雨天の下、狭い路地裏で血まみれの青年が建物の壁に背を預けていた。狭いビルとビルの間にいるにもかかわらず雨は降り注ぎ、男の体はしとどに濡れていく。頭上を仰げば、口角から流れ出て少し固まりかけた血が徐々に流されていった。
青年の名はフィンクス。肩には複数の弾痕。腹には深い切り傷。虫の息と言うほど憔悴しきってはいなかったが、出血多量で体が上手いこと動かせず、ここにいた。これほどの傷を受けながら2、3町またいだこの街の路地裏に、追手の追撃をかわして振り切り、逃げ果せたのは、鍛えに鍛え抜かれた体力と精神力の賜物であろう。そんな彼ではあるが、これまで生きてきた中で、これほどの痛手を負ったのは初めてだった。
(クソ・・・なんだこのザマは・・・)
声を出す気力も起きないので、とりあえず胸の内で自分自身に毒を吐く。普段の自分からは想像もつかないほどの事態だ。死にはしないだろうが、しばらくの間ここから動けないだろう。そもそも彼は死を恐れの対象と認識していなかった。しかし自分が死ぬなどとそれ以上に思ってもいない。ただ、彼のうなだれる場所に溜まった血量と彼の外傷を見れば、一般人の一般的な感覚では死んでいる。もしくはじき死にいたると思うことだろう。
「ひっ・・・」
フィンクスが自責の念に駆られ、うまく回らない頭で全身を襲う痛みに耐えながら、これからどうするか考えていた時だ。フィンクスの右手側2、3メートル先から小さな悲鳴が起こった。フィンクスがゆっくりと目を向けると、傘をさした女が、その大きな目を見開き硬直していた。彼のかすみがかった視界でとらえられた情報はこれだけだった。そして、悲鳴をあげた10秒ほど後に、女が慌てた様子でその場から離れていったのを確認する。
(・・・なんだよ。助けてくれたって・・・いいじゃねーかよ・・・)
そんな恨み言を口にしようとして再び飲み込み、少し時間を置いて考えれば、女性一人で180cm強もある体を支えどこかに運ぶなど不可能であることに気づく。深いため息をついたところで、彼の意識は眠気にも似た感覚を伴い完全になくなっていった。
前編
ちゅんちゅんとスズメの鳴く声が聞こえる。フィンクスは目をうっすらと開け、上体を起こそうとするのだが、瞬間、力を入れた腹を焼けるような痛みが襲う。
「っ・・・」
激痛に顔を歪めながら、乱暴に背を寝床へと投げた。痛みがある程度引き、目が完璧に覚めたところで疑問が浮かんだ。なぜこんなにも寝床がやわらかいのか?そして、天井を眺める限りここは屋内。彼はそこまで思い当たり、はっと左手側に目をやる。見えるのは、窓。寝転がったままでは確認できないが、おそらくちゅんちゅん鳴くスズメは窓の向こうにいる。そして右手側に目をやるとそこには、壁を背もたれとして丸椅子に座り、静かに眠る女性の姿があった。カーテンの隙間から漏れる朝日がちょうど彼女の顔に射しかかっている。フィンクスはその姿に何十秒か見入る。
(・・・この女確か・・・)
フィンクスが意識を手放すまでの記憶をたどると、朦朧とした意識のなか、この女の驚きと恐怖に満ちた表情をとらえた視界がよみがえる。たしか、自分は驚いてないで助けてくれてもいいじゃないかと毒を吐いていた。と思い出し、申し訳ない気持ちになった。彼女が助けを呼んでくれたから、ある程度傷に処置が施され、ここで休めているのだろうから。
彼女の寝顔はとても穏やかで、見るものを引き込む魅力があった。フィンクスは、目の前の女性が目を覚まさないのをいいことに、彼女のことをずっと眺めていた。彼が仮に下心があるだのなんだのとはやし立てられれば、見る対象がこの女しか無いのだから仕方ないと反論しそうだが、彼は確かに彼女に惹かれていた。気絶したオレを助けてくれたとか、そんな乙女チックな理由ではない。ただ単に、見た目がタイプだった。人は自分に無いものを補おうとして、所有物や伴侶には自分と真反対の存在を無意識に求めることが多いと聞く。フィンクスもおそらくそのような人間の本能で、自分には無い穏やかさとか癒しだとかいうものを、尚も眠り続け、話した事すらない彼女を相手に、勝手に思い描き求めているのだ。
フィンクスはしばらく彼女を眺め続けたあと、自分のムッツリさに嫌気がさしたのか、ゆっくりと天井に目を移した。今まで彼女に集中して気づかなかったが、パンが焼きあがったような香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。近くにパン屋があるのか、それともここがパン屋なのか。そういえば腹が減ったな、と腹をさすると再び激痛が走り眉を顰める。学習能力のない自分にため息をひとつ。
とたん、何かがギシっと軋む音がした。そしてふぁあっと気の抜けた声。見ると、両の手を上げて伸びをしながら、あくびをする女の姿。彼女は一瞬目を見開き、とたんに顔を赤く染める。
「やっやだ!アクビ・・・」
とっさに口元を両手で隠し、アクビをする姿を目撃されたことを恥らう姿を、フィンクスは純粋にかわいいと思ってしまう。
「め・・・目、覚めてよかったです!すぐに、お水用意しますね!」
そう言って、ふんわりと笑う彼女。そしてゆったりとしたワンピースを揺らしながら、とたとたと駆けて部屋を出て行った。
(待て・・・なんだあのかわいい生物)
寝ている姿もかわいいが、それ以上に赤面して恥らう彼女も、ふんわりと笑う彼女も、ワンピースを身にまとっている姿も・・・何もかもがかわいい。反則だ・・・。フィンクスの頭の中では既に名も知らぬ彼女イコールかわいいという等式が成り立ち、正常な判断が下せなくなっている。その証拠に、先ほどまで散々痛がっていた腹に力を入れ、部屋を出て行く彼女の後姿を目で追い、視界から彼女がいなくなった今も尚、彼女の帰りを心待ちにして上体を起こしたままだ。
しばらくして、彼女はトレイの上に水差しとコップ、焼きたてのパンを持って戻ってきた。
「パンがちょうど焼けてたので、持って来ちゃいました」
お父さんには内緒ですよ。と笑って、ベッドの脇にあるチェストの上にトレイを置き、コップに水を注ぐ。やはり、ここはパン屋の一室で、彼女はパン屋の娘だったのだ。パン屋の娘など、フィンクスにとっては最早おとぎ話のヒロインだ。
「お前、名前は?」
フィンクスは、水を受け取り一気に飲み干した。
「です。・って言います。あなたは?」
「フィンクスだ。お前が助けてくれたのか」
「ここまでフィンクスさんを運んでくれたのはお父さんです。私はずっとそこで寝てただけです」
「いや、お前が助け呼んでくれたんだろ。礼を言うぜ」
頭をかきながら照れて、どういたしましてと言う彼女が、どうしてこうも愛しいのか、フィンクスには分からなかった。思考を停止させて、再び彼女の表情に見入る。ここまでくるともう病気だ。恋の病に侵されつつある。世間一般ではひとめぼれと称されるこの事象が何であるか、恋愛経験の無いフィンクスには分からなかった。
「フィンクスさん?大丈夫ですか?」
「・・・・・・・・・!!あ、ああ」
「悪いところがあれば、すぐに言ってくださいね。お医者様呼びますから」
「だ、大丈夫だ。それより、アンタのオヤジに礼を・・・イテェッ!!!!」
体を動かし、ベッドから出ようとしたとたんに、忘れていた腹部の痛みがよみがえる。
「ダメですよ!全治1ヶ月の大怪我なんですよ!特にお腹の傷、かなり深いみたいだから、あんまり動かさないようにしないと!!」
全治1ヶ月の大怪我なんですよといわれても、そんな話気絶していたオレは知らん、と心の中で意見するフィンクスだったが、全ては彼女がかわいいから許されるので、口にはしなかった。それにしても、1ヶ月とは弱く見られたもんだと、フィンクスは腹を立てる。全治1ヶ月は常人の話で、念能力者、とりわけフィンクスほどに鍛え抜かれた体と、おまけに強化系の念能力を持つ人間にとっては1週間もすれば完全に治る怪我だろう。と換算する。
それに、1ヶ月もこの場所に留まるわけにはいかなかった。フィンクスは追われている身だ。流石に1ヶ月もすれば居場所をつきとめられてしまうだろう。
(ある程度動けるようになったら、即座にここを出よう)
・・・。こんなに可愛くてタイプな女と離れてしまうのは寂しい気もするが、血なまぐさい戦闘に巻き込み、汚すわけにはいかない。この可愛さは、人類の・・・いや、オレの宝だ。
完全にフィンクスの頭の中はお花畑である。一応追われている身であるにも関わらず、この気の抜きようだ。
「それにしても、いったい何があったんですか?どうして、こんな酷い怪我を?」
たいていの人間は何か悪いことを背景に思い浮かべそれに巻き込まれまいと、野垂れ死にしそうな男を親切心を持って助けようなんてしない。特に、この街は流星街の隣に位置している。世界に存在を認められていない自由に使える人間を求め、マフィアなどタチの悪いリクルーターが駐在しているのだ。そのため治安も悪く、重工業が盛んで空気も汚れて重くどんよりとした、住人の心など荒みきっているようなイメージが付きまとう街。
そんなイメージを昔から抱いていたためか、フィンクスにとって彼女の存在がとても光って見えたのかもしれない。どうしてこんな怪我をしたのかとたずねられて答えることはひとつ。追われている。こう言ってしまえば、たいていの人間なら嫌な顔をして怪我人であろうとなかろうと自分の家から追い出すだろう。しかし、はそれをしそうにないのだ。父親に言えばまた話は変わってくるだろうが、彼女だけはそれでも怪我人を見捨てようとはしないだろうと、そんな期待を抱かせるほど。
フィンクスは、ここはひとつ彼女の人格を試しておこうと、何の躊躇いもなく自分の置かれた状況を事細かに説明する。それはもう、彼が幻影旅団というA級首の盗賊グループの一員であることから、己が犯してきた罪と、その報いと・・・全貌を明らかにしていく。
真剣に頷きながら、はフィンクスの話に聞き入る。するとどうだろう。話を聞き終わるや否や、ばっと立ち上がり、元気にこう言い放った。
「それじゃあその追っ手を迎え討つためにも、力をつけなきゃですね!!待っていてください!めいいっぱい、栄養のあるごはんをこしらえてきますから!!」
彼女は再び身を翻して部屋を出て行く。むしろ呆気にとられたのはフィンクスのほうで、彼はただ呆然と閉ったドアを眺めていた。とにかく、これで証明された。彼女の人格は、思った以上に慈悲に満たされた天女のようなものなのだ。
(・・・お前は天使か何かか?)