Basket Case

 リビングからテラスへと向かう間に深呼吸をし、しんと透き通った山の朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そして小脇に抱えた本数冊と手に持ったコーヒーカップをテーブルの上に置く。そばのベンチへ腰掛けると、ひとまずコーヒーを一口飲んで、木漏れ日に照らされる本をじっと見つめた。

 カール・ロジャース。研修医時代に名前を聞いたことがあるようなないような、その人物が書いた論文をまとめた本上下巻一冊ずつと、彼の著書を3冊ほどテーブルの上に積み重ねていた。べつに、それら全ての一言一句をしっかりと頭に詰め込むつもりはなかった。朝の暇な間にパラパラと内容を眺めてみて、の治療にあたって特に重要と思われる個所に見当をつけるくらいのつもりでいるのだ。

 カウンセリングの現場において、カウンセラーは患者と“ラポール”を形成することが重要である。ラポール形成とは、臨床心理の現場のみならず、今やあらゆるカウンセリングの基礎だ。なんなら、コールセンターとか医療とは全く関係のないところで顧客の心を掴むためのノウハウとして使われる、いわば人心掌握術、ビジネススキルと言ってもいいだろう。それをはじめて提唱したのがロジャースだ。それくらいの予備知識はあった。だが実際にどのように治療を進めていけばいいかについてまでパッとは思いつかなかったので、この機にその道の大先生へ教えを乞おうというわけだ。

 それにしても、まさかこの私が――仮に一時的にであってもだ――心理カウンセラーに身を転じるはめになり、しかもそれに前向きな態度で臨もうと思うことになるなんて。

 ――来談者中心カウンセリングに必要な3要素、“受容的態度”、“共感的理解”、“自己一致または純粋性”。ラポール形成のためには「聴く」ことが肝要であり、「相手の事柄に関わる」、「感情に関わる」、「クライエントの欲求に焦点を当てる」必要が――

 読んでいて、自然と唇の端が持ち上がってしまう。まったくもってらしくない。私はこれまで開腹もできない人間を相手に、しかも感情にフォーカスし、心と言う患者の根本から体を治してやりたいなんて一度たりとも思ったことが無いからだ。つまり、精神科とか心療内科とかいった医療分野は私にとって全くの畑違いで、全く自分には向いてないと言い切っていいだろう。

 だが過去を思い返せば、患者の信頼を勝ち取り、患者を全くの無防備にして身体を蹂躙することが出来なかったわけではない。患者をたらしこむ才能が私にはあるのだ。――いや、ただ単に重度の精神疾患を持った患者では無かったから“ちょろかった”だけなのだろう。今回の相手は違う。精神的な問題以外に何も抱えていない、疑り深く心配性で完璧主義のやっかいな女だ。

 ロジャースの言う“自己一致または純粋性”とはカウンセラー側の態度だ。要するに私はに本心から純粋な言葉をかけ寄り添い、彼女のサポートを継続する必要があるということ。これが私にとっての鬼門だろう。

 だが、やるのだ。

 私は本にしおりをはさみ、一旦それをテーブルの上に置くと、コーヒーをまた一口飲んで目を閉じた。思い浮かぶのは、たった1日の間でみるみるうちに心を開いていった――もちろん、まだ完全にではないが――の表情だった。それは脳裏に鮮明に焼き付いていて、思い起こすたびに私の情欲を煽った。

 ポーカーフェイスを決めているつもりの彼女の瞳は、油断した瞬間にだけ弱さを見せた。川辺に寝ていた彼女は、目覚めた瞬間に無防備な、強張りのない素の表情を見せた。それを私は確かに美しいと思った。欲しいと思った。その表情を彼女の内側からもっともっと引き出して、完全に無防備に剥きあげて、私がいないと生きていけないというほどに依存させ、私から逃れられないようにしたい。そう思った。

 これが私の本心だ。純粋な気持ちだ。その気持ちから起こる望みが叶った時にこそ、彼女のパニック発作は治まるに違いない。そうだ、そうなのだ。私は彼女を治したい。自己一致。何も矛盾するところは無いじゃないか。できる。できるに決まっている。

 そして私は再び本を手に取り、カール・ロジャースの残した非指示的カウンセリングのノウハウ、その要点を吸収しに取り掛かった。まるで乾いたスポンジのように、脳は新たな知識を次々と吸収していった。

 具体的にどれだけの時間が経ったかは分からない。そもそも、朝の何時からテラスにいるかも覚えていなかった。気づけば太陽はもうそろそろ真上に来るというところまで登っていて、腹が空いていた。私は朝起きてすぐに淹れた、たった一杯のコーヒーで数時間を過ごしてしまったのだ。軽い頭痛に苛まれながらも、尻を張り付けていたベンチから離れ、底に茶色のクレッセントがこびりついたカップを手にリビングへと戻った。

 部屋の奥、テラスに通ずる掃き出し窓の向かいにキッチンがある。そこにの姿があった。たった今、私は彼女の存在に気付いた。彼女はキッチンのワークトップに向かって、なにやらせわしなく視線や手を動かしている。位置的に考えても、私がテラスにいたことを知っているはずの彼女は、私がリビングへ戻ってきたからといって下げている視線を上に向けたり、何か挨拶をしようとする素振りなどを見せなかった。意識していないように見せたいのだろう。だがそれは逆に、彼女が私の存在を強く意識している証拠でもある。私にはそれが何故だか面白くて、彼女をいじめてやりたい気分になった。いや、いじめるわけじゃない。心療医(仮)が患者を診ないでどうする。無視なんて以ての外じゃないか。

「おはよう。。……いや――」
 
 私は壁掛け時計に目をやる。時刻は午前11時半。おはようと言うには遅すぎる時間だった。

「もうこんにちはって時間だな。今起きたのか?」
「いいえ。朝の6時には起きてた」

 私はカップを洗うため、ワークトップの隣にあるシンクに立った。すぐそばに私が来たと言うのに、彼女は相変わらず顔を下げたまま一心不乱に野菜を切っている。

「今まで何をしていた?」
「あんたは気付かなかったみたいだけど、7時くらいに一度ここにおりて来て、サーバーに淹れてあったコーヒーと、バスケットの中のブリオッシュを頂いた」

 私は洗ったカップを水切りラックに並べる。そう言えば、朝起きて私がここに立った時には、ラックに平皿とマグカップは乗っていなかった。嘘を言っている訳ではないらしい。

「その後、散歩がてらそのへんを散策したの。あんたに言われた通り、陽の光を浴びて、よく食べ、よく動きってのを実践してきたのよ」
「ふむ。殊勝なことだ。だが、よく眠りってのが抜けてるぞ」

 私はシンクの縁に寄りかかってを観察しながら指摘した。すると彼女は、少しの間手を止めてじっとまな板の上を見つめたあと、動揺を隠すようにまた手を動かし始めた。よく眠れなかったのだろう、と私は考えた。

「初めて宿泊するホテルだとなかなか寝付けないってのはよくある話でしょ。枕の高さとか軟らかさ、マットレスの弾力、シーツの肌触りが違うとか、そんなことが気になってさ」
「あるいは、変な夢を見たとかな。その夢のせいで寝つけないってのもよくある話だ」
「まさか。子供じゃあるまいし」
「なら、夢は見なかったのか?」
「……見なかった」
「嘘だな」
「見てないって。見てたのかもしれないけど、どんな内容だったかまで覚えてない」
「人は保身に走ると口数が多くなるもんだ。だから聞いてもいないことをべらべら喋ったりする。私は夢の内容がどうだっかについてはまだ訊ねちゃいない」

 はムスッとした表情と、何か言い返せないかと思案するような素振りを見せた後、結局妙案は思いつかなかったのか、閉口したまままた野菜を切り始めた。そこで私は、彼女をさらに追い詰めてやることにした。
 
「推察するに、おまえは夢の内容を覚えているな。その内容について私に喋りたくないから、夢なんか見てない、あるいは覚えていないと嘘をついている」

 は図星を突かれうんざりしたのか、深い溜息を吐いて握っていた包丁をまな板の上に置くと、とうとう私の方に顔を向けた。一瞬目が合ったが、彼女はすぐに目をそらした。
 
「仮に見た夢の内容を覚えていたとして、それがあんたに関係あんの?」
「夢は無意識による自己表現であると、かの有名な精神科医、ジークムント・フロイトは言った。要するに、夢ってのは無意識下に抑圧された感情や記憶を理解するために重要なファクターなのだ。ご存知の通り、私はおまえの精神的な問題を解決するという仕事を与えられている。だから、おまえが夜ごと見る夢を分析するというのは重要なことだ。分かってくれるな?」
「わかった。つまり……プライバシーなんてものをここで期待するなってことね。なら正直に言う。悪夢を見た。そのせいで寝付けなかった」
「ふむ。それで?」
「そう。これから夢を分析しようってわけね。内容まで話せって、そういうこと?」

 私は、他にやりようがない。そうしてくれないとしょうがないという意味を込めて肩をすくめて見せた。は深い溜息を吐いた後、やはり私の顔から視線をそらしたまま、今度は頬を赤く染めながら小さな声で言った。

「場所は、多分私がここで借りてる部屋のベッドの上。私は裸で、うつ伏せの状態で……マッサージの施術を受けてた」
「ふむ。おまえにマッサージをしていたのは誰だった?」

 は言い淀む。まあ、粗方の想像はついていた。尻込みして頬を赤くしているところから察するに、十中八九相手は私だろう。

「あんた」

 やはりな。私はの夢の中に出てきたという自分に嫉妬した。
 
「どこが悪夢なんだ。……とても魅惑的な内容だ」
「はい?」
「夢の中の私は、いったいおまえのどこを揉みしだいていたんだ?」
「言い方が完全にセクハラおやじのソレよね。自覚はある?」
「セクハラ? マッサージの何がセクハラにあたるんだ? 私にはさっぱりわからない。で、おまえのどこを揉んでいたんだ私は」

 はさらに顔を赤くして言った。
 
「私は、夢の中のあんたの行為についてとやかく言ってるわけじゃない! ……ああ、もう。……普通に、肩とか背中とか腰とか、そのへんだよ。マッサージ、なんだから」
「なるほど。そして、おまえはそれを受けて感じたのか?」
「なんですって?」
「ああ、失敬。どう、感じたんだ?」
「……最初は、なんであんたがって不審に思った。だって――夢の中で現実で言われたことを思い出すのって普通のことかどうかわからないんだけど――あんたは、マッサージ師をパッショーネが管轄するサロンから呼ぶって言ってたから」
「私は男娼を呼ぶとは言ったが、マッサージ師を呼ぶとは言ってないぞ。そもそも、パッショーネはマッサージ店なんか管轄してるのか?」
「知らないよそんなの。とにかく、最初は不審に思った。正直に言えば……いや、例え言わなかったとしても自覚があってほしいんだけど、サイコパスの殺人鬼に、自分が素っ裸の状態で馬乗りされて、その上で背中を撫で回されてるって……普通に考えて恐怖でしかないでしょ」
「まあ……わからなくもない」
「そこは分かると即答してほしかったね。……でも、上手だったのよ。それに、なんだかあったかくって……気持ちよくなっちゃって。あったかくて気持ちいいって、安心しきってないと思わないでしょ。だから私は夢の中の私のことが信用できない。あれは私じゃなかったのかもしれないわ」
「いや、おまえに違いないだろう」
「何を根拠に」
「あったかくて気持ちいいことがしたいんだ、おまえは。おまえの夢は、数年間セックスしてこなかった女の抑圧された願望をこれ以上無いってくらい如実に表現してる。現実世界のおまえと符合しかしていないじゃないか」
「……別に私、したいなんて思ってない」
「意識のある内はもちろん、セックスなんかしたくないと言うだろうさ。意識ってのは理性に舵を取られているものなんだからな」

 恥じらい故か頬を火照らせ俯くの顎を人差し指の腹でそっとすくい上げ、眼と眼を合わせて私は続けた。

「いいか、。意識とはフロイトに言わせれば氷山の一角に過ぎない。目に見えない水面化に、恐ろしく大きな無意識が存在している。その無意識が意思決定に大なり小なりの影響を及ぼすんだが、逆に意思決定の結果抑圧された自我や欲望といったものは無意識の中に蓄積され膨らんでいく。それが許容量を超えたとき、人は心身に異常を来すんだ。だから大抵の場合、精神に異常を来した者には自覚症状がない。何と言っても、問題は無意識の中にあるからな。つまり――繰返しになるが――精神疾患を治すため、無意識の表出とも言われる夢の内容を分析することには大きな意味があるんだ」
「巷の夢占いと何が違うって言うの。信憑性なんて無いでしょ」
「夢占いは素人がやることだ。ひどく一般化した無難な解釈を押しつけるに過ぎない。精神科医の夢分析とはものが違う。個々人の過去や生活環境、習慣、癖などと照らし合わせて行うのが夢分析だ」
「はあ。……どうだか」
「とにかく、だ。患者本人は意識して良識なり自分の正義なりあるべき姿ってものに従って下した判断の積み重ねで今の自分があると思ってる。だが実際は、その良識なり正義なりに抑圧された自分の願望、ありのままの自分というやつがここにいるんだ」

 今度は、の額の真ん中に人差し指で触れ、鼻先が触れ合いそうな程に顔を近づけ瞳を覗き込んだ。すると彼女は、瞬時に顔全体を――両耳までも――真っ赤に染めて下唇を噛み、一歩後ろへ退いた。瞳は羞恥心故か潤み、きらりと光って見えた。

 そうだ。その目だ。素の自分を私の前に、もっと曝け出せ。

 私は体の芯からふつふつと沸き起こる欲望をぐっとこらえ、前傾姿勢を立て直し、彼女の額からゆっくりと指先を離した。

「そいつがもう我慢ならんと文句を言いだした時、心身に悪影響を及ぼす。まさに、今のおまえのようにな。もうひとりのおまえは、セックスをしたがってる。もちろん、何故そうなのかはもっと深堀りすべきところだ。おまえがセックスに何を求めているのか。単なる快楽か、それとも癒しか、安心感か――」
「ほかに――」

 小さな声では口を挟んだ。不安げな、ひどく男の庇護欲を駆り立てる表情で。

「――ほかに、やりようは無いの?」
「ん……まあ」

 私は先ほどまで読んでいた本の内容を思い出した。受容的態度と共感的理解。の思いは、これまでの私が他人に示したことなど無い程の受容と共感をもって汲み取らなければならない。決して指示的であってはならない。選択は全て、彼女に委ねるのだ。私は助言をするだけ。その中でもちろん、私の自己一致も目指す。なに。簡単なことだ。私にならできる。

「数日、様子を見てみよう。焦って余計治らないんじゃあ元も子もないからな」
「その……2日後に男娼を呼ぶって話は?」
「一旦保留だな。少なくとも、おまえが望まない限り私から呼んだりしない。約束しよう」
 
 そう言うと、はひどくほっとした様子を見せた。

「ふう。良かった。……でも、どういう風の吹き回し? 言ってることが昨日とまるで違うじゃない」
「まず言っておくと、心療は私にとって全くの専門外だ。元外科医なんだぞ。……そして、今はおまえの治療のため目下勉強中だ」

 私はテラスのテーブル上に置きっぱなしにした山積みの本を顎でさした。
 
「まだ少しパラパラと流しただけだが、昨日の私の発言や態度は、あまり褒められたものじゃなかったということは分かった。悪かったな」
「い、いや……いいよ。さすが、勉強熱心だね。医者になれただけのことはあるってわけだ」
「好奇心さ。おまえを治すのはそのおまけみたいなもんだ」
「なら良かった。こっちも、その方が気が楽でいい」

 その後、のこしらえた薄味のスパゲッティーをふたりで食べ――これはこれで、健康的だし素材の味が生かされていていいと思った。率直に褒めると、はまんざらでもなさそうな顔をした――私は読書に戻り、は食器や調理器具を片付けた後、昨日と同じように川の方へ向かった。

 男娼か。

 私は、森の中へと消えていくの後ろ姿を眺めながら思った。そんな、どこの馬の骨とも知れない男なんかあてがいたくないな、と。そしてふと、こうも思った。


 しかし……待てよ。ただあったかくて気持ちのいい夢だったなら、寝付けないのはおかしいような気がするぞ。



 昨日と同様に川辺で自然浴を楽しんだ後、セッコも交え食卓を囲み、夕食をいただいた。その後、食器を片付け寝室に向かい、チョコラータに勧められた本を眠くなるまで読むことにして、そばにあるスタンドライトに明かりを灯し、ベッドの上で横になった。

 暇な間に活字を読むなんて殊勝な習慣は無かったが、こんな娯楽も何も無い山の中では文句も言っていられなかった。聞くに、プロジェクターならばあるのでここでも映画鑑賞くらいはできるらしいが、チョコラータの見たがる映画なんて良くてホラー、最悪スプラッターなんかだろうと容易に想像がついた。私は食後、映画のコレクションを見てみるか? と、目を輝かせながら嬉々として聞いてきた彼へ即座にNOをつきつけ、代わりにおすすめの本を紹介してくれと頼んだのだった。活字なら、ホラーやらスプラッターでもダメージはまだ少なかろうと思ったのだ。

 渡されたのは、ジョージ・オーウェルというイギリス人作家が書いた『1984年』というSF小説だった。チョコラータ曰く、洗脳された人間こそ読むべき傑作とのこと。つまり、組織どころか社会にまでも洗脳された私にはお誂え向きというわけだ。ちなみにこの小説、終盤で若干のバイオレンスな表現がありはするものの、始終登場人物が悲鳴を上げたり血肉を撒き散らしたりするような凄惨な内容の話ではないとのこと。チョコラータの推薦図書としては少々意外なチョイスという感想を私は抱いた。

 物語の序盤――ビッグ・ブラザーとか真理省とかテレスクリーンとかチョコレートの配給とか――主人公が住む世界について概ねのことを把握したところで睡魔が襲ってきたので、私はサイドテーブルに本を置き、スタンドライトの明かりを消してベッドに潜り込んだ。そして、眠りに落ちるまでの間に私は考えた。

 『1984年』で描かれる世界では、人々の自由恋愛すら体制側に抑圧され、快楽を求めて性交することも厳しく罰せられる。もしも、あのオセアニアという架空の国に私が生まれていたら?

 割にうまく生きていけたんじゃないだろうか。ただ言われたことだけをやり、言われていないことについては何も考えない。――否。相反する考えをどちらも正しいと信じ続け物事の矛盾に目を瞑る、二重思考を強いられ続ける。驚くことに、これはほとんど、私のこれまでの人生と大して変わらない。

 しかし今日、と私はすぐに思いなおした。

 私は私の中の無意識に直面した。これまでの私にならば出来たことが、これからの私には出来ないような気もしてきた。そう思える確かな欲望が、夢として観測された途端にむくむくと肥大していくのを、今まさに感じているのだ。

 今日は昼食のあと、またあの川に行った。そして何を思ったか、私はおもむろに服を脱ぎ全裸になって川の水の中に身体を浸した。普段自分の手ですらも触れないような所を、水は無遠慮にまんべんなく撫でていく。そして刺すような冷たさの中で、温かな身体をリアルに感じた。私は今ここに確かに存在している。その快感とも言えるような感覚を思い出した。

 ――生の実感だ。生きていると感じられることこそが人間の幸福なのだ。その幸福のためには、自由が必要なのだ。

 自由とは、目的を果たすための手段を多く得ることだ。手段を多く得るためには、人は何事にも意識的にならなければならない。意識的に情報を得て吟味し、エッセンスを血肉とした後に活用しなければならない。だから、そもそも考えることを奪われるというのは、自由を奪われるのと同じことなのだ。

 私はそのことに気付いた。幸福とは何かを思い出した。そして私は今確かに、さらに幸福になりたいと欲していた。

 だから私はもう、オセアニアの住人ではいられないだろう。

 ブランケットの中で私は私の肩を抱きかかえて丸くなった。空気を抱え込み、中心で熱を生む。けれど、今となってはそれだけでは足りなかった。私は、自分ではないほかの誰かに、熱を与えられたくて仕方がなくなっていた。

 そこでまた、私は思い出してしまった。日中、幾度となくフラッシュバックしたあの“悪夢”を。

 喉が渇く。つっかえたような感覚を取り除こうと、ごくりとツバを飲み込む。けれどそんなことでは、この腹の底から沸き起こる渇望感は癒やされなかった。心臓がけたたましく音を立て、その音が鼓膜に張り付いている。横向きに寝て、胸の前で腕をクロスさせ肩を抱いていた私は、胸の高鳴りが静まるのをじっと待った。けれど、いつまで経っても身体の火照りは収まらない。

 そして私はとうとう――驚くべきことに――今まで一度も試したことのないことをするため、腕を解き始めた。だがそうして自分を自分で慰めてみても、ただ虚しくなり、渇望感は増すばかりだった。そもそも、どうすれば自分が良くなるのか、その行為におけるゴールとは何なのかすら私にはわからなかった。そうして、渇望感にあえぎ、つかれ果て精根尽き果てたところで、無念のままいつの間にか眠りについていた。



 あれから数日が平穏無事に過ぎていった。ありがたいことに私の無意識はあれ以上、自分の眠っていた願望をありありと夢として描くことはしないでくれた。もう役目は終えたとでも言わんばかりだ。おかげでリラックスした状態でチョコラータの夢診断を受けられたし、その解釈も、ああ、そうかもねと納得のいくもので、自己理解はさらに深まっていった。

 とは言え、無意識下から意識へと登ってきた例の欲望は日に日に増していく。日中はあたりの散策やら、菜園の野菜の面倒を見るのやらで忙しくしているので意識の外にやっていられるが、寝る前の数分間はやはり意識せずにはいられず、自分を自分で慰めるのがもはや習慣と化していた。恥ずかしさ、罪悪感、欲求不満。やり方がうまくないのか、欲求は沈静化するどころか膨らんでいくばかり。それで恥ずかしくなってという負のスパイラル。暗い地の底へ向かっていく螺旋階段を駆け下りていくような感じ。

 結局、自由を夢見るウィンストン・スミスは思想警察に捕らえられ、拷問を受け、体制に屈服することになった。一縷の望みは完全に潰えた。政府という巨大な力の前にたったひとりやふたりで立ち向かったところでなんの意味もなかったのだ。アリでも潰すようにいとも簡単に、個人の自由への渇望はその根本から絶やされた。自由を夢見るなんて愚かなことだ。所詮人間は大きな力の前に服従し黙っていることしかできないのだ。

 そんなことを思い知らされる、希望もクソもない小説だ。こんな小説を私のような精神疾患患者――と自分のことを思うべきでないとチョコラータには言われているが、でなきゃこんな山奥で、サイコパスで殺人鬼の元外科医の元にいるはずもないので、これは自明の事実だ――に読ませるなんて。ただ一つ救いがあるとすれば、巻末に「体制は民衆によって崩された」ことを匂わせる、何年、何十年か後の誰かの手記が載せられていることだ。

 ジョージ・オーウェルは、こんな気狂いじみた政府が誕生する前に、民衆は政治に興味を持って集まり声を上げるべきだ、という教訓を与えたかったのだろうか。そしてチョコラータは、洗脳されるということの恐ろしさとは究極的にはこんなものだと教えるために、この小説を私に読ませたのだろうか。

 どちらにせよ、救いのない話であることに変わりはなく、読後の達成感はあれど爽快感は皆無だった。教訓を得られはしたが、その教訓を活かすことはできなさそうだ。組織の傀儡でしかなく、真の自由よりも目先の安全の方が大事な私には不可能なことだ。ただ、今まではそのことさえ意識して来なかったので、人として一歩前進はしたのだろう。

 意識的に生きること。欲望を持つこと。自己実現を目指すべきということ。それが、生きていると実感するために必要な能動的態度だ。このことを、私はチョコラータの元で学んだ。

「大した進歩だ」

 チョコラータは言った。彼の手元には贅沢にシナモンスティックをぶっこんだ耐熱ガラス製のマグカップ。中身はヴィン・ブリュレ。彼はそれを差し向けながら、私の隣に座った。

 夏とは言え、森の中の夜は少しひんやりとする。湯冷めしないようにとの元医者の配慮が嬉しかったので、私は素直にマグカップを受け取りすぐに一口すすった。芳醇な甘みと酸味が舌に乗り、揮発しかけのアルコールは口内を満たした後のどを滑り落ちていく。熱は底に落ち着くとじわじわと末端にまで広がっていった。

「そうかな」

 私は膝の上に置いた『1984年』をチョコラータの膝上に乗せて返却する。

「ああ。見違えるほどだ。少なくとも、わたしにはそう思える」
「それで? 私そろそろ家に帰れそう?」
「帰りたいのか?」

 私はすぐに帰りたくないと思った。この、私にひどく優しく接する医者くずれの殺人鬼――私を殺すなとボスに言いつけられているだけの、本心では私を心の底から殺したいと思っているかもしれない男――と離れたくないと。けれど、そんな感情を悟られるわけにはいかないので、すぐ打ち消すように嘘をついた。
 
「……そりゃ、もちろん」
「今少し考えたな。即答しなかった。ということは、少しはここに残ってもいいかもしれないと思っているということだ」

 そんな見え透いた嘘は、チョコラータには通用しなかったみたいだ。いい加減私も、学習したほうがいい。
 
「まあ……仕事しなくて済む口実になるなら、ずっといたいよ」

 チョコラータがふふ、と声を漏らして笑った。これは本心だ。文句なかろう。

「でもそのうち、ボスがしびれを切らして私を駆り立てるんだろうな」
「そう。いずれ、仕事はしなきゃならない。そう遠くない未来に。おまえは自分の家と、元の日常に戻らなければならない」
「ダルいなあ」
「そうだな。だから、元の日常に戻っても、たまにここに来るといい」
「え」

 胸が高鳴った。私は口元で傾けていたマグカップを下におろし、隣に座るチョコラータの顔を見た。目が合った。初日に感じた忌避感は少しもない。まったく信じがたいのだが、ひどく澄んで見える瞳――静かな、深みと包容力を持った眼差し――が私を捕らえた。心臓が一度大きく跳ねる。私は慌てて顔をそらす。けれどすかさずチョコラータの指先が私の顎をすくい上げて、ふたりの視線が合わさった。

 この男に優しさなんてものを感じるなんて間違ってる。人を殺すことに躊躇を感じないサイコパスなんだ。それなのに今、彼の表情を優しいと感じるのはなぜだ?

 私は自問自答する。仮面の裏にその表情でいたほうが有利な理由があるからだ。どこまでも利己的なものでしかない。分かっている。彼はただ、私を欲のはけ口にしたいだけだ。

 だから、乗せられちゃならない。自分を安売りするような真似は良くない。けど――

「いつでも、好きな時に戻ってくるといい。部屋ならいくらでも空いてるんだ。……おまえが望むなら、ここに住んだってかまわない」

 ――悪くない提案だ。元来、人混みは嫌いだった。そこから逃れられるかもしれないと、いつでも好きに使える避難場所があると考えると、それだけで心が軽くなった。信じられない。殺人鬼の住む家だと言うのに。それでも――

「それ、いいね」

 ――今の私は、この殺人鬼と送る未来に期待を寄せてしまっている。

 チョコラータは微笑を浮かべた。計画通りとほくそ笑んでいるようにも、心から私の返事を喜んでいるようにも見える。でも、そんなの……どちらだってかまわない。

 重要なのは、私が何を求めるかだ。

「存外、ここでの生活はとても快適だったからね。……変だよな。サイコパスの殺人鬼とひとつ屋根の下だってのにさ」
「わたしはおまえを殺せないからな」
「殺したいとは思ってるの?」

 チョコラータは少し戸惑うような表情を見せた後、少しの間泳がせた目を私の目に合わせて言った。

「それがな、おかしなことに……おまえへの殺意は一切沸かない」
「それは私に、生きることへの執着が無いから?」
「いや……。むしろ、今のおまえは活き活きとしているように見える。普通なら、もうとっくの昔に殺してるはずなのにおまえのことは――」
「失いたくない?」

 私は彼の膝の上に乗ったチョコラータの手の甲に、そっと指先で触れた。ピクりと、慣れない風にびくついた手。怖くないよと、手負いの動物に触れるみたいに、私はそっと彼の手の甲に自分の手を乗せてみた。視線を手から彼の顔へと戻すと、振ってくるのは戸惑いと、優しさと、独占欲に呑まれるような激しさと、その他さまざまな感情がないまぜになったみたいな表情。その複雑さに、私も戸惑ってしまう。戸惑いながらも、私は辛抱強く彼の返事を待った。

 そして、しばらく見つめ合った後に返ってきた。期待通りの言葉が。

「ああ。そうだ。だから、おまえを完全に治したくないと思い始めている」
「でもきっと、あんたと一緒にいると……治っちゃうよ。そんな気がする」
「なら、それでいいじゃないか。ここに残れ」
「私は自分の家と、元の日常に戻らなければ……ってのは?」
「前言撤回する」

 チョコラータはそう言った後、私の唇に唇を重ねてきた。まるで噛みつくみたいに。勢いよく。その勢いにおされて、私は体勢を崩し、ソファーの座面に仰向けになった。体が重なり合って、いやに敏感な私の肌が温もりを、彼の体重を感じ取る。それだけでひどく幸せな気分だ。なのに、彼の手は更なる快感を与えようと私の体を愛撫し始める。腹を、胸を、腕を、脚を、そして私の中心を。求めていた感覚がやっと、手に入った。

 利用してやればいい。彼といて幸せだって感じるなら。彼が私のことを殺せないなら。好都合だ。



後編:いいね。要領が掴めてきた。



「最近あいつ、人が変わったみたいじゃあねーか?」

 スクアーロが背後で言った。別に私に話しかけているわけでは無さそうだ。なんなら隣のパートナーとヒソヒソ話をしたいような話しぶりなのに、いかんせん声がでかい。

「ええ。驚きですよね。あんなに活き活きしたの姿は、彼女がチョコラータの元へ行く前には一度も見たことが無かった」

 ティッツァーノもスクアーロのトーンに応じてヒソヒソ話をし始めたが、やっぱりこいつも声がデカい。だが、今のところまだ悪口を言われたわけではないので、私は気にせず新聞のクロスワードパズルを解く。

「そもそもチョコラータの治療が――というか、心療がうまくいったなんて……それこそ驚きですよ」
「もっと驚きなのはよぉ。アイツ、あの山の中の診療所に――つまりチョコラータのとこに――通い続けてるみてーなんだよ。おっかなくねーのかよ。それはそれで正気じゃあねーよ」
「しっ……聞こえますよ」

 初っ端から聞こえてるっての。

 だがまあ、まだ許せる範囲のコメントだ。自分自身、正気の沙汰じゃあないと自覚はしてるんだからね。

「……ん。電話、ですね。チョコラータから」

 私はかまわずクロスワードを解く。解き続けていく。

「珍しいですね。あなたから電話してくるなんて……ん? 仕事の用事じゃ……まったく。失礼しちゃいますね」

 ティッツァーノはケータイをスピーカーホンにしたらしい。彼のケータイから大音量で声が聞こえてくる。やけに音がでかいなと思ったら、ティッツァーノはいつの間にか私の背後に立ってケータイを私の耳元に近づけていた。でもかまわない。よし、最後の言葉は……。

『おい、! なんで電話に出んのだ! おい、聞こえてるんだろ!? 治療が必要だ!』
「できたー。ふーむ。今日のはまずまずの手応えだったね」
『一体なんの話だ! 聞いてるのか!』
「……治療が必要って、一体誰の?」
『おまえだ! おまえのに決まってる』
「いーや。私の治療はもう終わってる」
……おまえ……まさか――』

 掴めてきたんだ。自分を、自分の人生をコントロールできてるような気がする。たとえそれが私の思い込みだとしても、そう感じられること自体が大事なんだって、私はそう思う。

『――まさか、私と別れるつもりなのか!?』

 しばしの沈黙。そしてスクアーロがマジかよと呟いた。
 
『なんだ、治ったらそれでおしまいだってのか!? 私は用済みだっていうのか!? ケツを拭いた後の紙みたいに、おさらばしてやろうってんだな!? 頼むから、そんなバカな考えはよせ。ああ……わかった、この前のアレが悪かったんだな。そのことについては、心から謝る! おまえにちょっと……いやかなりヘンタイチックなプ――』
「あんたに会いたいよ。心から」
『うん?』

 離さないでいようと思う。私が私らしくいるために。ケツを拭いた紙のようにだって? あんたはそんなに短命なツールじゃない。これは駆け引きだ。賢いあんたに飽きられないように。私だって、必死に生きてるんだ。
必死だけど、それが最近は楽しいよ。あんたのおかげでね。

「少し、考えたかった。電話に出なくてごめん。でも、たった1回電話に出なかっただけでそこまで不安になるもんなの? 思うに、治療が必要なのはあんたの方だ」
『何!? そうなのか??』
「なんだか……一気にチョコラータがおバカになったような気が」
『おい、今私の悪口を言ったのは誰だ! 殺すぞ!』
「これ以上、治療が必要だって嘘をついて、コソコソあんたに会いに行くのはどうなのかなって。だから、スクアーロとティッツァーノのふたりに打ち明けちゃえって思ったんだ。私から言う気にはなれなかったから」

 まさかここまで計画通りの展開になるとは思わなかったけど。

「とにかく、また今夜お邪魔するよ。何か必要なものは?」
『身一つでこい。おまえさえいれば他には何もいらん』

 振り返ると、ティッツァーノが青ざめていた。その向こうでスクアーロは、開けた口を閉じられないでいる。ふん。いい気分だ。このふたりの鼻を明かしてやれる日が来るとはね。

 このままでいよう。自分で自分が分からなかった自分とはもうおさらばだ。




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