色鮮やかな緑が身の回りを被っていた。ふかふかと足元の地面を覆う草が、日に照らされて暖かい。近くを流れる小川のせせらぎに耳を傾けながら、冷たく澄んだ水を手に絡ませて遊ぶ。木々の枝を渡りつつ可愛らしい小鳥はさえずり、蝶が花の周りをひらひら舞っている。
理想郷。私が夢見る風景がそこにはあった。
ここでずっと生きられたら・・・。どんなに幸せだろう。
「・・・。私はアルカディアにおいてでさえも、存在していることを忘れるな」
メメント・モリと呟く見えない隣人
背後から聞こえるこの言葉で、この夢はいつも覚める。
私は生まれたときから決して逃れることのできない牢獄のような場所にとらわれている。天井には、無骨なコンクリート。ひび割れた天井からは水が滴り落ちる。唯一外界と私を繋ぐのは窓。けれど、窓の向こうはあいにくの雨もよう。ごろごろと鼓膜に響くカミナリの音が、憂鬱な気持ちを一層に高める。
それにしても、生まれ持った障がいの所為で身動きが取れないのを、牢獄にとらわれていると言ってのけるなんて・・・。まだ自分を「悲劇のヒロイン」の様にかつぎあげられる精神があること自体を嘲笑したくなる。
もうじき私は死ぬ。
それは私が一番わかってることだから。陰鬱な現実に戻されるくらいなら、さっさと永遠に眠ってしまって・・・夢の中の楽園でずっと生きていたい。矛盾したことを言っているようだけど、今の私は心からそれを望んでいる。
「お前・・・まだ生きてたのか」
ふと声のした方を向く。そこには1ヶ月にいっぺん、ここ流星街に戻る幼馴染のウボォーギンが、驚いたような顔をして立っていた。
「病人相手によくそんな口がきけるね」
「ほら。これ、薬」
ぶっきらぼうに、しわくちゃの紙袋を投げ渡す彼。「痛み止め」としての効果はあるらしいけど、私にとっては無用のもの。本当のことを言うと、2,3年前からどこかの名医から盗んでくるらしいその薬を、私はここ最近飲んでいない。だって、痛みが少しの間消えるだけで、生きながらえるものじゃない。飲んで痛みを感じていない間に眠る様に死ぬなんて、まっぴらごめんだ。けれど、それをウボォーに言うと申し訳ないから秘密にしてる。
「それじゃあな。今度来た時も生きてろよ」
もうじき私が死ぬことも・・・。秘密にしておくべきだったのだろう。けれど、死期が近づくと孤独は死よりも怖い。屈強なる魂は屈強なる身体に宿る。それを体現するウボォーギンにはわからないことだろうけれど、言わないと私は後悔してしまいそうだったから。このまま逝くのは、味気ない。今度ウボォーギンが来た時には、ここに残るのは私の体だけだろうから・・・私は言いたいことを全部、言ってしまおうと思ったのだ。
「もう行っちゃうの?」
「今回はお前が面白がるような土産話が無いからな」
「私が・・・話したいことがあるって言ったら聞いてくれる?」
「・・・聞いて欲しいんだろ」
仕方ねーな。なんて言いながら、彼はベッドの傍に置いてあったコンクリートの塊に腰掛ける。
「私ね・・・最近よく同じ夢を見るの」
切り出しはこう。そして美しいあの情景を語って、最後の私に語りかける声でしめる。ウボォーは黙って私を見ていた。まるで珍しいものでも見たと言わんばかりの表情。
「・・・変な夢でしょ?一度もこの目で見たことすらないのに・・・何回も何回も夢に・・・」
「お前・・・そんな顔出来るんだな」
「え?」
全く予想していなかった言葉。いつもはひょうきんな彼の顔が嫌に深刻で、私は何か珍しい物を見た気がした。あんたこそ、そんな顔できるんだねって、言ってやりたかった。
「お前・・・最近ずっと表情が死んでたから」
「かおが・・・ねぇ」
「お前、もうじき死ぬんだろ」
「・・・何でわかるの?」
「オレが月一で持ってくる薬も飲んでない。もうあきらめてんだろ」
何で分かったのかなんて聞く気はなかった。ただ、隠し通せなかったことが悲しかった。彼が言うことは図星。瞳に浮き上がってくる涙がとても熱い。涙は頬を伝ってぽつりとシーツに落ちた。
「連れてってやるよ」
「・・・どこに」
「お前の夢に出てくる場所だよ」
「でも・・・私はどこにも行けないよ」
私は毛布の上から、無い右足の形をなぞった。生まれた時から無い、この右足を・・・。
「んなもん、いらねーよ。お前が心から行きたいって思うなら、オレが連れていってやる」
ウボォーの提案が嬉しくて、涙がまた滝のように流れ始める。何かが喉の奥からこみ上げる。熱い・・・熱いそれが・・・。
「・・・っ!!」
白い毛布の上に、赤黒い血液が吐き出された。まるで死期がすぐそこまで迫っているかのようで、体が震え始める。体中が激痛にみまわれて、上体を起こしていることさえ・・・いや、存在していることさえ辛い。
「・・・!」
「お願い・・・。連れてって」
死ぬ前に、見たいの。大好きなあなたと、少しでもあの風景に近い場所を。そして・・・。
「死にたいの。そこで・・・」
涙でにじむ風景。今まで見たことないような顔。あなたも、そんな顔するのね。ねえ?なんで、あなたが泣きそうなの?震える冷たい手で触れたウボォーの頬も、同じように冷たくて。私の手に暖かい液体の感触がした。
「泣いてるの・・・?」
「・・・バカやろう。そうと決まれば、行くぞ」
「でも、この格好じゃ行けない」
綺麗な場所にいくなら、綺麗な格好しなきゃ。私はそう思って、いつか病気が治った時に着ようと思っていた服を、クローゼットから取り出すように言った。それはいつだったか、ウボォーがお土産に買ってきてくれたシフォンの白いワンピース。
「こんなもん・・・。大事にとってたのか?」
「ウボォーからのプレゼントだもん」
「・・・・・・」
着替えて、ウボォーに抱きあげられた私。何とも言えない浮遊感が少しこわかった。けど、暖かいウボォーの胸に抱かれて、安心。すごく心地よくて・・・人の暖かさに気づいた。初めてのことが多すぎて、私はさっきから涙が止まらない。
「泣くなよ」
「ウボォーこそ」
私はウボォーに連れられて、久しぶりに外の空気に包まれた。空気が汚いこの街でも、私にとってはすごく新鮮。雨を降らせていたはずの空を見上げると、曇り空が広がっていた。その雲の隙間から、夕刻にちかい頃の陽の光がさしていた。
秘境や魔境。この世界にはまだ誰にも発見されていない土地がたくさんあると言う。ここは特にそう呼ばれる程貴重な環境じゃ無い。観光地雑誌なんかによく掲載される程度の観光スポットだ。丁度澄んだ雪解け水が湖を満たして、木も茂って花も咲き始め、生き物が活動し始める・・・。丁度そんな頃に、ここにオレたち二人はたどり着いた。
「・・・。着いたぞ」
腕の中で寝息をたてていた彼女にそう話しかけた。普段ベッドの上で毎日を過ごす彼女にとってはかなりキツい旅だったかもしれない。途中、何度も血を吐いて、熱を出したり、体の震えが止まらなかったりした。その度には弱音を吐いた。
こうして、オレに抱かれて死ねるなら幸せだって。
けど、オレはそれが嫌だった。好きな女の願い一つ叶えられなくて何が男だ。そんな月並みなことしか思えなくなるほどに、オレはが好きだった。
ゆっくりとまぶたを開けた彼女。その目は今までに無いほど輝いていた。
「ウボォー・・・!見てよ・・・すごく綺麗!!」
湖を囲う山並みの縁が光りだし、水面は差し込んだ光をキラキラと反射させた。オレは情緒のわかるような繊細な心を持ってるわけじゃないが、珍しくオレもそれを綺麗だと思った。
は目を輝かせて、湖の淵に座らせて欲しいと言った。オレはが言うとおりそこに座らせて、オレは彼女の隣に腰を下ろした。左足の靴と靴下を脱いで、そっと水面に足を付ける。冷たいと言ってはしゃぐ姿がかわいらしい。すごく、生き生きしてる。
「お前・・・笑うとすごく可愛いんだな」
普段じゃ言わないような言葉も、ここじゃすんなり口から出ていってしまった。頬を赤くして、は少し黙った後、オレの頬を向いて言った。
「私ね・・・ウボォーのことが好き」
くしゃっと笑う彼女を、心のそこから愛しいと思った瞬間だった。は口を塞いで咳き込んだ。
「おい・・・っ!!」
少し落ちついて、が手のひらを外すと、そこには大量の血。
「・・・もう、死んじゃうみたいね・・・私」
彼女は泣かなかった。情けないことに、泣きそうなのはオレの方で・・・。
「少し、横になってもいいかな」
オレはを抱いて遠くの山を見つめていた。オレの大きな体の中で震える小さな体の持ち主の表情を見れば、オレはきっと泣いてしまう。だから、目だけは彼女から背けていた。彼女も彼女で、薄く開いた目はきっと、周りを囲む美しい風景に向けていたのだろう。時折湖の魚が跳ねただの、蝶々が飛んでるだの、小鳥がかわいいだのとつぶやいていたから。
こうして何時間経っただろう。沈みゆく太陽が空を紅に染め始めた頃、はぽつりと言った。
「いきたいよ・・・。もっと、いきたかった・・・」
逝きたい・・・いや、生きたいのか。生をあきらめかけていた彼女が、死に際にそうつぶやいたんだ。
「ウボォーと・・・幸せに・・・なりたかった・・・」
「・・・オレも・・・」
「うん。ありがとう・・・ウボォー。ホント、大好きよ」
太陽が山に沈み始めた頃。
「声が聞こえる・・・」
はそう言って、眠り始めた。
「・・・」
「少し、眠るね。疲れちゃった・・・みたい・・・」
「・・・おい、・・・」
「ありがとう。・・・ウボォー。大好き・・・よ・・・」
夕闇が二人の周りを囲み、空には一番星が輝いていた。その情景を私は背後から見ていた。ウボォーは眠る私を抱きしめて泣いてる。だめよ・・・泣かないでウボォー。いつもみたいに笑ってみせて。
近寄ろうとしても、私には足が・・・。
不思議だった。私は今、何の支えも無しに自分で立っている。おぼつかない足取りでウボォーのもとに行こうとすると、隣に何かの気配を感じた。
黒いローブを纏った男。昔絵本で見た、死神みたいな・・・。
「言っただろう。私はアルカディアにおいてでさえも、存在していると」
彼はそう言って、私の肩に手を載せた。
「・・・私死んだのね・・・」
「こればっかりは仕方がない。・・・神に定められた運命だからな」
「・・・どうして、死に際の私に足をくれたの?」
「おとなしく私に着いてくると言うなら、最後に、彼に何か伝える時間をやろうと思ってな」
死神はもっと悪いヤツだと思っていたけど、慈悲深いんだな。なんてぼんやり思って。
私はウボォーの元へ行った。ウボォーの腕に抱かれる私の体に戻ることはできないけれど、今なら何かひとつは彼に残せると、死神は言う。だから私はウボォーの頬に両手を添えて、うなだれた顔を上に向かせる。そして、見つめ合う。不思議と、目があっているように感じる。そして彼は私の名前を確かに呼んだ。
「・・・?」
有り得ないことかもしれないけれど、死神が言うんだ。なんだってできるって。だから、私はキスをした。ほんの何秒か、それともかなり長い時間だったのか。触れるだけのキスを、ウボォーに贈った。
「・・・時間だ」
後ろで死神がそう言うと同時に、私は意識を手放した。