君が生きていたせかい


「わたしのお父さんは、ぜいりしで茶色のトレンチコートがよくにあう、かっこいい人です」

 朝10時を過ぎた頃。の娘は元気に「わたしのお父さん」と言う作文を教室の教壇上で読み上げていた。の娘、8歳。名前はエルデ。クラスで最も背の高い女の子。濃い目の肌色にグレーの瞳、直毛のサラサラヘアーは鈍色で、光がさせば銀のように輝いた。肩より少し上で揃えられたショートカットで、大きく丸い瞳がかわいらしい。壇上に元気に登場する彼女は、母親に自信満々な眼差しで訴えるかのように発表し始める。が、母・は非常にやるせない気持ちであった。

「今は遠くでお仕事をして、せかいを飛び回っているので会うことができません。わたしはお父さんに会いたいです!」

 瞳を潤ませ、手に持った作文の原稿がくしゃくしゃになるほど強く握り締めた拳が震えている。その文才と聴く者に訴え掛ける朗読の仕方が、担任の先生、生徒とその親全てに感動を与えたのか、他人事なのに泣く者までいるほどに好評で拍手喝采が巻き起こった・・・。

 が、しかし、ヒンメルの母、は冷や汗を流しながら校舎の窓から外を眺めていた。

「はい。とても・・・とても素晴らしい作文でしたね!エルデさんのお父さんに会いたいという気持ちがよおおおく伝わってきました!エルデさん、いつかお父さんに、会えるといいわね!」
「はい先生!」
「それでは次の人。前に出て作文を発表してください。次は・・・ヒンメル君」
「はい!!!」

 窓ガラスが振動しそうなほどの大音声で返事をするのは、濃い目の肌色にグレーの瞳がよく映える黒髪の少年だ。彼は授業参観で自分の教室に赴く母親にらんらんと光らせた目を向けて自信満々だが、母・は非常にいたたまれない気持ちである。

「わたしのお父さんは、べんごしで、青いスーツがよく似合う、かっこいい人です。」

 この一文を聞いた人々は一様に小首をかしげる。母、に至っては白々しく口笛を吹き始める始末である。もちろん、先に教室で拍手喝采を浴びたエルデと今意気揚々と作文を読み上げるヒンメルが二卵性双生児・・・つまり双子であることはもちろん、二人の父親が同一人物であることは周知の事実。しかし二人の作文の内容は全くもって噛み合わない。

 ヒンメルよりも少し先に生まれたエルデが姉であるが、その姉は冷や汗をかいて、周りの父兄に問い詰められる母の様子を見てしてやったり。と言った顔でニヤついていた。そしてヒンメルは周囲のざわつきなど意に介さず作文を読み続けるのだった。





01.君の鼓動は変わらず今も心に







「あんたたち!お母さん困らせて楽しいの!!?」

 少し狭いダイニングに双子が隣り合って座り、顔を見合わせてニヤニヤしている。彼らの前には母特製のコロッケとポテトサラダ、鶏の唐揚げなどなど、家ならではのお祝い用の豪華料理がずらりと並んでいる。

「楽しかった!」
「私は先生にほめられた!」
「いいなあ!オレが先に発表したかったぜー」
「あんたたち!あの後お母さんがどれだけ変な目で見られたことか・・・!あの金持ちボンボンのイヤミなおばさんに『あら・・・さん・・・バツ1ですの?』とまで言われて・・・双子だっちゅーの!!!!」

 フォークを構えたの右手がテーブルを叩き、その衝撃で唐揚げが宙を舞う。ヒンメルはすかさず宙に浮いたままの唐揚げにぱくつき、見事にキャッチ。後に4,5回噛んで飲み下す。

「やっぱ母ちゃんの唐揚げ世界一だぜ!」
「こら!もっとよく噛んで食べなさい!!」
「・・・お母さん」

 食卓で騒ぐ元気な母と弟とは対照的にあまり元気の無いエルデ。

「どうしたのエルデ。食欲・・・無いの?」

 エルデは黙って首を横に振り、続けた。

「お母さん、言ったよね。私たちが大きくなったら、本当のお父さんに会わせてくれるって・・・」
「・・・まだ大きくなってないでしょ」
「5才の時に言ったもん。あのときに比べたら、私たち大きくなったよ?」
「エルデの方がでけぇのは腹立つけどな!」
「もう、メルは黙ってて!」

 は黙って我が娘と息子、双方に目を向けた。8年間を振り返ってみると、忙しかった思い出しかない。けれど、二人の容姿は自分の遺伝子も組み込んでいるものの、父親によく似ている。太く勇ましいヒンメルの眉。エルデの美しい鈍色の髪。愛しい子供たちをぼうっと眺めていると、知らないあいだに瞳に涙が貯まる。

 2人の父親に・・・が愛した・・・いや、今も愛する男に心から会いたいと思っているのが誰か。それを子供たちに悟られぬ様、8年間気丈に振舞っていた彼女の限界が、この日訪れた。瞳に溜まった涙が重力に従って頬を滑り落ちる。

「か・・・母ちゃ」
「ごめんね。ちょっと、お母さん・・・疲れちゃったみたい」

 震える声で、母が泣いていると気づくエルデ。自分の言ったことで母を泣かせてしまったのだと思い、悲しそうにお母さんとポツリ呟いた。はダイニングに子供2人を置いて、寝室に向かった。

「・・・母ちゃん大丈夫かな」

 ヒンメルがコロッケにフォークをさしながら言う。サクッと気持ちのいい音が静かなダイニングに響いた。



 は夢を見た。幸せな夢だった。

 広くたくましい胸に耳を押し当てれば、心地よく耳に響く愛する人の鼓動。あたたかな感触。そして、頭上から降りかかる慈愛に満ちた声音が、確かに彼女の名を呼んだ。

「愛してるぜ・・・

 そう言って頭を撫でる彼。人並み外れて大男である彼の容姿からは想像もつかないほどに優しい所作と声音。ああ、もっとこの夢の中にいたい。離れたくない。そう願えば願うほど、遠くに離れていく体温と声。

「待ってウボォー。私はあなたに・・・」



「お母さん。ウボォーって、誰?」
「!!?」

 目を開くと、心配そうな表情での顔を覗き込むエルデがいた。起き上がって小さなチェストの上に置いておいたペットボトル内の水を飲み干し、はエルデの頭を撫でた。

「お母さん、夢を見たの」
「・・・お父さんの夢?」
「・・・そうよ」
「ウボォーって・・・お父さんの名前?」
「寝てる時にお母さんがそんなこと言ったの?」
「うん。何度も何度も、ウボォー、ウボォーって・・・呼んでた」
「そっか・・・」

 自分で決めたことだった。自分で、もう2度と彼には会わないと決めて、あの街を飛び出したのだ。それなのに、彼女の心は男の声も体温も、鼓動までも忘れられずにいた。

 実は、がウボォーという男のことを考えない日は無かった。忙しい毎日の中でも、心のどこかでいつかまた会えたら、なんて夢のような思いを抱いていたのだ。この8年間、そんな夢物語を思い描いては否し、思い描いては否しの繰り返しだった。

 けれどどうだ。もう、抑えられないではないか。泣き寝入りしたはずなのに、涙はまだ枯れずにぼろぼろとこぼれ落ちていってしまう。子供の前で気丈な振りすら今後できないかもしれない。仕事も手につかないかもしれない。何より、会いたい。そして、成長した娘、息子を彼に会わせたい・・・。けれど、彼の居住区への道のりは大変険しく危険だ。果たして幼い子供2人連れてたどり着けるのか。そんな思惑が頭をめぐる。

「お母さんもね・・・会いたいんだよ。パパに」
「・・・会いに行こうよ・・・」
「ダメよ。危ないもの」
「大丈夫だよ!お母さんには私たちがついてるよ!」
「エルデ・・・」

 愛しい我が子を胸に、彼女は決心をした。今まで何度も思い描いてきた夢物語を実現に近づけるために。

 思い立ったが吉日、その日以降はすべて凶日。

 どこかの美食ハンターが言ったその言葉を胸に、翌日、そうそうに家を経った一家であった。