Basket Case

「私の愚痴を聞く暇はある?」

 女は言った。この、年がら年中殺してくれってメッセージを顔に貼りつけたみたいな、頭のおかしいニヒルぶった嫌味な女の愚痴なんかどうせろくなもんじゃないし、真面目に聞く意味も無いだろう。本当ならそんな暇は無いと言ってやりたかったが、今の私には生憎、他にやることが無くヒマだった。それに、つい最近非常に満足のいく殺しと“作品”ができあがったばかりだったので、私は今大変満ち足りた気分だった。故に心にゆとりがある。

 だから私は、女の冗長で実の無いであろう愚痴を聞いてやる気分になっていた。

「あることないこと全部吐き出しちゃいたい気分なの」

 おい、だが勘弁してくれ。感情の起伏の激しい感傷的な女が洗いざらい全部私に吐き出そうっていうのか。せめてあることだけにしてくれ。半ば諦めながらもとりあえず私は訴えた。

「おまえは、私がやめろと言ったところでどうせ続けるんだろう」
「私は感傷的なバカ女よ。骨の髄まで狂ってる」
「……ああ。それについては疑いの余地はなさそうだ」

 こっちの話なんか聞いちゃいない。まあいいさ。聞いてやる。これがむさい男なら金なんかいらないからさっさと帰れと言う所だが、このという女は見た目だけは良くできている。非常に私の好みにマッチした顔と体型をしていて、一夜を共にできるか――もちろんベッドの上でだ――否かと問われたら、そうさせてもらえるなら是非と言ってやれるくらいには魅力的だった。

 そう。皆が多分に勘違いしているだろうから言っておくと、私は人間の三大欲求――食欲、睡眠欲、性欲という本能的なもの――の内の性欲が殺人欲求に取って代わっているわけじゃない。私の中の殺人欲求はそんな原始的なものじゃないのだ。好奇心を原動力にして後天的に備わった独自の美学。芸術の域に達するもの。音楽や絵画などの美術的なもののように、好き嫌い、分かる分からない、刺さる刺さらないといった微妙な感性が作用する領域なのだ。

 要するに何が言いたかったかというと、私にだって性欲はあるってことだ。その捌け口を常に探している。女の体と違って、毎日溜まるものがある。何にせよ溜め込むってのは身体に良くない。だが、私は元医者だというのにボスに“殺人兵器”扱いされていて――パッショーネに入ってすぐ獲得したスタンド能力がそうで、ついうっかり出来心で発現させてしまうと、街ひとつ……いや下手をすると国ひとつ滅ぼしてしまえるくらいの殺傷力を持つもんだから――自由に外を歩けない。なんなら、人のあまりいない郊外にぽつんと建つ屋敷でセッコと一緒に隔離までされているので、出会いなんて到底期待できない。

 そこにがやってきたってわけだ。組織の人間で私を頼ってくるのは、大抵が抗争の間に銃で撃たれたとか、まっとうな医者にかかるだけのステータスを持たず、まっとうな医者に説明なんかできないような理由で生と死の境を彷徨うような連中だ。こんなにもつやつやとした肌を纏ってやってくる患者は、私がパッショーネに入って以来初めてのことかもしれない。熱を出しているわけでもなければ、腹を下しているわけでもないし、臓物が見えそうなほど体がえぐれて血みどろになって今にも死にそうって顔をしているわけでもない。強いて言えば、目の下のくまが気になる程度だ。

 じゃあ何故この女はここにいるのか?

「時々自分にゾッとするのよ。こんなの私じゃないって、そのたびに自分をごまかしてさ」

 どうやら、理由を婉曲なく直截的に言うつもりはないらしい。

「そんなのが積み重なって、おかしくなっていってるのよ。これってただの被害妄想? それとも私がラリってるだけ?」
「……おまえ、クスリやってるのか?」
「やってないわよ。そんなの」
「じゃあ、ラリってる訳じゃないのは確かだ」



前編:壊れた私を直して、先生。



 ティッツァーノは、仕事ができなくなった私の肩を担いでソファーに座らせた。しばらくして彼が口を開いた。

「原因は何なんです?」
「……そんなの分かんない。私は医者じゃあないからね」

 これという原因は思い浮かばないけど、起こったことなら覚えてる。仕事を前にして突如、動悸、めまい、過呼吸発作を起こした。まあでも、軽いやつなら今までも良くあった。ただ、あれほどひどい発作を起こしたのも、それを仲間に目撃されたのも初めてで、その上始末の悪いことにヘマをやらかして仲間に尻ぬぐいをさせるはめになったっていうのも初めてだった。だからこうして、ティッツァーノとスクアーロに横から前から見咎められているというわけだ。

「いいですか、。あなたの仕事はあなたにしか任せられない。……スタンド能力を持たない一介の一兵卒なら簡単に切り捨てられるが、あなたはそうじゃない」

 ずきり。心臓が縮み上がる。プレッシャーだ。死にたくない。死にたくないのに、仲間、上司、ボス。皆して私をそう言って次から次へと仕事へ駆り立てる。失敗はできない。逃げ場もない。それが息苦しくて息苦しくて、なのにその苦しみを分かち合える人間なんてどこにもいやしない。

 私はひとりだ。仕事をこなしては、その後の時間に次の仕事のための生命維持をやっているに過ぎない機械みたいな人間だ。何のために生きてるのか? 時々、機械には与えられない“思考”という貴重な能力を無駄に発揮してそんな哲学的な問いに耽っては、意味もなく悶々としながら時間を浪費する。

「ですから、次はどうしてもあなたにしか頼めないという仕事が舞い込むまで、療養してもらいます」

 イタリア人ってのは根っから休みってやつが大好きだ。自分の属する組織の人間に休めと言われて不安になるやつなんて全体の1割にも満たないんじゃないか。でも私はその1割にも満たない人間のうちのひとりだ。休めと言われると不安になる。社会から切り離されているような気がして。いらない人間と言われているような気がして。ティッツァーノがさっき喋ったことの文脈からどうしたらそんな考えに至るんだって? 私は誰の言葉も信用してないからだ。根っからの人間嫌い。なのに社会から切り離されたくはない。

 自分でもよく思う。私は狂ってる。解決策はなんだ。どうやったらこの狂った思考回路を寸断して気楽に生きていける? それも死ぬほど考えたし今も考え続けてるけど、一向に答えは見つからない。

「いったい何処にギャングを匿ってくれる療養施設があるってのよ」
「よくご存知でしょう」
「……悪いけど、私をみてくれるようなヤブ医者なんか存じ上げない」
「チョコラータですよ。彼の元で療養してもらいます」
「嘘でしょ」
「いいえ。彼は……まあ性格や人格にはやや難があります――難があるの一言で済ませられるほどささやかな難点ではないと言えばそうです――が、医者としての知識や技量は申し分ない人物ですよ」
「そういう、嘘をまことしやかに嘯くことを私の世界では洗脳っていう」
「あるいは」

 チョコラータって男は、私の“かかわり合いになりたくない人物ベスト・テン”堂々の1位に輝く誉れたかい男だ。下手したら素性の知れないボスより恐ろしいかもしれない。ボスにとって殺しとは手段であって目的じゃない。だから彼におとなしく従って彼の逆鱗に触れない限り殺されはしない。だがあの狂った医者くずれの変態野郎は殺しが目的と化している殺人兵器だ。自分の好きな時に、大した理由も躊躇いもなく人に手をかける快楽殺人者。狂ってる私が言うのもなんだけど、彼はマジもんだ。

「これはボスの決定なんだぜ。

 スクアーロが言った。気の短いこの男は、これ以上つまらない文句を言ってくれるなと言わんばかりの形相を惜しげもなく私に向けてくる。……つまり八方ふさがりってわけだ。
 
「あなたはボスにも大変重宝されている。それはもう、羨ましいくらいに。……ですから、あなたを殺すような真似はさせませんし、彼にも出来ませんよ。彼にはボスに借りがありますから」

 きっとお払い箱なんだな。私はそんな勘ぐりからどうしても自分を切り離せない。ああ、私の人生もこれで終わりか。つまらない、下らない人生だったな。

 こうして私は、ティッツァーノの運転する車で療養施設――またの名をハーバート・ウェストの館――へと送り届けられたのであった。もうどうにでもなってしまえ。死んだって構いやしない。車の中へと押し込まれることに大した抵抗も見せなかった私は、半ばヤケを起こしていたんだと思う。



 意外にも、あいつがセッコと一緒に住んでる屋敷は小綺麗な見た目をしていた。もっとこう、おどろおどろしい廃病院みたいな所を想像していたんだけど、ぜんぜんそんな感じはしない。それに何かひどくだだっ広い、見ようによっては高級ヴィラと言えなくもない建築物だ。おまけにでかいガレージやらヘリコプターの乗ったヘリポートやらプールやらがついている。いくら元医者とは言え、贅沢させすぎでは?

 まあ、これくらいしなきゃ、あの怪物は飼い慣らせないってとこだろうか。医者というだけあってギャングの中じゃトップクラスに頭がキレるに違いない。賢いやつってのは疑り深いし“通常”や“常識”ってものに疑問を抱くものだ。その疑問を解消するために脇目も振らず真実をとことん追求する。つまりはボスの大敵ってわけだ。その上それがとんでもないスタンド能力を手に入れてしまったんだから、下手には扱えない。

 いやはや、ボスもとんでもないバケモノを生み出してしまったものだ。

 私は心のなかで十字を切りながらボスの末永い安寧を祈った。――ちなみにこれは皮肉だ。

 車はエントランス前の石畳上、噴水やら植栽やら何やらが整備されたスペース近くに止まり、スクアーロとティッツァーノのふたりが先に降りて――そうしないと、車の構造的に私は外へ出られない。おかげで乗ってる間、護送される囚人の気分だった。いや、護送車の方がまだ快適かもしれない。狭いし天井は低いしサスペンション硬くしてるから揺れまくって体のそこかしこを硬い天井やらドアやら窓やらにぶつける。ランチボックスの中で揺られてバラバラになったパニーニにでもなった気分だ。誰が好き好んでこんな車に乗るんだ。ほんと変なヤツら――運転をしていたスクアーロが運転席のシートを倒し私に車から降りるように促した。

 小綺麗な庭を少し歩いて3人で玄関へ向かう。3段程の小さな階段をのぼり、扉の前に立つ。ティッツァーノがドアベルを鳴らすと、ボタン直下にあるスピーカーからぶっきらぼうな声がする。

『鍵は開いてる』

 ああ、勘弁してくれ。いらっしゃいとか、挨拶の一言もなしか。こんなやつと一緒に療養だって? このふたりやボスは療養なんてしたことがないから、療養が何かをきっと知らないんだ。私はチョコラータの声を聞いただけで心底イヤになった。それだけならまだしも、こいつは完全に頭がイッてるサイコキラーと噂の男だ。別に一緒の部屋で四六時中監視されるわけじゃないんだからと思うだろう。その点に関して反論するなら、同じ屋根の下にいるというだけで気が滅入りそうだ。まるでサイコスリラーの主人公にでもなった気分と言えば分かってもらえるだろう。なら、これじゃあ治るもんも治らなくなってしまうと思うのは当然じゃないだろうか。

 開いているらしい玄関ドアを開けて、さらにその先へと私たちは進んでいく。

「案外綺麗なもんね」

 心を落ち着けたくて、私は何か喋らないではいられなかったので、足を踏み入れた先の整然とした屋内を見回した後に言った。するとティッツァーノが答えた。

「週に一度、清掃スタッフをよこしています。一応ここは、私たちパッショーネが――ひいてはボスが所有する医療施設ですからね。チョコラータとセッコのふたりは、ここで間借りしているに過ぎません」
「なるほど」
「とは言え、施設の管理運営や患者の治療方針に関してはチョコラータに一任しています。彼の言うことは聞くように。そうしなければ、あなたはボスのご厚意を踏みにじることになる」
「ああ……本当に死なないってんなら、何も文句は言わないよ」

 心を落ち着けたくて口を開いたのに、最後にしっかり釘を刺されてしまった。まったく、本当に逃げ場なんてどこにもないらしい。

 いやに広くていやみったらしい玄関を通り抜けた先に、リビングへの扉があった。ちなみに、医療施設とは言っても、もちろん受付カウンターとか待合室なんてものはない。田舎の打ち捨てられたヴィラを改装して、そこに手術室とか診察室とかを取ってつけたんだろうって感じだ。

 扉の向こうにチョコラータはいた。対面の大きな窓から差し込む陽の光に背中を照らされていて、他に照明がないもんだから逆光でいまいち表情が見えない。ちなみに、私が悪名高いチョコラータという男と対面したのはこれが初めてだった。風体はまさしく、マッド・サイエンティスト、サイコパス・キラーそのもの。その姿から連想できるのは、死、以外にありえない。パッショーネに入る前の情報がなくったって、肌身で感じられる。こいつは危険なやつだ、と。

「名前は聞いてる」

 チョコラータは言った。ティッツァーノとスクアーロのふたりは慣れているのか、チョコラータの座る場所の対面に置かれた三人掛けソファーの両端に腰掛けた。

、と言ったか。おまえはそこに座るといい」

 チョコラータは自分のわきに置かれた一人掛けソファを指さして言った。他の誰よりチョコラータに一番近い場所だ。なんで、よりによって私が。ああ、チョコラータの言う事を聞かないというのは、つまり死を意味する。私は諦めて促されるまま席に着いた。

 そもそもだ。私はあんたより前からパッショーネに在籍しているわけで……だからあんたにおまえと呼ばれる筋合いは無い。ギャングの世界は上下関係に厳しいってのが暗黙の了解じゃあないのか。とか、そんなつまらないプライドを持ち出して怒りを燃やすことで、未知への恐怖心を打ち消せたら良かったのだが何の足しにもならなかった。

 そんな私を他所に勝手に話は進んでいく。

 ご存知の通り、彼女の能力はボスに大変重宝されていてウンタラカンタラ。療養中の彼女の衣食住にかかる費用は報酬に上乗せしてナンタラカンタラ。ティッツァーノが事務的なことだけをさっさと話すと最後に質疑応答の時間を設けるが、チョコラータは無いと即答して瞬く間にそれを終わらせた。

「それじゃ、元気でな」

 スクアーロは立ち上がり私の左肩を叩いた後、背中をむけて歩きながら手を振った。ティッツァーノはかわいらしく私に向かってウインクをして去っていき、やがてふたりは扉の向こうに消えた。私は扉の向こうにいるふたりとボスに向かって、心のなかで中指を突き立てた。まるで独房に収監される死刑囚の気分だ。

「さて、診察を始めるか」
「今から、ここで?」
「何か問題でも?」
「いや、別に……」
「その前に、コーヒーでも淹れてやろう」

 お断りしますと言いたかった。毒でも盛られるんじゃないかと。ただ、こうも思った。それであっさり死ねるなら、それはそれで楽かもと。最も良くないのは、毒ではなく睡眠薬などを盛られた結果、拘束されバラされることだ。死ぬ前に苦しい思いをするのはイヤだ。

「何か、ひどく緊張しているな? 大丈夫だ。毒なんか盛るつもりはない。そんなつまらない殺し方に興味は無いからな」
「余計怖いんだけど」
「はは。なあ、

 チョコラータはキッチンでお湯を沸かしながら、私に話しかける。

「最近、とても満足の行く仕事が終わったばかりなんだ。そっちの“欲求”は満たされている。それに、おまえを殺して、わざわざボスを敵に回すようなバカな真似はしないさ」
「でも、いずれまた渇望するようになる。あんたみたいな手合はね。渇望が過ぎれば、衝動的に人を手にかけてしまう。私の中で殺人鬼っていうのはそういうもの」
「まあ……そうかもしれないな。否定はしない。なら、さっさとおまえの病気を治すとしよう」

 以降、美味しいコーヒーと共に問診と診察が進んでいく。驚くことに会話を重ねる内、何故か私はコーヒーを美味しいと思えるほどリラックスしていた。あんなに肌で危険を察知していたはずが、その危機感はすっかりさっぱり消え失せていた。これがきっと、チョコラータがパッショーネに入団する前まで正規に医者としてやってこれた理由だろうと思う。患者はいつの間にか心の内側にすっと入りこまれる。私はそれに抗うことが叶わなかったというわけだ。こいつがどういう男か知っているはずなのに。

「ラベリングすることに意味があるかどうか……私は常々疑問に思うんだ。つまり、患者に病名を告げる必要があるかどうかという話だ。病名を告げれば、患者はその名に縛られることとなる。自分はそうだと思い込むので、病気ってのは尚更治りにくくなる。その弊害は特に、精神疾患において顕著に現れるのだと、わたしはそう考えている。東洋最古の医書にも、百病は気に生ずという言葉がある。自分は病気なんだと思い知り思い込むより、たとえ嘘であっても、自分は病気なんかじゃあないと思い込んでいた方が治りは早いんじゃないだろうか。だが、患者には病名を知る権利があるというのもまた事実だ。おまえはどうしたい、
「早く治したいから、聞かないでおく」
「ふむ。じゃあ、これからここでどういう生活を送ってもらうかを伝えよう」
「え、生活? 薬は?」
「抗不安薬は多少使うつもりでいるが、それだけじゃあだめだ。根本治療にならない。うつ病でも何でも、その類の精神疾患を根本から治そうと思うなら、生活習慣を変えなきゃならん。いいか。私へのボスの注文は飽くまで根本治療だ。おまえに薬を処方してはいさようなら、というような簡単で無責任なものじゃあない」

 つまり、療養は私が考えていたよりはるかに長い期間に渡って実施されるということのようだ。二、三日か長くて一週間くらいかと思っていたのに。なんだ。それほどの重病なのか?

「納得がいっていないようだな。よし、病名は言わないが、おまえの脳みそで何が起こっているか説明するところからはじめようか」

 そう言って紙とペンを持ち出すと、チョコラータは脳みその断面図みたいなものを紙に描き出した。脳みその真ん中とその周辺5カ所から線を引き出して、各部位が何だと描き込んでいく。

「簡単に言えば、おまえの脳みその中にある扁桃体と呼ばれる場所が過活動を起こしている」
「へんとうたい……ですか」

 チョコラータは何も知らない子供に教え諭す教師のような、意外にも面倒見の良さそうな穏やかな表情で脳科学のレクチャーを続けた。
 
「おまえが危険を察知した時、記憶装置である海馬から“身の危険”に関する情報が扁桃体へ送られる。そして扁桃体が下垂体や青斑核、あるいは結合腕傍核といった場所へ危険信号を送ることによって、おまえが悩まされている症状が出てくる。下垂体はコルチゾールを、青斑核はノルアドレナリンを――要はストレスホルモンを――生成し、血圧上昇、覚醒、動悸、発汗、震えなどを起こすってわけだ」
「へえ……」
「この一連のはたらきは闘争・逃走反応と呼ばれるもので、普通の人間が誰しも備えている極めて原始的な反応だ。反射反応なので、意識的に止めることなどできない。おまえがどう頑張ろうとな。だから医学的に根本からアプローチをしようというわけだ」
「でも待ってよ。皆が備えてる反応なら、何で皆が私みたいに発作を起こさないのよ」
「言っただろう。過活動だと。普通なら、デコ――」

 真向かいからペンの先でデコを指される。

「――この裏にある前頭前野が、海馬から送られてくる危険情報の度合をフィルターにかけて扁桃体の動きを制御する。扁桃体そのものに危険の程度を判断する機能はついてないんだ。だがおまえの前頭前野は、生来の極度の心配性故か……そんな特別の理由で前頭前野のフィルターってのがガバガバになっている。大した危険でもないのに生死にかかわる重大な危険と判断するせいで、ブレーキがぶっ壊れた車みたいになっているんだよ」
「なるほど」
「闘争・逃走反応自体は数年に一度とか、ごく稀に起こるくらいなら問題ない。だがそれが習慣になって、さらに発作そのものへの恐怖が危険信号となるという負のスパイラルに陥ると、過活動と……つまり日常生活に支障を来すようになる。これが今のおまえだ」

 なるほど。要するに、私はぶっ壊れているということらしい。

「まずは、生活習慣を改めることだ。毎日決まった時間に起き朝日を浴びて、決まった時間にメシを食って適度に身体を動かし、決まった時間に寝る。これを繰り返すうちに、おまえのぶっ壊れた脳みそをリセットする。必要に応じて薬も処方するから飲んでもらう。当面はこんなところで様子を見よう」
「家にはいつ帰れるの」
「治るまで家に帰すなと言われてる」

 なんだって。私は頭を抱えた。

「過保護すぎるでしょ」
「正直、わたしもそう思ったよ。……だが、おまえを実際に見てみてこうも思った。おまえはひとりでいたら、さっき私が言ったことを守れないので治りもしないだろうなと」

 それは言えてる。家には、私の習慣というやつが体を成して居座ってる。そんな気がする。あの狭い家へ入ったとたん、確かに居座ってはいるが目には見えない巨大なアメーバみたいなそいつに呑み込まれて、私は普段の私通りになるだろう。

 ここまでチョコラータの話を聞いてやっと、私は全てに諦めがついた。自分の命すら――かなりクレイジーだが――この男に一任してみようと思った。どのみち、ボスの命令は絶対だ。ボスの意思に反してしまえば、そこで私の人生は終わる。チョコラータの言うことはつまり、ボスの言うことなのだ。遅ればせながら、私はそう思い知ったのだ。

「ところで――」

 チョコラータは言った。

「――おまえ、セックスは足りてるのか?」

 私はまるで明日の天気でもたずねるかのように平然と言い放ったチョコラータの顔を、豆鉄砲をくらったハトみたいに目を丸くして、しばらくの間じっと見つめることになった。




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