もしこれで妊娠してしまっていたら、どっちの子供かなんて検査でもしなきゃ分からないだろう。ああ、アソコに纏わりつくベタベタした精液が気持ち悪い。これから一カ月、生理が来るか来ないかってソワソワしながら生活するのか……。最悪だ。
は放心の末に少しだけ理性を取り戻した頭で考えていた。自分が一体何を求めているのか?この局面で彼女はやっと理解できたようだ。
イルーゾォの言う通り、最初は誰だって良かったのかもしれない。肌が触れ合っているというだけで安心できていた。その安心を得るために寝る相手をとっかえひっかえしていたという点で、私とホルマジオは大して変わらない。一回ぽっきりで乗り換えを繰り返していた自分と、股を掛けているホルマジオとの違いなんて、相手の恨みを買うか買わないかということでしかなかったんだ。
だが道を踏み外しホルマジオに依存してしまったことで、彼女が本心で求める物は次第に変化していった。
なんか虚しいな……。
やはり彼女は女だった。ホルマジオに与えられた優しさだとか癒しだとか信頼だとか、その土壌の上に育つ愛を、彼女は渇望していた。
まるで酒を飲んでいる時の様に、快楽に耽っている間はすこぶる気分がいい。ふたりの男に同時に貪られるなんて初めてのことだったが、最高に気持ちが良かった。その快楽を与えてくれるなら、相手はきっと誰だって構わないんだろう。だが終わってみると、そこに愛があるのか無いのかは酷く不明瞭で、瞬く間に不安に襲われてしまった。ホルマジオと関係を持つまで求めていなかったはずの“愛情”が、無いとダメになってしまっていた。
やっぱり、ダメなんだ……私にはこんなの、向いてない。
が呆然と天井を眺めていると、彼女の隣に息を荒げて身を横たえていたイルーゾォが突然起き上がり、床に散らかしていた衣服を拾い上げてバスルームへと向かった。物の数分でシャワーを浴び終え身支度を整えて、彼は寝室へと戻る。
「……鍵は閉めとけよ」
そう言い残して、イルーゾォは玄関へと向かった。は慌ててブランケットを身に纏い彼の後を追った。そして家を出て行こうとドアノブに手を置く彼の背に身を寄せた。
「……帰っちゃうの?」
ゆっくりと振り返り、イルーゾォはに告げた。
「野郎と同じベッドで寝て目を覚ますなんて、考えただけでゾッとしちまうからな。帰る」
「私……分かったよ。私が欲しいのが何か……。わたし」
「その話はまた今度にしろ」
イルーゾォの手の平がの頬に振れた。がその手の甲に触れた直後に、指先が頬を撫でながら離れて行く。はそれを寂しいと思った。イルーゾォもまた、どこか寂し気な表情を残して玄関から出て行った。はしばらく玄関の扉の前で呆然と立ち尽くした後扉に鍵をかけ、バスルームへと向かった。
今日で最後……。ホルマジオからの電話なんて取っちゃいけない。家にも入れちゃいけない。友達になんて……なっちゃいけない。今日で最後……最後よ。
冷たいシャワーに打たれながら、は自分に課したルールを唱えた。頭は冴えている。誰の何かも分からない体液も、自分の優柔不断な気持ちもすべて水に流して、心新たにこれからを過ごすのだ。
大丈夫。乗り越えられる。……いいえ。もう乗り越えてる。
はシャワーを浴び終えてバスローブを身に纏いキッチンに向かった。冷蔵庫のドアを開けミネラルウォーターのボトルを取り出して三口ほど呷り、その後リビングのソファーへと向かった。
今夜はここで夜を明かそう。
ソファーに寝転がり、一度深呼吸をして目を閉じる。ひどく体力を削られたからか、案外すんなりと眠れそうだ。心地いいと言っては何だが、適度な疲労感が副交感神経に働きかけているようだった。
「何でそんなとこで寝てんだよ」
突如として交感神経が優位になる。が眉間に皺を寄せた後ゆっくりと目を開けると、立ったまま彼女の顔を覗き込むホルマジオと目が合った。しばらく彼の顔を眺めた後、は心に浮かんだ言葉を紡ぎ出していった。
「……私、あんたのこと愛してた」
ホルマジオは唐突にに吐露された真情を受けて目を見開いた。自分の記憶が確かなら、の口からそれを聞いたのは初めてだ、と過去を振り返る。だが彼女が今言っているのは過去のことだ。現在進行形ではないその言葉を聞いた時、ホルマジオは突き放されたような物悲しさを身に覚えた。
「私は今まであんたと寝てるとき、最高に幸せで満たされてるって思えてた。私達はひとつだって、思ってた。でもそう思ってたのは私だけ。だからもう、あんたとのこんな関係は終わりにする。……もうアジトであんたのこと避けたりはしない。この一か月間、感じ悪い態度とったりしてごめん。外でご飯食べて、楽しく話してた頃の私達に戻ろう。ただの友達に」
セフレじゃあなくてね。そんな声を最後に、は再び目を閉じた。
「……ああ。分かったよ」
そう呟いた後、ホルマジオもまたバスルームへと向かった。そしてと同じように冷たいシャワーを浴びながら、物思いに耽った。
昨晩彼が求めていた答えが、今しがたによって与えられた。拒絶されていた理由も明らかになったし、わだかまりも解消できた。体の関係は無しで、また友達に戻ろうと言われた。しつこく食い下がって、一緒にいて欲しいなどと彼女に懇願するつもりは無いし、自分にそんな権限があるとは思ってもいない。彼女が求めないならば、自分からも彼女を求めない。
そう思っていたはずだった。
だが彼女の過去の思いを告げられて、そしてそれがたった今完全に自分から離れていったと知って、彼は気づいてしまった。自分もまた彼女を愛していたのだということに。
他の女相手ではできないこと。例えば、ギャングの蔓延る裏社会で生き抜く辛さだとか、仕事のストレスだとか、チームのバカ話だとか……そういう話がとはできた。彼女とは楽しさだけでなく辛さも共有できて、本当の意味で癒されていたし、支え合って生きているような感覚もあった。どうしてそう思えたか?それはが自分を愛してくれていたからだったのだ。
その支えがたった今完全に折れて、ぐらぐらと心が揺らいでいる。酷い喪失感だ。喉の奥から何かが込み上げてくる。
それはホルマジオがこれまで生きてきた中ではじめて抱いた感情だった。
アイツを失いたくないから、オレは昨日も今日もこの家に来たんだ。
思い出すのは、歳の離れた愛人の言葉。
“一緒にいたいなら他を切るしかない”
今なら、彼にはそれができる気がした。
だけど、きっともう……遅いんだろうな。
バスタオルを腰に巻いてバスルームを後にしたホルマジオは寝室へと戻り、床の上に放っていた下着や服を身に付けて、先ほど通過したリビングに戻った。ソファーに寝転がったはすやすやと寝息を立てている。そんな彼女に向かって、彼は聞こえないと知りながら、先ほどの彼女と同じように自身の真情を吐露しはじめた。
「。オレもお前と同じ気持ちなんだ。お前のはもう終わっちまったんだろうが、オレは今でもお前のこと愛してる……んだと思う。こんな気持ち初めてだからよくわかんねーけどさ。でも、お前が誰か他の男に愛を求めるなら、オレはもう未練がましくお前につきまとったりしねーよ。そんなのかっこわりーからな」
ホルマジオはの顔を背に、カーペットの上に腰を下ろしてソファーにもたれかかった。の寝息が耳元で聞こえる。これまで何度も聞いてきた、どこかほっとする音。この音を聞けるのもこれで最後だと思うと、途端に胸がズキズキと痛んだ。
「だけどもし……」
あり得ないだろう。そんな絶望感に苛まれながらも、ホルマジオは希望的観測と言うほかない自身の願望を吐き出した。
「もしお前が他の男に裏切られたら……オレのところに戻ってこいよな。今度こそオレはお前に愛してるって言うよ。お前が嫌うなら、他の女と遊んだりもしねえ。お前がそうしてくれたように、オレもお前だけを愛すよ」
が実は起きていて、自分の張り裂けそうな胸の内を聞き入れてくれればいいのに。ホルマジオはそう思ったが、は完全に深い眠りに落ちている。彼女には聞こえていない。ちらっと背後を振り返っての寝顔を見たホルマジオは、深い溜息を吐きながら、うなじのあたりにソファーの座面の端が当たる位置まで身を引いて目を閉じた。
「……せっかくお前がソファーで寝てんのに悪いが……今夜はここで眠らせてくれ。これで最後にすっからさ」
今の自分のやっていることも、十分未練がましいしカッコ悪い。ホルマジオには自覚があった。だがが見ていないなら、そんなカッコ悪い自分を誰に咎められる訳でもない。
これが最後だ。
ホルマジオもまた、そう自分に言い聞かせていた。
06:You're gettin' over him
ひどい気分だ。質の悪いポルノ映画を鑑賞しながら抜いて、エンドロールを迎えた時の虚無感に近い。……いや、自分はその登場人物のひとりだったんだ。ひどすぎる。オレはこんな事実、一生呑み込めないかもしれない。墓まで持っていくにも、知ってるヤツが多すぎる。
行為後の不応期――所謂、賢者タイム――を迎えたイルーゾォは、五百メートルもないアジトまでの道のりを行く間、自分の犯した過ちについて考えた。
愛する女をその恋敵と一緒になって犯すなんて正気じゃない。
すべてをホルマジオの所為にすることだってできる。だがルールを無視する人間にいくらルールを説こうと無駄なこと。そんな手合いを非難し、お前のせいだと声を荒げても時間の無駄だし何の解決にもならない。イルーゾォは珍しく自分を責めた。あんな倫理観のぶっ壊れたプレイボーイ相手に、を例え半分と言えども自ら差し出してしまったこと自体が過ちだったのだ、と。それに気づいたのは精を出し尽くして疲労困憊し、不応期を迎えた今になってからだ。後悔先に立たず。まさにそれだった。その場のノリというヤツがどれほど恐ろしいものか身に染みていた。
に対して前々から抱いていた感情を溜めに溜め込んでしまった所為で、愛を語る男の所業とは思えないような行為に走ってしまった。やってる最中は最高に良かった。だが終わってみると気分は最悪だ。
イルーゾォは歩きながら頭を抱えた。
明日以降、にどんな顔をして会えばいい?いや待てよ。それを言うのならホルマジオだってそうだ。アイツの裸を見て、アイツと同じベッドでの体を共有しちまった……。アイツの精液だってオレのナニに…………ああ、もう考えるのはよそう。思い出し得る限りではあるが、人生史上最低最悪の気分だ。
これで完全にには愛想を尽かされたのではないか。そうも思った。だが不幸中の幸いとでも言うべきか、は家から出て行こうとする彼の背に縋った。彼は何故がそうしたのかについても考えた。
彼女の真意を知る前に――彼女が発言しようとするのを遮って――家を出てしまったので、今度彼女に会って彼女から進んで打ち明けられるまで真相は闇の中だ。だが少なくとも、自分を拒絶するような意思は感じられなかった。最早それだけが救いだ。
とにかく、今後自分から何か働きかけるのはやめよう。そして今晩起こったことは忘れよう。すべて無かったことにするのだ。ホルマジオと明日顔を合わせても、いつもの態度で接するのだ。
心の中で決意表明をしても、こんなことになる前まで自分がホルマジオとどう接していたかなど、イルーゾォには思い出せなかった。
アジトへと戻ったイルーゾォはソファーに身を投げて眠りにつこうと目を閉じた。だが寝よう寝ようと意識するほど、ホルマジオと一緒になって貪った、の扇情的な姿が頭に浮かんだ。
クソ……。ほんと、取り返しのつかねーことをオレは……。
人殺しというもともと倫理観に悖る行為で生計を立てる彼が、倫理観がどうのこうのと考えるのはナンセンスかもしれない。ホルマジオの言うことにも一理ある。だが暗殺者にも世間一般の倫理観はさておき、自分の信念だとか守るべき個人的な規範などというものは存在する。今晩の家で起こったことはイルーゾォにとって、他の誰が黙認しようとも、決して自分にだけは一生許されることのない大失態として深く心に刻まれた。
そんな彼を置き去りにして、時は無慈悲に過ぎていく。
「なあイルーゾォ。最近のやつ……アジトにいる時間が長くねーか」
ダイニングテーブルで朝食を取りながら、プロシュートが向かいに座るイルーゾォに話を振った。例のあの事件から二週間が過ぎた時のことだった。仕事の話があると朝の十時から集まる様に言われていた皆が、ぞくぞくとリビングに集まりはじめている。十時まではまだ一時間もある。だというのに、はリビングでペッシと何か話をしている。珍しいことこの上ない光景だった。
それだけではない。一週間前はがチームメイトとなって初めて、アジトで開いた酒盛りに顔を出して酒を飲んでいたし、いつもは用事が済めば皆を避け飛ぶようにアジトから出て行くのに、今では誰かに話しかけられれば軽く無駄話をしてゆっくり帰っていくようになっていた。
何も知らないプロシュートからしてみればは、ある日――つい最近のいつだか――を境に中身がまるまる入れ替わったのではないかというほどの豹変を遂げていた。そんな彼女をプロシュートが訝しげに見るのは至極当然とも言える。
「かねてよりのお前の願いが叶ってよかったじゃねーかスケコマシ」
「……別にそこまでじゃねーよ。何かあったんじゃあねーかって思うのは普通だろ。お前何か知らねーのか?とは仕事でよく一緒だよな。まるで人が変わったみたいだぜ」
「知らねーよ」
イルーゾォは苛立たし気に目を逸らしながらプロシュートの疑問に答えた。完全に嘘を吐いている男の仕種だとプロシュートは思ったが、それ以上イルーゾォを追求することは無かった。と話す機会が掴めそうな今、わざわざイルーゾォに聞くことでもない。気になるなら自分で直接本人に聞いてみればいい話だ。
イルーゾォは逸らした目をちらとプロシュートに戻し、彼の表情を伺った。楽し気に子分と会話をするの姿をじっと見つめている。
がチームメイトに心を開き始めてからというもの、イルーゾォはこれまで以上の焦燥感に駆られていた。今までホルマジオだけだった敵が一挙に増えたような感覚だった。
例の一件以来、もホルマジオも、いたって普通に日々を過ごしている。少なくともイルーゾォがアジトにいる間で窺い知れる範囲ではそうだった。この二週間の間、イルーゾォにはとタッグを組むような仕事を振られていなかったので、敢えて彼女に絡みにいこうとはしなかった――というよりも、絡みに行く勇気が無かったという方が正しい――が、合わせる顔が無いと意識している自分だけが浮いているように感じるほど、はイルーゾォに普段通り接してきた。
一体どんな心境の変化で、がチームメイトにオープンになったのか?そう考えてしっくりいく答えは、色々と吹っ切れた。という一言に尽きるような気がした。あのインパクトの強い出来事に、何か思うことがあって……。と非常に雑な考察だが、それ以上に納得のいく答えをイルーゾォは見いだせなかった。
このように、イルーゾォは事の顛末を知っている。恐らく、は今ホルマジオとの関係を断っている。ホルマジオが夜な夜な酒を飲んで外に出ることも無くなった。そこまでは自分の思惑通りだ。だが、があの夜言いかけたことを彼はまだ聞けていない。聞きたいようで、どんな答えが返ってくるか分からないので聞くにも恐ろしく、なかなか自分からは話しかけられない。今まで散々に強行的なアプローチをしてきた彼は、自分でも訳の分からないところで保守的になっていた。と言うのも、今のには、付け入るスキが見いだせなかった。つい最近まで見せていた“弱み”が消え失せているのだ。彼女が何か吹っ切れた様に見える原因はそこにあった。
まるで獲物が罠にかかるのを待っているような……だが焦りはなく、それがいつになろうとも構わないと余裕を見せる、強者の風格。そこまで考えているのはイルーゾォだけで、にそんな気は少しも無かった。
ただ、イルーゾォの出方を伺って彼を意識しているのは確かだった。
あの一件以来、もイルーゾォと同じように、自分から彼に声をかけるのを躊躇っている。優柔不断な自分と知っていながら、思いの丈をぶつけてきてくれたイルーゾォに今更取り入ろうなんて、図々しいにもほどがあると思っていたからだ。
彼女がチームメイトにオープンな態度で接し始めたのは、自分の殻にこもることこそが何かに依存してしまった原因だと内省した結果だった。以前の自分に戻ってしまってはまた他の誰かに依存してしまうと考えた。意識的に自分を変えることで、ホルマジオのことを乗り越えようとは懸命になっていたのだ。染みついた自分の習性を変えていくのは簡単なことでは無かったが、チームメイトとの交流というのは不思議と一度荒れ果てた自分の心をゆっくりと癒してくれた。相変わらずバーやクラブとかいう社交の場に足を向けて他のコミュニティを持とうなどとは少しも思わなかったが、同じ仕事をする仲間くらいには心を開いてみようと、彼女は人間としての成長を見せていた。
その一方で、イルーゾォの気を引けないだろうかとも考えていた。彼女はそんな下心すら図々しいと自分を情けなく思ったが、機会が与えられるならば、ふたりの関係をいちからやり直したい。そう思っているからこそ、はイルーゾォに対しても普段通りか、それ以上の良心的態度で彼と接していた。
ここ二週間、イルーゾォもも互いに知らない所でお互いを思い合っていたが、良心の呵責を感じている彼らはなかなか距離を縮められないでいた。そんな二人は、早くふたりで仕事がしたい、と思っていた。イルーゾォのスタンド“マン・イン・ザ・ミラ―”が作り出すふたりきりの世界――恐らくターゲットの亡骸は近くに転がることになるだろうが――であれば、思いを寄せる相手に話かけたって自然だ。だって、他に話しかけることができる人間がいないのだから。
そして、あの混沌を極めた一夜から一ヵ月が経った頃、久しぶりにイルーゾォとの元に仕事の話が舞い込んだ。ふたりはお互いの知らない所で、少しも顔に出さないようにしてそれを喜んだ。仕事が終わるまでは絶対に浮ついた心を相手に感付かれてはいけない。よくわからない意地を張ったまま、ふたりはミッションをコンプリートする。近くには白目を剥いたターゲットの亡骸。ムードもへったくれもない。だが、ふたりは意を決して口を開いた。奇しくもそのタイミングは同じだった。
「あのさ……」「お前……」
ふたりは顔を見合わせて、相手の顔が真っ赤になっていることに気付き噴き出した。この時ふたりはお互いの気持ちに気付いた。あれからひと月の間、ずっと互いにふたりの関係について話したがっていたのだと。
「どっちから話す」
「イルーゾォから」
「なんでオレからなんだよ。ジャンケンで決めようぜ」
「いいよ。私負けないから」
そうして子供の様にジャンケンをして、案の定負けたイルーゾォが悔し気に渋々口を開く。
「お前、ホルマジオとはどうなったんだよ」
「もうほとんどふたりきりでは会ってない」
「未練とかねーのか」
「……全然無いとはいえないよ。リハビリ中だから。でも、依存するのはよくないって思ったの。どんなに私が頑張ったって、私はあの人のことを変えられない。それで精神的に参って、仕事のことでリゾットにもあんたにも、迷惑かけるのは間違ってるって分かったから。……それに気づかせてくれたのはあんたよ。感謝してる」
はそう言ってにっこりと笑った。精神的に自立しつつある彼女を見てイルーゾォは物悲しさを覚えた。そして恐る恐る、ずっと疑問に思っていたことを口にする。
「あの夜、玄関の前で言いかけたこと……結局何だったんだ?」
「聞きたくなかったんじゃないの?」
「あの時はな。何でか、聞くのが怖かったんだよ」
「……私が求めてるものが何か。あんたにも本当のところは分かって無かったんだね。言っておくけど、私は淫乱なんかじゃないんだから」
イルーゾォはバツが悪そうにから視線を逸らした。彼は場の雰囲気に呑まれた自分の言動で彼女を貶めたことを後悔していたのだ。
「ああ。それは分かってる」
「……私はね、愛情が安定的に供給されるのを求めてるの。自分の熱量に見合った量の愛情を求めてる。きっと世の大半の女がそうなんだろうけど、アウトローな私でも、そんな女のひとりに違いないんだなって遅ればせながら気づいたのよ」
は一呼吸置いて続けた。
「ホルマジオのはまやかしだったのよね。すっごく優しくて、一緒にいるとすっごく心地よくて……余計な話まですると彼、上手だったから。まるで私にとってのお酒みたい。だから病みつきになっちゃった。でもそれって身を亡ぼすっていうか、自分が自分でなくなっちゃうっていうか……うまく言えないけど、良くないなって思ったの。たぶん、あんたがいなかったらそうは思わなかったし、今も他に女がいるなんて知らないままだらだらやってたと思う。私の思いが一方的なものだって知らないままにね。……そんな自分がすごく虚しく思えて。それで今に至るのよ。知らなきゃ知らないままで幸せだったのかもしれないけど、気づけた今はそれでよかったって思えてる。全部イルーゾォ、あんたのおかげ」
「オレのことを恨んでないのか」
「ぜんぜん。さっきから何度も言ってる。あんたには感謝してるってね」
「お前に……あんなことしたのにか?」
「ああ、あの時は……恥ずかしい話、私も興奮してたから。冷静になって考えてみればすごい状況だったよね。今じゃ貴重な人生経験としてプラスに考えてるよ」
イルーゾォはあの出来事を思い浮かべるたびに、得も言われぬ背徳感と、に劣情を抱いてしまう自分への嫌悪感に苛まれていた。がそのことを恨んでいないというのならば、彼を許せない人物は、残るは彼自身ただひとりだ。少しだけ、胸のすく思いがした。
「……なあ。オレがお前に迫った夜のこと覚えてるか」
「私がべろんべろんに酔ってた時のこと?不思議と覚えてるよ。まさかあんたに襲われるなんて思ってなかったから、インパクト大だったしね」
「あの時、説教してこいってリゾットに言われたって言ったろう。あれは嘘だぜ。リゾットにそんなこと少しも言われてない」
「そうだったんだ。じゃあ、私が酒に酔って仕事に行ったこととかも黙ってくれてたの」
「ああ、言ってない。言ってたらメタリカで血祭りに上げられてただろうな。全部、お前に付け入とうとして言った嘘だ。あの時はお前に目を覚まして欲しくて必死だった。……最も、目を覚ましてほしいって思ったのも、全部自分の為だがな」
「自分の為って……どういうこと?」
彼女は改めて正式に、イルーゾォの真意を聞きたがっていた。彼にもそれが分かった。ジャンケンは公平だが、この流れは卑怯だ。自身の分の悪さにプライドを傷つけられながらも、イルーゾォは意を決してに告げた。
「……オレはお前のことが好きだ。オレの気持ちに気付いてほしかった。受け入れて欲しかった。……そういうことだ」
「イルーゾォ。私、嬉しいよ。……私達、やり直せるかな?」
「やり直そうぜ。……今から」
どちらからともなく唇が近づいた。いちから関係をやり直すと考えているにしては性急とも言える深い口づけだったが、ふたりきりの世界ではそんな指摘をしてやれる第三者はいないし、当人たちも沸き起こる感情に身を委ね切っていたために、そのことには気づけなかった。
「今日は調子悪いの?」
女はうつ伏せのまま、ベッドから出て身支度を始めた男の背に語りかけた。どこか寂し気な後姿だ。そう言えば彼は自分を抱く間、心ここにあらずといった顔をしていた。ホルマジオは床に放ったズボンに足を通し、それを一気に腰まで引き上げると女の問いかけに応じた。
「なんでそう思った」
吐き捨てるようにそう返すと、ホルマジオは椅子に掛けていた革ジャンを掴んだ。女とベッドに入る前、雑多に脱ぎ捨てておいた靴を履いて、タバコを一本取り出そうと胸ポケットに手を突っ込みかけたが、また叱られると思って彼は手を下ろし、代わりにズボンのポケットに突っ込んだ。
「発情期を迎えたクマさんが、今じゃすっかり手負いの草食動物みたいに見えたから」
「お前オレのこと動物に例えんのやめろよな……」
「だってあなたって野性的なんだもの。本能で生きてる」
「オレは人間だ。そーじゃねーときだってあるんだよ」
「……どうやら今回は本気で傷心モードみたいね」
女はベッドから出て床に放っておいたバスローブを取り上げ身に纏い、ホルマジオを背後から抱きしめた。彼はポケットに手を突っ込んだまま動かない。
「……オレ、もう来ねーわ」
「……そう。でもどうして?理由が知りたいわ」
ホルマジオは女の腕を解いて一歩玄関へと進んで振り返る。ひどく思い悩んでいるような、寂し気な顔だった。女が彼と関係を持ち始めて、はじめて見る痛々しい表情だ。
「本気で好きになった女がいる。……もう他の男のもんになっちまってるかもしれねーが、オレはまだ諦めがついてねーんだ。だから、自分を変えられるか……試してみたい。振り向いてもらえるかどうかもわかんねーけど、やれるだけやってみようと思ってる」
女は思った。
ホルマジオにこんな顔をさせる娘が羨ましい……。
ホルマジオという男に自分だけを愛させることなどできはしない。女はそう思い込んでいた。そう思い込んで、ホルマジオの愛を一心に受けられない自分を慰めていたのだと、この時初めて気づいた。
「分かった。寂しいけど、あなたが決めたことなら、私はあなたの思いを尊重するわ。……大丈夫。きっと振り向いてもらえる。あなたはすごく優しくて、かっこよくて……エッチも上手だから」
「最後の余計だろ」
「いいえ。とっても重要よ。……だから自信持ちなさい。そんな顔しないで」
女はホルマジオの頬にキスをして、ホルマジオの背中を押した。玄関から彼を押し出すと、笑顔で手を振って、ホルマジオが視界から消えるまで見送った。そして玄関の扉を閉じるとそれを背に頽れて、女は泣いた。
だが、彼女には慰めてくれる夫がいる。ホルマジオはそれを羨ましいと思った。
(fine)