人間、誰しも一度は思ったことがあるだろう。
日がな一日ごろごろして、何もせず何も考えないでいられる猫になりたい。
イタリア人は大抵がそう思っている。か、そもそも何もしない喜び――
Dolce far niente
――を知っているので、猫になりたいと思うほど緊迫した日々を送る人は少ないかもしれない。だが、・を始めとするギャングの多くは、日々をそうのほほんと生きていられる訳ではなかった。
ろくな仕事にも就けず金はなくその日暮らし。人々の優しさなど受けられず蔑まれ、心はすり減り人間不信に陥る。信じられるのは自分だけ。そんな世界で生き抜くのに猫のような警戒心は必要でも、猫のように一日のほとんどを寝て過ごすなんて気の抜けたことはできないのである。
だからはよく、猫になりたいと思った。猫が物心ついたときからそばにいて、彼らだけが心の拠り所だったし、元々好きだった。だからと言えなくもないが、それ以上にホルマジオと出会う前までは、猫になって全て忘れ自由気ままに生きたいと頻繁に思うような人生を、は送っていた。
きっとそんな過去と願望を持っていたからこそ、ポルポのスタンド“ブラック・サバス”の持つ矢に“プッシーキャット・ドールズ”というスタンド能力を授けられたのだろう。
ともあれ、は常々思っていたことを実現する能力を得た。そういう訳だから、彼女が自由気ままなにゃんこライフを楽しんでみたいと思うのは至極当然であった。
は仕事の無い天気のいい日によく猫に化けた。例の豊かな白い被毛を纏った猫にだ。たまにこの姿で屋根から屋根へ飛び移って散歩をしたり、アジトのテラスに寝転がって日光浴を楽しんだりした。
過酷な夏の日差しが和らいだ秋空の下。かすかな潮の香りを運んでくるそよ風に豊かな被毛をなびかせながら、今日も彼女はごろごろしていた。寝るといけない。寝て精神を――スタンド能力を保てなくなると、たちまち人間の姿に戻ってしまう。そんなことになって、テラスという共用スペースで素っ裸のまま寝ていたら、またホルマジオにしかられる。自分以外の男に裸を見せるなと口を酸っぱくして言われているのだ。彼を心配させたり、悲しませたりするわけにはいかない。
だが、昼下がりの晴れた秋空の下ほどお昼寝に適している場所なんてないじゃないか。はうつらうつらのうちに危うく眠り込んでしまうところだった。
突然、キィっと音を立てて扉が開いた。はびくりと体を揺らしてすぐに体を硬直させた。壁際で腹を上にして――いわゆる“ヘソ天”というやつだ――無防備な格好をしているときだっただけに、反射的に体を起こせなかった。扉を見やると、ペッシが何だか目を輝かせてこちらを見ているのが確認できた。
何だ。ただのペッシか。
はシカトを決め込む。そして特に何も気にしてはいないですよといった風を装って寝たままでいた。ペッシが近付いてきたら逃げるつもりでいたが、幸い彼はテラスにも出ずに屋内へと戻っていく。
あー。すっかり目が冴えちゃったな〜。……それにしても彼は一体ここへ何しに来たんだろう。
ぼうっと青く晴れた空の雲を目で追いながら物思いに耽っていると、屋内からバタバタと足音が響いてくることに気がついた。何事かと思っていると、その足音はバタンバタンと扉を開けたり締めたりする音と共にこちらへ近づいてくる。は今度ばかりは警戒した。そしてヘソ天をやめ、じっとテラスの出入口を見つめる。やがて足音はぱたりと止み、再び扉がゆっくりと開いた。
――またペッシだった。彼が顔だけをひょっこりと出してこちらを見てきた。なんの迷いもなくこちらに目を向けるので、おそらく目的は自分だとは思ったのだが、今度は手に何か携えている。釣り竿?ここでメンテナンスでもしようというのだろうか。そうなら自分は関係ないはず。なぜこっちを見るのだ。はペッシをねめつけた。
ペッシが敷居をまたぎ、テラスへ一歩足を踏み出した。もまた、身を低くした逃げの体勢で前足を一歩横へ送った。だが猫の本能が、離れがたい何かを嗅覚で察知した。逃げようと思っているのに、はペッシを見つめたまま微動だにできなかった。その内にペッシがじわりじわりと距離を詰めてきて、目測三メートルほど目前で止まったかと思えば、見覚えのある平皿の上に彼女が大好きなチーズを置いた。
が冷蔵庫の中にあるのをよくくすねておやつにしている一口サイズのチーズだ。全体が茶色の、おそらくスモークチーズと呼ばれるやつだ。キャンディみたいにビニールの包みに入れられているあれ。彼女の大好物である。
ペッシのだったんだ!そんな気づきを得る。それも束の間、体は勝手にチーズへ向かって動き出した。彼に捕らえられたらもうほとぼりが冷めるまで、つまり彼が満足するまで撫でさせてやるしか無い。まあ、今までくすねてきたチーズの代償としてやろう。仕方がないことだ。と、は思った。
普通に考えれば、愛するホルマジオ以外の男に体を撫で回させるなど彼にとってみれば裏切り行為に近いのだが、チーズを前にするとの思考回路はチーズを中心に回り始めるので仕方がなかった。そもそも彼女は、スタンド能力でも使われない限りにおいては逃げおおせるつもりでいたのだ。
はチーズを食べながら思う。何かおかしい。確かにチーズは大好きだ。だが、自分をここから離れがたくしている要因はチーズではない。そんな気がしたのだ。だが、それが何なのかは判然としない。
釈然としないうちに、はチーズを平らげてしまう。ペッシはまだ二、三個懐にスモークチーズを隠し持っている。そんな音とにおいがする。こうなったら全部もらってしまえ。だが、簡単にくれてやるつもりはないらしい。ペッシはおもむろに釣り竿を操りはじめた。普段釣り針がある場所に羽がついた玩具だ。見る限り針はついていないので、猫の肉球を刺して釣り上げてやろうなんて残酷なことは考えていないらしい。ペッシは、まるでフライフィッシングでもやるように左へ右へと竿の先を揺らしはじめる。それと一緒に、釣り糸の先にくくりつけられた虹色の羽がふさふさと動く。
ああ!や、やめて!体が勝手にッ……!!
動き出すのだ。もうどうにも止まらない。は一心不乱に羽を追った。その内にペッシの顔をねめつける。めちゃくちゃ楽しそうな顔をしている。畜生覚えてろよ。いくら先輩とは言え許さん!!そんなふうに思っても、やはり体は止まらない。
さんざん遊ばれた後にまたチーズを与えられた。何だか前よりも距離を詰められている気がするが、疲れたはそのことを意に介さずチーズをかっくらった。運動の後のチーズが美味い。
そしてまた遊ばれた。そう広くもないテラスだったはずだが人間の自分が感じる広さと、猫の自分が感じる広さは違うのだろう。今はひどく広く感じる。その広い運動場で右へ左へと動かされ息切れ寸前だ。もう勘弁してくれ。誘うように動く羽を睨みつけながらも止まり息を荒げていると、最後にチーズをひとつ、皿の上に置かれた。これがなかったら完全にブチ切れてペッシの寝首をかいているところである。もう十分だろう。さっさと自室にでもリビングにでも戻ってくれないか。
は逃げようと思った。だが、体が動かない。頭がふわふわして、得も言われぬ高揚感が彼女を瞬く間に支配した。一体何事!?何か薬物でも盛られたか!?は皿を見やった。
スモークチーズの下に何か――緑色をした乾燥粉末が見えた。そう知るや否や、また体が勝手に動き出す。
ふ、ふにゃあぁあぁあ。にゃ、にゃにこれぇ〜。
は頭を床にこすりつけながら床に転がった。背中をくねらせながら、右へ左へと体をパタパタとやって、まるで天国にでもいるかのような快感に身悶える。
あ、ヤバい……。これ、マジでまずい……。このままじゃあ……。あ、でももう……なんかもう……何でもいいやぁ……。
ペッシがにこにこ笑っている。彼の無邪気な笑顔を霞みゆく視界に捕らえながら、はその場で意識を失ってしまった。
ペッシは猫派か犬派かと言われると猫派だった。その派閥に入ることができるほど熱烈に猫を愛しているわけではないが、例えば、近場の港にある防波堤なんかに腰を据えて趣味の釣りに没頭している間、人慣れした野良猫がおこぼれにあずかろうと、その小さな額を足にこすりつけてきた時にキュンとしたり、隣にじっと佇んでいたりするのを見てほっこりしたりするくらいには好きだった。
犬が嫌いな訳ではなく、犬よりも猫を好きになる理由が多いというだけで、もしも彼の兄貴分――規律の遵守とチーム内の統率を何よりも重んじる、絶対に犬派っぽいプロシュート――が、犬を見ただけで顔をほころばせ、町中を散歩する彼らを撫でて回るような生粋の犬好きならペッシの心の天秤は犬側に傾くだろうが、生憎プロシュートには度が過ぎた愛犬家魂は培われていなかったし、そもそも彼が犬派かどうかなどペッシは知らない。
プロシュートのことはともかく、最近、暗殺者チームのアジト周辺で猫派のペッシを誘惑するヤツがいた。白く長く豊かな被毛を纏った、美しい猫だ。ここニ、三ヶ月の間に頻繁に見かけるようになった。恐らくこのあたりに居着いているのだろうが、キャットショーに出したら入賞できてしまいそうなほどに美しい毛並みを持っているし、ガリガリに痩せているわけでも、近所の猫好きに餌をもらいまくって丸々と肥えているわけでもない。しっかりと体重管理をされているらしく、美しくいることを求められているような、そんな高貴さを漂わせていた。だから完全なる野良猫ではないのだろう。
一度でいいから、あのふさふさとした軟体を撫でてみたい。できることなら、日向ぼっこをしているその猫のぽかぽかとした腹に、顔を埋めて息を深く吸い込んでみたい。
犬か猫かと聞かれたら、少し考えた後に猫かな、と答えるくらいでしかないペッシにそんな欲望を抱かせるほど、その猫は魅惑的だった。
その猫と懇意になっているヤツもいた。男の名はホルマジオ。チームきっての猫好きである。さすが猫好きというだけあって猫を手懐けるのも得意なのか、あの高貴な猫様を自分の飼い猫のように扱っているのだ。この間はアジトの物干しを置いているテラスの軒下で、例の猫を膝に乗せて撫でながら休憩していた。おかしなことに、その光景を見たときには嫉妬すらした。嫉妬心を抑え恥を忍んで撫でさせてもらえば良かったのだろうが、ペッシもギャングの端くれだ。猫と触れ合って頬を緩ませているところなど、いくら仲間とは言え見られたく無かった。それにきっと、兄貴ならみっともないと言うはずだ。プロシュートに憧れるペッシは心を強く持って、その時は一人と一匹の仲睦まじ気な様子を横目でちらりと見るだけに留めたのだ。
アジトのテラスでホルマジオにそれができるということは、いずれ自分にもチャンスは巡ってくるはずだ。そう信じて彼は準備をした。使い古してそろそろ売りに出そうと考えていた釣り竿に、猫の狩猟本能を刺激するような羽をくくりつけた玩具を作り、部屋の隅にこっそりと置いておいた。そして冷蔵庫の中にいつも、一口サイズのチーズをストックしておいた。いつの間にか誰かに食べられて無くなっている時があったが、猫のために用意しているなどと知られるのが恥ずかしかったので犯人探しはせず、無くなっていたら黙ってスーパーに買いに走った。そして、キャットニップ――別名、イヌハッカ。またの名を西洋マタタビ。ハーブの一種で、ネコを興奮状態にするなどの効能がある――の粉末と精油から作られたスプレーも用意して、必ずこの手で捕え撫で回してやると心に決めていた。
そうしてやっとのことで、ペッシは今日この日を迎えた。
爽やかな秋空の下、テラスの軒下で例の猫が休んでいたのだ。猫はテラスに現れたペッシの方をちらと見ただけで、その後何事もなかったかのように昼寝を続けた。ことの他警戒心は薄いようだ。ペッシはその場を一旦退き、急いで一階に降りてキッチンの冷蔵庫からチーズを、棚から平皿取り出し自室へと向った。そしてキャットニップのスプレーを全身に振り撒き、キャットニップの粉末が入った小袋と、お手製の猫じゃらしを持ってテラスへと舞い戻る。
良かった。猫はまだいた。だが、今度は警戒した様子で扉を開けたペッシの姿をじっと見つめていた。ペッシは猫を撫でると心に決めているので、まず、頭の中で策略を練った。
最初に餌で誘う。餌を置いた所から少し離れて待ち、危害は加えないという意思を伝える。そしてチーズを食べ終わったところで今度は猫じゃらしを使う。遊ばせる間に自分の元へじわじわと近寄らせ、最後にキャットニップで骨抜きにする。
そう、魚を釣るのも猫を釣るのも同じである。ペッシにはそれができるだけの忍耐力がある。時間をかけ、じわじわと獲物を近寄らせ、頃合いを見て釣り上げるスキルがあるのだ。
そんな彼の戦略は面白いほど上手くいった。
身構えた猫がぎりぎり逃げ出さないくらいにまで詰め寄り、皿を置いてチーズを乗せた。猫はペッシを上目遣いに見ながら身を伏せ、チーズに恐る恐る近寄った。警戒しながらもチーズをたいらげたところで、ペッシは扱いなれた釣り竿をあやつり、猫をじゃらしはじめた。右へ左へと必死にばたばた動きながら、たまにジャンプしたりする。かと思えば、止まって尻を右へ左へ小刻みにふりふりして狙いを定めると、一気に羽の元へと駆け出したりする。
か、かわいいッ……!
ペッシは幸せを感じていた。ペットを飼うと長生きできるとか、ストレスが減るとかいう噂を聞くが、それは本当だったのだと納得するに足る癒しを、この数分で得てしまった。ペッシの頬は完全に緩みきっていた。
だが、欲望は尽きない。やっぱりこの猫ちゃんを撫でるまで帰るわけにはいかない。ペッシは猫が遊びに夢中になっている間にじわじわと距離を詰めた。そしてとどめに、チーズにキャットニップの乾燥粉末を添えて与えた。
猫は瞬く間に反応を見せた。小さな額を床にこすりつけながらごろんごろんと転げ回る。小さくニャッニャッと声を上げながら体をくねらせ腹を上に向ける。
猫はすっかり骨抜きになっている。こうなってしまえば、もうこっちのものだ。ペッシはゆっくりと、完全に興奮状態に陥った猫の腹に向かって手を伸ばしていく。――が、様子がおかしい。彼は異様な雰囲気を察知して咄嗟に手を止めた。
まるで事切れたかのようにぱたりと横寝の体勢で止まって動かなくなった猫の、足先から胴体に向かって“肌”が駆けていく。猫の毛が凄まじい勢いで剥げていって、そこから猫の肌が見えているのではない。猫の毛が蒸発でもするかのように跡形もなく消ていったそばから人間の肌――もっと言うと、人間の腕や脚と思しきものがそこに現れはじめたのだ。
何が起こっているのか検討もつかずに目を白黒させつつも、賢明に現状把握に努めようとしたペッシ。彼はふと、猫の手を見た。それはいつの間にか、しっかりと長い手指を5本持った人間の手に変わっていた。彼はまばたきも忘れてゆっくりと手から腕、腕から肩へと視線を這わせ、猫の胴体があったはずの場所に目をやった。
するとそこには、一糸纏わぬ女の体があった。猫が、女に変わっていた。
「――ッ!!」
瞬間、ペッシの情けない悲鳴が乾いた秋空に響き渡った。