こめかみに金属の冷たさを感じる。そのくぼみへ捩じ込むほどの圧力を感じないあたりに、は男なりの優しさや紳士らしさを感じた。
あの運命の日を迎えて以来、銃を見ても少しも恐ろしいと思えなくなった。以前は、会社の保管庫や社員が携帯しているのを見て眉根を寄せるくらいの忌避感があったはずなのに、今ではこめかみに銃口を突きつけられたってどうということもない。
だめよね。こういう“恐怖”を忘れて慣れてきた頃が最も危険だわ。とくにこの世界では、そのタイミングに一瞬で足をすくわれかねない。今までの私の世界では無いから、ポルポが生み出したスタンド使いがうようよしているかもしれないし。気を引き締めるの、・。
「聞いてんのか、オイ。おまえが父親の意志を継いでいないと、どう証明するって言うんだ?」
「私がこの手で父親を殺したと言って、それが真実だということはペリーコロさんに証言していただけます。……それ以上のものを何か提示しろと? それは不可能です。私が私の内面を口に出して言ったところで、疑い深い方はずっと私に穿った目を向けるでしょうし。……私は別に、それで構いませんが」
舐めた口を利くなとでも言いたげな男の銃が、ここに来てやっとのこめかみに食い込んだ。
ナポリ郊外に、広大なぶどう畑を有する邸宅がポツンと一軒建っていた。パッショーネが所有する土地のひとつだ。組織の上層部は、イタリア各地にあるこのような邸宅を転々としつつ一堂に会し、ことあるごとに会合なりパーティなりを開いた。今回開かれるのは、亡きロマーノ・の後釜に座る新顔のお披露目を目的とした会合だ。幹部各々ご自慢の高級車で会場のロータリーまで乗り付ける。そして彼らは、広々とした応接間に通された。
新顔が女だと分かるなり、皆は主役に好奇の目を向けた。まるで品定めでもするように上から下まで、をとっくりと眺めた。皆が好みだとか好みじゃないとか好き勝手なことを思い浮かべ、仲のいい者同士でこそこそと何か耳打ちし合う内にペリーコロが再度口を開く。そしてをロマーノ・の娘だと紹介するなり場は騒然とした。裏切り者の娘だぞ、と皆が口々にロマーノを、そしてのことをも罵った。だがこういう時は、皆に気が済むまで言いたいことを言わせるのが得策だと、幹部の中でも特に重鎮であるペリーコロは場を鎮めようとはしなかった。も特に、ペリーコロへ助けを求めて視線を流したりもしなかった。腕と足を組み、座席に深々と腰を据えたまま前をじっと見つめていた。そうしていると、件の銃口を幹部の一人――名はヴィンチェンツォ・ディ・ジェノヴァ。齢三十二の若手で、イタリア北西部の一部を統括する男――がに歩み寄り、彼女のこめかみに銃口を突きつけたのだ。
そうされても、身をこわばらせすらしない女。ロマーノの娘、・。彼女のことを、金持ちで世間知らずな温室育ちのお嬢様だと思い込んだ男は、あまりに動じない彼女の言動にイラつきを通り越して畏怖の念すら抱き始めていた。
「その辺にしておけ、ヴィンチェンツォ」
ペリーコロはやっとのことで口を開いた。彼にはを女だからと特別扱いするつもりはなかったのだが、イタリア男の血が騒いだのだろうか。目の前の光景をとても見ていられずに血気盛んな若手幹部を牽制した。しかし、ヴィンチェンツォは、ペリーコロの制止の声を無視して銃の引き金を引いた。
「――まったく。女性に銃口を突き付けるだけならまだしも、本気で撃って脅すなんて、頭どうかしてるんじゃあないの、コイツ!!」
は、身の危険を察知して発動したディスティニーズ・チャイルドの箱の中で、ほとんど制止したように見える男ににじり寄りながら怒り心頭に言った。ヴィンチェンツォは銃口を彼女の頭からそらし、床に向かって発砲したらしい。普通なら恐怖におののき悲鳴でも上げるのだろうが、はむしろこの状況を楽しんでいた。怒っているのは口先だけで、心がスリルに躍動するのを感じてもいたのだ。彼女はそんな自分を再度戒め、落ち着いて現状の把握に努めた。――“災い”は、他には無さそうだ。
「……今回はあなたの力で何かを抹消する必要は無さそうね。この状況で彼の銃や弾丸を奪うのは、自分の能力をひけらかすようなものだわ。この人もきっと、これ以上のことはしてこないはずだし」
そばに佇むディスティニーズ・チャイルドはこくりと頷いた。
「ここにはスタンド使いが隠れているかもしれないんだもの。下手に手の内を見せるべきじゃあない。あなたも、そう思うわよね?」
はディスティニーズ・チャイルドをまじまじと見つめた。彼女のスタンドは、と目を合わせてゆっくりとまばたきをして、今度はじっくりと頷いて見せただけだった。
「……なんか、無口になったわね?」
そう問いかけても、ディスティニーズ・チャイルドはなんの反応も示さなかった。前はあれだけペラペラ喋ってお節介を焼いてくれたのに、一体どうしたと言うのだろう。
「まあ、いいわ。能力を解除してちょうだい」
ディスティニーズ・チャイルドはまたこくりと頷いて、何も言わず主の命に従った。
「へえ。カワイイ顔をしているくせに、肝の方はそこそこ座っているらしいな」
至近距離で鳴った銃声にぴくりともしないに感心したように、ヴィンチェンツォは言った。だが、その肝の座った、幹部になりたてのくせに幹部然としている女にはやはり、歓迎の心など湧きはしなかった。
まあいい。この女が何かしてやろうって腹でいて、そのうち何かしでかしそうになったのなら……殺すのはその時だ。
ヴィンチェンツォは銃を仕舞い席に戻った。
「気は済んだか? まったく、血の気の多いことだな」
ペリーコロは続けた。
「いいか、皆。彼女、・はポルポの試験を受けみごと合格し、その上で組織へ、幹部になるのに十分な金を献上した。裏切り者の父親を彼女自身が始末するところは、ワシがこの目で確かに見た。そう伝えた時点でボスは彼女の組入を承諾したのだ。いくら納得がいかなかろうが、が言った通り、これ以上の事実は無い。押し問答など時間の無駄だ。だからそんなことより、このめでたい日に皆で酒を飲もうじゃあないか」
ペリーコロはグラスに注がれた赤ワインを掲げる。とヴィンチェンツォ、そして彼の放った銃弾や、その銃声にぴくりともしなかったの姿を見て舌を巻いた他の幹部たちも、ペリーコロに倣いグラスを掲げた。
「幹部、・の組入を祝して」
一堂に会した皆が一斉に、掲げられた杯の中のワインを飲み下した。こうして形だけの歓迎を受け、は思い立ってたった二週間の内にパッショーネの幹部となり果せ、パッショーネの幹部皆にその名を知らしめたのである。
楽しかった!
は幹部会を終え、邸宅を後にしてすぐにそう思った。市街地へと向かう車の窓から外を眺める。遮るものの何もない広大なぶどう畑の向こう側では、ナポリ湾が大きな夕日を冠していた。美しいその景色に、心が洗われるようだった。
それと同時に思い浮かんだのは、物悲しさだ。黄昏時に覚える物悲しさ。遊園地へ遊びに行って、もう帰るぞと親に手を引かれるときの子供が覚えるような。
ディスティニーズ・チャイルドがめっきり喋らなくなった。
今まで気付かなかったが、心の中も静かなような気がする。気づいてすぐ、夕日が放つ光が、過ぎ去るトラックの鈑金に反射しての目を覆った。――閃光。一瞬盲目になった彼女は、咄嗟に瞼を閉じてゆっくりと目を開く。
「……母さん」
呟いた。自分のことを見守ってくれていたかもしれないその存在に。そして、困難を乗り越えるための力を授けてくれたのかもしれないその存在に、呼びかけてみる。今さら、そうだったのかもしれないと気付いたその存在に。
けれど、返事は聞こえてこない。今まで一度も、彼女のことをそう呼んだことはなかったからだろうか。……違う。語りかければ必ず答えてくれたのに、今はもういない。根拠は無いが、確かにそう感じる。少し口うるさいと思う時があったところなんか、まさしくそれそのものだったから。
「さん」
ナポリ支社で重役に据えた、父の付人だった男がバックミラーでちらちらとの顔を見ながら言った。
「大丈夫ですか」
「……ええ。気にしないで。ちょっとセンチになってるだけだから」
「さようですか」
「本当に大丈夫よ。別に、今日の会合で他の幹部の人たちが怖かったわけじゃあないの。楽しかったのよ。これは本当」
「わかりました。わかりましたよ。これ以上はもう、心配いたしませんから」
楽しかった。けれど寂しくなった。だから、会いたくなった。
「彼、家にいるかしら」
Epilogo: Work from Home
『誰だ』
警戒した男の声。その単調さには機械を思わせる冷たさがある。だが本当のところ、その裏側には家を守る者の使命、つまり人間の温かみが隠されている。そう感じるのは、彼らのことを少しは知っていて、彼らに好感を抱いているからこそなのかもしれない。
は以前と変わらない声に安心し、ふっと微笑みを浮かべながら言った。
「です。・。覚えてらっしゃる?」
『もちろんです。……またお一人で来られたんですか』
「ええ。……お邪魔だったかしら。アポイントメントも取らずにごめ――」
『おいリゾットよ〜! 誰だよこんな時間によォ。宅急便かー!? 遅くまでごくろーさーん!!……おい。その酔っ払いの口を塞げ……すみませんね。今とても、貴方を中へ入れてさしあげられるような状態では――誰だってばよー? なんなら、オレが行くぜー!! おいバカよせ――』
ドアフォンは一方的にブツリと切られ、代わりに玄関扉の向こう側からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてくる。間を置かずに扉が勢いよく開き、飲んだ酒のアルコールを体中から発散させるホルマジオが顔を覗かせた。
「――ッ!! サイコーかよ!! ちゃんじゃあねーかッ!! 今オレたち飲んでんだ。さ、入った入ったー!!」
ホルマジオは目をまん丸と見開きあたふたとするの背後へまわり――酔っぱらいのくせに中々機敏な動きだった。ちなみに、ディスティニーズ・チャイルドはこの彼の動作を“災い”だと認定はしなかったらしい――半ば強引に家の中へと押し込んでしまう。
「すみません。止めたんですが」
やれやれと額を抑えながらリゾットが言った。
「気にしないで。何だか楽しそうだし」
ひらひらと手を振りながらはリゾットの前を横切る。果てにリビングまで押し込まれる。途端、はむわっとした空気に身を包まれ、強烈なアルコール臭が彼女の鼻をついた。
「おい野郎共! しけた男だけの宴は終わりだ! ちゃんだ! ちゃんがやってきたぜ〜〜〜ッ!!」
ホルマジオの叫び声を受けて、皆が一斉に部屋の戸口を見やった。イルーゾォは腰掛けていたソファーから瞬時に立ち上がり――彼はまだそれほど酔っていないらしい――の元へ駆け寄って、彼女の腰に手を回すホルマジオの手を叩き落とし、彼の腹めがけて蹴りを繰り出し戸口の向こうへ押しやった。リゾットは仰向けに倒れたホルマジオの体を跨いでリビングへと入ってくると、換気が必要だと判断したのか、部屋の窓という窓を開けて回った。
「! 来るなら来ると電話一本くらい入れたらどうなんだ……」
「ごめんなさい。どうしても、あなたに会いたくなってしまって」
本当に申し訳なさそうに、情けなさから困ったように笑って言うものだから、イルーゾォは心をかき乱される。
「別に、おまえに怒っているわけじゃあない。ただ、ここにはああいう危険な酔っ払いが複数いるんだ」
イルーゾォは廊下で伸びたままのホルマジオを指差した後、をぎゅっと抱きしめながら横へ目を流し、部屋の中のメローネとギアッチョの様子を伺った。メローネはさっきから頻繁に舌なめずりをしているし、ギアッチョは今にも白目を剥きそうだ。最愛のを置いておくには最悪の環境である。
「それに、こんな夜中に、ここまで一人で歩いてくるなんてことも危険だ。……こんなところでも、おまえがどうしても来たいって言うなら、オレがいつだって迎えに行くんだ」
「ありがとう。じゃあ、今度からは絶対にあなたに連絡するわ」
「ああ」
イルーゾォはの頬を愛しげに撫でて微笑んだ。本当なら今すぐにでも抱きしめてキスをしたいという衝動を、他の仲間の面前で必死に抑えた格好だった。
「イチャイチャ……」
今度は唸り声が聞こえてくる。怨念のこもったそれに、は聞き覚えがあった。
「イチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしやがってこのダボがァッ!! ちちくりあうってんならよォーーーッ、外でやれってんだよこのクソバカップル共が!! 酒が不味くなんだからよォ、おめーらよおおおッ」
ギアッチョだ。相変わらずの調子たが、はもはや驚きもしなかった。スタンド、ディスティニーズ・チャイルドを手に入れた今となっては、彼に罵声を浴びせ返す気すら起きなかった。はすべてを包み込むような笑顔を浮かべて言った。
「ああ、ギアッチョ。元気そうで何よりだわ」
一方、リゾットは血相を変えて――とは言え、表情は大して変えずに――その場にいる者皆の身の毛をよだたせるような殺気を滲ませギアッチョの背後に回った。そして彼の首に背後から鋼の塊のような腕を回してホールドした。
「うがッ」
「口が過ぎるぞ」
「んだよッ、幹部の娘だったってだけの女だろォがッ。別に、幹部相手に言っているわけじゃあ――」
「ギアッチョ。それ以上喋ったら首をへし折る。それとも、血を流したいか?」
「いいのよ、リゾットさん。止めてあげて」
は腕を離され一応はリゾットから開放されたギアッチョの目の前に行き、続けた。
「父は死んだわ」
死んだという話は、皆がニュースメディアなどで見聞きして知っていた。葬式は近親者のみで厳かに行われたとか、そんな話も。死んだ父親の話を本人にさせてしまったのだとの後悔が、少しだけギアッチョの罪悪感を煽り立てる。
「幹部の娘だった。あなたが言ったことは事実よ」
は羽織っていたジャケットの内ポケットから例のバッヂを取り出して見せた。
「そして幹部の座は空いた。今は、私がその空いた席に座っているの」
メローネの持っていたグラスは床の上に落ちてパリンと音を立てた。プロシュートの咥えていたタバコから吸い殻がポロリと崩れ落ちる。ペッシは慄き近くの壁に背中を張り付けた。ホルマジオは廊下で伸びたまま何も知らない。イルーゾォとリゾットだけが訳知り顔をして平静を保っていた。
「だから、これからよろしくね、ギアッチョ。仲良くしましょう」
まるで自身がホワイト・アルバムの能力で氷結したかのように身動きを取られずにいたギアッチョは冷や汗をたらりと一筋流すと、よろしくねと言って差し出されたの手を一先ず取って握手しておこうと、おずおず右手を伸ばした。
「ああ。よろし――」
「ああじゃあねーよ土下座だろーがッ!」
プロシュートがギアッチョの首根っこを掴んで体を床へと沈める。目にも止まらぬ早業だった。その後プロシュートは颯爽と立ち上がると、うやうやしくの手を取って、リゾットの定位置――以前、彼女の父親が座ったのと同じ場所――へとエスコートして座らせる。
「あいにく、貴方のお口に合うようなものはご用意がありません。ただ、せっかく来られたので、何かおもてなしをさせてください」
「それじゃあ、お言葉に甘えて――」
はハンドバッグからクレジットカードを取り出すと、それをプロシュートに手渡した。
「――お酒をしこたま買い込んできてくれる? 貴方達が普段飲んでいるのでいいわ。ああそれと、お酒だけだと胃を悪くするし、軽食やチェイサーもたっぷりあるといいわね」
「かしこまりました」
プロシュートはジャケットの内ポケットにクレジットカードを仕舞い――彼はこの時何とも無いような顔でいたが、さすがになんの躊躇いもなく暗証番号を耳打ちされた後には、実のところ荷の重さに心が砕け散りそうになっていた――颯爽と部屋を出て行った。ついでに、やっとのことで起きる気になったらしいホルマジオの首根っこを掴んで彼を引きずって行く。荷物持ちにでもするつもりだろう。
「おいペッシ! おめーはいつまでそこで突っ立ってるつもりだ!? 急いでグラスを綺麗に洗ってピカピカに磨いたあと、この家で一番上等のワインを注いでもってこい!」
「わ、分かった!!」
イルーゾォがそう言うと、ペッシは弾かれたようにキッチンへ向かった。
「ねえ、イルーゾォ」
のそばに腰を据えたイルーゾォの手を取って、彼女は言った。
「あなたは、私の相手をしなきゃいけないのよ。だから、あまりお酒は飲まないでね」
「ああ。分かってるさ」
無論、イルーゾォに酒を飲むつもりなど無かった。酔っ払い共の魔の手から、を守り抜かなければならないからだ。の思惑はまた別の所にあったのだが、イルーゾォは最後までその思惑には気付かず仕舞いだった。
午前二時を少し回った頃。パッショーネは暗殺者チームのアジトでは、皆が酔いの末にリビングで眠りに就いていた。――とイルーゾォのふたりを除いて。
これは完全にの思惑通りの結果だった。そして彼女は今、少しだけ酔っていた。そうでも無ければ、これだけ思い切った行動には出られなかっただろう。はイルーゾォの手を握って言った。
「ねえ、イルーゾォ」
イルーゾォの部屋が見てみたいと言った彼女の願いを渋々聞き入れた彼は今、何故か自分のベッドの上に仰向けに寝転がっている。彼はもちろん、酔ってなどいない。彼はきちんと女王に付き従う騎士のようにを守り通したのだ。そして眠くもない。あまりに美しい、裸同然の、最愛の女に馬乗りになられてからは、眠気などどこか遠くへ吹っ飛んでいった。彼の心臓は激しく音を立てて、体の末端まで熱い血液をくまなく次から次へと送り込む。
イルーゾォが柄にもなく焦燥しているのをよそに、は握った彼の手を持ち上げながら自分の上体を傾け、その後握る手の位置を彼の手首に替えた。
「好きよ。……愛してるわ、イルーゾォ」
自然と開いたままだったイルーゾォの手のひらに頬ずりをしながら、は愛を囁いた。
「あなたに触れられると、たまらなくなるの」
リビングで頬に触れられた時に我慢ならなくなった。火が着いたのだ。これまで散々、手前の都合でお預けを食らわせていたが、イルーゾォはそのことについて何も文句を言わずに、立派に欲を抑えてくれていた。だというのに、今度は自分の都合で今、勝手に始めようとしている。
「……でも私、こういう時どうすればいいのかよく分からない。だから、あなたがリードして」
は頬に当てていたイルーゾォの手のひらを、首筋を通して胸の上に置いた。イルーゾォの骨張った大きな手は、彼女の柔らかな胸の上でぴくりともしなかった。彼女はじれったくなって、彼の手の甲に自分の手を重ね、自分の胸の中心へ向けて押し付けた。
「ここではあなたが私のボスよ。イルーゾォ」
そう言って聞かせた途端、の視界が一瞬で反転した。片方の口角を上げてニヤリと笑う美しい男が、赤く静かに燃えるようなふたつの瞳でじっと見つめてくる。
初めて出会ったときに思った。この目から、私は逃れられないと。あの時感じた運命は、紛れもない真実だった。運命は、歩みを止めていた私をここまで押上げて、この上ない幸福を与えてくれた。
「そう言うならなァ、。“仕事”は溜まりに溜まってんだぜ。……徹夜で残業してもらうからな?」
「ええ、ボス。私、徹夜は得意よ」
こうしてふたりは、白いシーツの海原に溺れた。ベッドの上にあるのはふたりの体とシーツだけ。邪魔なものは何もないこの場所で無我夢中で求め合い、散々抑圧されてきたほとばしるような愛を確かめあった。
イルーゾォとしては、もっとロマンティックな場所でと考えていたりもしたのだが、にとっては、彼と共にある時間こそが最高の場所なので、ロケーションの良し悪しなど考える余地すら無かった。
こうして夜通し愛を交わし、空が白み始めたころにようやっと抱きあいながら眠りについたふたりを朝の十時頃に目覚めさせたのは、ホルマジオの叫び声だった。
「ちゃんが、か、か、か……幹部……? 幹部だってええええッ!!?」
The Catcher in the Mirror
暗殺者は鏡の中のつかまえ役になりたかった。そうなった後も、そのままでありたかった。確かに彼はつかまえた。真実の愛をつかまえた。
けれど彼自身もまた、つかまえられていた。そして彼女は、絶望や死という淵に立たされた彼らを、これからも片っ端からつかまえにいくのだ。
(fine)