Mr. Brightside

 あっという間に夢から覚めた。

 が目を開けると、すぐそばにプロシュートの寝顔があった。思わずため息が出てしまうほど美しいそれを寝ぼけ眼でじっと見つめた。そしてまた思わず、手が動いてしまう。ゆっくりと、細い一房の前髪が垂れた額に手を伸ばす。そうして彼の額を覆う表皮に触れそうになった瞬間、は我に返って手を止めた。出した手を引っ込めると、プロシュートを起こさないように細心の注意を払いながらベッドから抜け出した。ワードローブからガウンを取り出して羽織ると、床に散らばったプロシュートの服をハンガーに掛けて、ベッドの足元付近に設置していたスタンドにぶら下げた。床に目をやって、脱ぎ捨てたままの格好だった革靴を揃えて置いて、は寝室を後にした。

 プロシュートが客だったなら、彼が目を覚ますまで隣にいただろう。おはようと微笑みかけて、最後まで媚びを売ることを忘れなかっただろう。衣服や靴の類を整えるなんてことは二の次で、真心を尽くしていると思わせることこそが、という娼婦にとっての何よりも重要なことだった。たとえ自分が本心で尽くしたいと思っていようがいまいが、そう思わせることができればいいだけで、案外男という生き物――もちろん、が相手をしてきた客に限っての話ではあるが――は単純であったから、これまで彼女がリピーターを獲得するのは難しいことではなく、おかげで食いっぱぐれることもなかった。

 けれど、彼は客ではない。いや、家に招き入れた者――あれは偶発的な事故だと言い訳をする自分を説き伏せる。期待していたじゃないか。だから、押入られたんだから招き入れたわけじゃない、なんて思ってはいけない。それを期待していたのだから――という観点から広義の客人には違いないが、金と引換えにサービスを提供する客ではない。じゃあ一体、何を引換えにして彼と寝たのだろう? は“拒めなかった。拒む暇すら与えられなかった”と、言い訳を重ねそうになっていた自分の行いを省みる。

 虚しさ、悲しさ、寂しさ。開いてからずっと、何をやっても、どれだけ頑張っても埋まらなかった穴。その穴は、息子をこの腕に抱くまで埋まらないのだが、その穴を見ずに、落ちずにすむように仮で蓋を乗せたようなもの。要は気休めだ。そんな気休めのために、プロシュートに体を許したのだ。彼が自分の体を欲しがっているのならと、利害が一致したから、“一夜限りの関係”を持ったんだ。

 かたやプロシュートにそんな気が無いことを、は薄々分かっていた。彼は確かに口にしたからだ。自分のすべてを知りたい。ゆっくりでいいからと、そう言って確かに、彼女とは愛し愛される関係になりたいという意思表示をしていた。だからと言って彼が本心からそう思っていると断言できるわけではないかもしれないが、彼は嘘をつかない。確証はないが、そう思えたのだ。

 だが彼の望みを叶え、自分のすべてを話せば、プロシュートはきっと自分から離れていくだろうとは思った。誰が子持ちの娼婦を相手取って真剣に付き合おうと思うだろう。しかも、すべてだ。すべてを話せば、自分が組織の構成員相手に復讐を果たそうとしていたことだとか、ギャングや麻薬といったものへの憎しみなんてものまで気取られることになる。そんな厄介者なんかと、どうして一緒にいたいと思うだろう。――絶対に、彼は離れていく。また、愛しい人が離れていく苦しみを味わうなんてまっぴらだ。

 だからは、プロシュートの思いに報いる気はなかった。自分が彼に本気になりかけている自覚もあったので、ここが正念場だと思ったのだ。突き放したいのではなく、突き放さなければと思った。彼が目覚めたら「体が目当てだと思っていた」と言うような顔でいよう。そう決めた。

 そう決めて、身支度を済ませたはバスルームから出ると、いつもの儀式に入った。儀式と言っても、そんなに大層なものではない。昨晩もやったことだ。出てすぐ、壁際に置いてあるチェストの上の息子を見つめ、抱きしめたり、キスをしたりして、元に戻す。毎朝家を出る前と、毎晩寝る前にやる、戒めの儀式。会って会話をすることすら許されない、息子の姿を見ることが、最早苦しみの様に感じられていた。だから、戒めなのだ。過去の過ちを、過去の自分を、そうしてある今の自分を、は罰して、自らを自らで苦しめていた。

 だから、最後の最後、元に戻すという作業に入るとき、邪念が沸き起こったのだ。「見られたくない」と思ってしまった。プロシュートのことは突き放すと決めたのに、最後の最後まで、は信念を貫けなかった。写真立てを、足を立てたまま腹這いにさせて置いた。自分が人生で一番幸せだった時の――旦那と息子の三人でピクニックに行った時の――写真を、プロシュートの目に触れないようにして。

 思えばここまで来てしまったのは、これが最後と自分に言い聞かせたところで、最後なんてこれっぽっちも求めていない心がよしとしなかったからだ。プロシュートが求めてくるならと、本当は――きっとプロシュートよりも孤独で愛に飢えている――自分の方がプロシュートを求めているくせに、そうなら仕方ないと来る者を拒まずなスカした態度で、しかも中途半端な態度でい続けてきたのだ。なんて芯のない、卑怯なやり方だろう。

 嫌悪して止まない弱い自己を、は嫌悪し続けながら朝食の準備を始めた。ポットのお湯をコーヒードリッパーに注ぎ、バックカウンターの上に置いたバスケットからクロワッサンをひとつ取って一枚の皿に乗せ、戸棚から一人分のマグカップを取り出し振り向いたところで、すぐそこからこちらに目を向ける美しい男の姿が唐突に飛び込んできて、は驚き身を固くした。

「おはよう。……起きてたのね」
「ああ。セリナ。あんたは朝が早いんだな」

 前髪をかき上げながらプロシュートは微笑んで言った。少し着崩したワイシャツの衿元から素肌がのぞいている。片手をポケットに突っ込んでできた、マグカップのハンドルのような輪っかにジャケットを通してぶら下げて、頭を少し傾げてこちらを見る。まるでファション誌からそのまま飛び出てきたみたいな、そんな彼の立ち姿がまた完璧だった。見た瞬間、が一人でいた間にした決意などはどこかへ消え去ってしまう。そしては、いつか息子とまたこのアパートの一室で暮らすときに使おうと決めて戸棚にしまっていたマグカップを取り出して、軽く水洗いをして布巾で水滴を拭う。こうして、彼にコーヒーを淹れた。ついには、朝食まで用意してしまった。

 用意した二人分のコーヒーとクロワッサンをキッチンカウンターに置くと、はダイニングテーブルへと向かった。朝食についての会話を終えた後テーブルについてから黙ったままのプロシュート。この生活感のかけらも無い素っ気ない部屋で何も見るもは無いだろうに、彼はどこか一点を無表情にじっと見つめていた。はプロシュートの視線を辿って、それがうつ伏せにした写真立てに向っているのだと気付くや否や、あわてて彼の視界を遮った。その場に置いたままにするなら、せめて足くらいは倒しておけばまだ目立たなかったかもしれない、と思った。一体何を危惧してそんなことを思っているのか、とまた自己嫌悪する。

 カウンターに乗せたコーヒーとクロワッサンをプロシュートの手元に置いて、粗末な朝食で申し訳ないと謝った。彼は好物だと言って笑った。たったそれだけの彼の反応で満ち足りた気分になる。

「なあ、
「何?」
「また会えるか?」

 少し、また考えた。己が信念のために、もうこれっきりにしてくれと言うべきだ。冷静な、頭の中の理性はそう言った。だがもしも「これっきり、もう会わない」などと言ったなら、どうなる? プロシュートは諦めて“しまう”だろうか。これっきり、彼と会えなくなれば、私はまた、得られるとも分からない息子からの愛情を、孤独を紛らわせるために求め続けて、ただそれだけのために体を売り続けるのか。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。もう、疲れてしまった。嫌だ。いやだ、プロシュート。私はもう、孤独でいたくない。愛したい。愛されたい。愛されたい。愛されたい。

 愛したい。そして愛されたい。そう思って、こころからの笑顔を顔に浮かべたのは、ひどく久しぶりな気がした。やっと自分が人間に戻れたような気がした。

「……ええ。いいわ」

 は理性でなく、心に身を委ねることにした。心に身を委ね続けてきた結果が現状なのだ。それはもう痛いほど身に沁みていた。分かっている。分かってはいるが、もうこれ以上、彼女は孤独には耐えられなかった。意固地になっても報われない。なら、仮初の関係でもいい。遠くない未来に失くなる愛だとしても、もう少しだけ、羽休めがしたい。私はもう、疲れてしまったんだ。

 黙っていると、プロシュートがそっと、テーブルの上に置いていた手に手を伸ばした。の手の甲を、彼女が少しくすぐったいと感じるほどの軽さで撫でたあとに、優しい熱で包み込んだ。どきりとして、はまた身を強張らせた。

「オレは……。あんたのことが、どうしようもなく好きなんだ」

 は顔を真っ赤にして目を泳がせた。彼女がこれほどまであからさまに動揺して見せたのは初めてだったかもしれない。

「またここに来てもいいか。……迷惑なら、仕事終わりに食事するだけだって構わない。とにかくオレは……あんたに、毎日でも会っていたい。そう思ってるんだ」

 は、真っ赤になった顔を少し伏せ上目遣いにプロシュートをちらとみやって、また視線をテーブルの上で泳がせた。何も言えなかった。自分の本当の気持ちを言うように迫られるなんて、これもまた久しく無かったからだ。プロシュートは根気良く彼女の返答を待った。 

 客の欲求を満たすためだけに、彼らの求める言動を想定し、心にも無いことを真心を込めて言っているように見せる。にとってそれはとても簡単なことだった。簡単なことだったはずなのに、いざ愛しい人に愛を囁かれても、うまく言葉は出てこない。自分の心に整理がついていないからだろう。プロシュートの思いが、洪水の様に流れ込んできて、現状も理性も、何もかもを巻き込んで方々に散らしていく。流れ込んで、隅々にまで行きわたった後に残ったのは、まっさらな心だった。ただ、孤独でいたくないという純粋な思いだけがぽつんと、残って浮き彫りになった。

「あなたが……そうしたいなら……」

 たとえ、これがいずれ失くなってしまう愛だとしても、いい。今はそれでいい。それが、孤独に疲れ果てた私が、払うべき代償だと言うのなら。



07: Now, letting me go



 男性からの贈り物はすべて金に換えてきた。換えた金はすべて口座に突っ込んで、突っ込んだまま全く手をつけていない。贈り物は大抵が高価なドレスや宝石で、客との縁が切れた瞬間に売り払う。客と会う時の衣服や装飾品はすべてレンタルで済ませるから、家にもほとんど服は無い。家のベッド以外でゆっくりしたいと思うことも無かったので、リビングには必要最低限の物しか置いていなかった。

 そう気づいたのも、プロシュートとの交際を始めてからだった。それくらい、は自分の人生や命といったものに執着が無かったのだ。けれど、気付いたと同時に、家に物が増えていった。プロシュートの仕業である。

 一番最初に彼が買ってきたのは、青いガラスでできた美しい花瓶だった。全体的にまばらな大きさの気泡が入っていて、水を入れて窓辺に置くと、昼間に光を乱反射させて部屋をキラキラと照らした。まるで真夏の海でも見ているようなすがすがしい気分だった。それはさておき、花瓶をもらったはいいものの、花も何もささないで置いておくのはもったいない。だから珍しく花でも買ってみようかとが重い腰を上げて花屋へ出かけようとした休日に、プロシュートが訪ねてきた。彼の手には、濃淡二色のオレンジ色のバラと、トルコキキョウやピンクの小花などがリーフと一緒にされた美しい花束があった。

「……綺麗」

 玄関先で手渡されたと同時に、ふわりと優しく甘い香りがした。とてもいい香りだったから、はたまらず花束に花を近づけて深呼吸をした。その芳香は肺を満たすと同時にの心をも満たした。

「とってもいい香り……。ありがとう」

 幸せな気分だ。は心底嬉しそうに笑った。その美しい笑顔を見たプロシュートは、少し赤くした頬を人差し指の先で掻いて目を逸らして言った。

「まだ花瓶は寂しいままだろうと思ってな」

 は、お察しの通り。と呟いて、プロシュートを部屋に招き入れた後、ひとしきり花束を花束として愛でた。そして花瓶に水を入れて包装を解いていけた。おかげで寂しかった部屋が一気に華やいだ。昼下がりの窓際で、花がそよ風に揺れる様を見ていると穏やかな気分になる。

 プロシュートは何も言わずに、愛し気に花を眺めるの横顔をじっと見つめていた。



「映画とか、見ないのか」

 ある日、夕食を共にした日の帰り道でプロシュートにそう尋ねられ、は言葉に詰まった。そして、最後に映画を見たのはいつだろう、と考える。記憶が確かなら、遠い昔に亡き夫と見たのが最後だった。内容がどんなだったかはほとんど覚えていない。

「もう何年も映画館には行っていないわ。家でも見ないの。一応ビデオデッキはあるんだけれど、レンタルにもあまり行かないわね」
「そうか……見たくないか? オレは普段ひとりでよく映画館に行くんだが、今度見たいのがラブロマンスときてる。野郎ひとりで行くのが気が引けてるんだよ。つきあってほしい」

 血がぶわーっと吹き出したり、ゾンビが追って来たりしないのであれば、監督が誰とか役者がどうとか、特にこだわりがあるわけでもない。は答えた。

「いいわ。次の休みの日にでも」
「次っていつだよ」
「……家に帰って手帳を確認する。確認したら、あなたに電話をする。それでいい?」

 ふざけた調子でプロシュートが言った。

「ダメだな。今すぐ知りたい」

 プロシュートの手が、隣を歩くの手を絡め取った。そのままゆっくりと手を上の方に持ち上げられて、歩きながら彼はの手の甲にキスをする。そして甘えた風に言った。

「というか、今日は帰りたくない気分なんだ」
「わかった。……誘い方がとっても上手ね。プロシュート」

 はそう言って笑った。プロシュートも笑って、自分の策略が上手くいった、しめしめと含み笑いをした。



 またある時、が仕事を終えて家に帰ると、プロシュートが玄関前に立って待っていた。何やらパンパンに膨らんだ白いビニール袋を手に提げている。大きさは四十センチメートル四方を超えていた。

「あら、ごめんなさい。待たせてしまったかしら」
「いいや。……オレが好きで待ってただけだ。気にするな」

 特段、今日に会う会わないといった連絡はしていなかったが、が迷惑がることはなかった。むしろ、仕事で精神的にも肉体的にも疲れた後、プロシュートに会えるのは嬉しいことだ。娼婦であることを知った上で、彼が仕事の後自分と一緒にいたいと思ってくれることを、は改めてありがたいこと、幸福なことだと思った。

「ところで、それなんなの?」

 は玄関の鍵を開けながら尋ねた。扉を押し開けてプロシュートを招き入れる。彼はの問いに答えないまま中へ進んで、ソファーに向かって行った。ソファーの座面を前にして立ち止まると、彼はビニール袋の口を閉じていたセロファンテープをむしり取って、中からクッションを取り出した。一つだけかと思いきや、今度は同じサイズ、同じデザインの色違いが出てくる。それを彼はソファーの両端に置いた。

「これは……気にするな。オレがここでくつろぐために買ってきたんだ。プレゼントってワケじゃあないぜ」

 そう言って、彼はごろんとソファーに横になる。

「ふーん」

 は笑いながら、とりあえずバスルームへ向かって――ついでに写真立てを伏せて足も倒して――化粧を落とし、顔や手を洗ってキッチンへ向かった。つづけて、戸棚から二人分のワイングラスと、冷蔵庫からワインボトルを取り出してプロシュートの元へ向かった。

「飲むでしょ?」

 プロシュートの長い足は、交差してソファーの肘置きに置かれていた。は座面の空いたスペース――プロシュートの足の横――に腰を下ろして、グラスとボトルをローテーブルの上に置く。プロシュートの答えを聞かないまま、自分が飲みたいからとボトルに手を出そうとしたとき、その手をプロシュートに取られてしまった。彼はの手を引いて、体勢を崩し胸元に飛び込んできたの上体をぎゅっと抱きしめた。

「酒もいいが……。まずはあんたを堪能させてくれよ」

 いつぞや嗅いだ、香水のにおいがした。こうなれたならどれだけ幸せだろうと夢を見ていた、あの狭い車の中で微かに香ってきたものと同じだ。確かに今は幸せだった。孤独はすっかり消え去り、彼がいつでも待っていてくれるという安寧に身を委ねきっていた。

 だって彼はたった今、私の部屋のソファーに自分がくつろぐためのクッションを置いたのだ。つまり、彼はこれから先、ほとんどこの部屋に居座るつもりでいるのだ。嬉しいことだ。嬉しいこと。それに違いはない。

 はプロシュートの胸に顔を埋めて目を閉じて、彼の香りと、あたたかさをかみしめた。この心安らかな時間が、また無くなることを恐れていたのだ。恐れて、いつも泣き出してしまいそうになる。怖い、怖い。けれど、その恐怖を口にしてしまえば、その恐ろしい未来は現実となって自分に襲い来るだろう。だから言えない。それが苦しくて苦しくてたまらなかった。は安寧の中においても、未だもがき苦しんでいた。

「プロシュート……」

 つい、いつも口をついて出そうになる、愛しているとか、彼をなんとかつなぎとめるための、そんなような言葉の数々。それをはまた呑み込んで、心の内に留めた。

「ん。どうした」
「……なんでもない。呼んだだけ」
「なんだ、そりゃ」

 プロシュートは微笑みながらの髪を撫で、幸せそうに言った。

「ああ。。オレは幸せだ。これまでのオレの人生で初めてだ。こんなに幸せなのは。……あんたと、こんななんでもない時間でも一緒に、ゆっくりと過ごせるなんてな。……クッションを買った甲斐があったってもんだ」

 照れ隠しなのか、プロシュートはよくそんな冗談を言った。はいつも、その最後の照れ隠しに使われる冗談で気を取り直すのだった。プロシュートの胸を押して上体を起こしたは、彼に背を向けてワインボトルを手に取って言った。

「何よ。全部クッションのおかげみたいに。……なら、そのクッションを抱きしめてここで寝ればいいわ」
「なんだ、拗ねてんのか? かわいいヤツ」

 ボトルを傾けてワインを注ぎ、プロシュートに差し出すと、彼は起き上がって受け取った。ついでに彼はの頬にキスをして、耳元で甘く囁いた。

「ここでひとりで寝ろ、なんて冷たいこと言うなよ。……あんたと寝たくて、オレは今ここにいるんだ」
「分かってる」

 プロシュートは受け取ったグラスをテーブルの上に置いて、またを、今度は背後から抱きしめる。

「本当に分かってんのか? 寝たいって、ヤりたいって意味じゃあねえぞ。あんたと一緒に寝るのが心安らかだから言ってるんだぜ」
「わかった、わかったから……恥ずかしいからやめて」
「は? 何がはずかしいんだよ。……ああ、。さては想像したな?」
「も、もう! やめてってば!」

 そう言ってはクッションを手に取ってプロシュートの顔面に投げつけた。やりやがったな! と言ってプロシュートはをソファーに押し倒し、くすぐり攻撃を始める。ごめんなさい、ごめんなさい許して! などとが音を上げると、プロシュートは攻撃を止める。彼女は息を整えて起き上がるり、ソファー上の、プロシュートから少し離れた所に体を移すと、ワインを注いだ自分用のグラスに手を伸ばした。すると、自分ととの間にできたスペースが気に食わなかったプロシュートが距離を詰めてくる。――こんな、子供じみたやり取りの間には、いつも笑いが絶えなかった。

 プロシュートと付き合うようになってから、の世界は変わった。家の中も外も、全てが変わった。生きる意味など何も見出せず、会って言葉を交わすことすら許されない実の息子を、最早空想と化しそうだった息子を思い、ただ体を酷使し続け金を稼ぐだけの日々に見ていた世界とはまるで違った、光あふれる世界。例えば、早朝の朝日、道行く間に見る木々の緑や、体で感じるそよ風、そして花や月、街の灯が、いつも目にしていたはずのそれがまるで違って見えた。自分がどれほど無感情に生きていたかを思い知らされるようだった。
 
 不思議だ。自分とプロシュートが生きるのは、光などとは無縁なアンダーグラウンドであるはずなのに。人は愛を得ると、それだけで世界は良い方へ変わるのだ。



 確かにの世界は変わった。自分が変われば世界も変わる。そういうことだろう。けれど、人間はそう簡単に、完全には変われない。今の自分を作り上げてきた過去という名のしがらみは、そう簡単には振り払えないものだ。

 ある日、の手元に一通の手紙が届いた。送り主は、元職場――警察署だった。封筒の中にあった文書の冒頭には“出頭要請”の文字。いついつ、何時までに出頭せよ。出頭しない場合は――

 幸せな時間は、長くは続かない。きっと人一倍、自分はそうなのだろう。そういう運命にあるのだろう。

 はその日の夜、絶望に押しつぶされそうになりながら、ひとり泣いた。どうなると、明確に自分の未来が定まったわけでは無い。だが、今の幸せがなくなることは確実に分かった。予想していたよりも早く、そして違う形ではあるが、愛を失う。そんな苦しみに耐えかねて、彼女はひとり、夜通し泣き続けた。