Stockholm Syndrome

「メローネ。分かっているとは思うが……」

 リゾットは重い口を開いた。リビングに残っているのは彼と、酷く動揺した様子で押し黙ったままのメローネのふたりだけだ。しんとした部屋に、リゾットの低い声が響き渡る。

「変な気は起こすんじゃないぞ。……殺す時期はお前に任せる。ただし必ず、期限内に踏ん切りを付けて娘を殺せ」

 メローネは七か月もの間ターゲットの娘と同居している。彼が娘にどれ程入れ込んでいるのかなどリゾットは知らないが、もしふたりが愛し合っている仲だとするならば、いまさら、情が移る前にさっさと殺してしまえなどと言うのは間違っている、と彼は思った。メローネの狼狽え様から察するに、既に完全に情が移っているからだ。

「ああ……分かってる」

 そしてメローネは完全に精気を失っている。答えを返した彼の声は、すぐ傍にいるリゾットにも聞こえるか聞こえないかというくらいの声量だった。

「殺し方に注文は」
「なるべく早く見つけて殺せ。死体は残してメディアに晒せとある。……彼女が表に出ないようにした方がいいな。お前が娘を匿っているなんてボスに知れたら、裏切りととられかねない」
「……確かに」
「メローネ。オレはお前を信頼している」
「分かってる。あんたらに迷惑はかけない……。約束する」

 そう言ってメローネはソファーから立ち上がり、ゆっくりと部屋の出入り口へと向かい、アジトを後にした。



 帰路を行く間、メローネは溢れ出る感情を押さえつけようと必死になった。敢えて愛しい――いや、ただのターゲットの娘だ――の姿を思い浮かべないように、彼女に出会う前の自分に戻ろうとした。

 そもそも、彼女のことを捕らえたのは何のためだ?オレの動機はどうあれ、殺しの道具にしようとしただけだ。もしあの時彼女が逃げ出していれば、確実に殺していただろう。それに、今まで散々無視し続けてきたことに、目を向ける時が来た。ただ、それだけのことだ。彼女が何故あの時逃げなかったのか。その理由を知る時が来ただけじゃないか。

 彼女を殺す理由に正当性を見出そうと、自問自答を繰り返す。感情をどこかに置き去りにして、殺さなければいけない、とただ脳内で反芻する。そうしているうちに家の玄関の前に着いてしまう。結局、義務と理性と感情とが綯い交ぜになって整理がつかないまま、彼は玄関の扉を開けた。茫然自失となった彼が階段の手すりに手を置き、書斎にこもろうとステップに足を乗せたその時、背後から声を掛けられる。

「メローネ!お帰りなさい」

 その声を聞いた瞬間、彼はただの男に戻りかけた。

諦めたはずだ。諦めたはず。彼女のことは……。ここで振り返ったら、オレは絶対に組織を……リゾットたちを裏切ることになる。 

 メローネはの呼びかけを受けて足を止めていた。だがそこから振り返ることも、何か返答することもなく彼は階段を上り始めた。

「メローネ……?」

 が心細そうに呟いたのも耳に届いていたが、彼はそれを幻聴だと思い込んだ。



 は初めてメローネに拒絶するような態度を取られて打ちのめされる。これまで一度たりとも彼に無視をされたことなど無かった。だが、はずきりと痛む胸を押さえるだけで、メローネを咎めるような声を上げることも、内心で彼を咎めることすらもなかった。

 いくらいつも優しいとは言えども、彼だって人間だ。きっと仕事で何か嫌なことでもあったのだろう。私が彼を怒らせているわけじゃない。長い間一緒に生活していれば、そんな日だってあってもおかしくはない。

 は悲しみに胸を痛めながらも、込み上がってきた思いを呑み込んで家事に手を付けた。時刻は丁度昼時だ。ダイニングテーブルに二人分の昼食を用意していたが、はそれを冷蔵庫に仕舞った。

 一通り部屋の掃除を済ませたはリビングのソファーで仮眠を取っていた。目を覚ましたのは午後六時。窓の外は宵闇に包まれつつあった。おかげで部屋は暗い。そして辺りを見回してもそこにメローネの姿は無い。普段、彼が夕食のために1階へと降りてくる時間はもう一時間経ったくらいなので、自然なことと言えばそうなのだが、昼間のあの出来事を思い出してしまうと、は物悲しくなってまた胸を痛めた。そんな思いを払拭しようと、ソファーから立ち上がりカーテンを閉めて、部屋に明かりを灯す。

 もし七時を過ぎても夕食に降りてこなければ、食事を持って行こう。彼は昼食も取っていないから、お腹はぺこぺこのはずだ。

 そう思ったが、また拒絶されるのではないかという不安が脳裏をかすめる。もしこんなことがこれから先ずっと続いてしまったらどうしよう。私はここから追い出されるんだろうか?もう二度と、彼には会えなくなる?……もしそんなことになったら、私は生きていけない。

 は何が原因か全く分からないまま、良くない方へと考えを膨らませていく。夕食の準備をしなければと先ほどまで思っていたのに、今や何にも手が付けられないほどに、メローネの昼間の態度のことで思い悩んでいた。

メローネ……どうして?私は何か……あなたに悪いことをしたのかしら?苦しい……胸が苦しい……私、どうしたらいいの?

 はソファーに頽れて嗚咽を漏らし始めた。大粒の涙が瞳から零れ落ち、布地を濡らす。

 そんな彼女の姿を、部屋の入り口から顔を覗かせてメローネが眺めていた。腹が減って降りてきた訳では無い。冷静になって考えてみると、二階に籠ろうが籠るまいがふたりが辿る運命に変わりはないと思ったのだ。ただ、悲惨な結末に至るまでの過程まで、悲惨なものにはしたくない。きっとさっきの自分の態度は、彼女を酷く傷つけてしまったはずだ。そんな後悔を機動力として、彼はリビングへと重い足をひきずって行った。

……」

 彼はゆっくりとへ近寄った。身体をぴくぴくと揺らしながら泣いていた彼女はメローネの声を聞いた途端に嗚咽を止めた。そしてゆっくりと身体を起こして、泣きはらした目を擦りながらおもてを上げた。

「メローネ。お腹、空いてない?」

 ひとりで泣いていたことなど一目瞭然だというのに、彼女はそれを悟られまいと必死に取り繕った。何とかいつも通りの日常に戻りたいという一心だ。彼女はそれができると思い込んでいる。だが、メローネには不可能だった。彼は黙ってかぶりを振った後、ソファーに腰掛けた彼女に縋るように床に頽れた。

「メローネ?」

 彼がいつもの彼でないことは昼から分かっていたが、いよいよ“何か良くないことがあった”という実感をに抱かせた。“何か”は分からないが、ただ事では無いのだろう。漠然とそんな予想はできた。だが、次にメローネの口から発されたことは、彼女の想定の範囲内には無かった。

「オレは……君を殺さなくちゃいけない」

 ずきりと、再び胸が痛んだ。は何も言えず、ただ彼女の膝上に突っ伏すメローネの姿をじっと見つめた。

 ――長い長い幸せな夢から醒めたような……そんな感覚に陥っていた。



05: And this is the last time
I'll forget you



 この手で幾人もの女を連れ去り、凌辱し、殺してきた。だからもしかするとこれは、天罰なのかもしれない。神は人を愛するということをオレに教え、愛する者を失くすことがどれほど辛いか教えるために、彼女に巡り合わせたのだ。

 メローネは自室にひとりこもる間、そんなことを考えた。彼は信心深さなど欠片も持たなかったが、彼女に出会った時は神に感謝した。そして今は、彼女と自分を巡り合わせた神を恨んでいる。神の元からを奪い去った報いとすら思える仕打ちだ。結局何もかも神の思い通り。彼女は死んで、神の元に誘われていく。

 彼女を殺さないまま、どうにかできないかと考えもした。だが、リゾットに告げられたボスの指令の内容を全うするには、紛れもない彼女の“死体”が世間に公表されなければならない。別の女の死体に同じDNAを持たせてフェイクを作り上げるなんて能力があれば、彼女を生かしておくことは可能かもしれない。だが、そんな都合のいい能力が仮にあったとしても、彼女はこの先永遠に囚われの身だ。それに殺していないことがバレてしまえば、チームは恐らく殲滅される。ボスの命令を聞かなかったということはつまり、チーム全員の死を意味する。替え等いくらでも効く鉄砲玉の自分たちの命など、ターゲットとされる人間同様に、ボスの前では紙切れ同然なのだ。

 彼は今まで命の重みなど考えたこともなかったが、究極の選択を迫られたこの時初めて、その命題に頭を悩ませた。まるで“トロッコ問題”だ。彼は今まさに、制御不能なトロッコが走る線路の分岐器の傍に立たされている。一方にはが、もう一方の道にはチーム全員が拘束されている。を轢き殺せば、チームが助かる。逆に彼女を生かせば、分岐器に立たされた自分もろともチームの全員が死ぬし、いずれも命を落とす。
 
 仮に、自分が命を差し出せば彼女の命は助けてやると言われたとすれば、彼は迷わず命を投げ出しただろう。自分の命なんかよりも、の命の方が尊いに決まっていると彼は思っているからだ。だが、そもそもの話、問題は命の重みとか漠然とした価値基準の話では無い。落とし前をつけるために誰かが死ねと、数名の内の誰かを生贄にしろと言われているわけではない。

 ボスに目を付けられたが最後。が死ぬという運命は変えられないのだ。

 ――なんだ。こう考えてみれば、普通のトロッコ問題よりだいぶ簡単じゃないか。どうせが死ぬという結末は変えられないんだ。

 そうやって彼女の死を想像するメローネだったが、彼はどこかでその未来を俯瞰するように、誰か他のチームの仲間あたりが彼女を殺した結果を思い浮かべるだけだった。まだ彼は、彼女を殺すという未来を受け入れられないでいる。ただ確実となっている、の死という結果だけを思い浮かべることしかできなかった。彼女に手を下すことになるのは紛れも無い自分だというのに。

 彼は最初の問いに立ち戻った。

 ――ああ、神さま。何で……どうしてオレなんだ……?

 この7か月間、人生史上最高に幸せだった。だが今は奈落の底へと叩き落され、人生史上最悪の絶望を味あわされている。こんなに身を引き裂かれるような思いをするくらいならば、とは出会わなければ良かった。


 
 それが二階の部屋に引きこもっていた間、メローネが悶々と考えていたことだった。彼はリゾットに告げられた仕事の内容を、自分の今の滅茶苦茶になった心情もろともに告げた。告げながら泣いていた。彼は自分を情けないと思いつつも、溢れ出る感情を吐き出さずにはいられなかった。

 はそんな彼の頭を撫でながら言った。

「メローネ。私を殺さないとあなたが死んでしまうというなら、私は喜んであなたの為に死ぬわ」

 自身に縋るメローネがどれほど苦しい思いでいるだろうと、は心を痛めた。自分が死ぬことになるという、メローネに告げられた未来などそっちのけで、ただただ彼を思っていた。最初こそ、彼との未来を断たれるのだと知って絶望したが、例え自分の命が助かったとて、その未来にメローネがいないのであれば意味など無い。だから彼女は自分が死ぬ運命をすんなりと受け入れていた。

「……私ね。もともと死にたくて家を出たのよ。自分で死ぬのは怖かったから、誰かに私を殺してほしかった。それであの夜あなたに出会ったの。最初は怖かったわ。これから何をされるかって想像すると、自分には死ぬ覚悟が無かったんだって分かった。でも、あなたはとても優しくて、蕩けてしまいそうなほどに私を愛してくれた。だから私はここを出て行かなかったし、ますます死にたくないと思ってしまった。この半年の間、あなたとの幸せな未来を思い浮かべたりもしたわ。……でも、その未来にあなたがいないなら、私は生きていたくなんかない。私が死なないとあなたが死んでしまうなら、私は喜んで、あなたの為に死ぬわ」
「ああ、。やめてくれ……そんな風に、君を殺すことを正当化なんてしないでくれ」
「ごめんなさい。ごめんなさいメローネ。あなたはきっと、私と出会ったことを後悔しているのね。でも、私は幸せよ。今この時も、あなたに愛されていることがよくわかるから、この上なく幸せだわ。あなたに出会うまで、人を愛するってことがどういうことなのか全然分からなかった。でも、神様があなたに巡り合わせてくださったから、私は愛を知れたのよ。そして、愛こそ全てだって気づいたの。……もし私が、父の不正を暴こうとして家を捨てなければ、あなたには出会えなかった。そして死んだように生き続けていたんでしょうね。結局父親への復讐は失敗しちゃったみたいだけれど、今はそんなことどうだっていいの。あなたに愛されて死ぬ、今私が辿っている運命の方が断然良いわ。私はあなたに会えて良かった。神様に……初めて感謝したい気分なの」

 彼女はメローネの抱いた思いと真逆のことを言った。

。残されたオレの気持ちはどうなるんだ。オレは今、死にたいほどに辛いってのに……。オレは君を失いたくない。出会ったのが運命だって思えた人は、キミ以外にいない。この先生きていたって、キミほどに愛せる人になんか出会えっこないんだ。キミじゃなきゃだめなんだ……」
「ごめんなさい。私は……今も昔も、自分のことしか考えられないのね。ごめんなさい。でも、私はあなたに死んでほしくなんかない。出会えるわ。メローネ。きっと私以外にも、あなたを愛してくれる女性がいる。ちょっと嫉妬しちゃうけど……でも、あなたの傷ついた心を癒してくれる人が、きっと現れる。それに、あなたには大切な仲間がいるでしょう。ギアッチョとか……他はよく知らないけれど……あなたは彼らの為にも、生きなきゃダメだわ。だから、私を殺して……あなたは生きて?お願いよメローネ」

 もまた泣いていた。だが、嗚咽は止んでいた。彼女にとっては、自分の死によってメローネとの未来を断たれることよりも、今、彼に拒絶されるということの方が辛かったのだ。そしてメローネが打ち明けた話で、彼が本当に、心の底から自分を愛してくれているのだと、真実の愛がふたりにあるのだと確信できた。その喜びの方が大きかったのだ。

「メローネ。あなたは本当に、私と出会わなければ良かったって、思っているの?」
「……。ああ、。愛してるんだ。そんなわけない」
「でも、あなたのボスを怒らせるようなことを私がしなかったら、きっと私はあなたと巡り合えなかった。だから、私が死ぬのは仕方のないことなのよ。それに私は、何度も言うようだけど、あなたの為なら喜んで死ぬし、あなたの為なら死ぬのなんて怖くないわ。けど、ひとつ約束して欲しいの」

 はメローネに上を向くように促し、眉を顰めて涙を流す彼の端正な顔を見つめた。

「何だ?……何だって聞く」
「これから期限がくるまで、私のことをめいいっぱい、愛して欲しい。ずっと私と一緒にいて?これが私の最後のお願い」

 まるで死刑実行の日を間近に控えた死刑囚のようだ。神の教えを説きに来た牧師に聞かれる。「最後の夜、何を食べたい?」は迷わなかった。

「最後の夜も、その夜を迎えるまでもずっと……私はあなたに愛されたい」

 その愛を失った世界で生き続けることになるメローネにとっては、これから先の一カ月間など生き地獄のようなものだ。いや、一カ月なんてものではなく、を、彼女の体温や声、優しさといった彼女の全てを思い出すたびに、どうしようもない喪失感に苛まれ、悲しみに胸を引き裂かれるような思いをすることになるだろう。

 それでもメローネは、彼女を求めずにはいられなかった。このどうしようもない苦しみを紛らわせてくれて、優しく微笑みかけて慰め、自分を受け入れてくれる女性は、以外にいない。彼は激情に駆られ、の唇に噛みつくようにキスをした。

。愛してる」
「ええ。私もよメローネ。死んでもずっと愛してる」



 






「君との初めての旅行がローマか。なあ、もっと他に行きたかったところってないのか」
「……そうね。行きたかったところ……あなたと一緒なら、どこにだって行きたいわ」
「またそうやってデートの場所決めをオレに押し付けるのか?」
「だって……本当にそうなんだもの。……でも、ローマって言ったのは私だったでしょう?」
「そうだな。でもそれって、ローマの休日を見たからだろう」
「ええ。……素敵なお話だった」
「身分違いの恋って設定がさ、まるでオレと君みたいだったよな」
「私……王女様じゃないわ」
「記者と王女っていう差と、ギャングと大金持ちの娘っていう差は同じくらいだろう」
「それはそうとしても、私達とは違うもの。あの二人は結ばれなかったけれど……私達は違う。そうでしょうメローネ」
「ああ。オレ達は結ばれた。だから今も愛し合ってる」
「嬉しい。私、あなたに愛されてるってだけで……・最高に幸せだわ。ねえ、メローネ。キスして?」
「ああ」
「……メローネ。私も……愛してる」
「ああ」
「死んでもずっと…………愛してるわ」
「……ああ」
「もっとあなたと…………一緒にいたかった…………」
。……オレたちはずっと一緒だ……なあ、……そうだろう……?……。なあ。……寝ちまったのか……?……返事を、返事をしてくれ…………」



 トレヴィの泉。ローマでも有数の観光名所として賑わいを見せる場所だ。泉の前のベンチに腰掛けて、メローネとのふたりは身を寄せ合っていた。まだ朝日が昇り始めた頃の早朝ということもあって、周りにはふたり以外に誰もいない。岩を模した彫刻から噴き出す水の音が、辺りを取り囲む建物に反響する。そんな音しか、メローネの耳に届かなくなった。

 はたった今、眠る様に息を引き取った。

 彼女は死んでいるとは思えないほど安らかな顔をしてメローネの肩に頭を乗せていた。寝ているだけだと思いたかった。だが、メローネは彼女が赤い錠剤――安楽死の際に処方される薬だ――を飲み込むところをしっかりと見ていたし、それが彼女を死なせる物だということも理解していた。

 彼女はもう死んでいる。

 頭でそう理解していても、彼の感情は追いついていなかった。なかなか彼女から離れられないのだ。まだ温もりもある。もしかしたらまだ生きているかもしれない。なのにどうして、どうして彼女を一人ここに残して、離れなければならないんだ?

 何度も彼女に声を掛けた。だが、返事はない。彼女の身体は先端から徐々に冷たくなっていく。それでも彼は必死に彼女の名前を呼んで、愛していると繰り返した。愛していると彼が言えば、これまで絶対に返ってきた愛しているという言葉も、もう彼女の口から紡がれることはなかった。

「おい、メローネ」

 現実を受け止めきれず、声を荒げ、取り乱しそうになったメローネの肩に、ギアッチョの手が触れた。

「その辺にしとけ。……はもう死んでる」
「……ああ。そう、だよな……。分かってる。分かってるんだよ……」
「なあメローネ。……ありがとよ」
「……なんでお前に礼なんか言われなきゃならないんだ」
「オレ達にお前を殺させないでくれた。……だからオレは、お前を引きずってでも連れて帰るぜ」

 ――を殺し、メディアの目に晒せ。

 その命令を全うするために、このイタリア屈指の観光名所を選んだのだ。ここに彼が留まって警察にでも捕まってしまえば暗殺の失敗となってしまう。そうなれば、暗殺者チームに課せられる次の仕事は、獄中のメローネを口封じのために始末しろ、というものになるだろう。

「……のことはもう忘れろ」

 ギアッチョには、メローネにを忘れることなどできはしないと分かっていた。だが、そんな言葉以外、彼を慰めるためのセリフが思いつかなかった。何の慰めにもならないその言葉を受けてか、何か他の要因があってかは不明だが、メローネはの冷たくなった体をきつく抱きしめて頬にキスをすると、彼女を背後の壁にもたれかけて立ちあがった。

……これが、彼女を“忘れる”最後のチャンスだ。

 の美しい亡骸を見下ろしながら、彼は思った。

……忘れる?……結局オレは今も、のことを諦めることすらできてない……。

 そして彼はゆっくりとから離れて行く。泉の正面に背を向け階段を上る途中、彼はポケットからコインを取り出し、背後に向かってそれを放り投げた。何枚かのコインが泉の底へと沈んでいく。

「忘れられたらいいのにな」

 ギアッチョは、そう呟いて自分よりも先にの元から去っていくメローネを追いかけた。そしてトレヴィの泉にまつわる言い伝えを思い出す。

 後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶う。投げるコインの枚数によって願いは異なり、一枚ならローマに再び訪れることが、二枚なら大切な人と永遠に一緒にいることが、そして三枚なら恋人や妻や夫と別れることができる。  

 ――忘れられたらいいのに。

 できないことを、できればいいのにと悲願する彼が望んだのは、との完全なる離別では無かった。



 泉のほとりに腰掛けて、は微笑んだ。

「メローネ。さっきは答えられなかったけれど、私達はずっと一緒。私はずっと、あなたを見守っているわ。……これからもずっと、あなたを愛してる」

 その声はメローネに届くことは無かったが、ふたりは確かに、永遠の愛を誓い合っていた。 


(fine)




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