Holiday
これは報いだ。人を殺した私への報いだ。人を殺したのに、その罰から逃げた報いだ。だから、この愛を失うのは自業自得なんだ。
メスを持って微笑む――或いは悲しむ――チョコラータの複雑な表情を見てすぐには悟った。今から私は殺される。検死台の上で身体を裂かれ、緩慢に死んでいく。
死ぬことへの恐怖は無かった。痛みを感じないから、生まれてこの方そんなものを抱いたことがなかった。ただ、悲しみしか沸かなかった。チョコラータへの恨みも無かった。彼はに唯一、これ以上ないというほどの愛情を示してくれた。多幸感で満たしてくれた。しかし、その幸せがただの幻想であったことは、悲しくて仕方なかった。ただ、それだけだった。
私は憎まれているのだろうか。それで殺されるのだろうか。私が殺しをした動機と同じで、彼が私を殺そうとしているのは、心の底からの憎しみ故なのだろうか。
は死ぬ前にそれだけを確かめておきたかった。とても、チョコラータに与えられた愛がすべて幻とは思えなかった。これまで自分の身体を蹂躙してきた自分勝手な男たちとは全然違ったからだ。痛みを覚えないからと、人の身体を人とも思わないように犯してきた男たちとは。は涙をボロボロと零しながら言った。
「チョコラータさん。……私のことが、憎くて、殺すんですか?」
すると、チョコラータの表情はやや悲壮感寄りに傾いた。かと思うと、彼の瞳からもボロボロと涙があふれ出し、降ってきた熱い涙はの頬を濡らした。
「違う! おまえを、おまえを憎むもんか……。。私は、私はおまえを愛してる。心から。……これは私の厄介な、生まれついての病気なんだ、。私は人を殺さずにいられない、そんな病気なんだ……!」
だからといって、彼は握ったメスを手放そうとはしなかった。しかし、はそれで満足した。
「良かった」
は、笑った。幸せそうに。ひどく幸せそうに。
何故だ? 何故、笑っている?
「怖くないのか?」
「怖くありません。だって、私は幸せだから。最後に本当の愛を知って死ねるなら、それだけで生きていて良かったって……思えるんです」
チョコラータの頭の中はさらに混乱した。混乱のうちに、この検死台の上で泣き叫ぶ女たちの断末魔が、その絶望した形相が走馬灯のように駆け巡った。前例の無い事態だ。彼は慌てて、鎖骨の間にメスを乗せ、の柔肌を縦に裂いた。
だが、彼女は悲鳴も何も上げなかった。
「何故、まだ……笑っているんだッ……!?」
全身麻酔などかけていない。裂いた肌の狭間には骨と臓物が見えている。だと言うのに、は息ひとつ乱さず微笑みを浮かべたままだ。胸骨の向こうで心膜が動いている。ドクン、ドクンと大きな音を立てて心臓が動いているのだ。規則正しく、美しく、鼓動を打っている。規則正しくだ。――彼女は少しも動じていない。
絶望など、少しもしていない。怖くない。その言葉は強がりでも何でもない。本当に、本当に心から、は今幸せを感じているのだ。
信じられない。
チョコラータの手は震えていた。驚きや、悲しみ、喜び。およそ調和などし得ない感情がないまぜになって、彼の中でせめぎ合っていた。それ以上、彼の手はの身体を裂くことができなかった。
彼女は絶望しない。泣き叫ばない。何故なら、私の真の愛を知ったからだ。――いや。違う。根本的な原因はそれじゃない。愛の力――つまり人間の愛情によって内分秘腺から出るどんなホルモンにも、これほど強力な鎮痛作用はないはずだ。少なくとも、息のひとつも乱れないなどあり得ない。
「おまえ……無痛症か」
チョコラータが訊ねた。
「はい。……さすが、お医者さんですね」
は悲しそうに言った。メスはチョコラータの手から滑り落ち、乾いた音を立てながら床上を幾度か跳ね、ついにソファーが作る暗がりに身を落ち着けた。
チョコラータは精気を失くしたようにふらふらとした足取りで、胸を切り開いたままのから離れ、壁沿いに配置した戸棚へ向かった。
「私が何故、人を殺してきたか教えよう」
腰の高さにある抽斗から医療用の縫合針と糸、その他もろもろの器具を取り出しながら、チョコラータが言った。は黙ってチョコラータの声に耳を傾けた。
「私は、人が絶望する様を観察するのが好きなんだ。泣き叫び、命乞いをしながら、顔をぐしゃぐしゃに歪めて死んでいく、その一連の過程を観察するのが好きなんだ。そうすると、オレは心の底から自分が生きていると――幸せだと感じられる。だから殺すんだ」
チョコラータは縫合針と糸、その他諸々の医療用器具を乗せたトレーを検死台の隅に置くと、の頭上で天井から下がる無影灯の柄に固定していたカメラのボタンを押して撮影を止めた。そして、オリーブ色のマスクと手術帽、ゴム手袋を身につけながら続けた。
「たが、。おまえは絶望しない。何故なら、おまえは無痛症で、痛みを感じないからだ。痛みを感じないので、死への恐怖が希薄なのだ。おまえは幸せな最期を迎えられるから泣き叫びもしなければ、命乞いもしない。顔をぐしゃぐしゃに歪めもしない」
は申し訳なさそうに呟いた。
「ごめんなさい。チョコラータさん。私、あなたをがっかりさせてしまったみたい。……私を嫌いますか? 普通じゃない私を、憎みますか?」
チョコラータは考えた。嫌う? 憎む? を? 普通ではないから?
「いや。……。私は普通であることに価値など感じない。お前が普通でないからと憎んだりしない。人が普通でないことを気にし疎み時に卑下するのは弱いからだ。大抵が自分が無能だからと僻み根性で他人の足を引っ張る下らない人間だ。私はそうじゃない。世間一般が言う普通でないことにこそ価値があると信じている。おまえがそうだ、。私はおまえを特別に感じる」
そう。特別だ。が無痛症と知る前からそうだったが、知った今は尚更特別で、愛しくて仕方がないと感じる。
「それに、こんな気分は初めてだ。変なんだ。私はどこか……ほっとしているんだ」
まったく、前代未聞の事態だ。一度手にかけた女の死の観察を中断するなど。
「私は、おまえを愛している。愛しているからこそ、おまえが絶望する表情はきっと、これまでの人生で最も素晴らしい幸福感を、私に与えてくれるはずだと信じた。けれど、。おまえは絶望しない。今となっては、それで良かったんだと思える。私は結局、おまえを手に掛けるその寸前まで迷っていたんだ。おまえをここで失って、この先本当に後悔しないだろうかと……。後悔するに決まっていたんだ。絶望するに決まっていたんだ。ただ衝動に勝てなかっただけだ。今となっては、おまえが無痛症であって良かったと思っている。私はおまえを殺せない。殺したところで、私は絶望と後悔しか得られないことが確実だとわかったからだ」
人を生かしたいと思って針と糸を持つのも初めてだった。
チョコラータの殺意は目下のところ完全に消失していた。彼の手は死ではなく、生をへ与えるために動き始めた。は彼の真剣な眼差しを見つめる。その横顔はひどく美しい。ここで、の心臓はまた大きく跳ねた。
一方チョコラータは、の身体を傷つけてしまったことすら心の底から悔いながら手を動かした。けれど、彼女をこうして傷つけてみなければ彼は彼女の疾患を――いや、特質を知り得なかっただろう。彼女は無痛症であることを隠したがっていて、事実数ヶ月を共にしたというのにチョコラータはそのことを露とも知らなかったのだから。
実に上手い演技だった。私が手の傷を見ていたときの表情や身体の強張らせ方は、痛みを感じる人間のそれだった。だから私は、何も疑わずにを手にかけたのだ。
全く、不思議な巡り合わせだ。
「ところで、おまえはどうなんだ。おまえを殺そうとした私を、おまえのこの美しい肌を傷つけた私を嫌わないのか。憎まないのか」
「いいえ、少しも。私は今も変わらずあなたを愛しています。……とても、カッコいいです。その、あの……本当に……チョコラータ、さん」
頬を赤く染め顔を背けながら言うの言葉は、真剣で冷静そのものだったチョコラータを少しばかり高揚させた。しかし彼がそうだと他者が悟るのは不可能なほど、手は寸分の狂いもなく動いていた。そして、マスクの下で微笑みを浮かべながら彼は言った。
「確かに、おまえは変わり者らしい」
・は絶望しない。
だからと言ってチョコラータの歪んだ欲望が、未来永劫さっぱり消え失せた訳では無い。彼の病気は――人が死を前に絶望する表情を見て生の実感を得るという先天的な特質は――無痛症と同じく、そう簡単に根本から治療できるようなものではない。
チョコラータは縫合手術の間に黙って考えを巡らせた。先天性無痛症。今のところは不治の病だ。今のところは。
何故これまで、身体に痛みを知覚させるという無痛症患者のための遺伝子治療について積極的に研究されてこなかったのか。第一に、無痛症が症例自体非常に少ない難病であることが挙げられるだろう。そもそも、無痛症であっても自分がそうだと認識しないうちに若くして命を落とす患者が多いと聞く。よって治療法を確立したところで受益者が少ないばかりか、医療研究や臨床、遺伝子治療の確立という労力の割に金にならないのだ。
第二に、痛みを感じないことはリスキーである反面、患者が幼い頃からメンタルケアを行い、自分の身体を尊重すべきという意識付けをし、その上で本人が怪我や病気をしないよう細心の注意を払ってさえいれば、それはもはや治すべき症状などでなく特質と言えてしまうようなものだからだろう。逆に、オピオイドやフェンタニルなどの強力な薬剤による鎮痛作用を必要とするような、日々身体を激痛に蝕まれる患者は山程いる。しかし、鎮痛剤は常用すれば身体に耐性が付き、段々効果が薄れていってしまう。だから、彼らの痛みを緩和するために、無痛症患者の身体で起きている無痛のメカニズムを解明し、逆に人間の身体を無痛にできるようにとの研究は盛んに行われるほどなのだ。
だが、医学界における利潤がどうとか、功績がどうとかなど、もはやチョコラータには一切関係のないことだった。遺伝子治療に付きまとう倫理的な問題がどうとか、そんな“厄介”なことに縛られもしない。この人里離れたゴーストタウンで、彼は好きなときに好きな本を好きなだけ読み学ぶことができる。好きなことのために好きなだけ研究や実験を行うことができる。遺伝医療に関しては全くの畑違いではあるが、そんなことはチョコラータには関係なかった。これから学べばいいのだ。時間はいくらでもある。
「そうだ、。いいことを思いついたぞ!」
の胸の縫合と消毒を終えるなり、チョコラータは目を輝かせながら言った。
「私がおまえの無痛症を治してやる」
「え……? 治るんですか?」
「いや。先天性無痛症は、今のところ不治の病とされている。無自覚の内に出来た傷への対症療法以外にできることはない。だがな、。人間に不可能は無いんだ。人が想像ができることは、必ず人が実現できるのだ」
そして、普通の身体で生まれたかったには、夢のような話だった。もちろん、彼女はきちんと理解していた。自分の無痛症が完璧に治癒した後に、私は壮絶な痛みを覚えながら、今目の前で無邪気に笑う男に殺されるのだと。それでも、はひどく幸せだった。
「嬉しいです」
は心の底からそう思った。
「おまえを殺すのは、病気でも、事故でも、寿命でもない。他の誰でもない、この私だ」
「はい」
「それまで、おまえの命は私が絶対に守る」
「はい。私の心も体もすべて、あなたのものです。チョコラータさん」
チョコラータは満足気な表情を浮べて言った。
「私のガールフレンドになりたいか?」
「私のボーイフレンドになりたいですか?」
質問が交わされた後、チョコラータは肯定の意を込めて、検死台に横たわるの唇にキスを落とした。もまた肯定の意を込めて、彼のキスを受け止めるのだった。
ああ。これが愛だ。これが私の、たったひとつの真実の愛で、おまえは私のすべてなんだ。
10: Bobby Sox
それから、チョコラータさんは私をまるでお姫様みたいに扱った。これまでも優しかったけど、前にもまして優しく接してくれるようになった。一緒にリビングにいる間料理をしようものなら、カウンターの向こうから身を乗り出して、包丁を持つ私の手元を凝視した。曰く、怪我したらすぐに対処するため、だそうだ。
今まで、外に出て激しい運動をしたり、身の危険と隣り合わせの重労働に就いたりしたことはない。怪我しないようにという――母の機嫌を損ねないようにしなければという、恐怖心から身についた――意識は、殆ど幼い頃に身体に染みついている。おかげで成年を迎えることができているわけで、なんて説明をしたところでチョコラータさんは聞いてくれない。
毎晩私を寝室に呼んでベッドに寝かせると、体中くまなく触診して異常がないか確かめる。チョコラータさんの手は優しく、上から順に私の身体をゆっくり辿っていく。
両手で頭を抱えるようにして、親指でまぶたをめくる。口を開かせて中をくまなく覗く。首も両手で包むようにして上から下に撫で下ろし、その後両手の間隔は開いて、片方が片方の鎖骨、肩、腕、手、指先を順に撫でていく。終ると聴診器で心音を聞いて、また触診が始まる。胸、あばら骨、お腹、腰、足の付け根から足の先まで。
終る頃になると、私は完全にのぼせ上がったみたいになっている。彼を求めておなかの底の方がうずいてしまう。よし、異常無しだ。これが触診の終わりを告げるお決まりのセリフだけれど、それを聞いても私は自分の部屋に戻ろうとしない。どうした? そう聞かれると少しじれったく感じてしまう。私は目で訴えるけれど、チョコラータさんはこの時だけ少し意地悪になる。言わなきゃわかんないって顔をしてじっと私を見つめる。でも、私だって負けじとそのものズバリなことは言わない。
「少し、一緒にいてもいいですか?」
顔を真っ赤にしながら――自分の真っ赤な顔なんて見えないけど、たぶんそうなってる――言う。すると、チョコラータさんはやれやれとか、かわいいヤツめとか、そんなことを言いながら、部屋の電気を消して隣に寝てくれる。
チョコラータさんはベッドの中で私を抱き寄せると、額にキスをしてくれる。私はおそるおそる彼に手を伸ばして胸板に手を添える。そして、もっととねだるように顔を見上げると、チョコラータさんは真剣な眼差しを私に向けてゆっくりと顔を近付けてくれる。目を閉じると、唇に唇が重なる。何度も何度も触れては離れて、離れては触れてと繰り返す内に、口付けは深く、深くなっていく。
幸せだ。
温かな抱擁、優しい愛撫、天にも昇るような快感。それらを感じながら、私は幸福感に浸る。例えこの幸せが永遠には続かないとしても。そして、この幸せを与えてくれる人に絶望を与えられることになるとしても。私はきっと後悔なんかしないだろう。
誰にも愛されなかった過去にだけは、もう戻りたくない。ひとりぼっちでいたくない。例え殺されてしまうとしても、私はチョコラータさんと生きていきたい。
あなたがふたりを分かつまで。あなたと共にありたい。これがたった一つの真実の愛で、あなたは私のすべて。