Happy Christmas

 イルーゾォは鏡の中の世界へ入り込んでから外へ出ようと考えていた。しかし、その考えは甘かった。まさか、自室のベッドの下に隠し持っていた鏡が消失し、窓という窓には鍵がかけられ――備え付けの鍵だけでない。取手と取手を鎖で纏め、結び目に南京錠がかけられているのだ――鏡という鏡は油性のペンキで黒く塗りつぶされているなどとは思いもしなかった。クリスマスの夜にだ。一体誰がこんな、狂気じみた嫌がらせをしているのか。

 いや、嫌がらせどころの話では無い。もしも聖しこの夜に刺客――敵の存在には全く覚えがないが――がアジトにやってきたなら、我ら暗殺者チームは莫大な戦力をひとつ失うことになるのだ。我らは常に狩る者との慢心もここまで来ると滑稽である。

 などという文句を吐いて捨てる場所はもはやこのアジトに存在しなかった。なんか外に用事でもあんのか? と言いたげなホルマジオやメローネの下卑た視線が、イルーゾォから離れないのだ。

 つい最近、自分に女が出来たという話を酒の席でやってしまったのが仇となったか!

 イルーゾォは優越感に浸りたくてつい口を滑らせてしまったことを心の底から悔いていた。ホルマジオが「クリスマス前の駆け込み需要だな。大して欲しくもねーものを欲しいと錯覚して買っちまうみたいな」という負け惜しみを吐いていたことを覚えている。「クリスマスにはつい、セックスしたくなるもんだよな。オレは聖人だからそうは思わないけどな」とか、ワケのわからないことをメローネがほざいていたのも覚えている。要するに、ひがみ根性から嫌がらせをしているこいつらこそが犯人なのだ。

 もはや、強行突破しかあるまい。

 イルーゾォはそう考えた。ホルマジオにもメローネにも、力で押し負ける気はしなかった。二人がかりでのしかかられたって、どうにか出来る自信がある。ただ、ホルマジオのスタンド――リトル・フィートだけは厄介だ。あれで攻撃されてしまったら、小さくされて、今いるリビングのソファーから玄関までの距離が最悪、ここからナポリ中央駅までの距離ほどに伸びてしまう。……まあ、少し言い過ぎかもしれないが、それもホルマジオがオレを小さくしたあと放って置いてくれた場合の話だ。この性根のひん曲がった男のことだから、小さくしたオレをビン詰めにしてリビングのテーブルの上にでも置いておこうと考えるに違いない。

 ああ、面倒くせぇ! 大体、何なんだ。クリスマスの夜にアジトを出てはいけないなんていう、ワケのわからない暗黙の掟は! オレは今夜、こんなゴロツキの吹き溜まりにいるわけにゃあいかねーんだッ!

 そして、イルーゾォは立ち上がった。

「買い出しに行ってくる」
「買いに行かなきゃなんねーもんなんかもうねえんだよ」

 隣にいたホルマジオが即答し、ソファーとテーブルの間に脚で橋をかけてイルーゾォが出口へ向かおうとするのを阻止した。

「買い出しなんかとっくの昔にしこたま済ましてんだよ。なんてったって、ホリデーシーズンには大抵のスーパーや日用品店が閉まっているからな。この期に及んでいったい何を買いに行こうってつもりなのか言ってみろや」
「ト……トイレットペーパーだよ」
「はっ。んなもん、あるに決まってんだろ。抜かり無く、一週間前に48ロール購入済みだ」
「ぐ、ぬ……」

 この下らないやり取りを見て、メローネがニヤついている。笑いたくなる気持ちはよく分かる。実にアホみたいなやり取りだ。周りからアホと思われるのはプライドが許さない。しかし、今夜は、今夜だけはどうしても――

「おい。誰だ。ここの鏡という鏡を黒く塗りつぶした頭のおかしいヤツは」

 ――救世主。イルーゾォにはそう思われた。彼の後ろに後光が射しているかのようにすら思われた。リゾットである。 

 ホルマジオはすぐにメローネを指差した。リゾットは無表情にメローネに目を向けた。

「便所に行く度嫌な気分になる。今すぐに落としてこい。アジトのものは皆のものだ。大切にしろ。あと、鏡を割ることだけは絶対に許さない」
「だ、だがリゾット! イルーゾォのヤツが今夜外に出ようと――」
「そんなことはどうだっていい。鏡が割れることに比べればな。頑固な汚れになる前にさっさと落としてこいと言っているんだ。ほら、さっさと行かないか」

 リゾットは案外迷信深い――おばあちゃんっ子だったのだろうか――ので、鏡が割れると向こう7年間不幸が付き纏うと本気で思っている。一方、鏡とは大の仲良しで、仕事によっては鏡をなんの躊躇も無く割りまくっているにも関わらず死んでいないイルーゾォは、そんなの迷信だと言ってやりたくてたまらなくなったが、今はリゾットの叱責に心から感謝していたのでとっさに口を噤んだ。

「じゃーな、ホルマジオ。オレは行くぜ」
「クソッ。この裏切り者がアアアッ!!」

 断末魔を背中に浴びて、イルーゾォは普通に玄関から出て行った。なんだ、足に纏わりついてまで外出を阻止しようとまでは思わないんだな、と何なら拍子抜けまでしたのだった。


 
 外は寒かった。大した防寒はしていなかったので、イルーゾォは肩をすぼめて腕を組み、速歩きで道を進んだ。寂れた裏通りだ。家々の窓からは暖かな光が漏れていて、飲めや歌えやと楽しげな声も聞こえてくる、クリスマスの夜。

 ようやく、アジトからいかに抜け出すかという課題から頭が解放されてほっとしたのも束の間、イルーゾォの頭はまた他の心配事に悩まされることとなった。

 実は今夜、イルーゾォは愛する人のもとへ会いに行くと告げてはいなかったのだ。そのことをつい、忘れてしまっていた。メローネによって黒く塗り潰された鏡を見るほんの数秒前まで思い悩んでいたことを、今になって思い出したのだ。

 が家にいなかったらどうしよう。

 もしそうなら、帰るしかない。ただそれだけのことだが、クリスマスの夜に彼女が家にいないという事実が、何か他の嫌なことを想起させてしまう。他の男の家に転がり込んでいるとか、他の男と飲み歩いているとか。

 そんな心配をするくらいなら、最初から予定を取り付けておけば良かったのではと思うかもしれないが、彼は暗殺者である。いつなんどき仕事が入るかわからないし、明日の我が身のことすらわからない身で、未来のことなど約束はできない。無責任に、明日絶対に来るなどとは言えない。そんな発言で、愛するの時間を――命を奪うわけにはいかない。

 だから彼はただ、祈るしかなかった。どうか、愛するが家にいてくれますように、と。



War is Over



 はアパートの二階の窓から外を眺めていた。普段からそこそこ人通りのある町中の小さなアパートだからか、通りは肩を寄せ合う恋人たちや家族連れで埋め尽くされている。

 ――ようにしか見えなかった。中には、ひとりで歩き去る人もいるのだけれど、その人だってきっと、愛する家族が待つ暖かな家へ帰るために速歩きをしているのに違いない。こんな日にひとりぼっちなのは、私だけ。

 ため息をついて、何ということもないただのホットコーヒーをすすり、彼女は愛する男の姿を頭に思い描いた。

 イルーゾォは予告なく現れる。彼は去り際に次はいつ会おうと言って予定を取り付けたりしない。ひょっとしたらクリスマスだけは別かもしれないと期待したが、結局前回もいつも通り、まだ寝床にいたの頬にキスを落とすだけで帰っていった。

 帰っていった先がどこかも知らない。仕事のことも、詳しくは教えてくれない。そればかりか、出身がどこか、誕生日はいつか、両親はどうしているのか……彼の出生にまつわることも教えてくれない。あるいは、そのことについては彼自身が知らないのかもしれない。彼に関することのほとんどが謎に包まれているのだ。

 に分かるのは、彼がひどくハンサムで、ミステリアスで、彼女の興味関心をほしいままにするズルい男だということ。そして、彼女にはひどく紳士的で優しく、一緒にいる間はまるで天国にでもいるような気分にさせてくれるということだった。

 よくよく考えれば、だからと言って正式に交際をスタートした覚えもなかった。イルーゾォという男は「で、結局私達って、どういう関係なの?」という質問など、された瞬間に辟易した顔を隠しもせずに見せつけるタイプだろうと思えてならなかった。そもそももう数回にわたって夜を共にしてベッドを共有し愛を交わしている。今さらするような質問でもない気がした。けれどだからこそ尚更、裏で都合の良い女というレッテルを貼られ、腹を好かせた現金な猫が大の猫好きの足元を見て――猫にそんな邪気はないかもしれないが――寄ってくるように、夜な夜な訪問されているだけなのかもしれないと思えて仕方が無かった。

 悶々と晴れない思いは、夜が深まる内に募り募っていく。だからは、今夜白黒つけるつもりでいたのだ。

 親や兄弟はいない。イルーゾォはそれだけは明言していた。そして、ひとりっ子だったもまた早くに親とは死別しており、その他親族との交流も皆無。お互い天涯孤独の身で、クリスマスに時間を共にするならお互いしかいない。そんな中で放って置かれるなら、最早自分は、イルーゾォの中で何でもない、やはり都合のいいだけの女なのだと思うことにしたのだ。

 そう思った所で、イルーゾォとの――恋人同士としての――関係を簡単に諦められるかどうかは甚だ疑問だった。今夜は絶対に会いたかった。彼女の中で孤独が度し難いほどに膨らんで、弾けてしまいそうだった。だからといって、孤独を埋めるために、他のどうでもいいような男と一緒にいるなんて絶対にいやだ。イルーゾォでないと、ダメだ。

 時計を見る。時刻は午後6時30分。いつもなら、既に玄関扉はノックされていて、既に夕食のためにとレストランへふたりで向かっている時間だった。――7時までは待ってみよう。

 その7時も、どうということもないTV番組を見ながら、何ていうこともないコーヒーを飲み干す内に過ぎてしまった。扉はまだノックされない。ああ、このまま、私はひとりでクリスマスを過ごすことになるんだろうか。家には何も用意していなかった。クリスマスらしいものと言えば、近所のデリで購入したローストビーフくらい。冷蔵庫の中で眠っているあれを買った時、自分は確かに頭の中でイルーゾォの姿を思い描いて浮かれていた。確実に来ると言われたわけでもないのに、浮かれて……何をやっていたんだろう。バカみたいだ。

 7時30分になって、とうとうは虚しさに耐えかねた。これから外に出て何をするつもりでも無かったが、ひとりで部屋に引きこもっているなどまっぴらだと、怒り心頭に鏡の前に立ち、着替えとメイクアップを済ませて家を出た。目にはいつの間にか涙が滲み出ていたが、それを気にするでもなく荒々しく玄関の扉を閉め、鍵穴に鍵を差し込み戸締りを済ませた。そうして振り向いたところで、はひっと息をのんだ。

「めかし込んでどこへ行こうってんだ、お嬢さん」

 アパートの廊下を照らす少ない照明で作られた大きな影が、の身体をすっぽりと覆っていた。――イルーゾォだった。さして慌てるふうでもなく、太く長い腕を伸ばして手のひらを玄関扉へ打ち付け、に熱い視線を向けている。はどきどきと胸が高鳴るのを感じた。もう何度か唇を、身体を重ねてきたのに、未だにこの距離には慣れないのだ。

「べ……別に、どこに行くつもりも、無かったわよ」
「何しに行こうとしてた?」
「それも……特に考えてなかった」
「ん? それは――」

 イルーゾォは首をかしげて目を細め、の顔へ、扉についているのとは反対の手を伸ばして頬を包むと、親指の腹で目尻にあった涙の粒を拭った。

「――泣いていたのか?」
「泣いてなんかないわよ! そんなんじゃ」
「オレのせいだな? 。オレがおまえを、泣かせちまったんだな」
 
 人の話を聞きなさいよ。泣いてたわけじゃないって、言ってるじゃない。

 そう訴える隙も与えずに、イルーゾォはをぎゅっと抱きしめた。外気で冷やされた、ひんやりとした上着が触れてすぐに、彼の体温が優しく彼女の上半身を包んでいった。その心地良さに、彼女は泣かされてしまった。

「悪かったな。泣かすつもりはなかったんだ」
「べつに、いいのよ。そもそも、約束していたわけじゃないじゃない。……あなたが謝ることは、ないわ」
「そうか。……ああ、……いてくれて、良かった」

 来てくれた。私に、会いに。

 素直に、嬉しかった。ほっとした。死ぬほど。内側では素直に喜んでいるのに、その素直さを表には出せなかった。

「おまえに渡したいものがあるんだ」
「……外じゃ寒いし、中に入る?」
「あ……ああ、そうしよう」

 家の中はまだ温かかった。ついさっき消したばかりの暖炉に再び薪をくべて火をつけて、ケトルに残ったままの何ということもないコーヒーをマグへ注ぎ、ダイニングテーブルについていたイルーゾォの前に差し出した。ありがとう、と一言呟いて少しぬるくなったそれを啜った彼の鼻先や頬は赤く染まっていた。

「外、寒かったのね。それにしても、随分薄着だわ。風邪をひくわよ」

 同じテーブルにつきかけたは、ソファーの背もたれに掛けていたブランケットを取ってイルーゾォの肩に巻き付けた。

「悪いな」

 いいのよ、と言って彼から離れ、対面へ向かおうとしたの手を、イルーゾォが掴んだ。ひどく冷たい手だ。温かな自分の手で咄嗟に包んでやりたくなったが、そう思ってすぐに彼の手はの手から離れ、自分のポケットをまさぐった。出てきたのは、深紅のヴェルベットに覆われた小さな小箱だった。

「なにか、おまえに渡したくて」

 奥側の鎹を軸に開かれた小箱の中には、小粒のダイアが眠っていた。シルバーのか細いチェーンを大きな手で器用に取って、小箱をテーブルの上に置くと、イルーゾォは立ちあがった。そしての首に手を回し――彼の手が、少し首に触れただけで胸は再び高鳴った――ネックレスをつけてやった。鎖骨の間に指先を伸ばすと、光を反射して虹色を見せるダイアに触れた。

「クリスマスプレゼントだ」
「これを買いに行ってたの?」
「ああ、それでこんな時間に……。オレが来るって、期待していたんだよな?」

 クリスマスに、プレゼントを用意して、会いに来てくれたのだ。私は確かに、愛されている。そして私も確かに、彼を愛している。

 は涙を浮かべながら微笑んだ。

「うん。あなたに、どうしても会いたかった。……プレゼント、嬉しいよ。ありがとう」
「そうか、そりゃあ……良かった」
「ああ、どうしよう。私は、あなたに何も用意してないわ」

 イルーゾォはきょとんとした顔でしばらく困り顔のを見つめた後、再び彼女の体を抱き寄せて耳元で囁いた。

「いいんだよ。オレには、“これ”が一番のプレゼントだ」
「これ……って、なんのこと?」
「分かっているくせに、とぼけるんじゃあねえ」

 鼻先が触れ合った。互いの熱い息が顔にかかって、のぼせ上る。
 
「おまえだよ」

 ほぼ同時に目を瞑り、唇が触れ合うのを感じた。深く舌を絡ませあい、お互いを求めあう。

「おまえがそばにいてくれるだけで……オレは幸せなんだ」

 この何気ない呟きがにとって、一番のプレゼントだった。



「それで……だ」

 時刻は午前零時。ベッドの上でイルーゾォは言った。は彼の胸に耳や頬をあてて、広く厚い胸で響く彼の声に心地よくひたっていた。

「家を出て行こうとするおまえの姿を見て、この瞬間ここにいて良かった。そうでなかったら、オレはこのプレゼントを一生無駄に、チェストの肥やしにするところだったのだと気付いて肝を冷やしたんだが」
「ふーん。それは……そうだったかもね」
「な、何ッ……やっぱりそうだったのか!?」
「今日会えなかったら、その程度の仲だったんだって諦めようと思っていたのよ、私」
「あ、危なかった」
「ふふ。反省しているなら、許してあげる」

 は可笑しくなってくすくすと笑い、イルーゾォの胸に頬擦りをした。すると彼の大きな手の平が頭を撫でる。それで、心の底からの安息と愛しさがこみあげてくるのを感じた。
 
「だから、おまえに……言っておこうと思ってな」
「なにを?」
「おまえのことを……心から愛してる。、おまえ以外に……大切に思える女なんかいない」
「それで?」
「今まで、うやむやにしていただろ。……オレ達の関係について」
「ふむふむ」
「おいなんだ、その、茶化すみたいな言い方は」
「ごめんごめん。だって、まさかあなたからそんな話を切り出すなんて思わなくて」

 イルーゾォの顔が不安に駆られたように見えて、は慌てて続けた。

「私もね、その話はしたかったのよ。だってあなた、いつも去り際に次に会う予定取り付けていかないんだもの。私、あなたの都合のいい女になり下がっているんだわって……ついさっきまで絶望してたんだから」
、そんなつもりは無い。おまえはオレにとって――」
「いいのよ。恥ずかしいから、今まで言えなかっただけなのよね。無理しないで」

 は半身を起こし、イルーゾォの頬にかかったブルネットの髪を脇へどけて、じっと瞳を見つめた。愛しい、愛しい……図体はでかいのに、どこか子犬のような……構わずにはいられない男の瞳を。

「クリスマスの夜に、私をひとりにしないでいてくれたというだけで……あなたの思いは十分に伝わってる」

 大きな目を細め、愛し気にイルーゾォを見つめる。彼女の胸元には、一粒のダイアが薄闇の中できらめいていた。初めてそれを手にとった時、イルーゾォはを思い浮かべていた。喜んでくれるだろうか、という期待の前に、暗闇に射すたった一つの光を連想した。まるで、そのものだ。美しく輝いて、明るい未来へといざなってくれる。

「だが、敢えて言わせてくれ」
「ええ」

 イルーゾォも、の頬に手のひらをあてがった。

「おまえは、オレの生きるための希望だ。だから……これから先も、オレと一緒にいてほしい」

 心からの、真摯な言葉だと分かった。だからはすぐに頷いた。

「ええ。もちろんよ、イルーゾォ。私も、あなたとずっと一緒にいたい。これから先も、こうやってクリスマスを何度も何度も、あなたと過ごしたいわ」

 は、本日何度目とも知れないキスをイルーゾォに送った。彼もまた、本日幾度目とも知れない幸せに身を委ねたあと、思い出した。

「ああ、そう言えば……挨拶がまだだったな。ブォン・ナターレ、
「ええ。最高のクリスマスに、一緒にいてくれてありがとう、イルーゾォ」