ホルマジオはバスルームで歯を磨いていた。身支度を済ませて朝食を取った後、昨晩とした約束についてどうしたもんかと首を傾げ、ぼうっと宙を眺めながら執拗に奥歯にブラシを擦り付けている。
セックスなんてものはしようと言ってするものではない。ムードが大事なのである。ホルマジオはそんなことを考えていた。
昨晩に面と向かって外でしよう、なんて言ってしまっているので、今日一緒にアジトから抜け出すということはつまりセックスをしようと言っているも同然だ。そんなようではムードもへったくれもあったものではない。言ってしまったことは取り消せないし、いくら特殊能力で猫になれると言えども・という女は紛れもなく人間なので、つい八時間前に言ったことを忘れているはずもない。
歯を磨き終えて、口に掌を覆いかぶせて息を吐く。壁を駆け上ってきた呼気を鼻から吸い込んで、口臭をチェック。うん。ミントの香りしかしない。完璧だ。
ちょっと前までタバコを吸っていたホルマジオだが、がアジトに現れてからというものはたと止めてしまった。が猫になれると知ってからは尚更、ニオイで嫌われたくないとタバコを遠ざけていた。プロシュートが近くで吸っていたりすると、わざとらしく煙たがったりして彼の神経を逆なでてやるのだ。あのプロシュートもなかなかのヘヴィースモーカーだが、服も口もたばこ臭いと思ったことがない。そういうところもいけ好かない。ホルマジオはいらついて眉を顰めながらバスルームを出た。
ホルマジオは困っていた。もちろん彼は童貞ではないし、女性のベッドへの誘い方なんて完璧に心得ている。普通の、その辺の女なら困りはしないのだ。相手があの天使こと・だから困っている。彼女との“初めて”はムードたっぷりで最高のものにしたい。忘れられない夜にしてやりたい。なのに出だしから躓いている。
そもそも、初めてが場末のホテルってどうだ。とはいえ、自分ももアジトに居候している身だ。高い金を払ってリゾートホテルの一室でも借りない限り、“初めて”に相応しいところになんて連れていけない。言わずもがな、メローネのやつが扉の向こうにいたり、鏡の中にイルーゾォがいたりしやしないかという心配が常につきまとうアジトの自室でなど初夜は迎えられない。ならいっそのこと近場でアパートの一室でも借りてしまうか。それにしたって、昨日今日でどうにかなる話ではない。
ホテルか、アジトか。――或いは、マジで外……。いや、ムードも何もあったもんじゃねーただの変態プレイじゃあねーか。外は無いな。外は。天使だぞ。相手は天使のなんだ。露出癖持ちの変態女じゃあねーんだぜ。万が一、やってる最中にの裸が、夜中にそういうのを期待して徘徊してる変態野郎のカメラレンズに収められ、あろうことか写真なり動画なりに記録でもされてみろ。殺してしまう自信しかない。の裸を見ていいのはオレだけだ。
オレだけだと思ってすぐに、ホルマジオはリゾットを思い出した。リゾットはの裸を見ている。リゾットに下心など無いだろうし、彼はギャング界隈でも珍しい全幅の信頼を寄せるに足る人格者だ。心配などせずとも良いし見たのがリゾットで良かったとすら言えるのだが、このアジトの中に自分以外で彼女の裸を見た者がいるという事実は、やはり癇に障る。
噂をすればなんとやら。別に口にしていたわけではないのだが、リビングの扉を開けた向こうにリゾットの姿を見つけて、ホルマジオはぎょっとした。幸いリゾットはこちらに背を向けていたので、ホルマジオの動揺には気づいていない。いや、もしかすると空気の動きで察知しているかもしれない。恐ろしい男だ。
「は、早いなリゾット」
「おはよう。……丁度良かった。ホルマジオ、話がある」
リゾットはソファーに向って歩いてくるホルマジオにそこに座れと目で言った。嫌な予感がする。とは言え、リーダーの言うことには逆らえない。ホルマジオがソファーの定位置に腰掛けてすぐ、リゾットはノートパソコンの画面をホルマジオに見せた。
「急だが、仕事を頼まれてくれないか」
「おう。いいぜ。いつだよ」
「今夜だ」
「こ……今夜!?」
「だから急だが、と言ったんだ。なんだ。大事な用事でもあるのか」
仕事より大事なことがあるわけないが、あるのなら言ってみろ。やはり目がそう言っていた。リゾットは少しも不機嫌な顔を見せたりはしないのだが、無表情ながらオーラがすごい。圧もすごい。なのでホルマジオは諦める。
「ね、ねーよ。あるにはあるが……分かってもらえると、思う」
「そうか。次の仕事のターゲットの家に侵入するのに必要な――」
分かってもらえると思う、と言って他でもないと今夜予定があると匂わせたつもりだったのだが、まるで意味がなかった。そうか、の一言で片付けられてしまった。
おい、相手はあのだぞ!他でもないあの、天使のなんだぞ!リゾット、あんたはがかわいくねーのか!?オレが仕事に行っちまって約束すっぽかしちまったら、悲しむのはなんだぞ!?大事にしろよ!ファミリーだろうが!
そんな悲痛な叫びは、ホルマジオの内側で響くだけだった。
「――ホルマジオ。聞いているのか」
「あ、ああ。あれだろ。ターゲットの家に爆弾を仕掛けて――」
「おい、何の話をしている。てんで聞いてないなおまえ。と何か約束でもあるのか知らないが、そういう私情を仕事に持ち込むなと言ってあったはずだ」
「分かってんなら話は早いぜ。そう、と約束があんだ。他のヤツにやらせてくれよ」
リゾットはため息をついて首を横に振った。ホルマジオも中々のキレ者で、がアジトに来る前まで私情で仕事に行けないなんて言うようなことは無かった。完全に浮かれている。浮かれたヤツから死んでいくのだ。
「分かった。オレなりに、今回の仕事に最も適していて、確実に仕事を終わらせることができるのはおまえだと判断した結果だったのだが、と約束があるなら仕方がない。ちなみに、おまえは今オレのおまえに対する信頼とか評価といったものを裏切るに等しい発言で仕事に行きたくないと意思表示をしたわけだ。オレは次もそうなるのではないか、またおまえに失望したくないと、徐々におまえに仕事を振らなくなるかもしれない。そうなるとおまえの取り分は右肩下がり。ろくに満足のいくデートすらできなくなって、は呆れ果て、ゆくゆくは――」
「悪かった!!冗談だ!!冗談に決まってんだろリゾットよぉ〜!行くよ!!仕事する!!というか、仕事をさせてくれ!!申し訳ない、マジで!!この通りだ!!」
「まったく、緩みすぎだ。その気の緩みでヘマなんかやらかすんじゃあないぞ」
ホルマジオがリゾットに平謝りしていると、かちゃ、と音がしてリビングの扉が開いた。ホルマジオは戸口を見やる。
「おはよう、ホルマジオ、リゾット」
「おお!!よく眠れたか〜?」
を目にした途端にしまりのない顔になったホルマジオを見て、リゾットは再度深いため息をついた。
まあ、この男は前から女の前だとこうなるタイプだったのだろう。相手がチームメイトになったことで、彼の内在していた情けない一面を見ることになっただけだ。それに、も幸せそうに笑っている。悪い気はしない。
「、悪い。今夜仕事が入っちまった」
は途端に顔を真っ赤にして慌てふためいた。やはりは昨晩の約束を覚えている。ホルマジオはそんな確証を得た。
だが、これはある意味、再スタートをきるいい機会かもしれない。例の約束は一度白紙に戻すことができた!まあ、との初夜が先延ばしになったのは残念だが、こういうことは慎重に事を運ばなければ。
「そ、そっか。お仕事、頑張ってきて。どれくらいに終わりそう?」
「場所もそんなに離れちゃいねーし、今回は事前準備の潜入ミッションってだけで殺しはねーし、日付が変わる前には帰ってこれる」
何だ。話はちゃんと聞いていたんじゃないか。
ホルマジオが今夜の仕事内容についてに伝えているのを聞いて、リゾットはかすかに眉根を寄せた。
「そっか。気をつけてね。帰り、起きて待ってるから」
「あああああ健気すぎるッ。たまんねええええ。リゾットぉ、ありがとうなぁ〜、こんな天使を仲間に入れてくれてよォ〜」
「おまえのためにをチームに引き入れたつもりは無い」
仕事をしくじって帰ってきたらメタリカで血祭りにあげてやるからな、と心の中で呟いて、リゾットはまたローテーブルに向って仕事を続けた。
「そうだ!仕事に行くまでまだ時間あるし、外に昼飯食いに行こうぜ」
は嬉しそうに微笑んで頷いた。こう、逐一反応が初々しくて可愛らしくて、ああ、オレは愛されてるなぁと感慨深く、そしてたまらなくなる。
ホルマジオの表情筋は緩みに緩みまくる。まったく、見ていられたもんじゃない。リゾットはやれやれと首を横に振った。
「支度してくるからちょっと待ってて」
「おう。ゆっくりでいいぜ。まだリゾットとの話が終わってねぇからよ」
「わかった」
それならとりあえず、カフェラテでも飲んでから身支度にとりかかろう。ついでにふたりにコーヒーでもだしてやろう。
はキッチンに向ってドリンクの準備にとりかかる。コーヒーが出来上がるとふたりに差し出して、自分の分も準備した。は少し大きなマグカップに注いだミルク多めのカフェラテを、ダイニングテーブルについて啜りながら真剣な面持ちでリゾットと話し込むホルマジオの姿を見つめた。
お仕事してるホルマジオも、かっこいいなぁ。
ホルマジオはつい先程まで、そのお仕事とやらをとの約束を優先するために放り投げようとしていたのだが、彼女はそんな情けない彼の姿を知らない。
あの、かっこいい憧れのホルマジオと――。
そう考えただけで顔が真っ赤になる。内なるは舞い上がって歓喜の悲鳴を上げていた。まあ、その“初めて”はお預けを食らってしまったわけだが、昨晩の話が本気だったから自分のことを気にしてさっき声をかけてくれたわけで。
恋する乙女はひとり、いつか訪れであろう時を待ち望んで胸を高鳴らせていた。
はホルマジオとの昼食を済ませ、そのまま仕事に向った彼と別れひとりアジトに戻った。腹が膨れて猛烈な眠気が襲ってきたのでアジトにつくなり自室に向かい、ベッドに潜り込んでひと眠り。そして日が傾きかけたころ、夕食でも準備しようと階下に下りたとき、プロシュートに声をかけられた。
「おい。カルロが用事だと。今夜時間あるか」
カルロと聞いては小首をかしげた。
「まさか、昨日会ったばっかの人間を忘れたわけじゃあねーだろうな」
昨日会った、カルロ、さん?
「ああ。あの美容師の」
「昨日着て出ていった服、置きっぱなしにしたんだってな。それを返すから、ついでに夕飯でもどうだと言ってる」
そう言えば朝服を着替えようとしたとき、着慣れた服が手元に無くて心許ない気分になったのだった。
だが、昨日会ったばかりの――しかも、かなり女ったらし臭が漂う、俗に言うチャラ――男と夕飯になど行きたくない。何を話せばいいかわからないし、リラックスできる気がしない。夕飯くらい安心して食べたいのに。
が唸りながら返答に困っていると、プロシュートが助け船を出す。
「オレもついていってやる。ちょうど夕飯どうしようか悩んでたとこだ。あいつと飲むのも久しぶりだしな」
「それは助かるな。何なら、私荷物受け取ったらそのまま帰るよ」
「バカ野郎。おまえひとり夜道を歩かせられるワケねーだろうが。我慢して黙ってメシ食ってろ」
「私、別にその辺の男くらい秒殺できるんですが」
「それがマズいんだろーが。おまえの身を案じてるんじゃあねー。暗殺者がやたらめったらプライベートで人殺してたら仕事に響く」
「じゃあ兄貴が荷物受け取って帰ってきてくれたらいいじゃん」
「ほう……おまえ、オレを使いっぱしりにしよううってのか。テメーの持ち物くらいテメーでどうにかしろ」
はあ。論争が終わらない。はあからさまにうんざりした様子で目をまわしてため息をついた。こうやってここでああだのこうだのと言うのがもう面倒くさい。
元はと言えば自分の撒いた種だ。ここは折れて大人しくついていってやるか。
「……分かった。行くよ」
「よし。なら出るぞ。カルロの奢りだろうから、たらふく食ってやるといい」
ホルマジオとならフェアに割り勘で、むしろ彼の分まで払ってでも夕食を共にしたいと思うだったが、その他の男との夕食なんて何か自分にメリットがなければ時間の無駄かつストレスでしかない。彼女の無償の愛情はホルマジオに注ぐ分しか用意がないのだ。
最初からタダ飯食らわせてやるとでも言ってくれていれば素直についていったものを。と、は思った。
いいご身分だな、というヤジが飛んできそうだが、口には出していないので許されたい。はただただホルマジオにぞっこんで、その他の男など皆道端の雑草に過ぎない存在としてしか認識していないのだ。雑草が彼女と一緒にいたいのであれば対価を支払うしかない。例えば、毛玉を吐き出させるためにその身を捧げるとか、あたたかなおひさまの日差しを用意して下敷きになるとか。そんなものだ。
ともあれ、猫というやつはそこに飯があれば与える相手が誰であれ脇目も振らずかっ食らってしまうものである。
はカルボナーラ――ペコリーノ・ロマーノとパルミジャーノ・レッジャーノを惜しげもなく使用した濃厚なやつだ――を見た途端、一瞬周りのことがもうどうでもよくなった。だが、パスタを口に運ぶ間男の視線が気になった。目玉だけをちらちら動かして目の前の様子を確認して、落ち着かない様子でいる。
そんな久方ぶりの食事にありつけた野良猫のような素振りを見せるを微笑みを浮かべて眺めるのは、彼女を呼び出した張本人、美容師のカルロであった。
「猫ちゃんみたいでカワイイなぁ」
そう言われてはパスタを喉に詰まらせ咳き込んだ。チームに所属してすぐ、リゾットに言われたのだ。チーム内では仕事の都合上共有することはあるが、自分のスタンド能力がどんなものかという情報は他言無用。
元々自分のことをぺちゃくちゃ喋るタイプではないので大丈夫だと高をくくっていたが、自分で喋っていなくても、相手が察してしまった場合はもう殺すしかなくないか?なんて物騒なことを考えながら、はスタンドを呼び起こす心の準備を始めた。
だが、カルロには猫みたいだと言われただけで、猫になれる能力を持っているな?と言われた訳でもない。今の所、自分の能力がどんなものか知っているのはホルマジオとリゾットだけ――メローネはもしかすると知っているかもしれない。彼はよくリゾットの仕事の相談に乗っているから――で、そのふたりからカルロに伝わる訳はないし、そもそもこの男は一般人だ。
「ていうかさ、何でプロシュートがくんの?オレ、ちゃんとふたりっきりでデートできると思って楽しみにしてたのに」
「おまえ、に男がいるの知ってて言ってるんだよな?そういう性悪なところが良くねぇ」
スタンドの存在すら知らないだろうし、大丈夫だろう。気を取り直したは、口に含んでいた残りのパスタを咀嚼して飲み下した。
このカルボナーラ美味し〜。サイコー!
そんな調子ではカルボナーラをゆっくり味わって食べて、男たちは酒を飲みながらだべっていた。その間、カルロに何が好きなの?とか、休みの日は何してるの?とか好きな男性のタイプは?とか何とか、色々と質問攻めにされたが、全て――奢ってもらっている身として無視はかませないが、この男と本気で会話をしてやる気は無いので――テキトーに返しておいた。
食べるものがなくなると、はチーズケーキを頼んでいいかとたずねた。カルロがもちろん!と快諾したので心置きなく追加注文をした。ケーキをぺろりとたいらげたは、すすめられたワインやらカクテルやらに口を付けて、男たちの話を聞いているのやらいないのやらといった調子でホルマジオのことを考えた。
ああ、早く帰りたい。ホルマジオ、まだ帰ってないかな。もし帰ってたら待ってるって言ったのが嘘になっちゃう。
時間が気になって、はテラス席から窓越しに店内の壁掛け時計を見やった。もうすぐ22時になろうとしている。食べるのに夢中になっていて気づかなかったが、案外時間が経ってしまったらしい。いよいよ本気で帰りたくなってくる。眠いとか言えば帰らせてくれるだろうか。
はプロシュート相手に直談判しようとして、彼が座っているはずの隣の席に目を向けた。だが彼は忽然と姿を消している。
「プロシュートならトイレに行ったよ。君のことちゃんと見てろって言われたから、見てるんだ」
カルロはそう言って誘うようにを見つめた。
その辺の女なら一発で落とせてしまうんだろうが、私はそう簡単にはいかないぞ。相手が悪かったな。諦めろ。
は眉一つ動かさずに黙っていた。カルロは席を立ち身を乗り出して向かいに座るに詰め寄った。
「ねえ、ふたりで抜けない?プロシュートが戻る前にさ。彼が戻ってきたら、君、もう帰っちゃうつもりでしょ?」
「そのつもり」
「ならさ、オレの家が近くにあるよ?」
だから?と言ってやりたい。それにしても、なんてド直球な人だろうか。プレイボーイの鏡みたいな男だ。もうなんでもいいから、早くプロシュートが戻らないかな。何なら置いて一人で帰ってやろうかな。
そんなことを考えている間も、距離はどんどん詰められる。果てには顎をすくい上げられて――
「おい兄ちゃん」
すると突然、背後から唸るような声が聞こえてきた。はとっさに振り向いた。
「オレの女に何の用だ」
「ホルマジオ!」
傍から見れば一悶着ありそうな修羅場だが、ホルマジオ以外の男は皆雑草という認識でいるにそんな自覚が無い。彼女はホルマジオが無事に帰ってきてくれたことと、他でもないホルマジオに“オレの女”と言ってもらえたことをただただ喜ぶばかりだった。