動悸がしてきた。
聖夜を迎えんとする今この時、何故ペッシは激しく胸を打ち鳴らし、アジトから出て行こうとしているのか。
彼には決して破ることのできない約束があった。それを守るために、彼はチームの暗黙の了解を破る必要があった。故に――
「おいペッシ。おまえ一体これからどこに行こうって言うんだよ」
――当然こうなることが予見できていたからだ。ペッシがリビングから外へと向かう扉を前にして、ドアノブへ手をかけ、外へ出ようとしたその時のことだった。彼は背後からホルマジオに肩を掴まれた。ペッシはあまりの緊張に振り向くことすらできず、言葉だけをホルマジオへ返した。
「あ、ああ……ちょっと、外で用事が……」
「そうか。なら、ついでに酒買ってきてくれよ。オレが買ってきた分じゃあ足りそうにねえんだよ」
「あ、その、ごめん。……今夜は、帰らない……つもりで――」
「ああ?」
ホルマジオの低く唸るような声が聞こえてきた。明らかに、ペッシの“裏切り”を察知して怒るかのような声が。
「家族で聖夜を祝おうっていう大事な時に、一体他にどんな大切な用事があるって言うんだ?」
そう言うメローネは、不気味で歪んだ笑顔を浮かべてペッシの背に視線を投げていた。彼はキッチンに立って、まな板の上でミートローフを切り分けている。カン、カンと鋭い音を立て、ナイフの刃先をまな板に打ち付けながら。
「毎年よお……ペッシが釣ってくる魚で作ったカルパッチョをよォ……あれが食えるのを楽しみにしてんだぜ。オレはよォ。……なくねーか?おい、どこだよ?オレはアレがねーと年越せねーんだよ……」
ギアッチョはキッチンカウンターの前に据え置かれたダイニングテーブルについて、ペッシにガンを飛ばしつつ訴えた。確かに去年、ペッシは魚を釣って――シーズンでは無かったので、ビーチボーイまで使って何とか無理くり釣った魚だったが――カルパッチョを作ったが、それをギアッチョが病みつきになって食べていた記憶など一ミリもない。
「ペッシペッシペッシペッシよォ~~~。正直に言ってみろよ。正直なところ、何の用があって今、ここを出て行こうとしてんだァ?」
イルーゾォがソファーの背もたれの向こうから顔だけを覗かせ、ニヤニヤと笑いながら言った。ペッシは意を決して、背後にいる皆に向けて声を上げた。
「そ、そんなの、ッ……なんだっていいだ――」
言い切る前に、ドン!と音を立てて、突然目の前の扉に手のひらが張り付いた。ペッシはたまらず悲鳴を上げ、即座に身を翻して扉の前にへたり込んだ。恐る恐る頭上を見やると、ホルマジオが扉に手を突いて鬼の形相で自分の顔を覗き込んでいた。
「何だっていいだと……?大事な一家団欒をすっぽかす理由が、何だって言い訳ねーだろうがよ。……オラ。早く言えや。理由によっちゃあ許してやる。ばあちゃんかおふくろさんの命日かなにかか」
「ち、違う」
「じゃあ何だ」
ああ。神様。お願いです。オレをここから、この男共の牢獄から、無事に出してください……!
唯一彼の“事情”を知っている頼れる兄貴は今、ここにはいない。だからペッシはもはや神頼みをするしかなった。
「……オレの、ガール・フレンドと――」
ガール・フレンドとペッシが言い放った瞬間、メローネが手に持っていた包丁と、ギアッチョのホワイト・アルバムが空気中の水分を使ってどうにかして形成した鋭利なツララのようなものが、リビングの扉めがけて放たれた。ホルマジオが危険を察知して鮮やかに身をかわしたせいで、それらはペッシの両耳の脇に突き刺さった。
サーッと血の気が引いていく。
「おっと、手が滑った。すまないペッシ」
「わりぃ。オレもついついツララを滑らしちまった」
ツララ滑らせたってなんだ。そんなツッコミが頭に浮かんだが、口を開く前にメローネとギアッチョが手指の関節を鳴らしながら迫ってくるのが見えたものだから、恐ろしくなって彼は唇を引き結んだ。そして扉へ背中をピタリと沿わせながら立ち上がり、正面から顔を背けた。後ろ手にドアノブを握り、いつでも逃げ出せるようにと準備を始める。
「で?よく聞こえなかったんだよ。ガール・フレンドが何だって?」
「まさかよォ、女の家に転がり込んでホワイト・クリスマスをキめ込むつもりじゃあねーだろうなぁ!?」
ホワイト・クリスマスきめ込むってどういう意味だ!?この辺じゃあクリスマスに雪なんかめったに降らないのに。ホワイト・アルバムに何かかけてあるのか!?一体ギアッチョは何を言ってるんだ!?
ペッシにはわからない。そして彼には、この場をどう切り抜けていけばいいかもわからなかった。絶対に避けなければならないのは、ホルマジオ、メローネ、ギアッチョの三人に物理的に捕らえられ――イルーゾォはさっきからペッシの方を見てニヤニヤ笑い続け見物しているだけなので、恐らく手は出してこないと推察された――の家に行けなくなることだ。
愛する彼女との約束を反故にすることだけは、絶対に避けなければならない!ペッシは覚悟を決めていた。再度、意を決して彼は叫ぶように訴えた。
「が……彼女が家で待ってるんだ!だからオレは行くんだ!行くんだよォ!」
「性なる夜にイクってんだな!?オレたちをここに残して、ひとりイッちまうってんだなペッシ!」
「なんていやらしいんだ!?恥を知れ恥を!!」
「は、はあ!?」
ギャハハハとイルーゾォのバカ笑いが響く中、ペッシは例の三人に詰め寄られる。万事休す!そう思われた時、彼が身を寄せる扉の反対側の扉が開く音がした。そびえ立つ壁のせいで誰かは確認できなかったが、リゾットかプロシュートのどちらかだ。ペッシは、プロシュートであってほしいと心の底から願った。そして、神はペッシの願いを聞き入れたようだ。
「うるせーな。もうバカ騒ぎ始めてんのか?……おい待てよ?……ペッシてめぇ」
プロシュートは、三人の立ち姿から垣間見えるペッシの姿を確認した途端、スタスタと彼らへ向かって歩を進めた。そしてメローネとギアッチョの間を割いて、ペッシの襟首を掴み上げた。
「てめぇ、約束があるんじゃあなかったのか!?クリスマスの夜に女を待たせんじゃあねーこのタコ!……おめーらも、何暇を持て余してペッシに絡んでんだ!やめねーか!」
「あ、ありがとう!兄貴!オレ、行ってくる!」
普段なら兄貴の叱責を受けてしょんぼり床に視線を落とすところだが、そんなことをしている暇は無い。ペッシはドアノブを押し下げ扉を引き開け外へと飛び出した。
「ペッシの分際で生意気だ!ペッシのくせに!ペッシのくせに!」
扉が閉まった瞬間、冷たい外気に包まれたメローネが声を荒らげた。
「おい。オレの弟分をけなすような物言いは慎め。お前らみたいな性格悪い頭おかしいのよりよっぽどモテるぞ。アイツは」
「何でだ!?オレ顔はいい自信あるのに!プロシュートにだって負けないのに!」
「おめぇはその顔の良さをゼロかマイナスにするほどの変態ゲス野郎だからな」
その変態ゲス野郎と同等に性格が悪く頭がおかしいと十把一絡げにされたことを遺憾に思ったホルマジオが抗議の声をあげた。
「おい、オレは性格悪くねーし変態でもねーぞ」
「おめぇは女癖が悪いから続かねーし、だから聖夜に一緒にいてもらえねーんだよ」
「……あーね」
納得するしかなかった。
War is Over
「ディナーよし!パネトーネよし!酒よし!」
テーブルの上に置かれた物について指差し確認。次いでは姿見の前に移動し、いつもより色っぽい格好でいる鏡の中の自分をじっと見つめた。
「メイクよし!服装よし!ムダ毛の処理……よし!下着よし!」
・は、ペッシと付き合いはじめて七ヶ月になる十九歳。普段はホテルや喫茶店でウェイトレスをやっている普通の女の子である。普通の、というのはこの場合、ギャングでもなんでもない、という意味だ。故にペッシのことも漁師だと思い込んでいる。――ちなみに、チームの仲間たちも皆漁師で、漁協の寮に皆で住んでいるのだという説明がにはなされていた。
何故彼女が聖夜にここまで気合を入れているのか。それは交際を始めてから七ヶ月の間、ペッシが全く自分に手を出して来なかったからだ。手を出さないどころか、キス――情熱的な、ディープなやつだ――すらまともにしたことがない。
普段は生活リズムが合わないので、なかなか一夜を共にすることができない。だからは、クリスマスにかこつけて、この機に何とか抱いてもらおうと画策しているわけだ。
この日のために、は色々と頑張って準備をした。料理は一週間前から――精力増強となるような素材を混ぜ込んだりして――こつこつ作ってきたし、ムダ毛処理はブラジリアンワックスでバッチリ済ませた。下着だって、かなりエッチなデザインの物を選んで新調したし、服も、ボディラインを強調するような――所謂、童貞殺しの――白いニットワンピースを着ている。酒だって――自分はあまり飲めないのに――大量に買い込んだ。
これだけやれば十分なはず!今日こそは!
は胸を高鳴らせ、今か今かとペッシの到着を待った。
程なくして玄関のベルが鳴った。は扉を開け、意気揚々と客人を出迎える。
「。ごめん、待たせたかな?」
走ってきたのか、息を切らせ、頬を真っ赤にしたペッシが開けた扉の向こうに立っていた。は彼に抱きついて言った。
「いいえペッシ!約束の時間ぴったりよ!さあ、中へ入って!お料理、あなたのためにすごく頑張って作ったの!」
がペッシの肩から外したコートをハンガーへ掛ける間、彼は暖かな部屋の中でダイニングテーブルいっぱいに広げられた料理の数々を見て感嘆のため息を漏らしていた。
「すごい……!どれもすごく美味しそうだ」
それに、こんなにホッとするクリスマスの光景を前にするのも初めてだ。アジトで迎えるクリスマスは楽しいといえば楽しいが、癒やしは皆無。がクリスマスの夜を共に過ごしてくれる。それだけでなく、彼女がいつにも増して腕によりをかけ、自分のためにと、自分の好きな料理を――とは言え食べ物に好き嫌いはない――飲み物で嫌いな物はある。エスプレッソだ――し、が作ってくれたものは何だって残さず食べる。それが流儀だ――準備してくれているおかげだ。ペッシは嬉しくなって、ニコニコと笑顔を浮かべていた。
「おなか空いてない?」
「空いてる。ペコペコだよ」
ここまではいつものペッシだった。さて、料理を食べた後まで、いつも通りのあなたでいられるかしら?なんてことをウキウキと考えながら、もまたいつも通りの振る舞いを見せた。
ペッシはいつもの手料理を褒めすぎなくらいに褒めた。そんなところもいつもと変わらない。そして今日もペッシはが用意した手料理を見事に平らげた。ここまでは順調。の計画通りである。
ふたりは食事を終えるとリビングのテレビ前へ移動した。簡単な肴や切り分けたパネトーネなんかをリビングのローテーブルに置いて、ワインのボトルとグラスも用意した。そしてテレビをつけて、クリスマスのど定番とも言えるような映画を見はじめる。そのうちいいムードになって、どちらからともなくキスをして――
そんなの計画は、滞りを見せはじめた。
――あれ?おかしい。いいムードにならない!ペッシの様子がいつもと全く一緒だ!
は夜十一時を迎えようというときからいよいよ焦りはじめた。このままだと、いつもどおりベッドインしそうだ。もう、ほんとうに、寝るためだけにベッドに入るやつだこれは。
そもそも何故私は、クリスマスならペッシも変わるだろうという幻想を抱いていたのだろう。冷静に考えれば、七ヶ月も辛抱した男が突然牙を剝くわけがないじゃないか。もとより彼は辛抱なんかこれっぽっちもしていなくて、そういう欲求が希薄な男性というだけなのかもしれない。私のことを嫌いな訳じゃないにしても、セックスなんか別にしたいと思っていないのかもしれない。もしそうなら、無理やり迫ったら良くない。お互いの同意の上じゃないとダメだし、もしたまらずシたいと訴えようものなら、私ががっついているみたいでものすごく恥ずかしいし……。
映画の内容などの頭に少しも入ってこなかった。やがて、あれだけ頑張って準備したのがすべて無意味だったのではないかと絶望し、虚無感にさいなまれはじめた。そして最終的には完全に空回りしている自分が惨めになってきて、映画は喜劇だったのに、エンドロールで泣いてしまった。
ペッシはギョッとした。
「え?泣けた?……映画、面白かった、よな?」
「うん……ご、ごめんあの……映画は、そう……」
「大丈夫か?オ、オレ……何か、君を悲しませるようなこと、した?」
ペッシはあたふたしながらの顔を覗き込んだり、自分の頭を掻いたり、の背中をさすったりした。そうしている内にはわんわん声を上げて泣き始めてしまった。ペッシはとにかく彼女をなだめようと賢明になるのだが、結局彼女が落ち着きを取り戻すには、慰めの言葉でなく、時間が必要だった。
しばらくして一応の落ち着きを見せると、はボソボソと小声で話し始めた。
「私って、女としての魅力が無い……?」
「え……?」
何を言ってるんだ。魅力的で、大好きだからこそ今一緒にいるのに。ペッシは言った。
「そんなわけ無いだろ。か……かわいいよ。すごく、かわいい」
ペッシは恥ずかしくなって、から顔を背ける。はちらと彼の顔を伺って、さらに質問を重ねた。
「ならどうして……私のこと、抱いてくれないの?」
「――えッ!?」
「私に、触りたくない?」
「さ、ささ、触る!?」
触りたいに決まってる!
ペッシは、心の中ではすぐにそう返答していた。けれど口には出せなかった。彼が仕事において臆病者であることは、私生活においても変わらなかった。
失敗するかもしれない。失敗して、変なやつだと思われたくない。に嫌われたくない。彼女と一緒に過ごせる時間を、この幸せを、一生手放したくない。
本当はに触れたくて触れたくて仕方がなかった。思い思いに抱きしめて、愛していると言いたかった。けれど、失敗を過度に恐れて言えないでいた。まさに、釣った魚になんとやらという状況に陥っているのだ。
ペッシの理想とする姿はあのプロシュート兄貴である。手前勝手に設定した理想と、現在の自分の在りようとのギャップに、勝手にもがき苦しんでいた。はプロシュートのことなんか少しも知らないのに。彼女の目にはいつだって、目の前にいるペッシのことしか見えていないというのに。
「ごめん、ペッシ。変なやつって思うよね。……私、どうしても確かめたかったの。不安になっちゃって……あなたに必要とされているのか……愛されているのかって……わかん、なくて……」
話しているうちにまたこみ上げてきて、は声を震わせはじめた。そんな姿の彼女を見ていると、ペッシの胸もキリキリと締付けられて息苦しいと感じた。
「さ、触ってほしいのか?オレに……?」
「触ってほしいよ。……頭撫でるとか、背中さするとか……付き合ってなくてもできるくらいのことじゃなくて……ねぇ、ごめんわたし……っ、わたしも、ペッシに触りたいの……。気持ち悪いって、思うよね……ごめん」
はうつむきながら立ち上がり、ローテーブルの上の皿やグラスを片付けはじめようとする。だがペッシがそうはさせなかった。慌てて彼女の手首を掴み、体を引き寄せ、体勢を崩したを、ソファーに腰掛けたまましっかりと抱きとめた。
「。……もしもオレが、君に……その、君の……普段触れないような所に触れたりなんかしたら……君が、オレを気持ち悪がるって思ってた。……嫌われたくなかったんだ」
ペッシは愛しげに、を抱きしめた。
「……気持ち悪いなんて思わない。私、あなたのこと、嫌いになんかならないわ」
もまたペッシの胴に手を回し、そのままぎゅっと彼を抱きしめた。
優しい彼のことが、そのあたたかな体温がこんなにも愛しいのに、どうして嫌いになったりするだろう。ねえ、ペッシ。あなたはどうしてそんなに臆病なの?……ああ、でもね。臆病なあなたが大好き。臆病で、とても優しくて、あたたかな体温から離れがたくて……つまりはあなたのことが、あなたのすべてが好きで好きで、たまらない。
「……愛してる。愛してるの、ペッシ。だから……私に触れて」
はペッシの体から離れ上体を起こし、彼の手を取って掌を頬に当てた。頬ずりをした後、首をたどって手を下へ誘い、そのまま柔らかな白いニットに包まれた乳房の上に乗せた。
「触れて、私を感じてほしい。大切だって思っているなら、触れて、私にそれを教えてほしい。私もあなたに触れて、あなたを感じたい。あなたに、あなたが大切だって伝えたいの」
の心臓が、向こう側で大きく跳ねている。自分のもそうだ。
ペッシはごくりと唾を飲んだ。今まで散々押し留め、溜め込んだ欲望が湧いてくるのが分かった。この渇望を、もう癒やしてやりたい。そう思った。
「……ッ、じゃあ、もう我慢なんか……しないよ」
ペッシはの背中を優しくソファーの座面に寝かせ、目を見つめながら言った。
「途中でやめてって言っても、聞かないからな」
の頬に手を添えて、彼女が流した涙を親指の腹で拭った。そして優しいキスの雨を降らせた後、ふつふつと湧き起こり溢れ出す劣情に身を委ねた。
かくして、は念願叶ってペッシと愛を交わすことができたわけである。ただし誤算があった。彼女が料理に仕込んだ精力剤まがいな食材の数々のおかげか、あるいはそんなもの関係なく、ペッシの素質だったというだけのことかどうかは不明だが、彼の精力は倫を絶していた。寝る間も与えられないようにして夜通し求められたのだ。
明け方、何故かまだピンピンしているペッシが心配そうに言った。
「……なあ、。君、ひいてるんだろ。……だから言ったんだ。オレ……君に嫌われたくないって」
「びっくりは……してる。けど――」
誤算は誤算でも、嬉しい誤算というやつだ。
「――私、もっとあなたのことが好きになっちゃった!メリー・クリスマス!ペッシ、愛してる!」
ふたりのクリスマスはまだ始まったばかり。