少女は何かを感じて、澄んだ湖に駆け込んだ。
『この湖から絶対に出てはいけない』
恩師の教えも、今となってはどうでもいいと思ってしまうほどに、その“何か”は彼女の心を掻き立てた。
「先生っ・・・?」
本人に届かないことは百も承知だったが、それでも彼女は声を出さずにはいられなかった。彼女はばしゃばしゃと湖面を荒立てて、湖底の石につまづきそうになりながらも、必死に対岸を目指す。腰のあたりの深さになってからは泳いで渡り、足がつく深さになると湖底を蹴った。そして岸辺に立つ。
『この湖から絶対に出てはいけない』
再び思い出す恩師の教え。
「ごめんなさい、先生・・・私、先生のことが、心配で・・・」
少女は意を決して、湖岸に乗り出した。途端に、心臓が一度大きく高鳴った。
ドクン。
心臓を中心に波紋のごとく体の隅々にまで振動が響き渡った。自身の体に異常が起きていることを察知した彼女は、乗り出したまま動きを止めてしまう。目が痛くて開けていられない。目をつむっていると、口元に違和感がした。一番痛みが激しかったのは爪だった。一度瞑った目をゆっくり開けると、手の爪が黒くよどみ、ポロポロと剥がれようとしているのである。
「な、に・・・これっ・・・・・・・!」
少女は湖の岸辺に崩れ落ちる。瞬間、瞳を襲っていた強烈な痛みが引き、爪に“ブルーダイヤ”の輝きが戻った。口元の違和感も無くなっている。少女は瞳を開けて、上空を仰いだ。自身の周りを円形に囲む木々の緑と、この湖を照らす太陽の日差し。陽光に照らし出された幻想的な湖一体を見渡した。そして、少女は自分の身に一体何が起きているのか見当もつかづに、帰らない恩師のことと、先ほどの“嫌な予感”を思い出して涙した。
目に浮かべた涙が陽の光に反射して、少女の目を美しく輝かせた。それは正に、ブルーダイヤの輝きそのものだった。
01:氷の民
その日、ホームに残っていたのは、クロロとフェイタン、フランクリン、マチの4人だけだった。他は、団長のわがまま・・・もとい、指令でお宝を盗みにいった者や、遊びほうけているもののどちらか。この、団長を除く3人は比較的、自由時間の使い方がうまくない面子だった。
広い家屋の中にひと部屋だけ、旅団の面々がくつろぎ、食事をするために集うところがある。所謂リビングルームである。そのリビングにいたのは、読書をしていたフェイタンと、繕いものに励んでいたマチ、そしてフェイタンと同じく読書をしつつ、傍らに置いてあるノートパソコンに視線を移し、かと思ったら再び読書をし始める・・・この繰り返しをリビングの隅で行っているクロロだった。フェイタンやマチがこの部屋に入ったのは朝8時頃に起床してからで、現在は午後4時。その間二人は昼食を取ったり、昼寝をしたりしていたのだが、クロロは片時も今いる場所から離れることはなく、調べ物に没頭していたのである。
「団長、水くらい飲んだら?」
食事どころか水分補給もまともに行っていない団長にしびれをきらしたマチがそう語りかけるのだが、ああそうだな、なんて生返事が帰ってくるだけだった。マチが呆れた様にため息を漏らすと、次の瞬間、クロロの目が輝いた。
「欲しいな」
幻影旅団の団長、クロロ=ルシルフルのその一言に、旅団の者が振り回されることは少なくない。つまり、次なるターゲットが決定したのだ。やっとか、と言わんばかりにフェイタンが本から視線を逸らしてクロロを見る。次はどんなお宝がターゲットとして選ばれたのだろうかと考える時間も与えずに、資料に目を向けたままのクロロが口を開いた。
「お前たち、クルタ族は覚えてるか?」
クルタ族・・・“緋の目”を持つ民である。5年程前に彼らが“強奪”したお宝が、その“緋の目”なのだ。団員総動員の大仕事だったことを、マチやフェイタンは思い出した。
“緋の目”の盗り方だが、まず最も美しいとされる緋色に輝かせるため彼らを怒らせる。次にその状態で生きたまま瞳を抉り取る。まさに残虐非道を極めたとんでもない手口で、彼らは全てのクルタ族の瞳から眼球をえぐり出したのである。緋色に変化する部分は瞳孔だけ。直径2センチたらずのそれに、億単位の高値が付けられるのだからなんとも恐ろしい話だ。しかし、クロロが欲したのが金でないことだけは確かだった。でなければ、盗んだ“緋の目”を何週間も眺めて愛でることなどせずに、さっさとブラックマーケットにでも売りさばいてしまうことだろう。
「あれ、いちばん楽しかた仕事ね」
「でもどうして今頃そんな話を?連中なら、あたしらがひとり残らず始末したじゃないか」
「いや、彼らに似た人種がいるんだ」
クロロは説明をはじめた。
ヨルビアン大陸の北東に近年、国土面積約7000キロ平方メートルの小国“パーゴスウェイ国”が近隣国からの独立を果たし、誕生したらしい。そこに住まう人種こそ、クロロの欲するお宝を所有する民だ。“パーゴスウェイ国”は単一民族国家である。・・・と、国に関する情報は、信頼できるものがこれだけしか無い。そして、彼らが“氷の民”と呼ばれる所以、それは彼らの不思議な体質にある。彼らは身体の白い部分が全てブルーダイヤモンドのごとく青く、美しく輝いている。人間の身体における色素の薄い部分と言えば、眼球、つめ、歯だが、それらがすべて、透き通った美しい青色に輝いているというのだ。しかしそれは生存している間だけ。死んだ途端に輝きが消え、どす黒く濁り、どの部位よりも真っ先に朽ち果てる。ある種クルタ族とは対極にある人種だった。
「爪を切ったら、切った爪が黒くなるってこと?」
「文献によると、爪もダイヤモンド並に硬いらしいから、切る、という表現は間違いだな。爪とぎ専門の職人がいて、伸びたら研いでもらうらしい。ま、これは本当かどうか分からないけどな。削り終わった爪は黒くなるらしいが・・・なんて面白い人種なんだ」
クロロは好奇心と探究心に掻き立てられ、手元にある資料やパソコンの画面を食い入るように見つめている。まるでおもちゃを見つけた子供のようだと、マチは含み笑いをした。ただ、面白くなさそうな顔をしている者がひとりいた。フェイタンである。クロロの説明を聞くかぎり、ターゲットは殺せない。殺戮を楽しみたいフェイタンにとってはとてつもなくつまらないミッションになる予感がするのだろう。しかし、そんなフェイタンをよそに、クロロとマチの会話は続く。
「どうして隔離されてるの?」
「このコンクリートの城壁が施工され始めたのが5年前。なるほど・・・どこぞの盗賊団がクルタ族の大虐殺を行ってからだな。何て迷惑な話だ」
「団長。それあたしらじゃないか・・・」
「とにかく!この幻のブルーダイアを手に入れるためには二つの難関がある。ひとつは、ターゲットを殺せないということ。ふたつめは、この城壁を超えて“氷の民”をさらい、尚且つノーマークでここまで帰りつかなければならないということだ。しかし、未だかつてこの壁を破ったものはいない。まあ、かつてと言ってもまだ3年の歴史だ。100%不可能なんてことはないだろう」
とにもかくにも、情報不足が否めない。現時点で即座に行動に移すにはあまりにも不安要素が多すぎる。とクロロは言う。“氷の民”をさらうにあたって、どれだけの人員が必要になるのかさえもわからないの。そもそも、パーゴスウェイ国そのものが謎に包まれている。国ができて日が浅いということや、世界的な情報化にこの国の文化水準が遅れをとっているということが考えられるが、インターネット上に“パーゴスウェイ国”に関する公式的な記述がほとんど無いのである。ただただ、“氷の民”のトンデモ体質と、それにまつわる嘘か本当かも分からない噂話が一人歩きしているような記述が、ネット上で無秩序に広がっている印象だ。
クロロは立ち上がり、自室に戻ろうとする。
「ひとりで行くつもり?」
「まさか。オレはこれから図書館にこもるよ。古い文献に、何か情報があるかもしれない」
「あたしらはどうすればいいの」
「・・・そうだな、手がかりがあればまた連絡する。それまで好きにしていろ」
「・・・りょーかい」
クロロが軽く身支度を整えホームを去った後、フェイタンは読んでいた本を閉じた。
「・・・?どうしたの」
「ちょと興味あるね。その国」
「・・・あんた、暗殺専門でしょ。今回の任務、あんたの出る幕無いんじゃないの」
「まだわからないよ。それに、今まで一度も破られたことのない城壁・・・破てみたい思わないか」
「・・・・・。ま、何にせよ、団長の調べがつかなきゃ、あたしらには何も出来ないでしょ」
「でも団長、古い文献調べて何するつもりか。壁が作られたのつい最近ね。図書館にあの壁を破る方法を記した書物、置いてるわけないよ。きと、“氷の民”について、もと知りたくなただけね」
「・・・確かに・・・」
「ワタシ、今から行て見てくるよ。パーゴスウェイ国」
「そーかい。じゃ、あたしはここで団長の連絡を待つことにするよ。フェイタン、くれぐれも早まって団長のお宝全滅させるんじゃないよ」
「わかてるよ」
ホームで本を読んでいるだけの生活に飽きてきたところだ。ちょうどいい。
そう思ったにしても、フェイタンが拷問に関係する仕事以外でやる気を出すのは珍しいことだった。フェイタンがパーゴスウェイ族に興味を示したのは、5年前に自分たちが襲った“緋の目”を持つ民・クルタ族が強かったからだった。身体に“宝”を持つものは、それを外敵から守るために民族間の結束と戦闘能力が、一般の格闘家などよりもはるかに強いのである。
こうして、パーゴスウェイ国へとフェイタンは向かったのだった。人生史上最大の受難へ彼を導くことになるなどと、このときのフェイタンには知りようもなかった。