「お帰りなさい!」
フェイタンが、の元へ戻ったのは正午過ぎのことだった。湖の澄んだ美しい水が太陽の光を反射し、キラキラと輝いて見える、そんな天気のいい日。湖畔に立ったフェイタンに向かって大手を振るは、つい先ほどまで外に出て洗濯物を干していたらしい。フェイタンが地面を蹴って跳躍し、のすぐそばに降り立つと、彼女は無邪気に手を叩きすごいすごいと称賛するのだった。
「やかましい。それより、腹減たよ」
「盗賊さん辛辣だなぁ。・・・そういえばちょうどお昼時だね」
はすぐさまフェイタンの訴えを聞き、小屋の中のキッチンへと足を向け、フェイタンに背を向けた。やかましいとは言ったものの、満面の笑みで自身の帰りを喜ぶの可愛らしい姿にノックアウトされたフェイタンは、その浮ついた心を鎮めるため清らかな水を湛えた湖のさざ波に耳を傾け目を閉じた。
(らしくないね・・・)
そう思い、小屋へ足を踏み入れた瞬間だった。
「痛っ・・・」
包丁が乾いた音を立ててまな板の上へ落ちた音と同時に、の小さな悲鳴が耳をついた。フェイタンはの手元を眺め、指先に滴る紅に見入っていた。
「いてて・・・、やっちゃった。結構深い、かも」
はそう言って手当てしようと、再びフェイタンに背を向けようとした瞬間、フェイタンに怪我をした方の手を掴まれ、動きを制されてしまった。
「盗賊、さん・・・?」
「ワタシの名前・・・フェイタンね」
「・・・・・・・え?」
次の瞬間、血が滴る左手の人差し指を咥えられてしまった。は、ゆっくりと舌で傷口を撫ぜられる鈍い痛みに目をつむった。すると痛みは次第に引いていき、フェイタンの唾液と赤く滲んだ血液の痕以外、指先には残っていなかった。
「どうして、怪我した指なんか・・・」
舐めときゃ治るっていうやつか。と思っただったが、フェイタンの恍惚とした表情を見て、それは違うと思いなおした。そんな民間療法なんかではなく、その理由はきっと猟奇的な何かだ。彼女はそう確信した。
「ワタシの名前。何か」
「フェイ・・・タン・・・?」
たどたどしく発された自身の名に満足したのか、フェイタンはリビングへと入っていく。二人掛けの小さなソファーに腰掛け、顔は窓の外へ向けたまま彼は再び口を開いた。
「そもそもお前、治療なんていらないよ」
「・・・それもそうか・・・」
まだ慣れないのか、彼女は怪我をしても、いや、怪我以上の痛手を負っても即座に治癒してしまうという特異な状態に身を置いていることを忘れてしまっていた。
「いい機会ね。今のうちにたくさん怪我しておくといいよ」
それはいったい、誰にとっていい機会なのか。
「たとえ治るとしても、痛いのに変わりはないのに・・・」
「どんな痛みを経験しても、その痛みを覚えた状態で生き返られる。そんな経験できる人間そうそういないね」
リュービもフェイタンも、表情が乏しい点では同じだった。しかし、時折見せる笑みの種類が異なることに、は気づいた。
(先生の笑みは、とても優しかった。あったかかった。けど・・・)
何故、彼は・・・フェイタンはこうも冷徹に、笑うことができるのだろう。通常、笑顔は人にプラスの印象を与える。心理学的にも、笑顔が人の心情にプラスに作用することは証明されているというのに、彼の笑顔はその証明を否定するかのようにとても冷徹で、恐ろしささへ感じてしまう。
(でも、どうしてだろう。すごく、ドキドキしてしまうのは・・・)
はフェイタンに咥えられた人差し指を握り、少しの間、愛した人にそっくりな居候者の横顔に見入った後、再び包丁の柄を握った。
08:扇情
「どうして・・・」
用意した軽食を、テーブルを挟んで二人向かい合うかたちで食べているとき、食事を始めてから一言も話さなかった食卓で初めて口を開いたのはの方だった。フェイタンから見て、彼女は柄にもなく真剣に何か考えているような様子だった。
「どうして私、怪我が治っちゃうのかな」
「・・・説明が面倒ね」
「お願い。教えて?」
フェイタンはため息を一つついて、しぶしぶ説明を始めた。正直今更と思ったフェイタンだったが、どうにもの美しい瞳に見つめられると、無下に扱えない気がしたらしい。念能力の存在すら知らない人間に、どううまく説明するか。
「お前は、恐らくリュービの・・・先生の念に守られてるよ」
「・・・念?念って?」
「念能力、世の天才、武闘派たちが持つ技・・・魔法みたいなものね。お前みたいな凡人には生涯縁のないモノよ」
「魔法みたいなの、フェイタンも使えるの?」
「もちろんね。ただ、念能力を持たない人間が見ても、念能力を使た物理的痕跡しか視認できないよ」
こころなしか、は未知の世界を知り心をときめかせているように見えた。さっきまで悲しそうな表情でいて、席に着いたとたん、食べながら真剣に何か考え込み、そのあとのこの表情である。ころころ変わって面白い。フェイタンはそう思った。感情にとぼしい自分とは正反対の存在だ。純真、無垢、天真爛漫。そのどの特性も自分には無い。ない物ねだり。彼が彼女に惹かれる一つの理由かもしれない。
「ところで、お前知てるはずよ。何でお前がここに囚われるはめになたか」
「・・・・・・・。実はね、なんでか、昨日フェイタンが家を出たあと、夢に見て思い出したの。その夢を見るまで記憶は曖昧だったんだけど」
先日、パーゴスウェイ国からの刺客が家に乗り込んできたとき、自身を研究材料と言った。その意味が、分かったと。
「先生の机の上に、ファイルが置いてあったの、見ちゃった。あれ、フェイタンが見つけてくれたんだよね?それで、ますます合点がいったの」
国の研究材料・・・。国を囲う厚い壁。先生の意味深な言葉。夢で見た、心の奥に閉ざしていた過去の現実。暗く閉塞した空間に響く耳障りな断末魔。そして、先生の残した手記。
「最初は、アイツらが言ってた意味がわからなかったんだけど・・・。でも、きっとそう・・・。アイツらなのか、国家元首が主導してるのか知らないけど、あの厚い壁の中でヤツら・・・たぶん人体実験してる」
「人体実験?」
「私達・・・死んだら、ブルーダイヤの部分がどす黒く濁っちゃうでしょう。きっと、それを止める研究。死んでも、ブルーダイヤが残るようにする・・・研究、なんじゃないかな・・・」
の憶測に過ぎない。だが、筋の通る仮定だ。壁で囲い、他国の人間を簡単に中に入れず情報を遮断すれば、民は無知という名の幸せを餌に生かされ、あとは国家元首の思うがまま・・・。
「先生はきっと、それを知って・・・私を逃がして・・・」
あのまま牢屋の中にいたら。と想像するのもおぞましいと、は身震いした。あの夢で思い出してしまった、もはや鼓膜にこびりついて忘れることなどできそうもない断末魔。あれを、自分自身があげることになっていたのかもしれないのだ。
「そうか。だから、先生は私がこの島から出たら、実験の使い物にならないように、死ぬようにしたんだ。その代わり、この島に戻ると絶対に、なにがあっても生き返るようにしてくれたんだね」
「なるほど・・・」
フェイタンは、の話を聞いて確信した。の仮定は恐らく真実であろうと。そして、もしかすると、自分たち幻影旅団が、とリュービという二人の人間の・・・いや、パーゴスウェイ国に住まうパーゴスウェイ人すべての運命を変えるきっかけになってしまったのではないかという疑念にたどりついた。
(生きて激高した人間の目を抉り取り、それを秘宝としてホルマリン漬けにして売りさばくという悪魔的発想が伝染したか・・・。人体実験でパーゴスウェイ人が減れば、レアリティも上がって一石二鳥て訳ね)
まるで他人事のような思考だが、フェイタンはその悪魔的発想でクルタ族の大虐殺を果たした一味の一人である。だからこそ、確信が持てた。これは、国家の陰謀だ。壁は民を守るためでなく、国が民を秘密裏に殺し売りさばくため・・・。
(国内の人間が同胞を売ろうて魂胆なら、ワタシたちよりタチ悪いね)
あとは、リュービの手記に綴ってあった“あの男”の正体を暴き、殺してしまえばいい。
「・・・ねえ。フェイタン」
「何か」
「もしも、あと少しで人体実験の成果があがって、死んでもこの瞳の輝きが失われないってなってしまったら・・・」
は思いつめた表情で、食器から手を放し、膝上に乗るスカートの裾を握りしめて続けた。
「フェイタンは私のこと、殺すの?」
この問いに、フェイタンはどう答えればいいか分からなくなっていた。もちろん、のご機嫌を取るためなどではなく、自分がどうしたいのか。その答えが分からなくなっていたのだ。
彼女の眼球の美しさは、果たしてその美しいかんばせから離れて球体だけになっても、美しいと思えるのか。そもそも、フェイタンは彼女のどこに惹かれているのか。決してその瞳が美しいと思っているわけではなく、彼女の存在そのものに惹かれている。なので、恐らく彼はのことを殺しはしない。
だが、そもそも前提が違う。フェイタンがどうしたいか、ではない。団長がどうしたいか。それが問題だ。フェイタンは浮かんだ自身の答えを頭から往なし、口を開いた。
「・・・団長の気分でそれは決まるよ。ワタシに決める権利無いね」
はフェイタンのこの返答を聞いて絶望した。そして、俯き涙をぽたぽたと手の甲へ落とす。しばらくして、はゆっくりとフェイタンの方へ顔を向け、懇願した。
「・・・お願い。フェイタン。殺さないで。お願い・・・お願いだから。わたし・・・わたし。フェイタンとずっと・・・一緒にいたいよ・・・」
拷問担当のフェイタンはよく、死に際の人間に殺さないでくれと懇願された。今まで拷問してきた人間は、彼にとってはゴミ同然であり、情けなど微塵もかける余地の無い人間ばかりだった。しかし彼女は違った。泣きながら殺さないでと懇願するの姿に、フェイタンは欲情すらしていた。まだ、殺すと決まったわけでもないのに、自身のフェイタンに対する思いを前面に押し出し、大粒の涙をぽろぽろと流し続ける彼女の姿。普段なら、アホかと軽くあしらうことだっただろう。しかしながら、先程のの赤い血の味といい、今のシチュエーションといい、とにかく扇情的で、フェイタンは今までにないほど、感情が高ぶっていた。気づくと彼は席を離れており、の目の前に移動していた。
「殺されたくなかたら、ワタシの言うこと全部聞くことね」
「んんっ・・・!」
は唐突に口内へ押し込まれたフェイタンの親指のせいで自身の舌の置き場に困り、困惑した表情でフェイタンを見あげた。窓から差し込む陽光とは対照に、顔半分に影を落としたフェイタンの表情は、自身の身に何が起こるのか予見させた。唇はきつく弧を描き、目は細められひどく恍惚としていた。やがて彼の親指はの舌を追い、下顎の窪みへとそれを押し付けた。苦しそうに、しかしされるがままには新たな舌の置き場を求め必死に舌を動かす。動かされた舌を、再び親指は追う。まるでの舌がフェイタンの親指を舐っているような格好になったその行為は、自身の肉棒を咥えさせ舐らせているかのように錯覚された。フェイタンはその行動で昂ぶりを抑えようとしたのだが、逆効果だったかもしれない。
息を荒げ、いったい何をされているのか見当もつかないまま、苦しがるだけの。その苦しそうな表情が、そして泣きながら懇願していた様が、フェイタンにはたまらなかった。このどうしようもなく昂った欲にどう収拾をつけようかと考えるも、フェイタンの浮ついた脳がいよいよ思考することを止め始めていた。
そして気づいたときには既に、フェイタンはを床の上に組み敷き、親指を引き抜いた彼女の小ぶりな唇に自身のそれを押し当て、舌で彼女の口内をまさぐっていたのだった。