鍵もかけられていないその廃屋の扉は、かつて人が住んでいた時よりも一層に薄汚れて見えた。それは部屋の中も同様。コンクリートの箱のような、窓の少ないその廃屋に足を踏み入れれば、冷えた空気が身を包む。
「・・・?」
フェイタンがそう呟いても現れる人影などありはしない。もちろん、彼自身もそれを重々承知している。それでも愛した・・・いや、今でも愛する女の名前を呼んだのは、半ば薄れかけた記憶を取り戻すためか。
名前を呼べば、この部屋の奥からニッコリと笑って顔を出した。そんな彼女はもうここにはいないのだ。
「おい。どうしたんだよフェイタン」
背後から名を呼ばれてはっとする。もしや、自身でも気づかない内に長いこと立ち尽くしていたのではないかと思い、背後を振り向いた。扉の手前で立って、部屋の中を見回すフィンクスは何も言わずにフェイタンの動きを待つ。
「・・・おい。ここ・・・」
「わかてるよ。お前、もう忘れろ言うつもりね」
フィンクスは溜息をついて部屋を出る。
「帰らねぇのか」
「ワタシ、もう少しここにいるよ」
フェイタンは足を踏み出して奥に進み、彼女がいた形跡を探す。けれど、追われることを恐れているかのように、ゴミひとつ残されていない。それでも何か見つけようと、部屋の奥へつながる扉に手をかけるフェイタンの寂しげな後ろ姿を、フィンクスは一瞥してホームへと戻った。
思えばそれは、夢にしてはできすぎていた。
自慰に強制的に参加させられている。は、そう言っても過言では無いような性交を何度も味わった。愛情表現など何も無い、ただ痛いだけのそれに何度偽って嬌声を上げたことか。彼女はまるで遠い昔のことのように、ふと思い出した。
それでも、果てた後に少しだけ甘えてくるフェイタンが、はとてつもなく愛おしかった。冷酷無情な普段の姿からは想像もつかない、彼の弱い一面が。死など何も怖くないと言う彼の、唯一の弱みになれた気がした。それを“愛されている”“拠り所とされている”と彼女は思っていたのだった。思えば、自分が何と浅はかで自意識過剰だったことか。今となってはフェイタンの本当の思いなど知るすべも無いが、そんな切ない思いがただの勘違いではないことを心から願っていた。でなければ、彼女が流星街を出た意味が無いし、事実上フェイタンをふった口実にも成り得ないから。
フェイタンは人の愛しかたを知らなかった。生まれた頃から、死と隣り合わせの生活で、己を守るのは己だけ。そんな環境の中、彼の中で確実に成長していくのは、自身を守る術のみ。時が経つと、そこから派生した“殺戮を愉しむ”という歪んだ感性が彼の中に巣食っていた。今では自身を守ることよりも、殺戮を愉しむことが優先されて、彼の心は歪む一方。
それでも、愛しいと思える人間に出会えたのは、奇跡とも言えただろう。フェイタンはのそばにいると、“安らぎ”の意味が分かる気がした。流星街に戻った彼が最初に向かうのは、必ずの住む家。打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた空間も、彼女がそこで生活しているだけで華やかになった。変に装飾されているわけでも、殺風景なわけでもない彼女の家に居る時が、世界中のどこよりも落ち着いた。そこでが静かに抱きしめれば、フェイタンはこれ以上ない程の至福の時を過ごすことができた。けれど、それを・・・彼女への気持ちを、口にすることは無かった。絶対に「愛している」などとは言わなかった。彼自身が「愛」をよく知らないからだ。
確かに、愛されているという証拠を提示されること無く、ただ不定期に家を訪れては黙って去っていくフェイタンに、が辟易するのは当然だったかもしれない。けれど今、彼女の住んだ家で彼女につながる何かを必死に探すフェイタンにはそれがわからない。
彼には、世界で唯一の安らぎの場所が突然ただの廃屋と化した原因が何か、さっぱり分からなかった。
彼女がこの家を出たと知って何度目かも分からない必死の捜索が実を結ぶことは無かった。それでも彼は闇雲に彼女につながる手掛かりを探し続けた。
ふとフェイタンは廃屋の明り取りから差し込む陽の光に照らされたコンクリートの床に目を向けた。ひと切れの紙が・・・
手に取って二つ折りにされたそれを開くと、久しぶりに目にする懐かしいの文字。
そこに記されていたのは、彼女の今の居場所。フェイタンはそれを見た途端に歩きだした。それがどこかは知らない。けれど、彼の足は確かに彼女の現在の居場所へと向かっていた。そこへ着くまでの経緯も道筋も何も分からないが、ただ確かなのは、フェイタンが心からの元へ行きたいと思っていたこと。それだけである。
夢中で歩いて行き着いた先。広い広い高原の小高い丘に、赤い屋根の可愛らしい家があった。一面青々としげる緑の中で映える、白壁と赤い屋根。草を分けるように伸びる小路をひたすら歩けば、その家の前に着いた。遠目からでは分からなかったが、それなりに大きい家。ここに、が住んでいる。
フェイタンはノックもせずに扉を開ける。
「・・・いるか?」
すると、ティーセット一式が乗ったトレーを持って小首をかしげてにっこり笑うの姿が、キッチンと思しき場所から現れる。
「あれ、フェイタン?どうしたの?」
久しぶりの再会。どうしたもこうしたも、フェイタンにとってはおかしな反応である。何も告げずに忽然と姿を消した彼女の表情ではない。はテーブルの上にトレーを置いて、その表情のままフェイタンに向き直る。
「。何で突然いなくなたか」
「手紙、見てくれたんだね」
「答えになてないよ」
「立ち話もなんだし、中に入って?」
「。はぐらかしても無駄よ」
「ほらほら」
はフェイタンの後ろに回って背を押した。やや抵抗し気味の彼をテーブルにつかせる。前に住んでいた場所とは違って大きな窓から差し込む陽光に照らされたテーブルの木板が眩しくて、フェイタンは眉をひそめた。おまけに窓から入ってくる高原のそよ風が、何故か気に食わない。フェイタンは憎々し気に、それら違和感の根本たる窓を睨みつけた。
フェイタンの目の前に座る。表情はやはり張り付いたようなあの笑顔のまま。逆光で陰るそれは、気味が悪かった。
「好きよ」
唐突に、そうつぶやかれて、フェイタンは驚く。
「好きなの。ねえ。フェイタンは?」
「・・・?」
「ねぇ、フェイタン。あなたの気持ちが知りたい」
「先にワタシの問いに答えるね」
「ねえ。嫌いなの?気になるわ」
「・・・!!」
「ねえ、ねえ?」
はまるで機械のように、張り付いた笑顔で同じことを繰り返し聞いてくる。フェイタンが凄んだところで、彼女がそれに反応することなど無い。狂気めいたの態度に、フェイタンはあることに気づかされた。
「・・・・・・・・。愛・・・してるよ・・・」
目を開けて目に入るのは小さな窓に切り取られた曇り空。床は冷たいコンクリート。埃っぽい、冷たい空気。起き上がって当たりを見回せば、見慣れた無骨なコンクリート。
うっすらと光に照らされるコンクリートの上には何もない。もちろん、彼女の居場所が記された二つ折りの紙なんて、ありはしない。
・・・もしもそれが原因なら、会って伝えたい。彼女を心から愛していると・・・。
今となってはもう遅い愛の告白を自己完結させたのを最後に、フェイタンは彼女の住んだ廃屋に足を踏み入れることをしなくなった。
触れる理由は無く触れあえる時は過ぎ今はひとりで後悔を蝕むあなたと私
青々と眩しい緑に映える赤い屋根の家に、は住んでいた。
忘れるためにこんな辺鄙な場所に住んでいるのに、彼のことは一生忘れられないかもしれない。この先の人生で、果たして自分は彼以上に愛せる人間と出会えるのだろうか。
そんなことを思いながら、は窓辺でティーカップをすすっていた。窓から目に入るのは山に囲まれた高原の緑と青い空のみ。そんな風景を前に彼女は、そもそも自分がフェイタン以外の男に出会うつもりなど毛頭無いということに気づく。で、なければこんな場所にひとりで住もうなどと思わない。
ここで彼を思いながら、ひとり老いていくのもいいかもしれない。ああ、今日もいい天気だ。
は少し儚げに微笑んで、ティーカップを傾ける。
バンッ!!
突然玄関から聞こえた物音に驚いて、彼女は持っていたティーカップを落としそうになった。急いで音のした方へ駆けつけると、そこにいたのは愛する人の姿。
「フェイ・・・タン・・・・?」
「・・・ここにいたか、。夢の通りね」
「これは・・・夢、よね?」
「何バカなこと言うか。夢じゃないよ」
呆然と立ち尽くすを抱きしめるフェイタンの体温が、その確かな感触が、夢ではないことを物語る。
(ああ、何て懐かしいの・・・)
涙をボロボロと零し、フェイタンをしっかりと抱きしめた。するとフェイタンは言うのだ。
「愛してるよ。」
恥しいから、もう二度と言わないね。
そう付け足したフェイタンだったが、はうんうんと頷いて、より一層に泣き崩れるのだった。
・・・・・・後悔を蝕んで蝕んで蝕み尽くした先に見えたのが望みだったから、会いにきたよ。それほどお前が好きだて、少しは分かてもらえたか?