見せた瞬間だった。

「で、どこで説教するつもりなの」
「……お前、今外に行けるような恰好してねーよな」

 まともに下着も着けていないように見えるの格好は、サテン生地のキャミソールワンピースに軽くガウンを羽織っただけといったものだ。よくもまあそんな格好で玄関先の男の前に姿を現したものだとイルーゾォは思った。大量のアルコールが血中に入り込んで、その処理に追われている彼女の身体は、脳に血液を送ることがおざなりになっている。きっとまともな判断ができなくなっているのはその所為だ。決して治安がいいとは言えない地域だというのに、迂闊にも程がある。普通の悪漢程度ならスタンドを出せば何とかなるという自信の現れなのかもしれないが、果たして今の彼女にスタンドを出すことができるだろうか……。

 は気に染まない様子で玄関口を大きく開き、深夜の不躾な来訪者を家の中へと招き入れた。イルーゾォは躊躇いなく彼女の家に足を踏み入れ、向かいのダイニングテーブルへと向かった。テーブルの上に、ウイスキーのボトルとグラスが置いてある。

「つまみも無しにウイスキーを生で飲んでたのか?肝臓悪くするぞ」
「……悪くしたって別に誰に迷惑かけるわけでもないじゃない」

 完全に自棄を起こしている。は玄関の鍵を閉めると、イルーゾォを押しのけて、ふらふらと元いた場所に戻った。イルーゾォがグラスはどこかと尋ねると、は目を向けることすらせず、背後にあるキッチンの戸棚を指さした。イルーゾォがグラスを取って席に戻ると、彼女の前から立つ前まであったはずの、グラスの底から三センチメートルほどの高さまで注がれたウイスキーが姿を消していた。もう何杯目かなど彼女は覚えてすらいないだろうが、じっとしているつもりの彼女がふらふらと頭を揺らしているところから察するに、相当飲んでいる。一・八リットルのボトルがいつ開けられたのかは分からないが、そのボトルも、後五、六杯グラスに軽く注げば底を突きそうだった。

 イルーゾォはウイスキーの入った軽いボトルを手に取って、持ってきたグラスに注ぐ。それを一口飲むとイルーゾォは閉口した。ただの安酒だ。美味い酒に舌鼓を打つというよりも、酔うためだけに消費されていたことが良くわかる味だった。

「まずい」
「じゃあ飲まなきゃいいでしょ。あんたたちみたいにアジトに居候してるわけじゃないから、酒に金もかけらんないのよ。客に振舞えるようなものがウチにあると思わないで」
「へえ……じゃあ、ホルマジオのヤツには何を振舞ってたんだ?」

 ホルマジオ、と聞いた瞬間、は身体を強張らせた。若干の喉の渇きを覚え、ごくりと唾を飲み込むと、目の前でほくそ笑む男を睨みつける。

「怖い顔するんじゃねーよ。ちょいと気になっただけだ。答える気がねーなら黙ってていい。ここにオレが来たのはお前の恋バナを聞くためじゃあねーんだからな」
「……さっさと要件話して帰ってくれない。既にイラついて頭痛くなってきてんのよ……」
「お前、明日もオレと仕事があるってのに、安酒呷って……やる気あんのかって話だ。リゾットに首切られるぞ」
「……それは困る」
「だったら断酒しろ。大して飲めもしねーのに四十度もある酒生で飲みやがって」
「できたらやってるわよ……」
「何だ?依存症か?」
「知らない。それで医者にかかったことなんてないし、ぶっ倒れるほど飲んだことも無い。……二週間前まではね」

 最後に雑に吐き捨てられた情報に、イルーゾォは眉を顰めた。二週間前、と言えば、最後にふたりが仕事をこなした日だった。その後のことか?一人暮らしでホルマジオも寄り付かなくなったこの家で、意識を飛ばすほどに酒を飲んでいた?

「ぶっ倒れたのか。アホか。死んじまったらどうすんだ」
「……生きてるし、死んでたって別にあんたに関係ないでしょう」
「死んでたら明日の仕事すっぽかしてたろう」
「死んでまで仕事させようっての?……ほっといて」

 まさかここまで精神を病んでいたとは。普段気丈に振舞う彼女の本来の姿がこれか。

 イルーゾォはいたたまれなくなり席を立つ。そのままキッチンへと足を向け、勝手に冷蔵庫の中を漁った。冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出して元の場所に戻ると、また新たにウイスキーが注がれたのグラスを奪い取り、それを飲み干した。は呆然とその様子を眺め、何か言いたげな目でイルーゾォを見上げる。そしてグラスにはただの水が注がれる。

「せめてチェイサーくらい用意してから酒を飲め」

 なかなかグラスを受け取ろうとしないを立ったまま威圧するように見下ろすと、は渋々グラスを受け取り、注がれた水をすべて飲み干した。それを確認すると、イルーゾォは再び手にしていたボトルから、によって乱暴にテーブル上へと叩きつけられたグラスへ水を注ぎ足した。

「っつーか。もう飲むな」
「それを強制する権利なんてあんたに無いでしょ」
「いいやあるな。仕事に影響が出そうってんならなおさらだ。お前、今日は分け前の話があったってのに顔も出さなかっただろう」

 イルーゾォは胸ポケットから茶封筒を取り出すと、それをの前へと放り投げた。リゾットから明日の仕事の時に渡すように言われた報酬だった。

「そのうち報酬すら受け取りに来なくなるつもりだったか?毎回オレに金を運ばせるつもりならオレはそれでもかまわんが、分け前がいくらかって聞きもしないんじゃあ、オレがいくらくすねようと分からねーよな」

 はしかめっ面で床に視線を投げたままふてくされている。の分け前から金を引き抜いてやると言っているのに、それに対してふざけるなと憤慨することさえしない。生命線の金さえいらないと言わんばかりの彼女の様子を見て、イルーゾォはますます苛立った。

 死ぬほどホルマジオが好きだったってことか……!?ふざけやがって。

「分かった。もういい。この問題の核心を突いてやらなきゃあ、お前は改心しなさそうだ。お前がヤケを起こしてる原因は何だ。テメーの口で言ってみろ」

 イルーゾォは立ちあがりに近寄るとテーブルに手を突き、彼女が身体を預ける椅子の背もたれにもう片方の手をかけ、顔を覗き込んだ。イルーゾォの大きな身体が自分に迫り、は一瞬たじろいだ。目の前に迫る彼の顔を睨み返すほどの威勢も見せつけられず、身を小さくして黙った。

「……やめて」
「ああ?やめねーよ。言えって言ってるんだ。まずは問題を認識しねーと、改善もクソもねーだろうが」
「分かってる……分かってるから……言わせないで」

 完全に気勢が殺がれている。彼女は問題をきちんと認識している。認識しているからこそ、彼女は今、震える肩を抱いて俯いて、ぽとぽとと涙を太腿の上に落としているのだ。だが、イルーゾォは引き下がらなかった。
 
「ホルマジオの奴を、ここに呼べばいいか?」
「――っ!いや、やめて!」
「それじゃあどうする?お前は何が欲しいんだ。ホルマジオじゃあなかったら……何ならそれを埋められる?」

 まるで誘導尋問のようだった。イルーゾォはに、ホルマジオ以外を求めさせようとしていた。それは何だって良かった。彼女が求めるものが、ホルマジオでさえなければ、それでいい。

 だが、はしきりに首を横に振って涙をぼろぼろとこぼすだけだった。

 をこんなに泣かせてるのはオレか?いや、オレじゃあない。ホルマジオだ。アイツさえに近づかなかったら、こんなことにはなってない。

 イルーゾォはテーブルについた方の手をの頬に宛がって、ゆっくりと上を向かせた。大粒の涙が泣きはらした瞳から零れ落ち、それがイルーゾォの手のひらを濡らした。

「なあ。お前をこんなにしたのは、誰だ?お前をこんな風に、悲しませてるのは……誰だ?オレか?違うだろう。それはオレじゃあない」

 手を宛がわれたのとは別の方の頬に、ざり、と生暖かい物が這った。瞬間、はびくりと身体を震わせた。イルーゾォの舌が、零れ落ちる涙を舐め取ったのだ。気付いても、今の彼女に、そのことにについて抗議する余力は残っていなかった。

「だから、オレがお前を慰めてやる。お前はその間に代わりを見つけるんだ。簡単なことだろ。……その内、お前が本当に求めてるもんが何か分かる」

 イルーゾォの低く落ち着いた声音が鼓膜を揺らす。終点のひどくぼやけた暗示を囁いた口が耳元から離れると、それはそのままの唇へと押し付けられた。

「んっ……」

 血中のアルコール濃度が尚も高いままの彼女の脳は上手く機能せず、唇どころか、不躾に割り込んでくる舌までも拒絶できなかった。口の中はイルーゾォの舌によって荒々しく掻き乱される。隙間から漏れ出た唾液が、の頤に向かって垂れ流れていく。唇が離れると、イルーゾォの紅い瞳が再び彼女に向けられる。何も言わないままお互いに見つめ合ったあと、イルーゾォはを抱きかかえ寝室へと向かった。運ばれる間、は抵抗をしなかった。嫌だと声すら上げなかった。そして、ベッドへ押し倒された後自問自答した。

 どうして部屋に入れたの?――きっと、少しは期待してたのよ。玄関先にいるのなんて誰だって良かった。強盗でも何でも。そりゃあ、最初はそれがホルマジオじゃないとはすこしも思ってなかったけど、でもいいの。気が変になりそうな時に、慰めてくれるなら……めちゃくちゃにしてくれるなら、それで。……もう、誰だって構わないってヤケにを起こしてるのよ。――この男もまた追い出す羽目になるかもしれないのに?――ああ、だから、男なんか、そもそも部屋に入れるのが間違いだったのよ。  




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