がチームの一員として何度か仕事を経験し、ある程度メンバーの信頼を獲得しはじめた頃。いつも午前中に行われる分け前の話で皆がリビングに集合していた時のことだった。リゾットが話し合いの終盤でリビングのテーブルに茶封筒を放り投げた。
「お!臨時収入かァ!?」
ホルマジオが身を乗り出して放り出された茶封筒に見入るのだが、大した厚みがあるようには見えず、ホルマジオのテンションは次第に落ち着きを見せ始める。そして思い出したかのように、ああ、いつものあれか。と呟いて、彼はソファーに再び身を預けた。
「交際費だ。二百万リラある。お前らで好きに使え」
リゾットはチームの経理を務めており、出納を管理していた。大した額では無いが、経済的に余裕が出てくると数カ月に一度の頻度で、このように“交際費”が支給された。
「久しぶりに飲みに行くか!」
「そうだな。も仕事に慣れてきたみてーだし。労いも兼ねてよォ」
はポカンと呆けた顔でいたが、その内にうーんと唸り始め、意を決したように持論を提示した。
「飲みに行くのもいいけれど、同じお金でお酒と食材をたんまり買い込んで私にお台所を任せてくれれば、もっと贅沢できるわよ?」
がそんな提案をすると、ホルマジオは額に手を当ててかぶりを振った。
「分かってねーなァ。それはお前がいつもここでやってることだろーが。雰囲気だよ雰囲気。あと、オンナ」
「まあ、ホルマジオの言うことはともかく、それじゃあお前が酒飲めねーだろって話をしてるんだ」
プロシュートがそう補足すると、はなるほど、と頷く。確かに、台所で忙しなく動いていると酒の進みも悪いし、片づけのことまで考えるとそう泥酔もしていられない。だが、自身酒も好きだが同じくらい料理をすることも好きだったし、その料理をおいしそうに食べてくれる皆の様子をカウンター越しに眺めるのも楽しみの一つだった。
そしてもう一つ懸念事項があった。リゾットは茶封筒を放り投げた時、“お前らで”と言った。つまり、リゾットは打ち上げに参加するつもりは無いということがその言葉尻からは読み取れた。
家で飲めば皆で楽しめるのに。そりゃあ、ホルマジオの言う“オンナ”っていうのが私しかいないのは皆もつまらないかもしれないけれど……。
「リゾット。あなたは来ないの?」
「オレはいい。いつボスから連絡が来るか分からないからな」
「そう……。それは残念だわ」
寂しそうな顔で首を傾げ、向かいに座るリゾットの顔色を伺う。メローネはそんなの様子を見て言った。
「。いつもオレ達が世話になってるバールがあるんだ。雰囲気もいいし、酒も料理も上手い。君も気に入ると思う」
メローネが、いまいち納得がいっていない様子のを後押しするようにそう伝えると、はやっとにっこりと笑って頷いた。
「そう……。皆がそう言うなら!楽しみにしているわね」
そう言って、はクラッチバッグを片手にアジトを後にした。扉の向こうに消えゆくの後姿を追うメローネは、玄関の扉が閉まると同時に物憂げに溜息を吐く。
「ああ、。君がタイトなボディコンワンピに身を包んで酒に酔ったところを想像すると、今から股間が疼いてくる……」
メローネは一度、ミラノでの仕事でのセクシーなドレスアップした姿を見ている。それをもう一度見たいという欲求が抑えられなかったのだろう。思っていることを皆の前で口に出してしまった。
「おいお前ら。この変態がを酔わせようと酒をすすめてたら躊躇なく店からつまみ出せよ」
プロシュートはメローネを指さして、下心丸出しの彼に釘を刺す。これからいつものバカ騒ぎが始まると察知したリゾットは、そっと席を立ってリビングを後にした。
「プロシュート。いい子ぶるんじゃあない。お前だって少しは想像しているんだろう?は普段ここで飲んでるとき少しも酔わないし、エロい格好なんか拝めないからなァ」
そんなメローネの発言で場は静まり返る。
確かに、いつも小綺麗な格好でアジトを後にして表の仕事に出かける彼女だったが、露出度は控えめだ。高級車のセールスレディなら、もう少し身体のラインを強調したセクシーな格好で仕事をしても問題無いだろうに、彼女は敢えて女性らしさを抑えるようなパンツスタイルで出かけることすらあった。
そんな彼女の女性らしい姿を見てみたいというのは、この場にいる誰もが思うことではあった。静まり返った場で皆は、各々の好みの服を纏ったの妖艶な姿を思い浮かべていた。
「とにかく、メローネ。てめーはもう少し自制しろ」
「ところでよォ。、行っちまったぞ。今日は誰が監視するんだ?」
メローネが、もちろん今日もオレがと名乗りを上げると、皆一様に呆れた様子でリビングを後にした。
そして週末を迎えた午後六時頃、リゾットを除く一行は行きつけのバーへと向かった。
はネイビーのフィッシュテールドレスを身に着けていた。胸元がいつもより開けていて、かといって谷間を強調するまでの切り込みはない上品な格好だったが、いつもと違った雰囲気を醸し出す彼女の姿には、メローネはもとよりチーム全員が心をざわつかせていた。本人はそんな男心に気づくはずも無く、小高い丘の上にあるらしいチーム行きつけのバーに思いを馳せていた。
ナポリ湾を遠景に携えたその店は二階建てで、ギリシャの白亜の家を彷彿とさせる装いのこぢんまりとした佇まいだった。夜の闇が空を覆ってしまうかしまわないか、そんな絶妙な明るさの中、オレンジ色の照明が白壁を照らし薄暗い空に聳える様がとても雰囲気良く感じられる。はそんな洒落た建物を前にして心をときめかせていた。店内に入るまでの階段上で、メローネが紳士さながらに手を伸ばす。がその手を取ってありがとうと呟くと、メローネが気を付けて、と言って彼女が階段を上り切るのを見届けた。
暖かな照明が程よく店内を照らしている。モダンな家具でシンプルに仕上げられた内装が印象良くの瞳に映った。バーカウンターの前に円卓がいくつか並べられていたので、チームの面々はそこを陣取った。店主が愛想のいい笑顔を浮かべてメニューを配ると、に目を留めた。
「やあ。君は初めて見るね。ようこそ。それにしても、プロシュート。えらく美人を連れてきたじゃあないか。一体どこのご令嬢だい?」
「まあ。美人にゃ違いねーが……。うちの新入りだ。また連れてくるさ」
「それは嬉しいな。今日はゆっくり楽しんでいってくれ」
――ああ。眩暈がしそう。
は周りを見回してそう思った。酒に呑まれる前に、雰囲気に呑まれそうだ。ナポリ湾を一望できる窓が、彼女の目の前に広がっていた。夜を迎えようとしているナポリの街に、ぽつぽつと明かりが灯っていく。最高のロケーションだ。
はその生い立ちから、率先して他人と関わろうとはしなかった。表の職場で何か集まりがあっても、あまり長居はしないようにしていた。自分のことを聞かれると面倒だし、会話を上手く交わせる気もしなかったので、何かと理由を付けて夜の集まりには顔を出さないようにもしていた。たったひとりでバーに足を運ぶことなんてなかったし、ひとりで酔っても何も楽しくない。しかも、自分は酔い過ぎると厄介だ。彼女はそれを自覚していた。
しかし、今は本来の自分をさらけ出せるチームのメンバーと一緒だ。こんな素敵な場所があるなら、もっと早くに知っておけばよかったと後悔するのだが、そう思えるのはやはりチームに在籍してからのことだったので、彼女はただただ今の境遇に感謝するのだった。
「二階のテラスからの景色は最高だぜ。後で足を運んでみたらどうだ?」
メローネがそう言って、のグラスに赤ワインを注ぐ。
「おいメローネ。お前早速……」
「レディのグラスに乾杯のワインを注いで何が悪い」
「ありがとうメローネ。それじゃあ、皆、乾杯しましょう」
一行は円卓を囲み一斉に杯を掲げ、各々好きな分だけワインを飲み下した。
Lust for Life
ホルマジオは店内に目を配りオンナを物色している。プロシュートはペッシの肩を抱き、酔った様子で何やら説教じみた話を聞かせている。メローネはのどこが素晴らしいかというテーマについて誰となしに講釈を垂れ、ギアッチョは顔を真っ赤にして虚ろな表情で天を仰いでた。
はと言うと、久しぶりに酒を何杯も煽ったせいで、ほろ酔い期と酩酊初期の間を行ったり来たりしていた。心拍数が上がり、脳みそは雲がかったようにぼうっとしていて、恐らく立ち上がるとふらつく。そんな彼女の様子を、代謝の良さか身体の大きさが災いしてなかなか酔えないでいるイルーゾォが眺めていた。
彼が初めて見る光景だった。は頬を赤くして、グラスを片手にテーブルに突っ伏さんとふらついている。すると何を思ったのか、は突然立ちあがり、おもむろに2階へと伸びる階段に向かって歩き出した。そんな彼女に、どこへ行くのかと制止の声をかける者はひとりもいなかった。イルーゾォは溜息を吐いての後を追う。彼女は確実に酔っている。ふらついた足取りでアルミの薄い階段の一段目に足をかけたとき、イルーゾォは彼女の腕を引いた。
「おい。大丈夫か?相当酔ってるようだが」
「大丈夫。ちょっと、夜風に当たりたいだけ……」
はそう言ってイルーゾォの手を振りほどき、ゆっくりと上階へと昇って行った。本人がそう言うなら、とイルーゾォは一度引き下がったのだが、それから三十分ほど経ってもが1階に戻ってくることは無かった。の不在に気づく素面の人間は生憎イルーゾォ以外にいなかった。彼は再度溜息を吐いて席を立ち、上階へと伸びる階段に足をかけた。
二階にも小さなカウンターと客席があった。閉店間際の店のテラスには誰もいない。テラスで夜風に当たりたいんじゃあ無かったのかと思った矢先、彼は目尻にの姿を捕らえた。
壁に追いつめられるような形で、彼女は見知らぬ男に言い寄られていた。彼女を知らない他人から見れば、恋人同士のように見えることだろう。男はの頬にかかった髪を人差し指で優しく耳にかけてやって、きれいだとか何とか呟いている。男のもう片方の手は彼女の脇下をゆっくりさすっていた。はでまんざらでもない様子で、グラスを口元で傾けながらニコニコと笑顔を浮かべていた。
イルーゾォは居ても立っても居られなくなり、フローリングに激しく靴底を打ち付け、と男との距離を縮めていった。
「オレのツレに何か用か?」
イルーゾォはの二の腕を掴み、見知らぬ男から彼女を引きはがす。
「ちっ……彼氏持ちかよ……」
そんな捨て台詞を吐いて2階を後にする男を見送ると、イルーゾォは誰もいないテラスへとを強引に連れて行った。
「……イルーゾォ。どうしたの?」
彼女は一階に居たときには持っていなかったグラスを手にしていた。
「……。そのグラスは何だ?さっきの男の奢りか?」
「そうよ。彼、とっても優しかった」
「お前、少しは自覚を持て。あまりにも無防備すぎる」
自覚とは?一体どういった自覚だろう?が小首を傾げているうちに、イルーゾォは彼女が手に持っていた飲みかけのグラスを乱暴に奪い取り、近くに備え付けられたテーブルの上へと置いた。対するは酔って赤くなった顔でイルーゾォの顔色を伺っていた。
「イルーゾォ。あなた、怒ってるの?」
「……お前が変な気を起こしてここから姿をくらましたら誰が責任を取るんだって話をしているんだ」
「……ごめんなさい。……ああ。やっぱり駄目だわ」
はテラスのフェンスに身体を預けて悲し気に俯いた。
「酔っぱらってるのよね。私。酔うと、本当にダメになるの。それで一度失敗してからは、酔わない程度にお酒を嗜もうって心に決めていたのよ。でも、こんな素敵なバールに連れて来てもらって、私きっと気が動転してるのね」
「失敗……?」
「さっきみたいに、会ったばかりの男性にいいように言いくるめられて襲われたの。ひどく扱われて、ひどく傷ついたわ。だから絶対に知り合ったばかりの男の人の前で酔って自分を失くすのはやめようって、心に決めていたのよ……」
は胸元に当たるテラスの柵が、鼓動に合わせて体に打ち付ける感覚に身を委ねながら、美しい夜景を眺めた。眼下には白い岩肌にところどころ草木が生い茂る断崖絶壁。
――全部投げ出して、溺れるような愛に埋もれて、そのまま死んでしまいたい。
全く、気が動転しているという彼女の言葉は的を射ていた。酔いが彼女をそうさせているのだろうが、そんな彼女の姿を初めて見るイルーゾォにとって、それは困惑を招く行動以外の何物でもなかった。
は急に体を翻し、イルーゾォの胸に飛び込んだのだ。
「……ごめんなさい。イルーゾォ。私、ダメな女よね。あなたの言う通りだわ。私、自覚が足りないのよ」
イルーゾォは身体を固くして、の突然の挙動に狼狽えた。彼女はイルーゾォの胸板に当てた両の手のひらを、彼の体側をかたどる様にゆっくりと這わせ下ろしていく。まるで情欲を誘うように、ゆっくりと。それは次第に身体の裏側へと回され、最終的に仙骨のあたりで交差した。の身体はイルーゾォの身体に密着していて、イルーゾォには、シフォンの柔らかなドレス生地に包まれた柔らかな双峰が、彼の鳩尾のあたりに押し当てられているのが確かに感じ取られた。
「お……おい。。お前一体どういうつもりだ」
「……あなたが邪魔するから、いけないのよ」
邪魔?こいつは、あの見ず知らずの男との間にオレが割り込んだことを言っているのか?
自分はただ、チームに課せられた監視という役目を果たし、お前が勝手にこの場から消えるのを止めただけだ。そう言い訳することもできた。しかし、あの男とを引きはがしにかかった時、イルーゾォは明らかにむかっ腹を立てていた。
何もこんな、お前のことをよく知りもしない、どこの馬の骨とも知れないやつに穢されることはないだろう?
のことをよく知りもしないのは自分も同じことだ。だがその辺のオンナったらしに、お前をむざむざ差し出すなんてことはこのオレが許さない。イルーゾォはそう思っていた。
次第にの高い体温が身体に馴染んでくると、おもむろに両手を彼女の背後に回す。心臓が五月蠅かった。けれどそれはも同じことだろう。酔っているのだ。そう、彼女は酔っている。これから吐かれる彼女の言葉に、オレは絶対に流されない。イルーゾォはそう決心した。
「この気持ち、分からない?服なんか全部脱ぎ去って、裸になって、誰かに深く愛されたい。ふわふわして気持ちいいまま、そのまま死んじゃいたい。私、どうかしてるのよね。どうかしてる。分かってるわ。でも、誰かを求めずにいられないの……。だから、お酒なんて飲むんじゃなかったのよ……」
「ああ。……お前はどうかしてる」
イルーゾォがそう呟くと、は面を上げて悲し気に微笑んだ。
「ねえ、イルーゾォ。今夜だけ。これっきり忘れるから……。キス、して欲しい」
の潤んだ瞳、悩まし気な表情、火照った頬に、キスを求める唇。彼女の瞳はゆっくりと閉じられていく。
……ッ、こ、こいつ……!
そう思うものの、イルーゾォは彼女の求めに応じずにはいられなかった。ついさっき彼がしたはずの決心は最早跡形もなく消え去っていた。もちろん、今の彼女が求めているのは誰かの仮初の愛であって、イルーゾォの親愛ではない。それが分かっていて歯痒い思いを抱きつつも、彼女に一時でも求められているというまるで幻想の様なこの状況に、彼は身を委ねるほか無かった。
今のはそれほどまでに魅惑的で、そして破滅的だった。
触れるだけの口づけ。わずか数秒足らずのそれで、イルーゾォは我を忘れそうになった。彼女の唇は甘く、その奥がどんな味なのか、もっと知りたい。そして願わくば、そのまま溶け合うようにお互いを貪り合いたい。
彼がそんな欲に歯止めをかけることなく、彼女の口内を舌でまさぐろうと唇を押し付け、彼女を抱きしめる腕に力を込めた瞬間、はイルーゾォから顔を背け唇を離してしまった。はゆっくりと瞼を開けて再びイルーゾォの胸に身を預けると、ありがとう。と一言呟いた。
――これが鏡の中の世界なら、このまま彼女を無理矢理にでも床に組み敷いてやるのに。
そんな思いを胸に、ひと時夜景を眺めながら彼女の体温をかみしめて居ると、イルーゾォは次第に彼女の身体から力が抜けていくのを感じた。
「……おい。お前……」
あろうことか彼女は、イルーゾォに身体を預けながら寝息を立てていた。安心しきった安らかな寝顔だ。
「……しまいにはマジで犯すぞ。オレを一体何だと……」
そんな彼の空しい声掛けが、の耳に届くことは無かった。三度目の溜息。そうしてイルーゾォは胸のつっかえをかろうじて取り払った後、彼女の身体を抱き上げて階下へと戻った。
「おいお前ら……なんてザマだ……」
ホルマジオは両脇に見知らぬ女を抱いていた。プロシュートはペッシの肩を抱き寝込んでいる。ペッシは項垂れるプロシュートからできるだけ顔を離すような態勢で眠っていた。メローネは机に突っ伏して寝ていて、ギアッチョは顔を真っ赤にして天を仰いだまま眠っていた。
「おっさん。勘定頼む」
「はいよ~。まいどあり!」
イルーゾォはプロシュートのズボンのポケットから、リゾットに譲り受けた茶封筒を取り出し勘定を済ませた。そしてメンバー全員の頭を叩いて起こすと、帰るぞと声を荒げた。
皆は千鳥足で席を離れる。酩酊状態の彼らは誰も、が何故イルーゾォの腕に抱かれているのかと抗議することはなかった。頭痛がひどいのか皆一様に顔を伏せ、今にも吐きそうといった具合でゆっくりとアジトまでの道のりを歩いて行った。
暗い夜空に、星々が煌めいている。しんとした夜の空気を吸い込むと、幾分か気持ちが晴れる気がしたが、相変わらず彼の心を乱した張本人は彼の腕の中で安らかに寝息を立てている。
「イルーゾォ……」
ふいに、の口から彼の名前が紡がれる。だが、彼女は完全に夢の中だ。
……お前は一体どれだけオレを玩べば気が済むんだ……?
そんな彼の悲痛な心の叫びは誰の耳にも届くことなく夜の闇に溶けていく。そして、きっと明日になれば今夜のことなどは何も覚えていないんだろうと容易に想像できた。それは終始素面だったイルーゾォには、あまりにも残酷な未来だった。
と、思われたが――。
翌朝。アジトの皆が自室のベッドで二日酔いによる頭痛に苛まれている間、リビングで朝食を取っていたイルーゾォの前にが現れた。彼女はリビングの扉を閉じると、額のあたりを利き手で軽く押さえながらキッチンへと向かう。その途中でダイニングテーブルにつくイルーゾォに気づき立ち止まると、ばつが悪そうに彼から目を背けた。
「イルーゾォ。ああ、その……昨日はごめんなさい」
「……何のことだ」
「昨日、私あなたに……とんでもないことを」
は昨晩のことを覚えていた。一瞬、イルーゾォの頭の中は真っ白になる。だが、覚えているなら好都合、とイルーゾォは片側の口角を釣り上げ、その口元を手のひらで覆い隠す。
「どうしてあのテラスであんなことになってしまったのか、その経緯はよく覚えてないんだけれど……本当にごめんなさい」
「ごめんなさい?」
イルーゾォは立ちあがると、ゆっくりとの距離を詰めていった。
「謝れば済む話じゃあないぜ。お前がオレを煽ってそのまま寝ちまったってことに……どう落とし前を付けてくれるつもりだ?」
イルーゾォはの前に立ちはだかり、手を彼女の顎にかけて上を向かせると、その目をじっと見つめた。
「あの後すごい体勢で寝はじめちまったお前をここまで運び、部屋のベッドに寝かせてやったのはオレだ。その気になればお前を襲うなんて簡単なことだったんだ。だが、オレはそれをしなかった。酒に酔って朦朧としてるオンナなんか犯したっておもしろくも何ともねーからな」
イルーゾォはをカウンターへ追いつめると、逃げ場を失った彼女に顔を近づける。は抵抗することなく目前に迫るイルーゾォの顔を黙って見ていた。
「悪い女だ。男をその気にさせるだけさせておいてテメーだけ寝ちまうなんて……。後で痛い目見るって分かってるだろう。昨日のお前は、もうどうなったって構わないって顔をしていたぜ?今はどうだ?」
「今は違うわ。お酒は抜けたから」
「全部酒の所為にするつもりか?悪いのは酒じゃあない。酒に呑まれちまうお前の弱い心がいけないんだ。つまりお前は……酔ってない時だって本心じゃあ男を求めているんだよ」
「すごいわ。あなたって心療カウンセラーか何か?」
「カウンセリングが必要なら、オレが今からお前を慰めてやるが?」
そう言ってイルーゾォがに口づけをしようと迫った時、再度リビングの扉が開いた。イルーゾォは眉間に皺を寄せると、邪魔者へと視線を向ける。――ホルマジオが、キッチンカウンターへ追いやられイルーゾォに襲われそうになっているという、朝から目にするにはいささか刺激的な光景に呆気にとられて立ちすくんでいた。
「おっと……邪魔しちまったか?まあ部屋に戻るつもりはないが……腹も減ってるしな」
「昨日はだいぶ酔ってたみたいだが……元気そうだなホルマジオ」
「ああ。残念ながら。ところでイルーゾォ。はあまりその気じゃあなさそうだが……それでもやるってんならせめて鏡の中に連れ込んでからにしろ」
「鏡の中?」
はホルマジオの方へ顔を向けて不思議そうに首をかしげた。
「お前はまだ知らなかったか。そいつのスタンドは、女を犯すのに最適な能力を持ってる。まるでどっかのおとぎ話みてーに、鏡の国を作り上げちまうんだ。そこに引きずり込まれたが最後、そいつが許可しない限り現実には戻れない。鏡の中からじゃあ外には声も届かねェ。オレなんて風呂場の鏡にでも潜んでいやがるんじゃあねーかって毎日戦々恐々としてるんだ。鏡でこいつの姿を見ちまうと連れ込まれるからお前も気を付けろよ」
「てめぇホルマジオ。余計なこと言いやがって」
「ああやっぱりそのつもりだったんだな?まったく卑怯なやつだぜ。……とりあえず、今後お前らふたりが同時に姿を消してたら、鏡の中でお楽しみの最中だって皆に伝えておいてやるから、思う存分楽しむといい」
ホルマジオはニヤついた顔でイルーゾォを見ながらふたりの横を通り過ぎキッチンへと向かった。
……これだから鏡の外ってのは……!!
イルーゾォはミネラルウォーターのボトルを呷るホルマジオの後姿を憎々し気に睨み付けながら悪態をつく。すっかり興が覚めてしまった彼は、を追いつめていたキッチンカウンターから手を離し、彼女の元から離れバスルームへと向かおうとした。そんな彼を引き留めようと、が声をかける。
「ねえイルーゾォ!鏡の中にハンプティ・ダンプティとかユニコーンとか出てくるの!?」
イルーゾォは深い溜息を吐いて、苛立たしさに堪えきらず頭を掻いた。の頭の中はすでに“不思議な鏡の国”のことでいっぱいなようだ。まるでおとぎ話に夢中になっている少女の様にあどけない表情を見せる。イルーゾォにはそんな彼女が、昨晩彼にキスをねだった妖艶な女と同一人物だとはとても思えなかった。
「……そんな珍獣は囲ってない」
心底呆れた様子のイルーゾォに残酷な事実を伝えられ、カウンターの縁に取り残されたはとても残念そうな顔で、遠ざかるイルーゾォの背中を見送った。そして、扉の向こうに消えゆく彼に言うのだ。まるで追い打ちをかけるように。
「いつか私を鏡の国へ連れて行ってね!」
ったく人の気も知らねーで、この女は……。
こうしてイルーゾォはにお預けを食らうことになった。ホルマジオのへ向けた助言のおかげで彼女を鏡の中へ連れ込むことも容易にはできなくなってしまったし、お預けを食らうことになったのはひとえにそれが原因だったので、イルーゾォのホルマジオに向ける敵意はこの日を境に少しだけ増すことになった。
また、昨晩の夢のような出来事は彼の心に深く刻み込まれ、幾度となくフラッシュバックしては、いたずらにイルーゾォの情欲を掻き立てたのだった。