リゾットの作るクリーム・スパゲッティの香りが、ダクトを通って玄関の外にまで漏れていた。
彼はああ見えて辛いものが苦手で、作る料理と言えばだいたい甘みや旨味の効いたクリーム系統のものが多い。中でも件のクリーム・スパゲッティは絶品で、チーズやら牛乳やらに目がないは、リゾットが料理当番を務める日は必ずアジトにいた。まあ、そうでなくてもは大抵アジトにいるのだが。
そんなわけで、早くに会いたいからと、仕事上がりに――土曜の夜であるにもかかわらず――レストランにも寄らず直帰したホルマジオは、食欲をそそる香りに誘われてリビングへと立ち寄った。
「帰ったぜ〜」
いつもの調子で扉を開け、部屋の中へ足を踏み入れる。扉が開く前からホルマジオが帰ってきたのだと音で分かっていたのだろうか。ソファーに座ってこちらに顔を向けていたと目が合った。
「お帰りなさい、ホルマジオ」
頬を赤くしてにっこりと笑うがカワイイ。ホルマジオは足取り軽く彼女の元へ歩み寄って、まるで飼い猫にそうするようにをギュッと抱きしめ、ついでに側頭部に頬擦りをした。
「ただいま〜。……はあああ。。お前の癒やし効果マジに世界一、いや宇宙一だわー」
締まりのない顔で惚気はじめるホルマジオを、キッチンカウンター越しに見たリゾットはやれやれと首を横に振っていた。だが、当事者たちは少しも意に介さずいちゃつきはじめる。
ホルマジオはとのスキンシップをしばらくの間続けたが、きりのいいところで中断して彼女から離れつつ、なんの気無しに足元を見た。その時はじめて、床に転がるものの存在に気付いた。ラベンダー色の長髪。イヤに肌色の多い胴体。狂ったデザインのジャンプスーツ。――メローネだ。メローネが床に突っ伏して伸びている。
「てめぇ一体何のつもりでの足元に寝転がってやがんだ変態!!」
メローネには、例えどんな体勢であれ――生死問わず――のそばにいる資格は無いのである。ホルマジオは足先をメローネの胸と床の間に突っ込んで、オラ!という掛け声と共に胸板を持ち上げひっくり返した。
仰向けになったメローネの顔を見る。白目を向いている。どうやら死んではいないらしいということは分かるのだが、最も目を引いたのは彼の頬に残る引っかき傷だった。ネコのそれとすると四本ある傷の間隔が広すぎる。そばには、イエネコにでもライオンにでも、ネコ科の動物になら何にでもなれる愛しのがいる。
ホルマジオは現状に至るまでのシナリオを脳内で瞬時に作り上げた。
「メローネのやつにセクハラでも受けたか……?」
はチーズケーキを食いそこねた恨みをメローネへぶつけ制裁を終えたつもりでいた。だが、それはあくまでとんでもなく美味しいチーズケーキが冷蔵庫にあると嘘をついて、自分を天国から地獄へ一気に叩き落としたことへ対する報復である。セクハラに対する制裁をメローネはまだ受けていない。
は少しだけ考えて、メローネに情状酌量の余地無しと判断した上で、ホルマジオの問いかけに答えた。
「うーん。まあ、そう」
「このタコいつまでそうしてんだっつってんだよオラァ!!」
怒号を浴びせながら、ホルマジオはメローネのみぞおちに靴を履いたままの硬い踵を叩き込んだ。
「ごふぁっ!」
身を貫かれるかのような痛みによって意識を取り戻したメローネだったが、急所を突かれ今度は呼吸困難に陥りそうになった。上体を起こしながら咳を繰り返し、落ち着きを取り戻したところで大きく深呼吸をして呼吸を整える。立ち上がり顔を上げると、目前に鬼の形相をしたホルマジオの顔面が迫っていた。
「何だ。帰ってたのか、ホルマジオ」
「今てめーにカカト落とし食らわせたのはオレなんだよ。すっとぼけたことばっかやってねーで、さっさと罪を告白しろ」
「……罪だって?オレに罪なんか無いぞ。一体何の話をしてる」
は腕組みをして頬を膨らませ唇を突き出しメローネをねめつけた。
罪が無いだって?ありもしないチーズケーキで私を釣ったくせに!
釣ってさせられされたことに対する怒りよりも食い物の恨みの方が強かった。この際、セクハラはどうでもよかった。はただただチーズケーキが食べたかったのだ。
白を切るつもりでいるらしいメローネの言葉が、の中で収まりかけていた、彼を戒めてやりたいという気持ちを思い出させることになった。
「なあ、ホルマジオ。よく考えてみろ。の存在が、最早罪じゃないか?」
メローネは懺悔するどころか、居直ってに罪があると言い始めた。
「殺されてぇのかてめーは」
「いや待て聞けよ。お前も何度か思ったことがあるだろ。罪な女だって。オレは惑わされただけだ。のスタンド――要は魂と、彼女の容姿。つまり、という存在そのものに惑わされた悲しき罪人なんだ。お前とオレは一緒なんだよ、ホルマジオ」
それは確かにそうだ。だが、最後の一文が気に入らない。誰がこの変態と一緒だって?
ホルマジオはメローネの顎を鷲掴みにして、逃げられないように固定した。利き手では拳を作り、それをみぞおちか顔面に叩き込んでやるつもりでいる。
「いいから、さっさとてめーがにやったことが何か言えっつってんだよ」
「の能力がどんなか追求していただけだ。オレに罪は無い!途中で横道に逸れただけで、最初は純粋な知的好奇心しか持ち合わせていなか――」
「要点を言え!つらつら御託並べて煙に巻こうたってそうはいかねーぞメローネ!!」
「に猫耳としっぽを生やさせました!!」
「かわいすぎるだろうがッ!!」
「フガッ!!」
ホルマジオの拳は予定通りメローネの顔面にめり込んだ。その衝撃でメローネは再度床へ倒れ込むことになった。
倒れ伏す同僚を見下ろしながら怒りに打ち震えるホルマジオ。だが、その発想は無かったとも思った。新たな気づきを得たのだ。が部分的に変身が可能であることは知っていた――手だけネコのそれに変えていたのを見て触ったことがある。肉球がぷにぷにしていて最高だった。そう言えば、まだ踏んでもらっていない――猫の耳としっぽを生やしたなんて、かわいさのあまり目がやられる気しかしなかった。
そんなかわいすぎるをどうしようという妄想はあとでやるとして、ひとまずメローネへの制裁に集中しよう。だが――
「何かまだ腑に落ちねぇ。それだけで、この温厚ながキレててめぇを引っ掻く気がしねー。……。こいつがオレに正直に全てを話すワケがねーんだ。何をされたのか、本当のことをオレに話してくれ。お前の屈辱はオレが晴らす」
「しっぽとおしりを撫でられました」
聞き終わるや否やホルマジオは床に転がったメローネのみぞおちに靴先を叩き込んだ。
は、別にセクハラされたからキレて引っ掻いた訳ではないのだが、と思いつつも、こらしめられているメローネを見るとすっとしたのでよしとした。
「ゴフッ!……お、おい、語弊がある……!いや、語弊しかない!オレは猫と人間の堺がどこか探っていただけだ!!」
「探ってる間にの肌、つまりは尻を撫でたということだろうが!」
「ちがう!厳密に言うと尻ではない!臀部ではなく尾骨の上のあたりだからほとんど腰だ!!」
「うるせーな尻だろうが腰だろうが触ってんだからどちらにせよ有罪なんだよ!!」
ホルマジオはエルボー・ドロップを繰り出し、仰向けになったメローネの胸板に肘鉄を叩き込んだ。
「ガハあッ!!」
筋肉に恵まれていない体――彼は全く武闘派ではないのだ――に、拳やら肘やら足やらを叩き込まれ、メローネは意識が飛びかけていた。
これが萌えの代償か……。だが、悔いはない。リアル猫耳娘を拝めたのだ。リゾットの手前、ホルマジオが本気で自分を殺しにかかるはずもない。耐えろ。もうすぐ飽きてやめるさ。
腕ひしぎ十字固めついでに脛で首を絞められながらメローネは思った。目がチカチカしてきた。意識も遠のいていく。
「それでね」
が呟いた。ホルマジオはメローネに寝技をかけつつ彼女の方へ顔を向けた。
「まだなんかあんのか!?」
「チーズケーキがあるって言ってたから言うこと聞いてたのに、嘘だったんだよ。酷いよね。……あーああ。チーズケーキ食べたかったなぁ」
メローネに、急ぎチーズケーキを買ってこいと言いたいところだが、大切なの体の中に入る物をメローネに買って来させるわけにはいかない――全く信用できない。またマタタビなんか盛られたらたまったもんじゃない――と、ホルマジオは思った。
「。チーズケーキくらい明日オレが買ってきてやるから、今日のところは我慢してくれねーか」
「やったー!ありがとう!」
そう言ってはしゃぐが最高にカワイイ。そしてやはり、彼は思うのだった。
早くここから出なければ。
家探しという喫緊の課題は、メローネの問題行動によって緊急課題へと変貌を遂げたのである。
「ほら。できたぞ」
ホルマジオが帰ってきてからは夕飯の支度に集中していたリゾットが、クリーム・スパゲッティを乗せた大皿と、取り分けるための小皿やフォークを持ってリビングにやってきた。
「ふぁあ〜!美味しそー!いただきま〜す!」
リゾット特製クリームをまとったスモーク・サーモンは世界で一番うまい。
大好きな人たちに囲まれて大好きなスパゲッティの乗った食卓を囲むのは、最高に幸せな時間だ。の気持ちは完全に、食べられなかったチーズケーキから目の前のクリーム・スパゲッティへと移っていた。チーズケーキを食い損ねた口惜しさは、スパゲッティを口に含んだ瞬間に晴れていた。
すっかり一緒に寝るようになったふたりは、その日の夜もベッドでこそこそと会話を楽しんでいた。ホルマジオは隣で横たわるをじっと見つめ、やわらかな頬を撫でながら愛しげに呟いた。
「、お前……やっぱり天使だろ?」
ははにかんで、タオルケットで顔を隠しながら言った。
「天使って……ガラじゃないよ」
ホルマジオは、ペッシがにまたたびを盛ったときのことを思い出していた。ホルマジオのお仕置き――と言うより、ただの鬱憤晴らし――として服を剥ぎ取られ縄で縛られるという恥辱を甘んじて受けながら、リビングで縮こまっていたペッシ。そんな彼に、あなたのことが好きだから、嫌われたくないからと、は優しく手を差し伸べたのだ。あの時は不思議と嫉妬心は湧かなかった。ただただが、懐が深く可愛く美しく、自分にはもったいない――もったいないからと手放す気は微塵も無い――、つまりは出来すぎた最愛のパートナーだということを改めて思い知った。
もちろん、ペッシとプロシュートにの一糸まとわぬ姿を見られたのは癪だったが、それを言えばリゾットだって一番最初に、しかも自分より先にその姿を目撃しているわけで。メローネと違って彼らに下心がある訳では無いということも分かっているし、いつまでもネチネチと根に持ったようなことを言うつもりも無い。
それに、あの時リビングにいた者皆に、が見た目だけでなく中身もいい女だと知らしめることにもなったわけだ。それがどこか誇らしくて、ホルマジオは結果的には幸せだった。
総じて、はやはり天使である。相変わらず彼女は謙遜してばかりだが、それはホルマジオの中で出会ったときから変わらない。そして未来永劫変わらないであろう事実だった。
「お前がそう思ってなくても、オレにとってはそうだし、オレ以外のヤツらにとってもきっとそうだぜ」
「……へへ。ホルマジオに褒められると嬉しいな」
はにっこりと笑ってみせた。
「その笑顔だぜ……。オレはお前のそんな顔を見るたびに、生きていて良かったと幸せを感じるんだ。……愛してるぜ、。オレの天使」
愛を囁かれながら額にキスを落とされてますます嬉しくなったは、まるで猫がそうするように、自分の額をホルマジオの胸にこすりつけた。
「なあ、」
「なあに、ホルマジオ」
ホルマジオは一呼吸置いて、前々から考えていたことを、に話す決心をした。
「一緒に、ここを出ねーか」
「え……?」
はホルマジオをじっと見つめて、彼が言うことの真意を探った。恐らくこういうことなのだろう、と思い至ると、恐る恐る問いかけた。
「それって、よそで……一緒に住むってこと?」
「ああ。……お前とふたりきりで、どこか別の場所に住みてーんだ。アパートでも借りようぜ」
今日のことで、その意志は固まった。あのメローネに、のスタンド能力について知られてしまったのだ。その能力を解いた後、が素っ裸になるという厄介な副作用も知っているし、彼は今日、その能力を悪用して彼女にセクシュアル・ハラスメントをはたらいたのだ。今後も引き続きヤツと居住空間を共にさせるなんて危険極まりない。
とは言え、こればっかりは自分の一存で決められる話ではない。の気持ち抜きで進めていい話ではないのだ。
いいよ、と即答しないに逃げ道を示そうと、ホルマジオは慌てて続けた。
「まあでも……やっぱ家賃もバカになんねーし……お前も知っての通り、オレは金なんか持ってねーから不便な思いさせることになっちまうかもしれねー。だから無理にとは言わねぇが――」
「私、ホルマジオさえ一緒にいてくれるなら、他には何もいらないよ。お金のことなんか気にしない。ふたりなら、何とかなるよ」
その言葉に、ホルマジオはまた胸がいっぱいになる。彼はをまたぎゅっと抱きしめて、頭を優しく撫でた。
「……嬉しいな。ずっとホルマジオのこと独り占めできるなんて、夢みたい」
「ああ、。オレがお前を独り占めしたいだけだってのに……お前ってやつはほんともう」
そう。言った通りだった。を独り占めしたいだけだ。何やかんやと理由を付けてはみたものの、とどのつまりはそれに尽きる。今日起こったことは、前々から抱いていた思いに拍車をかけただけなのだ。
「あ、でも、リゾットが今日みたいにクリーム・スパゲッティ作ってくれる日はここにごはん食べに来たいな」
「そりゃいいな。でもきっと金を取られるぜ」
「それでもその価値はあると思う」
以降は、二人暮らしを始めたらどうするとか、部屋はどんながいいとか、買うべき家具をどうするか、何て話に花が咲いた。
ふたりは、これまでこんなにもウキウキした気持ちになったことがあるだろうかと思った。そしてふたりとも、過去にそんな経験をしたことがないと思い至った。
どれもこれも全て、最愛のパートナーがいてこそのときめきと幸せだ。お互いギャングで殺し屋であるという身の上にも関わらず、これほどの――まるで一般人の恋人同士のような――幸福感を得られている奇跡に、ふたりは感謝していた。
ちなみに、ギャングで殺し屋であるという身の上のふたりが、無事希望通りのリーズナブルな賃貸物件にありつけるかどうかはまた別の話だ。そんなことはホルマジオも分かっている。――彼は既に一人で物件を探しはじめていたのだ――それでも、探している間もきっと楽しいだろう。
とは言え、そう悠長にも構えていられない。ペッシはともかく、メローネがいるのだ。あの変態からは早く距離を取らなければ。
なんて葛藤の末、うとうとし始めたホルマジオが眠りに落ちる寸前まで思い浮かべていたのは、猫耳としっぽを生やし、ついでに手を、あのぷにぷにとした肉球の付いたふさふさのおててに変えたのかわいすぎる姿だった。
(fine)