暗殺嬢は轢死したい。
Side Story

「おはよう。朝早いのね」

 が朝食を取ろうとリビングに降りると、ダイニングテーブルに腰掛けるプロシュートの姿があった。彼はしっかりと身なりを整えてコーヒーを片手に新聞に目を通している。

「……ああ。、あんたは仕事か?」

 プロシュートが新聞紙から顔を覗かせ、向かいにいるであろうの姿を視界に捉えると、仕事着ではなさそうな格好をして彼女がキッチンへと向かう様子が伺えた。

「いいえ。今日はちょっと買い出しに……って思っているんだけど」
「あんた、監視されてねーといけねぇのは分かってるよな?」 
「ええ。それで、誰か頼める人いないかしらって思って。朝からリビングに居座っていようって考えたの」

 がチームのアジトに身を寄せはじめてまだ二日も経過していなかった。プロシュートは彼女が初めてアジトに訪れた時のことを思い出したのだが、彼女は確か小さなハンドバック以外何も持っていなかった。その翌日にホルマジオを連れてどこかへ出掛け、帰って来た時にが紙袋を数袋と、ホルマジオが――プロシュートはそれが何だったかまで覚えてはいなかったが、大きめの何かを持たされていたことも思い出す。

 確かにここに持ち込んだのがあれだけならば、何かは足りなくなるだろう。買い出しに行きたいと言うのも頷けることだ。プロシュートは納得して、ふと、本日の自分の用事を振り返る。――特に用事は無い。彼は特に用事が無くても、身なりを整え玄関先のポストに投函された新聞を取って、ダイニングテーブルで朝食を取っていた。それが彼のルーティンワークだった。

「……オレで良ければ付き添うぜ」
「本当?それは嬉しいわ」

 はキッチンでマグカップにコーヒーを注ぎ終えると、プロシュートの向かいの席に座った。

「それで?何が足りないってんだ」
「そうね全部挙げてるとキリがないんだけれど……お洋服、タオル、歯ブラシ、化粧品、ナプキン、パンティライナーにストッキング……あと下着も新調したいのよね」
「……その時は店の外にいる。逃げたりするんじゃあねーぞ」
「残念。これ聞いたら監視やめてくれるんじゃないかって少しは期待したのに」

 はそう悪戯っぽく笑ってクロワッサンをひと齧りした。

「オレだって、何でチームメイト相手に監視なんかしねーといけねェのか知らねーよ。だが仕事で金も入るってんなら誰かがやらなきゃな。……オレたちに思想の自由は与えられてねェんだ」
「それって、ボスの言うことは絶対ってことなのよね。間違った上司に反論することもできないなんて、一般社会の企業とじゃまるで体制が違うのね、この世界は」
「反論しようにも本人が全く姿を見せないんじゃあ仕方ねーよな」

 は自分を監視することなんて、全くの間違いだと信じて疑わない様子で誰となしに苦言を呈した。プロシュートにも彼女を監視する理由は何も分からなかったが、彼の仕事に向かう姿勢というのはとてもシンプルで、チームリーダーであるリゾットがやれと言うことをやるという認識しか無かった。そもそも新入りの監視など、別に予定があるわけでも無いのに渋るほどの仕事の内容でも無い。彼には、女性のショッピングに付き添って荷物を持つことくらいは男がやって然るべきだという認識もあった。

「それで?いつ出発する?」
「二時間後でどうかしら。トレド通りで全部済ませるわ」
「わかった」



Body Moves



「はぁー疲れたぁー」

 一週間の着回し分の洋服に、複数枚のバスタオルとフェイスタオル、その他の生活必需品とアンダーウェア。トレド通り沿いの十数件の店を渡り歩き、それらの大荷物を抱え込み疲れ果てたとプロシュートのふたりは、喫茶店に入って足を休めていた。

 甘いカプチーノを啜るは、向かいの席でエスプレッソを嗜むプロシュートの顔をまじまじと見て、はあ、と溜息を吐く。

「何が一番疲れたかって言うと、あなたみたいなイイ男に荷物持ちさせてるってことね。あなたの傍を通り過ぎる女の子という女の子が私のこと恨めしそうに見るんだもの。へこんじゃうわ……」

 それがプロシュートに荷物持ちをさせているからなのか、ただ単にイケメンの隣を歩いていたことでパートナーだと勘違いされてのことなのか、には判然としなかった。だが、自分は別に好きで彼とショッピングにいそしんでいるわけではない。いい迷惑だ。隣の男に監視を受けていますというプラカードでも持って歩きたい気分だった。彼女は不満げに下唇を突き出して、喫茶店の窓から外の様子を眺めた。女性が喫茶店の中をチラと見るたびにプロシュートに目を留めてははしゃいでいる。

 は初めて彼のことを見たときに思ったことを思い出した。

 何このイケメン……。こんなスラムにこんなイケメンがいるの?世の中って広いわ……。

 プロシュートはかなりの美形だ。事前に写真で彼のことを見てはいたが、実物はよりその眉目秀麗な様が際立って見えた。その風貌は貴族さながらの気品に満ちて紳士的で、歩く姿はフランスのモデルか何かかと見まがうほど。女性が彼を見て色めき立つのも理解できる。だが彼は驚くべきことに殺しを生業にしているギャングで、今、私を監視するために近くにいる。だからそんな恨めし気な目で私を見ないでくれ。私だって好きでこんな状況に身を置いているわけではない。

 は心の中で過行く女性相手に、そんなことを悲哀に満ちた目で訴えていた。だが、そんなメッセージが窓の向こうの彼女たちに通じる訳も無い。

「ったく……たんまり買い込みやがって。逆にこの大荷物をお前に持たせてたらオレが片身狭いんだよ」

 は気づいていないのだ。プロシュートが過行く女性の目を漏れなく引いていたのと同じように、彼女もまた道行く男性の目を引いていたことに。



 は昨日、チームのメンバーの前で自己紹介を済ませ、パッショーネの暗殺者チームの一員としてめでたく迎え入れられた。

 暗殺者としてギャングの一員にならざるを得ない人間というのは社会適応力が不足しているのが通例――まれにリゾットやプロシュートのような人格者が紛れ込んでいたりはするが、それは極一部の話――であるが、彼女のふだんの生活態度や見た目からは社会適応力が不足している様など少しも見受けられなかった。現に、プロシュートが初めて彼女を夜道で見たとき、こんな大通りから外れたスラム街を夜中近くに歩くなんて場違いにも程があると思った。という新入りはいたって普通の――いや、普通と言っては差支えのあるほどに美しい女性だ。

 ただ、彼女の自己紹介は常軌を逸しており、プロシュートはその意外性に困惑していた。

 死にたがりの不死身女。そんな彼女は死を想像すると、まるで女性が性的興奮を得たときの様な恍惚とした表情を見せるということが分かり、プロシュートは早々にメローネに次ぐ“変態”のレッテルを彼女に貼りつけた。

 しかしながら、こうして一緒にショッピングをしていても彼女はそんな“変態”らしい言動を一切見せない。まるで美人のガールフレンドを連れまわしてるような感覚にプロシュートを陥れるのだ。チームの全員をざわつかせた彼女の猟奇的な一面……あれは夢だったのか?今のプロシュートにはそんな疑問が浮かんでいた。

 今のところ、オレは彼女のことを何も知らない。だが、男女の仲なんて、別にそう何でもかんでも分かり合ってないといけないもんでもない。この女は確かに変だが、抱くのには十分な顔とスタイルを持ってる。昨日ローテーブルに乗り上げてリゾットを誘ってたみたいに、夜のベッドの中でもあんたはそんな顔を見せるのか?

 要は、彼女を抱いてみたい。プロシュートはそう思っていた。彼女は今日の半日を費やしてアジトで生活を送るために必要なものを一通り買い揃えていた。アジトに身を置く内にへんな虫が付いてしまうかもしれない。そうなって手を出しづらくなる前に。と。

 プロシュートはホルマジオ程節操なく女と寝てはいなかったが、気が向いた時、都合のいい女が見つかれば簡単に夜のベッドを共にできた。特に女に困っているわけでもない。だが、果たして目の前の女は、死にたがりの不死身という変な特性を無いものとしたとき、プロシュートがこれまで抱いてきた美しい女性たちと同じなのか、それとも全く違う別の生き物なのかという疑問に囚われ始めていた。彼女は本性を隠すのが上手いらしいので、その化けの皮をはがしてみたい。オレをどっかの貴公子とでも勘違いしてナメ腐ってる目の前のオンナに一泡吹かせてやりたい。

 彼女には何か、プロシュートをそう思わせてしまう底知れない魅力があった。



 目の前の男がギャングらしからない紳士と思い込んでいるは、貞操の危機に気づかぬまま無邪気な笑顔をプロシュートへと向けた。

「そうそう。マグカップが欲しかったのを忘れていたわ。さっきこの喫茶店に向かう途中でかわいらしい小物屋さんを見つけたの。そこに戻ってもいい?」

 プロシュートがああ、と短い返事をすると、は満足そうに小さなカップをテーブルに置いた。すぐに近くのボウイを呼び止め、気前のいい十分な量のチップを渡して会計を済ませた。彼らの足元には買い物袋が所狭しと置かれていて、は席を立つと同時にそれらを取ろうと身をかがめるのだが、プロシュートは無言でそれを制して全て自分で持とうと拾い上げ始めた。

「あなたって本当に紳士よね。人に勝手にレッテルを張るのって、視野が狭くなっちゃうからあまりしないように気を付けているんだけれど……とてもあなたはギャングだとは思えないわ」
「ギャングであろうがなかろうが、男なら誰だって美人に気に入られたくて荷物くらい持つさ」
「わー。ほんと、惜しげもなく女性を褒めるのね。顔がほてってきちゃいそう」

 そう言って悪戯っぽい笑みを見せる彼女は、顔が火照りそうだと言った割に大して狼狽える様子も見せずに喫茶店の出口へと向かった。

 プロシュートはふと、彼女の反応に違和感を覚えた。普通のオンナならはにかんで恥ずかしそうにするのに、きたらとんでもなく慣れた様子で動揺のひとつも見せない。

 連れの男に目くばせをすることも無くさらっと会計を済ませ、大量の荷物を男に持たせながら店を後にするの姿は気高さに満ち溢れていた。プロシュートは今まで女性を落とそうと躍起になったことなどなかったのに、たった一分にも満たない会話の中で自分の分の悪さを感じ取った。彼はの周りに難攻不落の城を囲う反り立つ分厚い壁を見た気がした。だが諦める訳にはいかない。彼にも男としてのプライドがあるのだ。狙った獲物は逃がさない。とことんやってやる。そう自分を奮い立たせる。

「あんた、表向きの仕事があるって言ってたな?何やってんだ?」

 喫茶店を出て目的の小物屋へと向かう途中でプロシュートはもやもやとしながら、前方で足取り軽やかに歩くへ質問を投げかけた。

「ディーラーやってるの」
「クスリか?」
「やだ。違うわよ。そんなの表向きでも何でもないじゃない。車よ、く・る・ま。セールスレディやってるの。うちで取り扱ってるのは外車よ。お洋服屋さんで言うところのセレクトショップみたいなものね。ドイツ、イギリス、アメリカ、日本なんかからスポーツカーやらSUVやらセダンやら、色々買い付けて売ってるの」

 ああ、だからか。

 きっと金持ちの客に車を買わせるために、男を誑し込む術をしっかりと身につけているのだ。彼女はきっと客との心理戦に人心掌握術を駆使し幾度となく打ち勝ってきたのだろう。そしてその戦いの中で、歯の浮くような甘い口説き文句を幾度も投げかけられていて、笑顔で受けて真に受けたふりをしながら心内で激しいバレーボールのバックアタック張りにはじき返しまくっているんだろう。

 これは完全にプロシュートの先入観でしかなかったが、そうでなければオレの口説き文句を簡単に受け流せる女が存在するなどあり得ない。彼はそう思っていた。こと恋愛において敗北を知らない彼は、未知の強敵に出会ったような気がしてならなかった。

 それにしてもおかしい。さっきから聞いてもいないのに、やけに詳しく好きな車について講釈を垂れている。それは見た目や内装の話にとどまらず、エンジン数やら排気量やらトルクやら馬力やらと、とても女の話とは思えない程の熱の入れようで、それこそメカニックなんじゃないかと言わんばかりの語り方で好きな車の性能にまで言及しはじめている。

 普通じゃない。好きなブランドやコスメの話をするのがオンナってもんじゃないのか。あの店のドルチェが最高だとか、最近あの通りにどのブランドの店が入ったとか、ネイルがどうとかスパにエステにああだこうだ……。そんな話であれば、テキトーに相槌打って今度買ってやるとか連れてってやるとでも言っておけば大抵のオンナは満足していた。

 この女の前だと手も口も出せない。なんてスキがない女なんだ。こんなの落とせる男がこの世に存在するのか?

 プロシュートはの話にへえ、とかふーんとか気の無い返答しかできないまま、目的地へと到達してしまった。

「ごめんなさい。私ばっかり話して……興味ないわよね」
「いや……興味無いって言うか、オンナがそんな話するんだなって驚いてな……」
「そう、それでよく男の人に引かれるの忘れていたわ」

 そう言って困ったように笑う彼女の表情を見て、プロシュートは自分の胸が一度大きく高鳴ったのを感じた。それが悟られないようにと彼女から顔を背けると、小物店のドアノブに手をかけて扉を開けた。

「いいんじゃあねーか?……好きなもんは好きなまんまでよォ。少なくとも、ドルチェがどうの財布や靴や鞄がどうのとはしゃいでる女の話聞くより面白いぜ」
「ありがとう。そう言ってもらえると少しだけ安心する」

 角ばった紙袋を複数両肩に掛けているプロシュートは、を店内へ誘導した後、身体を器用に入り口へとねじ込んだ。来客に気付いて目くばせをしてきた年老いた店主に、ふたりは軽く挨拶を返し店内を見回す。は入ってすぐ、右手側の突き当りに配置された天井まで伸びる高さの棚に、無数のマグカップが並んでいるのを見つけた。

「わあーっ!どれにしようかな……」

 今日一番のはしゃぎようだ。洋服やコスメを選ぶときは、必要だから買う。くらいのテンションで、彼女は優柔不断さのかけらも見せずに即断でレジへと向かった。この小物店では本日最長の滞在時間を更新しそうだった。

 彼女がマグカップの並ぶ棚の前に立ち初めて十分程が経過した頃。彼女は白地にブルーの唐草模様を纏ったマグカップと、八割れの額を持つ猫がでかでかと内側に描かれたかわいらしいマグカップを両手に携え、それらを交互に眺めながらうーんと唸り声を上げていた。

 プロシュートはそんな彼女を急かすこともなく、から離れないように店内をぼうっと見回していた。壁の時計をふと確認すると、針は午後五時半を指していた。買い物はここでのものが最後だとも言っていた。夕飯という建前でレストランに連れ込むにはちょうどいい時間だ。

「決めらんねーのか?」
「うん……。どっちも好きなの」

 プロシュートは彼女の手からそっとマグカップを取り上げると、底に貼ってあった値札のシールを見た。どちらも一万リラとちょっとだ。

「悩むんならどっちも買っちまえばいいだろう」
「それが……さっきお財布と相談したら、片方しか買えないくらいしか現金が残って無くって。きっとここじゃあクレジットカードも使えないだろうし……」

 それを聞き終わるや否や、プロシュートはそのままレジへ向かった。ちょっと!と後ろから声をかけるの制止も聞かず、会計を済ませ店の外へ出た彼は、慌てて後を追ってきた彼女にぶっきらぼうに買ったものを渡した。

「あ……ありがとうプロシュート。お金は後で」
「オレに恥かかせんな。金なんかいらねーよ。入隊祝いだ」
「嬉しい!最高のプレゼントだわ!ありがとう!」

 ……変な女だ。 

 たかが二万リラのマグカップふたつで、まるで高級革財布でも贈られた女が見せるような笑顔を向けてくる。純粋なんだか、手慣れてるんだか分からない、いろんな態度を見せる女。とにかくプロシュートには、彼女が扱いにくかった。

「もう買い物は済んだんだろう?少し早いが、晩飯にしようぜ」
「いいわね。どこかいいお店知ってる?」

 少しの酒でいい。泥酔させる必要も無い。少し、気が緩んだところでちょいと押してやれば、後は簡単なことだ……。





「なあ。このまま帰っちまうのか?」

 ふたりが隣同士、ほろ酔い状態でよろけながらアジトへと帰っている時のことだった。すっかりあたりは暗くなり、空には星の光が瞬いていた。アジトのある街区まで行くのに近道としている細い路地に入り込むと、プロシュートは突然を誰かの家の壁へ追いやって、進行方向側を遮る様に手を突いた。

「どうしたの?何か買い忘れたものでもあった?」

 は驚いた顔で、間近に迫るプロシュートの彫刻の様に美しい顔を見上げた。大通りから届く微かな街灯の明かりだけでも、その眉目秀麗な様がしっかりと伺えた。さすがの彼女もこれには狼狽えて、プロシュートに悟られないように固唾を飲んだ。悩まし気に寄せられた眉、細められた目、食いしばられた唇。もう堪えきれないと、彼の表情が へ訴えていた。

 ……なんて綺麗な顔してるの……。

 は感嘆の溜息を吐きそうになるのを必死にこらえて、彼の顔に見入っていた。でもそうやって流されるのは良くないと固い意志を持って、早鐘を打っていることを知られないようにと胸に手を当て抑え込んだ。

「何すっとぼけたこと抜かしてんだ。……分かってんだろ。かまととぶってんじゃあねぇーよ」

 我ながら最悪な誘い文句だ。こいつとベッドに入ることくらい、簡単なはずだったのに……。

 プロシュートは少しだけ酔った頭で嘆いていた。

 ――この女ときたら、レストランに入ってからと言うもの、酒なんか最初の一杯だけで終わらせて、後は水で晩飯を流し込むばっかりだった。酒にさほど強くないのか、それだけでも結構顔は赤くなっていて、今もふらふらしてるように見えるのに、頭の方は逆に冴えてるのかしっかりしているみたいだ。オレとはまるで正反対……。ああ。あんたはオレを前にして一体何を考えてるんだ。オレときたら、もうヤラしいことしか考えられなくなってるってのに、なんて純粋な顔でオレを見上げていやがるんだ。真面目かよ。逆にオレがヤケになっちまってるってことくらいは分かってる。わかってるんだよ……。

「そうね。……とっても素敵なお誘いの言葉だわプロシュート」
「皮肉なこと言いやがって。なあ、……。あんたみたいな女に会ったのは……オレは初めてだ」
「私も、あなたみたいなイイ男と買い物なんて初めてよ。夢を見させてくれてありがとう」
「夢なら……まだ終わってねーさ」

 プロシュートがなりふり構わず彼女の唇を奪おうとしたその時、は右手の人差し指をプロシュートの唇に当てて微笑んだ。

「だから、ここで終わりにしないで?まだ、私に夢を見せてくれる気があるならね。ちなみに、私のこと満足させられる男の人なんて、そう多くはないんだから……焦らないでプロシュート。私たちの関係はまだ始まったばかりじゃない」

 かなり挑発的なセリフを熱っぽく吐いた後、プロシュートの唇に当てられた指はそのままに軽く押し返しつつ、は顔を少し傾けてプロシュートの頬のあたりに触れるだけのキスを送る。そして行く手を阻んでいたプロシュートの腕を掻い潜り、彼女はひとりアジトへの帰路についた。プロシュートは何が起こったのか頭の中で整理がつくまで呆然としていたが、ふと、彼女の柔らかな唇が頬に触れたことを思い出してその場所に手を触れると途端に我に返り、数歩先へ進んでいた彼女の後姿を素早く目で追った。彼女はにっこりと笑って振り返ると、帰らないのか?と言いたげに小首をかしげていた。

 ……クソ……こんな情けねぇ気分にされたのも初めてだ……。

 プロシュートは苛立って頭を掻くと、しぶしぶの後ろについて、少し遅れて家路へとついた。彼は歩きながら、が言ったことを思い返していた。

 あんたを満足させられる男が多くない……?それが本当だってんならオレがそのうちの一人になってやるさ……。

 確かに彼はやけになっていた。このラヴ・ゲームに勝つのはオレだ。そう信じてやまなかった。――だが、彼はの言ったことの神髄をこの時はまだ理解していなかった。



「プロシュート。今日はありがとう」
「……何だ突然」

 アジトの玄関前にたどり着くと、がバッグから鍵を取り出しながらプロシュートの方へ、屈託のない笑顔を向けて言った。

「プレゼント、大事にするわ」

 彼女は呆けた顔をしてその場に佇む彼を置いて、ひとり玄関からアジトの中へと入っていった。

 リビングのソファーで酒を飲んでいたホルマジオが、下世話な話を彼女に振って茶化していた。どっかにしけこんでたんじゃねーのか、とかそんな話だった。が笑って誤魔化すと、本当のこと言っていいんだぞ?と、尚もしつこく彼女に絡む。

 数十秒遅れてリビングのソファーへ歩み寄り、大量の荷物を降ろすプロシュートにホルマジオが視線を向ける。両肩に大量の紙袋を下げて帰ってきて、大分疲労したような顔を見せる彼の様子を見てホルマジオは笑った。

「何だァ?ただの荷物持ちかよ!ご苦労さん」
「……昨日のテメーと変わんねーだろーが」

 ――彼らはまだ、彼女のことを何も知らない。彼女が抱える闇も悲しみも、生きる目的もアジトに身を置く理由すらも、何も知らない。ただ、ミステリアスで底の知れない魅力に取りつかれて彼女を我が物にしようとする男は、日に日に、着実に増えていくのだった。