その日、はアジトに戻るなりシャワーを浴び、食事も取らずに自室へ駆け込んでベッドへと身を投げた。月に一度訪れる女性特有の周期的なもの。その所為で腹部の鈍い痛みが朝から続いていたし、軽く頭痛もあったのでとにかく早く寝てしまいたかった。彼女の経験上、寝れば大分症状は軽減する。幸い明日は何も仕事が無いので、気が済むまで寝ていられる。そんな安堵感も手伝ってか、彼女はすぐに深い眠りに落ちた。夜の九時を過ぎた頃のことだった。
そして彼女は三時間後に目を覚ますことになる。人間は統計的に九十分間隔でレム睡眠とノンレム睡眠を交互に繰り返すので、眠りの浅い時間帯に僅かな刺激で起きるのは稀に起こりうることではあった。しかし、彼女がアジトで暮らすようになってからは初めてのことで、何より心身ともに疲弊している期間だ。朝になる前に目を覚ますことなど有り得ないと、は寝ぼけまなこでナイトテーブル上に置いてあるはずの時計を探す。だがどうも普段と様子が違った。とても窮屈なのだ。そして、自室のベッドでは嗅ぎなれないベースノートの麝香がの鼻腔をくすぐった。段々と視界と身体の感覚がはっきりしてくると、彼女は思った。
ああ……失敗した。
彼女は、自室に鍵をかけるのを忘れていた。そして信じられないことに、メローネがの左半身にかなりの密着度でまとわりついて、まるで彼女の恋人であるかのようにすやすやと寝息を立てていたのだ。普通の状態、つまり月経中でなければ寝ている彼を起こさないよう、密着している身体を引きはがそうとするだろうが、今の彼女は身体を動かすことすらしたくない程に身体が怠かった。
別に胸や股間をまさぐられているわけでもなくメローネは寝ているので、今回ばかりは許してやろう。元は自分の落ち度だ。とは思いそのまま眠りにつこうとする。しかし、いくら彼が勝手に女性の部屋に潜り込み、あろうことか女性のベッドへ転がり込む変態と言えども、メローネは普通の格好をしていればすれ違う女性の多くが振り返るような眉目秀麗な男だ。そんな彼の長いまつげが呼吸のリズムに合わせて微かに震える様だとか、つい触れてしまいたくなるような白く美しい肌が月明りに照らされている様子だとか、彼の骨ばった硬く長い脚が下半身に巻きつけられていること、そして規則的で穏やかな寝息がの耳元をくすぐったりすること……その全てが彼女の入眠を阻害した。結果彼女は、まるで金縛りにあっているかのように、この状況をどう打破するべきかと思考を巡らせることに専念せざるを得なかった。
まあ別に何かしてくるわけじゃないし。もうこのままでいいか。でも、寝たいのに寝られない。困ったわ……。ああ、こういった場合、寝よう寝ようって考えるから逆に寝つけないのよね。逆に考えるのよ。別に寝なくたっていいさってね………………。いや、寝たいわよ。疲れてるのよ私。
彼女の意思に反して意識はどんどん明瞭になっていく。そして心臓はまるで早鐘のように打っていた。おかしい。は普段のメローネに対するクールな自分の態度からは想像もつかない程緊張していることに違和感を覚えた。
彼女はすぐ隣で寝ている男に、女性保護団体に訴えれば即座に投獄してもらえるくらいの性的いやがらせをこれまで何度も受けている。だが、それはとメローネ以外、周りの人間から見ての話だった。セクシュアル・ハラスメントという社会問題は、訴える訴えないは被害者の意思に委ねられるし、被害者本人が訴える必要も無く嫌だとすら思っていなければそれはそもそもセクハラには当たらない。被害者が被疑者に少なからず好意を抱いている場合に限っては、第三者が見たときに明らかにセクハラだと思える行為であっても、時としてそれはセクハラとならないことがある。
はメローネの毎日の絡みを煩わしいと思ったことはあるが、本気で嫌悪感を抱くまでに至ったことは無かった。広義で“変態”という同じレッテルを貼られている者同士、絡んでやるのも悪くないとすら思っていた。要するに彼女はメローネの過度な絡みをセクハラとは思っていない。だがそんな中で、メローネのボディタッチだけは確実に避けようと意識している節があった。何故漠然とそう意識していたのか。その理由が今、彼女の心の中で明らかになる。
……身体が、彼を好きだって……勘違いしそう。
メローネが精神面は除外して彼女にとってイイ男であることは間違いなく、変態という点に目を瞑れば、付き合うのもやぶさかでないと思っていた。だが彼女が求めるハッピーエンディングのためには、むやみやたらと男をとっかえひっかえする訳にもいかないし時間も惜しい。相手は慎重に選ぶ必要がある。別には、自分が自由に相手を選べる側だと驕った考えを持っている訳ではなかったが、ことメローネに限って言えば現状に鑑みると、付き合おうと彼女が言えばすぐに交際はスタートするだろう。
つまり、もっと広い視野で本当に愛すべき者を見つけ出す前に、メローネと交際を始めるべきではないと思っていたから、彼女はどんなに際どい会話を彼と交わしても、触れ合うことだけは避けていたのだ。
生理中じゃなかったら危なかったわ。
がそう思ってしまうほど、メローネの寝姿はとても扇情的だった。表情はどこか中性的な印象を与えながらも、身体の方はしっかり男性の物だった。弛んだところの無い、適度に筋肉のついた硬く骨ばった身体。の胸の下あたりに乗る彼の腕はずっしりと重く、彼女の二の腕に当たっているメローネの胸板は広く厚い。彼の身体的特徴を自身の身体で感じ、それを意識すればするほどの身体は火照っていく。
別に彼女は聖職についている訳でもなければ信心深い訳でも無いので、生涯男性と性交渉をしないと神に誓ったことはない。それに二十数年間の人生で、彼女は人並みに恋もしたし、回数は同じ年代の女性と比べて少ないにしてもセックスの経験だってある。だが、相手は慎重に選んでいたし、無理に膣内射精をしてくるような輩と寝たことは無かった。したがって、現代で言えばかなり大人しく模範的な性交渉しかしたことが無い彼女にとって、メローネはとても危険な男だ。まだ会って間もない彼女にオレの子を孕ませたいと、オブラートに包むこと無く言い放ったのだから。
だめよ。落ち着きなさい。早まってはダメ……。ああ。せめて目を覚まして、いつものように軽口を叩いてくれれば、まだ追い出しやすいのに。
がそう願ってもメローネは一向に目を覚ます気配が無い。おかげで彼女は、深夜一時を過ぎて疲労と眠気が再度襲ってくるまで、下唇を噛み締めたまま高鳴る胸を押さえ天井を眺め続けることになった。
君が寝てる姿が好きなんだ。なぜなら君はとても美しいのにそれに全く気付いていないから。
「のやつ体調でも悪いのか?」
帰りの挨拶もそこそこに、はまっすぐシャワールームへと向かった。そんな普段と違う彼女の様子を不思議に思ったホルマジオが、ソファーで寛ぎながら酒を飲んでいた手を止めてイルーゾォに問いかけた。
「オレが知る訳ねェだろうが。監視してたヤツに聞け」
イルーゾォはの後に続いて玄関から姿を現したメローネを顎でさして言った。メローネは本来の使用方法を無視して只の入れ物と化している硝子製の灰皿にバイクの鍵を放っているところだった。彼はその後キッチンの冷蔵庫を開けビール瓶を取り出し、チームの内の数人が寛ぐリビングへと向かいながら、気が引けると前置きすることなく言い放つ。
「彼女は生理中だ」
リビングにいた面々はドン引きした。何でそれをお前が知ってるんだとか、本人に聞いたのかとか、それをこの場で公言することに許可を得ているのか、と色々と疑問が浮かび上がるが、それを口にする気も起きない程に皆一様にドン引きしてフリーズしていた。しばし皆の沈黙が続いた後、ギアッチョがおもむろに口を開いた。
「メローネよォ……。お前今日もやべェな。いや、いつも以上だぜ。今日は頗るやべェ」
ギアッチョはメローネの奇行や猥りがわしい発言には慣れているつもりでいたが、さすがの彼も今日ばかりはそう突っ込みを入れざるを得なかった。
「何がだ?彼女の排卵周期を知っていないと効率よく子供が作れないじゃあないか」
「ほんっとやべェわマジで」
「サイコパスかよ……」
「こいつと付き合ってるつもりでいやがるのか……?」
ホルマジオの疑問はメローネのおかげで解消されたが、彼はまさかこんな話になるとは思っておらず、自身の好奇心が寛ぎの場を変な空気にしてしまったのだと、メローネに解を求めたことを後悔した。そしてメローネは皆から、非難を通り越して憐憫の目を向けられている。それが何故なのか理解できない彼はそのことについて異論をとなえても無駄だと思い、ひとつ溜息をついてからビールを呷った。こうして彼女の不調に関する話題は自然消滅したのだが、程なくして、が皆にシャワー室が空いたことを告げにリビングルームへと顔を出す。彼女はついでに就寝前の挨拶をするのだが、生理中と知ってしまったことを悟られない様皆は彼女の身を案ずる言葉を投げかけることはせず、手を上げて反応したりお休みと簡単に挨拶を返すまでに留めた。
メローネは自室へと戻るを何も言わず見送った後、空になったビール瓶を所定の場所に片づけて、キッチンの戸棚にしまわれたミルクパンを取り出してミルクを温めはじめた。そしてキッチンカウンターのサイドラックを漁り、普段皆がコーヒーか紅茶しか飲まないためか奥に追いやられていた、真新しいココア缶を取り出す。が飲みたくなったときにたまに飲む程度のそれを、彼女がいつも愛用しているマグカップにスプーンで掬い入れ、適温に温められたミルクを注ぐ。軽く粉末状のシナモンを振り入れてかき混ぜ、そのマグカップに蓋をして小さめのトレーに乗せ、仕上げにスティックシュガーを添えてメローネはリビングを出た。
メローネは、とミラノでの仕事を終えホテルで2人きりの時間を過ごした時、一晩を手錠で拘束されたまま過ごした。あの時、はメローネの腕を拘束したことで安心し労せずして入眠できたが、対してメローネは寝ることなど到底できる状態では無かった。彼女が意図せずして与えた聴覚的刺激だけで彼は最高に昂っていたし、彼女の身体をほしいままにできると期待させておきながら一気に絶望のどん底に叩き落されたのだ。ひとしきり喚いたり暴れたり手錠を外そうとあがいたりした後、彼は絶望に打ちひしがれただただ呆然と天井を眺めることしかできなかった。
彼が精神的に落ち着き股間の昂ぶりも納まりを見せ始めた頃、隣からの寝息が聞こえてくることに気づいた。慣れない仕事に疲れたのか、彼女はすぐに深い眠りに落ちたようだった。メローネがのいる方に顔を向けると、ちょうど寝返りを打ってがメローネの方へ身体を向けているところだった。窓から射し込む街灯の明かりが彼女の寝顔を照らすと、メローネは息をすることも忘れてしばらくそれに見入った。
顔に垂れかかる艶のある髪を耳にかけてやって、その、つい触れてしまいたくなるような滑らかな肌に優しくキスを落とし、お休みと優しく囁いてやりたい。
そう思っても彼は動けなかった。それを歯がゆいと思いながらも、思わぬ収穫を得て少しだけ満足した彼はその後、思いの外安らかに眠りに就くことができた。翌朝、絶対にいつか犯してやると恨み言を言いながらも、彼は存外気分が良かったのだ。
の部屋の前についた彼は、彼女のために用意したドリンクを乗せたトレー片手に、扉をノックした。何度かノックしても扉の向こうからは何も応答が無かった。彼女はあの一件でメローネに「部屋に鍵かけるの忘れないようにしなきゃ」と楽しそうに言っていたので、どうせ鍵がかかっているのだろう。とあきらめかけた彼だったが、物は試しとドアノブに手をかけ押し下げる。すると、かちゃ、と音を立てて扉が開いてしまった。
彼は珍しく躊躇したが、すぐに誘惑に勝てなくなりの部屋へと足を踏み入れた。音を立てないように静かに扉を閉じた彼は、ゆっくりとベッドへと近づいていく。――月明かりがほんのりと部屋を明るく保ってくれていたおかげで、過去に見入っていたの寝顔を、彼は再び拝むことができた。
……。なんて美しいんだ。
彼は立ったまま一時彼女の寝顔に見入っていたが、その内もっと近くで彼女の寝顔を眺めたいと思い、ベッドサイドに備え付けられたナイトテーブル上にトレーを置いてベッドに腰掛けた。以前できなかったことが今の彼にはできる。彼女の眠りを妨げることにならないようにと願いながら、メローネはの頬にかかる髪をそっと払いのけると、柔らかな彼女の頬にキスを落とした。
起きないようにと願いながらも、心のどこか隅の方では、今目を覚まして欲しいと矛盾した思いを彼は抱いていた。目を覚ましてくれれば、毎日張り裂けそうな彼女への思いを、自分が本気であるということを明かしてしまって、無理矢理にでも抱いてしまうのに。
しかし彼女は生理中か。流石にシーツを血まみれにするわけにはいかないか……。
声に出したら忽ち雰囲気がぶち壊れる下世話なことを思い浮かべた彼は、今日のところは我慢してやるか。と、もぞもぞと彼女が身を包むシーツの中へと潜り込んだ。メローネがそこまでしてもが目を覚ますことは無かった。彼はその後もじっとの寝顔を見つめていたのだが、そのうちに彼を睡魔が襲い、寝ている間に抱き枕よろしくの半身をしっかりとホールドすることになったのだった。
翌朝、まだ六時という早い時間だったが、メローネが先に目覚める。は彼が部屋に訪れたときと寸分たがわぬ寝顔で、すやすやと寝息を立てていた。
……結局、起きなかったか。
起きていればきっと叩き起こされて、出ていけと笑顔で部屋から押し出されていただろう。とメローネは推察したが、彼女が一度目覚め、寝ているだけの彼に女の性を煽られつつもそっとしておいたという事実を彼は知らなかった。メローネは少し名残惜しいと思いながらも、彼女の身体を解放し、音を極力立てないように部屋から退出する。
「おいメローネ。てめェ……の部屋で何していやがった」
部屋を出るなりかけられた声。メローネの背後から聞こえるそれに振り向くと、目をまん丸くさせたプロシュートがしっかりと身支度を整えた姿で怒気をにじませ立っていた。
「お前まさか……夜這いを……」
「できればやっていたさ。……残念ながら添い寝止まりだ。生理中だったからな」
「はあ!?」
プロシュートは彼を完全に誤解することになった。生理中だったから、という最後の余計な言葉が、メローネがに夜這いを仕掛け服を脱がしにかかった結果、下着を見てそれが分かったかのように捉えさせてしまった。そしてメローネは、プロシュートから怒号を浴びせられることになる。お前は頭がおかしいと前から思っていたが、まさかそこまでやるゲス野郎だとは思わなかった、だの、チームの風紀を乱すな、などと背後から叱責される。メローネはひとつ溜息を吐き、自室に戻ってまたひと眠りしようと動かしていた足を止め、プロシュートに向き直った。
「オレはなァ、プロシュート。の寝てる姿が好きなんだ」
「あァ?」
「昨晩体調が悪そうだったんで、風呂上がりの彼女にココアを持って行ってやったんだ。彼女の部屋の扉をノックしても返事が無いんで、ダメもとで扉を開けようとしてみたら、相当疲れてたのかは鍵をかけずにベッドへなだれ込んでた。そしてオレが好きな寝顔を久しぶりに拝めたってわけなんだが、そのうちに眠くなってしまったんで、同じベッドで一夜を過ごしただけだ。だから、何もやましいことはしてないんだぜ。勘違いするなよなァ」
「いや。ココア置いて自分の部屋に戻れよ。ってか、そもそも勝手に女の部屋に入るな変態」
メローネはプロシュートの指摘を最もだと思いつつ、の寝顔を思い出していた。まるで心が洗われる様だった。彼女の寝顔を眺めている間、普段駄々洩れの彼の性欲は何故か彼の中で鳴りをひそめ、無防備な寝姿を前に彼の行為は添い寝に留まったのだ。欲の赴くまま彼女を抱いてしまいたいという気持ちも確かに起こったが、彼は思いとどまった。それは彼女を大切にしたいという思いやりからくる、彼の愛情に他ならなかった。
プロシュートの怒号の様なものが遠くで聞こえる。は寝ぼけまなこをこすりながら、ぼうっとそんなことを考えていた。そして朧げな記憶を辿ると、確か隣でメローネが寝ていたはずだったが、彼の姿は部屋のどこにも見えなかった。しかし、彼女がベッドに身を埋めた時には無かった物が、ナイトテーブル上に置かれていた。完璧に冷めきっていたそれを目にしては微笑んだ。
メローネ……。あなたがこの部屋に来たのは、夢じゃなかったのね。
はお気に入りのマグカップを、まるで大事な宝物を丁重に扱うように一度両手で包み込んだ。そして、裏側に水滴のついた蓋を取ってトレーの上に置き、シナモンの効いたココアを一口啜った。幸福感に満たされたは朝日に照らされゆく街並みを眺めながらメローネを思った。
私、あなたに本気になっちゃいそう。