パッショーネの暗殺者チームにも、一般的な企業同様に繁忙期とそうでない時がある。今はちょうど繁忙期でない時。しかも、週に一件仕事が入ってくるかこないかというほどの稀に見る閑散期だ。こういう時期は大抵仕事の取り合いになる。実際にターゲットを手に掛けた者には報酬が上乗せされるシステムがあるからだ。口論による仕事の取り合いの末、狭いアジトの中でスタンドバトルが勃発するのはよくあること。今日の昼にもそんな小競り合いがあって、皆――リゾットと、そして温厚で憶病なペッシ以外の皆――はため込んだストレスなり、持て余したエネルギーなりを発散して疲れ切っていた。
そんな彼らの前に、四リットルのウイスキーが入ったプラスチックボトルが二本、ドンと置かれた。時刻は午後六時。――これも、毎回恒例の儀式のようなものだった。
「さあさあ飲んで飲んで~! 皆疲れたでしょ? ごはんもたくさん作ってるわよー!」
リビングに歓声が沸き起こる。ウイスキーのボトルを置いた張本人――・は、それを聞いて満足げに笑った。そして両手に大皿を乗せてソファーに囲まれたローテーブルへ向かい、飢えた男たちにご自慢の手料理を振舞いはじめる。
「姐さん。今宵の勝者はこのオレ、ホルマジオだぜ~! ほ~ら、いつもみてぇによォ、ほっぺにキス、してくれよな~!」
「も~。しょうがないわね」
料理をテーブルに置いたついでに、お誕生日席――リゾットの定位置の向かい――に座ったホルマジオのほっぺに言われた通りキスをしてやると、うひょ~! 幸せ~! 何て間の抜けた声が上がって、周りを囲む男たちがブーイングを飛ばす。これもいつものことだった。は微笑みを浮かべながらキッチンへと戻り、愛する仲間たちへさらにうまいメシを食わせてやろうと手を動かした。
日々神経をすり減らし、人を殺すことでしか生きていけない自分たちにとっての、ささやかな幸せ。仲間と酒を酌み交わし、美味い手料理を食べてふざけあう。くだらないと言えばそうかもしれないが、そんなくだらなくも麗しい束の間の安息のために、彼ら暗殺者は生きているのだ。
はキッチンでひとり顔を綻ばせて、楽しそうに飲めや歌えやとやっている皆の姿を見つめては、料理をやる手を動かしていた。そんな彼女の姿を部屋に入ってきたばかりのリゾットが見つめていた。もまたチームの中では古株の、優秀な暗殺者――リゾットとはほぼ同期だった――なので、動作のひとつひとつに消音器でも付けたような彼の気配を察知するのは難しいことではなかった。
「あなたもどう?」
不意に向けられた微笑みによって、リゾットは我に返る。の微笑みには、もう随分長いこと癒やされてきた。だがそれを、自分にだけ向けられるのにはいつまでも慣れなかった。――慣れないのか、受け入れるのを恐れているのか。
その微笑みは、家族を愛する母親さながらだった。だからそれを受け入れるのは、自分がひとりの男として見てもらえる日が来るのを諦めるのと同じような気がしたからだ。
ああ、だから、慣れないのではなく、オレは拒絶しているんだ。これは拒絶反応だ。
その拒絶反応が、に悟られないようにと思ううちに、鉄仮面の鉄はどんどんぶ厚くなっていった。
「ああ、いただこう」
そう言っていつもの席に腰を下ろすと、リゾットはテーブルに並べられた料理に手を伸ばした。
の作る料理は美味い。もし自分に潤沢な資金があったなら、ナポリの一等地に店を構えてみないかと持ち掛けるくらいには美味い。美味いだけでなく、ほっとする味でもあって、それこそ、母親の手料理みたいなものだった。
チームの母親。は母親みたいな存在。母親。母親。……ならば誰がチームの父親だ? 無論オレだろう。役回りがそうというだけで、そこに至るまでの過程など無かった。過程があるならいい。知り合って、恋をして、その結果夫婦みたいな間柄になれているなら。
けれど仮に、今からでもそうなれたとして、が先に逝ってしまったなら? 夢も希望もない生活から、唯一の幸せが無くなってしまったら? きっと仕事なんか手に付かなくなるだろう。
そう考えるとリスクは取れなかった。皆の命に責任を持つリーダーだからこそ、自分だけはそうなってはならないと思った。こんな葛藤をやり続けて早六年。時が経てば経つほどに、彼女への思いは積もり積もって、それを持ち上げてどうにかするのは困難になっていた。
「ああ、違う違う違う」
リゾットがぼうっと考え事をしながらもごもご口を動かしていると、後ろから声をかけられた。
「いや、いいんだけどね。リゾット。私があなたにすすめたのって、ごはんじゃあなくて、これよ、これ」
ロックグラスに氷が当たる、耳元でカランと涼しげな音が鳴った。そしてウイスキーのウッディーな香りが鼻腔をくすぐる。見上げると、がソファーのむこう側から顔を覗かせて、小首をかしげて微笑んでいた。彼女が手に持ってすすめてきたグラスを、リゾットは拒めなかった。
「もちろん、ご飯だって食べていいわよ。今日のラザーニャのミート、すごい自信作なの」
「ふむ。そうか」
テーブル中央に乗せられたガラス製の平皿に、大きなサービススプーンで所々を好き勝手にえぐられて穴ぼこになったラザニアがあった。リゾットは皿の隅の方からトランプくらいの面積でそれをえぐり取って空いた小皿に乗せる。ご自慢のラザニアは手元に置いて、ひとまずウイスキーを呷った。そして一気に全部飲み干した。喉を滑り落ちるアルコール。駆けた部分を焼きながら、食道を通って胃に落ちていく。腹の中が燃えるようだ。だが、体の反応と言えばこれくらいだ。きっとほろ酔いになるまで、これを何十回か繰り返さなければならない。
べつに酒に酔わなければならないと誰に言われたワケでもないのだが。
「おお。珍しいな。リゾットが酒飲んでる」
「オレはてっきり、そう見えて下戸なんだとばかり……」
皆がそう言ってざわつく中、はふふっと笑って言った。
「みんな彼のこと知らないのね。ザルよ、ザル。飲んでも飲んでも、ほろ酔いにすらならないんだから」
飲んでも飲んでも酔えないので飲まないのだ。と、自分を下戸だと思い込んでいた仲間に言ってやりたかった。とは言えリゾットも人間には違いないし、限界だってあるだろう。だが、その限界を確かめようとウイスキーを生で飲み続けていればその内に、自分の中で抱き続けている思いをポロっとついうっかり吐露してしまいそうで恐ろしい。それに、酒を浴びるほど飲むとすれば、心の底からの信頼を置くのそばでだけだ。だからこそ彼は酒を飲まない。それが本当のところだった。
がリゾットに酒をすすめるのも珍しいことだった。彼女もまた、リゾットの役回りをよく理解している。だが、今夜は他に考えがあるらしい。
「一日くらい、リーダーってこと忘れて楽しんだら? あなたにもたまにはお休みが必要だと思うの」
お互いよく分かり合った仲だからこそ、そう言って気遣えるのもまたお互いだけだということなのだろうか。リゾットは思うことがあって、ふとの手を見つめた。彼女の手にあったのは、リーダーのためにと用意したグラスだけ。そんな彼女はまたひとり、キッチンへ戻ろうとしている。
リゾットはに食事を用意しろとか、皿を洗えとか、部屋を掃除しろなんて言ったことは一度も無いのだが、彼女は言われずとも皆の為にそれをやる。何の不平不満も漏らさずに、日々笑顔でそれをやる。やり続ける。
チームへの愛故だ。愛故の、金品の類で対価を得られる訳でもなんでもないその行為を、あたり前のことと思うのはあまりにもおごり高ぶった無礼な考えだ。金品では絶対に得られない、愛情や思いやりといったものを、オレ達は彼女から日々絶えず受け取っているというのに。彼女の無償の愛に、オレ達は――いや、オレは答えられているだろうか。
リゾットはとっさにの腕を取って引き止めた。は心底驚いた顔をして振り返る。
「な、何? リゾット。ウイスキーのおかわり?」
「いや。……おまえも飲むといい。好きだろう」
「ああ、でも、お皿洗わなきゃでしょ。それに、部屋の片付けも……。いつ仕事が舞い込んでくるかも分からないし――」
「皿洗いや片付けは、別にお前の仕事ってワケじゃないだろう。オレに休みが必要だと言うのなら、。おまえにだってそうだ。それに、仕事なんかこないさ。時期じゃない」
リゾットはの腕を掴んだままソファーから立ち上がり、彼女を引き寄せて自分が今まで座っていたところに座らせた。テーブル上にあった空いたグラスにワインを注いでやって、に手渡す。そして彼女から先程受け取ったロックグラスにウイスキーを注いで持ち上げると、リゾットはひとりキッチンに向かった。
ワークトップには切り終えた玉ねぎとにんにく、ベーコンに、切りかけのマッシュルーム。コンロには火にかけられた鍋が置いてあって、中ではぐつぐつと湯が煮えていた。
「アーリオ・エ・オーリオでいいのか?」
「ええ。そのつもり。……本当にいいの?」
「ああ。まかせろ」
リゾット以外は誰も寄りつかないお誕生日席――否、王座に、が座っている。皆は一様に目を丸くして、が酒を呷る姿を見ていた。
「っ……あーっ! たまんない!! ね、イルーゾォ、もう一杯、注いでくれない?」
「あ、ああ。……だが、。オレはてっきりおまえも下戸なんだとばかり」
「そりゃあリゾットほど強くはないけど、私だってそこそこイケる口のつもりよ?」
そう言って次々に、は注がれた酒を飲み干していく。その内、リビングは熱狂の渦に呑まれる。皆が自制心というリミッターを解除して、訳のわからない戯言で囃し立て、楽し気にどんどんどんどん酒を呷っていく。いつしか四リットルのウイスキーボトルは一本空いていた。その頃には男どもが取っ組み合いを始めていて、はやれやれーと拳を天井に突き上げて煽っていた。どさくさに紛れて――満面に大いなる不純を湛えた――ホルマジオがにのしかかった時はリゾットの手元がピクリと震えた。だが、彼の心配は無用だった。は天井に向かって突き上げていた拳をホルマジオの顎にクリーンヒットさせて、何事も無かったかのように乱闘見物に戻る。ホルマジオは軽く脳震とうを起こしてふらふらした後、酔いもあってか床の上に伸びると、そのまま寝息を立て始めた。
いつもなら定位置から眺める皆の様子を、リゾットはキッチンカウンター前に据えたダイニングテーブルから眺めていた。テーブルの上にはロックグラスと、瓶入りのスコッチ――皆が呷っているのよりもいささか高級なもの――を置いて。すると、王座から退いたはひどくご機嫌な様子でリゾットの方へ近づいてきた。足はもつれるほどではないにしても、十分ふらついていて、彼女が酒に酔っているのは明確だった。
「自分だけ高そうなの飲んで……ずるいじゃない」
真っ赤な顔で覗き込まれる。リゾットはふっと笑うと、に向かって瓶を持ち上げた。
「おまえも飲むか?」
はにっこりと笑って、手に持っていたグラスを呷り一気に空にすると、それをリゾットに差し向けて言った。
「いただくわ」
とくとくと心地よい音を立てて注がれる度数四十二度のアルコール。
「乾杯」
ふたりは向かい合わせに座って、口元で同時にグラスを傾けた。やがてふたりは、小さなロックグラスに湛えられた金色の海に呑まれ、溺れていった。
Musha ring dum a doo dum a da
気づいた時、リゾットはとバスルームにいた。壁の向こうにあるリビングからは物音ひとつ聞こえない。聞こえるのは、が何故かブラジャーとブラジリアンショーツ以外身に付けていない姿で便器に顔を突っ込んで、えずいている声だけだった。
が何故服を脱いだのかは分からない。酔っ払いのやることだ。大抵の場合、そこに合理性なんてほとんど無い。だから、どうして脱いだんだと聞くだけ無駄なことだし、聞いたところで納得のいく答えなど得られはしない。そもそもの話、今のリゾットには、が脱いでいるのを目にした時点でどうして脱いだんだと聞くだけの判断力が欠けていた。――こうまでなってしまう程に彼が酒を飲んだのはひどく久しぶりだった。
リゾットはの背中の素肌を撫でながら、ミネラルウォーターの入ったボトルをもう片方の手に携えていた。胃に溜まっていたアルコールと、消化を後回しにされていた食べ物とが一緒になったものがの体から出て行った。それを二回ほど繰り返した後、彼女はふらりと立ちあがり、便器の蓋を閉めて水を流した。その後背後にあるシンクへ向かい――半分布に覆われただけのの尻がリゾットの前に来る。さすがの彼もたじろいだ――蛇口をひねって水を出し、数回口をゆすいで鏡をじっと見つめた。
「あれ、何で私、脱いでんだっけ……」
吐いてすっきりしたのか、少しだけ正気を取り戻したらしいは、鏡を覗き込んで目を細め自分の背後をねめつけた。そこには、こちらへ向かってミネラルウォーターの入ったボトルを差し出すリゾットの姿があった。気づいた瞬間から顔から血の気が引いていく。
私は今、リゾットに裸同然の、こんなとんでもない姿を見られている。吐くところもしっかり。吐いたものも多分しっかり見られた。ああ、ああ、どうして。どうして、よりにもよって、リゾットに。他の誰かなら何とも無いのに。いや、そりゃあもちろん、こんな失態を見せたままにはしない。しっかりと脅して口止めはするけど。他の誰かだったなら、それで終わったのに。けど、今背後に立ってるのは、リゾットよ。ああダメ。もうダメ。気が……気が遠く――
は精神的ダメージが故にふらついた。酔っているのだからいつそうなってもおかしくないと身構えていたリゾットは、彼女がふらつきはじめてすぐ背中に手を回し、倒れそうになった彼女の体を抱き止めた。
「ああ……リゾット。私の王子様……。あなたは一体どこから、私についていたの……?」
うわ言を漏らすように、はリゾットの腕の中で尋ねた。酔いが回っているのに変わりはないらしい。普段の彼女なら、リゾットに向かって王子様、なんて呼びかけたりはしないからだ。
「……恐らく、ほとんどずっとだな。だが、なんでお前が服を脱いでいるのかが分からない」
「言わないで! 恥ずかしくて死んじゃう!!」
「いや、恥ずかしいっておまえ。今も服は着てないぞ」
「ふ……服!」
はふらつきながらも慌ただしくリゾットの腕から抜け出す。そして、酔った自分がどこに服を脱ぎ散らかしているのか考えて、とりあえず洗濯機横に置いてあるバスケットへ目をやった。
「あっ。あった、けど――」
固く絞った形のまま洗濯物の山に乗った自分の服を見つけたその時、はすべてを思い出した。リビングで吐いて、その時にトップスもパンツも吐しゃ物で汚してしまった。急いでバスルームに向かって、咄嗟に脱いで水洗いして絞った後、そこに放り投げたのだ。酔った自分は以外にも合理的な判断をしていたらしい。だが、リゾットがここまで追って来ることまで想像できなかった。
「――服、無い」
「ああ、そう言えば……」
リゾットも思い出した。彼はとりあえず、が吐き戻した物の後始末をリビングで済ませ、冷蔵庫から例のボトルを取り出してバスルームへ行った。すると、下着姿のが便器に顔を突っ込んでいた。洗うために脱いだのだと気付くと、酔っていながらもなかなかしっかりしていたのだなと感心した。
「まあ、とりあえず水は飲んでおけ」
「あい」
差し出されたボトルを受け取りごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ後、リゾットにボトルを押しつけ、はまたふらふらと動き出してバスルームを後にしようとした。が、掴んだはずのドアノブを掴み損ね、バランスを崩してそのまま床に倒れ込んでしまう。
「おい。大丈夫か」
「うう。……ほっといて」
「そのまま扉を塞がれていちゃあ、放っておこうにも放っておけんだろう」
を抱きかかえようと近づいたリゾットは、彼女の表情を見てまたもたじろいだ。泣いているのだ。彼女が泣いているところなんて、今まで一度も見たことが無かった。故に、彼はどうすればいいのか途端に分からなくなり、言葉を詰まらせ動作を止めた。
「私、あなたには……あなたにだけは、こんなみっともない姿、見られたくなかった」
は瞳に涙を溜め、真っ赤に染めた顔をリゾットからそらした。見ることは無いと、想像すらしたことの無かった彼女の表情に、得体の知れない感情がこみ上げてくる。
リゾットはの頬に手をやって親指の腹を伸ばし、下に向かって流れ落ちようとする涙を目尻のところで堰き止めて拭った。
「どうして」
「みっともないからよ」
みっともない姿を、オレにだけは見られたく無かった。それは何故だ?
そう考えて、いくつか彼女の気持ちになって理由をあげてみる。その中でもっとも自分の思いに都合のいいものを正とした。すると、リゾットは胸が高鳴っていることを自覚した。いっそのこと、この胸の高鳴りも何もかもすべて、に悟られてしまえばいいと、この時の彼は思った。
「おまえのみっともない姿も見ることができて、嬉しいと思うのはどうしてだろうな」
「……え?」
リゾットは多くを語らずにを抱き上げた。
「ちょ、ちょっと待って、下ろして!」
「どこに行くつもりだったんだ? どうせ寝室だろう」
「そ、そうよ! ひとりで行けるから――」
「そんなにふらふらした足取りをしていて行ける訳が無い。運んでやるから、黙って抱きかかえられていろ」
「あ……あなただって、酔ってるんじゃないの?」
「ああ。多分な」
酔っている。だから、オレは今、彼女の体に触れ、彼女に全て伝わってしまえとヤケになっている。全部、あの瓶入りのウイスキーのせいだ。
「だが、おまえよりはしっかり動ける。これっぽっちもふらついてなんかいないからな」
「う」
それきり大人しくなったを抱え、リゾットは彼女の寝室へ向かった。彼女の個室に足を踏み入れるのは初めてだった。部屋は綺麗に整理整頓され、香水か、化粧品か何かのいい香りが充満している。今まで意識的に意識しないようにしていた、彼女が紛れもない女性であるという事実を突き付けられたような気分になる。リゾットは一瞬、危うさを感じた。感じながらも、彼はをベッドへと下ろし、水の入ったボトルを手渡すと、そのまま立ち去ろうとする。
「ま……待ちなさいよ」
は腕を伸ばして、リゾットの手首を掴んだ。リゾットの感じた危険が、身に及ぼうとしていた。彼はごくりとつばを飲んだ。
「さっきの、嬉しいって。……どういう意味なの」
悟ってほしいと思っていたのは、自分から言うつもりは無かったからだ。だが、今になって思うと、それだとあまりにも無責任に思えた。けれど、これまでこらえに堪えてきた欲求を、その禁欲を、たかが酒ごときに挫かれるのも癪だった。リゾットが言うか言うまいか、言ってしまったことの後始末をどうするか迷っている間に、はまた、瞳に涙を浮かべ始める。
「まさか、みんなに言いふらそうなんて……思ってるんじゃあないでしょうね? 私の弱みを握れたって、それで喜んでるのね……!?」
酔っぱらいの戯言に、リゾットはつい笑ってしまう。けれど至極真面目に、彼はへ言葉を返した。
「違う。そんなんじゃあない。……ぜんぜん、これっぽっちも、そんなことは思ってない」
「じゃあ、なんなの!? 他に何があるっていうのよ」
酔っぱらいの戯言だ。酔っぱらいが絡んできているだけだ。だから、真面目に取り合わなければいい。そうと理性は分かっているのに、そのリゾットの理性が、今は酒のせいでうまく働かない。
「好きな女が、醜態も何も、全部自分にさらけ出してくれる。そんな絶対の信頼を、オレは得ているのだと思えて嬉しかった。それがオレの妄想で無ければ、なおのこと嬉しい。そう思ったんだ」
これは酔っぱらいの戯言なんかではない。なぜなら、オレはそれほど酔っていないし酔っぱらいではないからだ。酒の中に潜んでいた真実を開示しただけに過ぎない。
「愛しているんだ。おまえを、心から」
「……っ、嘘よ。あなたは私の愛なんか、欲しがって無かった」
「知っていたのか。……おまえの、まるで母親の愛情みたいなものを、オレが拒絶しているのを。おまえは分かっていたのか。皆と同列に、家族のように愛されるのが嫌だった。それを知っていたのか」
「どういうこと……?」
「おまえに、ひとりの女として愛されたかった。オレはおまえを、ひとりの女として愛してしまったから。それを悟られないようにと、これまで我慢していたんだ。だから、おまえはそう思ったんだろうな」
の顔に、あからさまな困惑を見た。そしてリゾットは、ああ、やってしまった。と、そう思った。けれど、すでに言ってしまったことだ。どうしようもない。後は、彼女が忘れるのを願うしかない。
「少し……喋り過ぎたな。オレはもう行く。放してくれないか、」
「……いやよっ!」
想像だにしなかった物凄い力で引き寄せられて、リゾットは体勢を崩し、意図せずの体に覆いかぶさる格好になった。
「ずるい。ずるいわ。自分の言いたいことだけ言って……! あなたどうせ、このまま私が、さっき自分が言ったことを、全部、全部忘れればいいって思っているんでしょう。全部、全部お見通しなんだからっ」
涙を浮かべた澄んだ瞳に、何もかも見透かされていた。自分の、ひどく無責任な思いがすべて見透かされていたのだ。リゾットは自責の念に駆られる。愛する女を泣かせているのは、一体誰だ?
「そんなの、許さないわ。私に許されたかったら、私の酔いがさめるまで……いいえ、さめて、夢からもさめた後、それからしばらくの間も、私と一緒にいなさいよ。酔いのせいだとか、夢だったんだなんて……そんなこと、絶対に、絶対に言わせないんだからっ……!」
無論、オレだ。彼女の秘めていた思いを酒であばいて、それをほったらかしにしようとしていたのは、まぎれも無いオレだ。無責任にも程がある。
「私だって、あなたのこと……誰よりも愛しているんだからっ!」
知らぬ間に、唇がの唇に触れていた。目を閉じて、その暖かさと、そして柔らかさを感じる。ずっと前から欲していたそれが、長い長い禁欲の果てのそれが、心の底から愛おしく、離しがたかった。心は、さらにを求めていた。
「酔ってなきゃ、こんなことはしなかった」
言い訳でもするように、リゾットは呟いた。両の掌での頬を包んで、澄んだ瞳を見つめた。幸せそうに細められた目から涙が零れ落ちて、リゾットの手の側面を濡らした。
「私だって、酔ってなきゃ、あなたに愛してるなんて、言えなかった」
「なら、感謝するしかないな」
あの、瓶入りのウイスキーに。ウイスキーなら、そう。あの瓶の中に。ふたりの真実も、あの瓶の中にあったのだ。