Stockholm Syndrome

 が目を覚まして最初に見たのは、スチール製の冷たい床だった。それは自分の周りを取り囲む格子を境に途切れていて、途切れた先はタイル張りの床。古びた鉄製の傘を被った電灯が、五×十メートル程の大きさの部屋を橙色でぼんやりと照らしている。

 が酷い頭痛にみまわれている頭をもたげようと床に手をつこうとすると、かしゃりと乾いた音が耳に届くだけだった。両手首が手錠で拘束されている。この時初めて、は異常を感じ取り完全に覚醒した。ひとつに束ねられている所為で動かしにくい腕を何とか上手く使い、慌てて身体を起こすと、すぐ頭上に天井が迫った。

 ――檻だ。自分は檻に閉じ込められている。

 そう気づくや否や、ひとつしか確認できない部屋の出入り口が、ガチャリと音を立てて開いた。は反射的に体をびくりと震わせて、背を扉の反対側に位置する格子へと寄せる。

 部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、脇目も振らずにが囚われている檻へ近づいて来たのはひとりの男だった。ラベンダー色の長い頭髪を片側に寄せて、目元を髪と同系色の薄いヴェールの様なアイマスクで覆っている。手元は黒のグローブに包まれ、上体片側の布面積だけやけに少ない奇抜なデザインの黒いジャンプスーツを身に纏っている。

 は男を見て確信した。自分をここに捕らえて拘束しているのはこの男だと。

「やあ。起きたんだね」

 男はにこにことへ笑顔を向けながら、檻の前にしゃがみ込んだ。ポケットから鍵を取り出すと、格子の開口部に括り付けていた南京錠の鍵穴へそれを刺し込んで反時計回りに回した。かちゃりと音を立てて錠が外れ、3重程巻かれた鎖がかちゃかちゃと音を立てて解かれていく。

「さあ、出てきなよ」

 穏やかな、親しみすら帯びた声で、男はを檻の外へ誘いだそうとした。が恐怖に震え、開口部とは反対側の隅で縮こまったままでいると、男はチッと舌打ちをしてすぐに態度を豹変させる。

「出てこいって言ってんだろーが」
「ひっ……」

 男は檻に上半身をねじ込むと、の両手首を拘束する手錠の鎖部分を掴んで、無理矢理彼女を外へ引き出した。冷たいタイル張りの床に投げ打たれたは、泣き崩れそうになる顔面を両手で隠す。彼女はひくひくとしゃくりあげながら身体を揺らし、鼻をすすって泣いていた。男は彼女の傍に再度しゃがみ込みの頭髪を乱暴に掴むと、泣きはらして赤くなった顔を自分の方へと向かせた。男は場違いにも、優し気な微笑みを浮かべていた。

「君にはこれから、ここで暮らしてもらおうと思ってる」
「どう……して……?あなた……いったい……」
「メローネだ。これが初めましてじゃあないんだが、キミはきっとオレたちの出会いなんて覚えてないだろう」

 がそう言われて過去を振り返ろうとしている間、男は彼女の元を離れ、檻のすぐ傍に設置されているスチールフレームの小さなベッドへと足を向けた。

 それはメローネが前にこの場所で“母体”として囲っていた女性と行為に及んでいたベッドだった。その女性を仕事で“使って”からすぐにシーツを取り換えてはいたが、それから数週間ここには来客がなかったので、ベッドにはすっかり埃が被ってしまっていた。メローネが扉付近の壁に張り付いた換気扇を回すスイッチを押すと、どこからともなくファンがかたかたと音を立て、回り始める。再びベッドサイドに立ったメローネは、ベッドから顔を背けながらシーツの端を掴みパタパタと何度か扇ぐようにして埃を払った。



 そこはアジトのすぐ傍にある家の地下室だった。築年数もなかなかのもので、治安など到底いいとは言えないスラムの一画に建っている。メローネはこの家を、老齢の大家にタダも同然の値段で借りていた。ここは彼の住まいだ。

 小さいが二階建ての地下室のある家屋。一階には小さなリビングとキッチンとバスルームがある。二階にはメローネが書斎として使っている部屋と寝室があった。全体的に古びてはいたが、ミニマリストであるメローネの癖もあってか、その内装は整然としていて、急な来客にも対応できるほどの清潔さも保たれていた。来客と言っても彼の仲間がたまに訪れる程度で、その仲間は、この家に地下室があることなど些かも知らなかった。

 彼が仕事で使う能力は暗殺にとても適していたが、いかんせん準備には時間がかかった。ターゲットとなる男の血液と、ターゲットとは全く関係ない女性がひとり、必要になるのだ。仕事を与えられたらすぐそれに取り掛かることができるようにと、彼はターゲットへ差し向ける刺客を生ませる“母体”を、暇があれば近場のクラブなどで漁っていた。

 地下室にはよく、メローネが仕事で使うための“母体”が捕らえられていた。彼女たちが捕らえられ玩具よろしく凌辱を受けた後に、母体兼“子”の養分となって消えるまでの期間はまちまちだったが、女性たちは長ければ一カ月以上の監禁を強いられた。

 その間女性たちは大抵、酒やたばこ、薬物を断たれたことで禁断症状を露わにし、発狂して泣きわめくことになった。だが、生憎彼女たちが捕らえられているのは地下で、外へと通じる唯一の扉はスチール製の分厚いものだった。声を張り上げようとも地上まで届くことはない。仮に届いていたとしても、忌み嫌われるスラムの狭い通りを好き好んで通る人間は少なく、昼も夜も閑散としている。不審に思って助けの手を差し伸べようとする人間などいるはずもなかった。



 スラムに近い繁華街は格好の狩猟場だ。ネオンの品の無い明かりがひしめき合う狭い路地に、メローネ行きつけのクラブがあった。――行きつけと言っても、彼自身がクラブの中に足を踏み入れて、けたたましい音楽に合わせて身体を揺らし、酒を呷ることはなかったが――そのクラブの裏口付近ではいつも、パッショーネでディーラーを務める男が如何にもそれらしい格好をして麻薬を売りさばいていた。メローネはその男と別に顔見知りという訳では無かったが、お互い暗黙の内に、同業者であることを察知していた。

 男はメローネが麻薬を買いもしないで、客を物色するかのように自分の方を見ていることに気づいていた。だからといって特段場所を移すこともせず、まるで非合法に開かれる奴隷を商品としたオークションでハンマーを叩くオークショニアさながらに、自分の客となった女を披露していた。たまに、今までひっきりなしに自分からクスリを買っていた女がぱたりと来なくなったと気づく時もあったが、この界隈ではまだ垢抜けていないティーンエイジャーが毎日のように彼の元を訪れる。だから彼はそれをさして問題とも思わなかった。

 その日もメローネは男の元に立ち寄った。時刻は23時30分。あと少しで日付が変わろうとしているにも拘わらず、クラブの地下からはバスが必要以上に効いた爆音が漏れ出し、ネオンライトは濡れた路面に煌々と明かりを落としていた。鬱陶しい霧雨が頬に纏わりついてくる夜だった。

 メローネは真っ黒なロングコートに身を包み、付属のフードを深く被り、壁の角から顔を覗かせて、クラブの勝手口に面した暗く狭い袋小路の様子を伺っていた。濡れた髪が頬に張り付くのを不快に思ったメローネは、おもむろに自分の顔に手を伸ばす。人差し指で長い髪の束を頬から引き剥がすと、それをそのまま耳にかけた。

 時間も時間で雨も降っているからか、その夜はあまり儲けがなさそうだった。常連と思しきやせ細った不健康そうな男たちが、クラブの裏口から姿を現し、クスリを買っては戻っていったが、メローネが狙うような女性は一向に姿を現さなかった。

 しかし、彼が諦めて家路につこうと足を踏み出したその時、裏口の扉が再度控えめな音を立てながら開かれた。その女は、ピッタリと肌に張り付く黒のミニスカートとライダースジャケットを身に纏う、全身墨とピアスだらけの悪友に背中を押されながら、メローネの前に姿を現した。

 メローネにはその女性が、20代前半に見えた。母体にするには丁度いい年齢だと思った。クスリをやろうとするのは初めてなのか、あまり気乗りしない様子で悪友からディーラーに差し出されている。だが、こんな時間にクラブにいるのだ。きっと酒もたばこも大好きで、精神は荒れ果てているに違いない。クスリにはまだ浸りきっているわけでもないのか、とても健康そうな身体をしている。母体にするにはもってこいだ。メローネはそう思った。

 これは後々彼が思い知ることだったが、彼は完全に見誤っていた。彼女は酒もあまり好んで飲まないし、タバコもまったく吸わなかった。クスリなど以ての外で、クラブに足を運んだのも、運ぼうと思ったのも、彼女がこの世に生を受けてから今までで初めてのことだったのだ。

 彼が長年の経験で培った“母体”に適している女を選び抜くカン。それを無視して彼女を捕らえてしまったのは何故か。

 ――メローネはを一目見た瞬間から、恋に落ちてしまっていた。



01: Let your hatred grow



 は初めて会うわけじゃないと言った男の顔を、もう一度恐る恐る確認した。確かにそうだ。と思った。彼女は思い出したのだ。

 霧雨が降る中、傘もささずにあてどなく退廃した路地裏を歩いていた自分にこのメローネと名乗った男は、約5メートル後方から優しく声をかけてきた。振り向いた先で見た、ところどころ灯った家の明かりだとか街灯だとかに照らしだされた彼のあの時の顔を、は思い浮かべる。それは浮浪者と言うにはあまりにも美しく、善人と言うにはあまりにも冷たい笑みを浮かべていた。



 その時、の手にはお試し価格で手に入れた、少量の麻薬の入った小袋が握られていた。善人の彼女はとっさにそれを小さなショルダーバッグへと突っ込むと、ゆっくりとこちらへ向かって歩み寄ってくる男を見据えた。辺りに他に人はいない。助けも呼べない。心臓がうるさいくらいに高鳴って、喉はからからに乾き始めていた。

 の立つ場所まで残り一メートルというところにまでメローネが迫ると、彼は手に持っていた傘をさして、その下にの体を収めた。

「こんな時間にこんなところで傘もささずに、一体どうしたんだい?」
「ご……ごめんなさい。私、急いで帰らなきゃ」
「……行く当てなんてないんだろう?」

 図星を突かれ、は言葉を詰まらせた。確かに、彼女に行く当てはない。彼女は、彼女を愛し、信じる人たちを裏切り、家から抜け出してきた身だ。自暴自棄になって何日かあたりをほっつきまわっている内に、行きついたのがあのクラブ。そこで知り合った、見るからにヤバそうな女が、イヤなことを忘れるにはもってこいだと言って彼女に紹介したのが“魔法の白い粉”。それは彼女が今まで育ってきた環境では、どうやって手に入れるかすら検討もつかなかったものだ。行くところに行けば、簡単に手に入ってしまうと分かったのも、これが初めてだった。

「行く当てがないなら、オレの家に来ると良い」
 
 は人を疑うことを知らなかった。彼女は最初こそ警戒していたが、物腰が柔らかそうな目の前の男は、魅力的ともとれる微笑みを端正な顔に湛えている。彼女が“冷たい”と形容するその笑みは、実際にそれを向けられている時は少しも冷たいなどとは思えなかった。むしろそれは、孤独な彼女にはほっとする人の温かみさえ感じさせていた。そして彼女はメローネの家に足を踏み入れた。知り合ったばかりの男性の家に転がり込んだのも、彼女の人生で初めてのことだった。

 彼の家のリビングルームには生活感が無く、掃除が行き届いていてとても綺麗だった。彼女がその小さなリビングルーム全域を立ったまま見回していると、メローネは彼女にシャワーを浴びるように言った。が、そうしたいのは山々だが生憎着替えが無い、と言うと、彼は洗い立てで洗剤の香りが残っているTシャツとスウェットパンツを手渡した。サイズは大きかったが、パンツは腰回りの紐をきつく縛って結べば、彼女の腰から下にずり落ちることは無かった。

 シャワーを浴びて彼女がリビングルームに戻ると、メローネは彼女にホットココアを用意していた。1メートル四方の小さなダイニングテーブル上に置かれたそれを彼女に勧めると、はありがとうと頬を緩ませて小さなダイニングチェアーに腰掛けた。



 が思い出せたのはそこまでだ。きっとあのシャワー上がりのドリンクに、何か薬でも盛られたのだろう。壁掛け時計も明り取りも何も無いこの部屋では、今が一体何時なのか検討も付かなかった。だが、おそらく脱水が原因と思われるこのひどい頭痛から察するに、相当長い時間寝ていたのだろう、とは考えた。

「まさか檻に入れられるなんて……」
「何だ、思い出したのか?」

 メローネは叩いたシーツを整えると、ヘッドボードの両側に鎖で繋がれた革のベルトをベッド上に据え置いた。拘束具だ。鎖の長さは短い。狭いベッドではあるが、ヘッドボードに頭を向けて仰向けなりうつ伏せなりで寝かされて手首を拘束されれば、自由に寝返りを打つこともままならないだろう。

「君の危機管理能力が幼児並みだということがわかって、いい勉強になっただろう」

 は昨晩の――恐らく昨晩だ――自分の軽率な行動を呪った。危機管理能力についてメローネにそう揶揄されるのも当然だと思った。人を疑うことを知らない彼女でも、さすがにこれから行われるであろうことが、どんな酷いことかは容易に想像がついた。

 ベッドに縛り付けられ、凌辱され、最後は証拠隠滅のために殺されるのだ。

 メローネは、尚も床に這いつくばり恐怖に震える彼女を優しく抱き上げた。自分の今後の運命を想像してこの上ない恐怖に駆られている彼女には、抵抗する気力すら起きなかった。メローネはをゆっくりベッドへ降ろすと、動けないでいる彼女の手首に、片方ずつ丁寧に革紐を括り付けていく。

「えらく大人しいんだな。大抵の女は猿みたいに暴れ回るんで、うるさくてかなわないから一度殴りつけてやるんだが」

 まるで世間話でも振っているかのような口ぶりだった。はメローネの残忍な性質を、その話だけでしっかりと汲み取っていた。この男を怒らせたら必要以上に痛めつけられることになる。恐怖に打ち震えながら、はそのことだけはしっかりと肝に銘じていた。

 仰向けの状態で手首を拘束されたは極度の緊張状態に陥り、浅く早い呼吸を繰り返すようになっていった。そんな彼女に憐れむような目を向けるメローネはの額におもむろに手を伸ばすと、優しくの額にかかった髪を払い、露わになったそこに慈しむような優しい口づけを落とした。

「落ち着いて。オレは君にひどいことなんてしない。まあそれは、君が暴れなければの話だが……」

 状況にそぐわないひどく優しい声音で、まるで恋人か何かのように語りかけてくるメローネに頭を撫でられると、不思議との呼吸のリズムは整い、息苦しい感覚も次第に薄れていった。メローネはそんな彼女の姿にほっと胸を撫でおろすと、身に着けていたグローブの裾を噛んで外し、口から床へと放った。 

 はゆったりとした呼吸をできるようになったが、依然として恐怖心が彼女の心を支配していた。目尻からは大粒の涙が零れ落ちていく。メローネはまるでそれを吸い取るように、こめかみのあたりに唇を当て、ついばむような短いキスを何度も繰り返した。の頭を撫でていた手はいつの間にか彼女の頬に添えられていたが、それはゆっくりと首筋を伝って胸元へと伸びていった。

「っ……何、するの……?」
「言わないとわからないかい?」

 分かっている。分かってはいたが、それを声に出さずにはいられなかった。彼女はバスルームから出た時、下着は付けていなかった。クラブでは嫌な汗もかいたし、大嫌いなタバコの匂いが充満していて、下着にまでそれが染みついてしまっていたのだ。体を洗った後に再度それを身に着ける気にはなれなかった。だが、まさかこんなことになるとは想像もつかなかったのだ。下着を付けていたところで、拘束されていればいずれ剥ぎ取られただろう。だが、それがあるのと無いのとでは、心の準備だとか覚悟だとかをする猶予期間に差が生まれる。布一枚隔てただけの状態で胸元を這うメローネの指先に与えられる刺激は、彼女にとってあまりにも唐突且つ精強だった。

 彼女の意思に反してぷっくりと主張し始める胸の突端に、メローネの指先が触れる。はとっさに両の目をきゅっと閉じ、小さく息を漏らした。そんな彼女の表情を見て、彼は満足気にふっと口元を綻ばせる。

「こんな状況なのに、こいつはオレを誘ってる。ほんと、体って快楽に正直だよなァ」

 メローネの手は、柔らかさを楽しむようにやわやわと胸を揉み拉きながら、人差し指でその先端へと刺激を与え続けた。耳元に寄せていた口元をおもむろにもう片方の乳房へと近づけると、彼は柔らかな唇で先端を食む。そして舌先を這わせじっとりと湿らせた。唾液で濡れた布地が張り付いて余計に敏感になったそこを、もう片方の手で執拗に刺激してやる。するとは与えられる快感でのぼせあがりそうになる頭を左右に振りながら悶え、必死に理性を手放すまいと足掻いた。

「こんなに優しくしてやってるのに、まだオレが怖いかい?」

 が何も答えないまま短く吐息を漏らしていると、メローネはそうか、分かったと笑いながら彼女の下腹部あたりに膝立ちで跨った。そしてさらなる快楽を与えんと、シャツと素肌の間に手を滑り込ませていく。

 彼の両手が体側を這うと、つられて触れられた肌が粟立っていく。メローネの手の動きに連れ立って、ゆっくりとめくりあげられていくシャツ。そんな光景をまざまざと見せつけられたは、今までにない程の羞恥に駆られ、とっさに目を背けた。やがて地下のひんやりとした空気にさらされた乳首は、さらに主張を強めてメローネの唇を誘った。

 まずはねっとりとふくらみを下から舐め上げられた。そして、突端を中心に円を描くように、メローネの長い舌は唾液で軌跡を残しながら徐々に中央へと寄せられていく。やがて舌が突起に乗り上げると、彼はシャツの上からしたように、再度唇で優しくその突端を食んだ。が呼応するように吐息を漏らすのを確認すると、口を開いて乳房もろとも含み、舌先でころころと蕾を転がしてやる。

「っ……いや、やめて……。もう、やめてっ」
「冗談だろう。君は男を知らないのか?」
「――っ!」

 かしゃりかしゃりと、の両の手首をベッドの両サイドに拘束する鎖が音を立てる。命一杯それを引っ張って、メローネの愛撫を交わすためにヘッドボードの方へ身体を引き上げようと試みただったが、メローネが彼女の下腹部に腰を落としているせいでそれも叶わない。叶ったところで、メローネの嗜虐性をいたずらに擽るだけだ。彼女はベッドから絶対に逃げられない。それでもは、メローネの逆鱗に触れない程度に抵抗をして、何とか理性を保とうと必死になった。

 メローネは屈めていた体を起こし、冷ややかな笑みを浮かべてを見下ろした。そして彼女の膝関節のあたりまで引き下がると、おもむろに彼女のへそのあたりに手を伸ばす。が固く縛っていたスウェットパンツの腰紐を解き、両手でそれを引きずりおろしていく。淡い色合いのサテン生地のショーツが露わになった。は再度羞恥に駆られ顔を手で覆い隠そうとしたが、生憎その行動は限界まで引き寄せられた鎖を軋ませるだけに留まった。成す術無く目を固く閉じ、唇をきつく結んで、彼女は可能な限りベッドへ顔を埋めようと上半身を捻じってみせた。

 メローネは構わず、のツルツルとしたサテンで覆われた恥丘に鼻先を近づけた。彼がバスルームで使うボディーソープの香りがする。それに、昨日からずっとつけている割に、特段分泌物で汚れているわけでもなさそうだ。と、メローネは割れ目に沿ってつーっと人差し指を撫でおろした。

「おかしいな……」

 彼は嗜虐性は十分に持ち合わせていたが、行為中に女性をぶったり、血が出るほどの何か激しいプレイをしたりという趣味は無かった。大抵、一度殴って黙らせれば敵わないと悟って“母体”はある程度従順になった。そして、大抵の女性――メローネは口汚く売女だ何だと罵ったが――は、彼が優しく愛撫してやれば、秘部をしとどに濡らしていた。

 当初から暴れる様子も無く従順な様子なのに、この女は何故?

 ふとメローネは昨晩のことを思い出した。彼女がダイニングテーブルに突っ伏して気を失った後、メローネは何の気なしに彼女のショルダーバッグの中身を覗いていた。マグネットの留め具を外し、蓋を開けた先には、何の皮肉かと思わず笑ってしまいそうな光景が飛び込んできた。

 彼女が慌てて隠したコカインの入った小袋の下に、ロザリオが眠っていたのだ。



「……男を知らないってのは、図星だったんだな?」

 は恥ずかしそうに顔を歪めるだけだ。その沈黙を、メローネは肯定と捉えた。

 婚前交渉を許さない、厳格な家庭で育ったお嬢様。無垢で純粋で清らかで、汚れを知らない、目の前の女。

 メローネはたまらなくなった。まるで、秘境の森の奥深くで、神々しく光り輝くユニコーンでも目の当たりにしたかのような気分だった。胸の中心からとめどなく愛しさがこみ上げてきて、眩暈でも起こしてしまいそうだった。

 彼はの身体に沿って下から這い上がり、再び彼女の顔へ自身のそれを近づけた。愛し気に細められた目が、の視線を捉える。彼女の頭に手のひらが宛がわれると、ゆっくりと慈愛に満ちた動きで、それは乱れた髪を撫でつけた。

 彼が纏うムスクの香りはに身の危険を知らせていたが、それと同時に得も言われぬ色気を感じさせていた。は自分でも信じられない気持ちになった。この目の前の男は、自分に薬を盛り、檻に入れ、今まさに自分を凌辱せんと拘束しているというのに、まるで溢れんばかりの愛を今まさに囁こうとしている恋人に、見つめられている時の様な高揚感を湧き起こさせてくる。

 の恐怖心は、鳴りを潜めはじめていた。




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