「なァ~兄貴ィ……最近、の姉貴、おかしくありやせんか?」
ペッシは隣で新聞に目を通しながらエスプレッソをすするプロシュートに耳打ちする。彼が噂のネタにしようとしている女性はダイニングテーブルに両肘をつき、マグカップを口元に寄せたまま物憂げに虚空を眺めていた。
「あいつがおかしいのは今に始まったことじゃあねェだろう」
「いや、そうじゃあなくてよォ……なんか恋煩いでもしてるみたいに、溜息が多くなった気がするんだよなァ」
「へえ……ペッシ。お前女が恋で煩ってるのが分かるようになったってのか」
プロシュートは語りかけてくる弟分を見ることなく興味無さ気にそう答えたのだが、彼も実はそのことが少しばかり気になっていた。気になってはいたが、その理由を直接に問う気も大して起きなかったので聞かずにいた。そして、に関するふたりの会話はプロシュートによる素っ気ない返答を最後に終わるかに思われた。しかし、リビングの扉が開けられた瞬間、の様子が著しく変わったのをふたりは見逃さなかった。
「おうおめーら。今日も早いじゃあねぇか」
扉の向こうから現れたのはホルマジオだ。簡単に朝の挨拶を済ませたプロシュートは持っていた新聞に視線を移したが、チラとその物陰からホルマジオとの様子を伺った。ホルマジオはとても自然に朝食を済ませるためダイニングテーブルへと着いたのだが、は明らかに対面にいるホルマジオを見て動揺しており、唾を飲み込んだりマグカップのコーヒーを勢いよく飲み下したりしている。
「ほら!兄貴見てくだせェよ。の姉貴、明らかにホルマジオが目の前に座ってからあたふたしてるぜッ」
ペッシはプロシュートにだけ聞こえるくらいの音量で、こそこそと耳打ちをする。この兄弟分が気にしている事象とは、彼女がホルマジオとの仕事を片付けて帰ってきた翌日から始まっていた。
普段メローネのセクハラ行為を華麗にスルーするは、怒気だとか苛立ちだとかを全く表に出さなかった。表に出さないと言うよりも、彼女には元からそんな感情が沸き起こってすらいないかのように、プロシュートには感じられていた。自分が女であの変態にあそこまで絡まれていたら絶対に殺しちまってる。と彼が思うほど、メローネのセクハラは酷い物だ。彼のセクハラはふたりがミラノでの仕事を済ませて帰ってきてから増々勢いを増したのだが、だからと言ってがそのことに明らかな動揺を見せたりすることはなかった。
そのことが尚更、彼女の態度に表れている変調を際立たせている。そして、よくよくの表情を見てみると、頬が薄く色づいているようにも見える。持っているマグカップをテーブルに置いてからは、胸を両手で押さえ、明らかにホルマジオから目を逸らしていた。
「の姉貴……ホルマジオのこと好きなのかァ……?」
「確かにそう見えるな」
は普段、何か常人には理解しがたい衝動に突き動かされて興奮している様を見せることがあったが、その他の感情はあまり表に出さないので表情の変化に乏しいところがあった。そんな彼女には珍しく、まるで生娘が意中の男を前にして慌てふためいているような、普通の女性が見せるようなあからさまな態度が見て取れた。
「ホルマジオみたいなのがタイプなのかなァ」
「あいつ見てくれだけはいいからな。中身はクソみたいにゲスだけどな」
チームの中におけるホルマジオの印象は、表面だけはとっつきやすく気のいい奴だった。ただ、一度ヒートアップすると、彼は嗜虐趣味全開でターゲット相手に嬉々として拷問するドS男に変貌を遂げる。仕事を済ませた後の悲惨な現場は見る物を恐怖のどん底に突き落とすので、彼は率先して身内だった裏切り者の始末に使われた。が彼と済ませた最近の仕事もそのひとつ。見せしめにはちょうどいい精神性を持った男だった。
それを……ヤツの本性を知っているのか?とプロシュートはに警告してやりたいと思うのだが、こればっかりは簡単に口出ししていいことではない。から何か相談を受けたときに助言できればいいか。と面倒見のいいプロシュートは考えた。
そんなプロシュートの心配を他所に、がホルマジオの前で考えていたのは全く恋心とはかけ離れたことだった。彼女が求める物を得るために、ホルマジオに身体を売るべきか。その一点に尽きた。この男の要求の果てに、無責任に子種を注がれることは免れないと予想できた。その要求を呑んでも、恐らく彼女の求める死は得られない。
にとってセックスとは、真に愛する者以外と至るべき行為では無かった。挿入前の前戯まではしても生殖行為までに及ぶのは、彼女が心から愛せると信じた者、愛してもらえると信じた者と身体を重ねた時に限られた。一度か二度程、過去に彼女の死に対する探求心がたたって強姦に遭ったことはあったが、膣内で無理やり射精された後、彼女は必ず一度自殺した。蘇生の際、異物である精液は体外に排出される。そうやって彼女は、望まない妊娠だけは確実に避けてきた。
もちろん、がホルマジオを愛しいと思えるようになるまで、そしてホルマジオが彼女を愛するようになるまで、彼との性行為と自殺を繰り返せばいいかもしれない。しかしホルマジオが真に人を深く愛することができるタイプの人間かどうかは計り知れないところがある。また、愛と殺意という相反する感情を同時に向けられる人間はそれほど多くないということをは理解していた。普通であれば愛する女性を殺そうとする者はいない。
だがそれ以前に、彼女の女としてのプライドが、ホルマジオの要求を呑むことを許さなかった。安い女だと、簡単に手籠めにできる弱い女だと思われるのが癪だった。しかし、彼の特異な能力によってもたらされるであろう快感は得てみたい。
そのせめぎ合いが表に出た結果、まるで恋する乙女の様に他の男の目に留まってしまっているのだった。
ああもどかしいわ。自分の思い通りにいかないことがこんなにもむず痒いことだなんて……。初めて知った。
は下唇を噛み締めながら何も言わずにダイニングテーブルから離れ、使った食器を洗うためにシンクへと向かう。対するホルマジオは普段と全く変わらない様子でリビングのTV画面を見ながらコーヒーを啜っていた。そんなホルマジオの態度が、ますますの心を惑わせた。
一体どういうつもりであんな話を私にしたのかしら。あんな話をした後だっていうのに、一体どういうつもりであんなにも自然に振舞えるのかしら。
彼女が皿を片付けながら思考を巡らせていると、リビングの扉が開いた。メローネだ。メローネは開口一番、早速彼女にセクハラを働いた。最早毎朝の挨拶となっているそれに、は自然に応答してやる。
「やあおはよう!今日も君は美しいな!ところで、今日の下着は何色だ?」
「おはようメローネ。今日は黒よ」
「ああっ……なんてセクシーなんだ!昨日はターコイズブルーだったのに、純情派から一気に男を誘惑するような色に変わったな。勝負下着かい?はっ……まさか」
「あなたに勝負をしかけようとは思ってないわよ。残念ながら」
公然と交わされるその会話に突っ込む者は誰もいない。ペッシが黒と聞いて明らかに動揺しているだけだった。そうこうしているうちに、とメローネのふたりはアジトを後にする。が“表の仕事”に向かう時間になって、メローネが送迎と監視役を買って出たのだ。
「……あいつら、最近仲良いよなァ」
ホルマジオは、ふたりが消えた扉に顔を向けたままプロシュートとペッシに話を振った。
「変態同士気が合うんじゃあねーか?メローネのヤツ、最近水を得た魚みてぇに生き生きとしてやがる」
ホルマジオは、がメローネを目にした瞬間に安堵するかのような表情を見せたのを見逃さなかった。まるで自分から離れていく口実を見つけてほっとするかのような表情。
気に食わねェな……。
ホルマジオは、プロシュートやペッシに悟られない程度に眉をひそめ、マグカップに残ったぬるいコーヒーを一気に飲み下した。
Still Into You
「それじゃあ。後はアジトにいる他のヤツの監視を受けてくれ!オレはこれから買い物に行く」
「分かったわメローネ。気を付けていってらっしゃい」
アジトの玄関の前でそんな会話を交わし、は鍵を開けリビングへと向かった。そこには、彼女があまり視界に入れたくない人物がいた。ホルマジオだ。ホルマジオがブルーの毛皮を纏った猫と戯れている。彼の手に握られているのは黄色の猫じゃらし。とてもサディストとは思えない彼の様子を見て、はその場に呆然と立ち尽くした。
「早かったな。」
「え、ええ。ただいま」
ホルマジオはの方をちらと見て声をかけるが、直ぐにじゃれる猫の方へ視線を戻した。己が意のままに動く猫の様子に満足しているだけなんじゃないかとは勘繰るのだが、一方で彼が純粋に猫との触れ合いを楽しんでいるようにも見えた。
イタリアでは、港町だとか街中だとかを自由気ままに猫が闊歩し、ほしいままに惰眠を貪る愛らしい姿を見ることができる。そんな環境では、これまで幾度かふわふわとゴージャスな毛皮を纏った猫に心惹かれ触れようと近寄った経験があったが往々にして逃げられたので、そのうちに猫は見るだけでいいと思うようになっていた。猫が嫌いと言う訳ではなかったが、彼女の猫に対する思いとはその程度だった。
このアジトにいついている猫が名前を呼ばれているところを、は見たことが無い。知らない内にどこからか迷い込んで足元をうろちょろしていたり、窓辺で日向ぼっこをしていたりするのだが、気付いた時には姿を消している。ここの住人が飼っている自覚も無ければ、猫の方にも飼われているつもりなど全くない様に見えた。そんな猫をホルマジオが愛でている所を、は初めて見た。声をワントーン上げて猫をかわいがる女性は多いが、男性が同じことをするとなんだか好感度が上がる。はそう思ったのだが、彼の本性を知るは惑わされるなと自身に言い聞かせていた。
「かーわいいなー。お前」
そう言って猫を抱き上げるホルマジオ。猫は足をピーンと張って緊張させながら耳を平たく後方に向け、宙に浮く感覚に不快感を示している。そんな猫の様子に構うことなく、ホルマジオは頬ずりをし、耳の裏側あたりにキスをしたりして、思う存分に猫を愛でる。
「……意外だわ。あなたが動物を愛でるなんて」
「失礼だぜ。オレだって人間だからたまには癒しってもんが必要なんだよ」
「ごめんなさい。あまりにもあなたが幸せそうだから微笑ましくなっちゃって。絡みたくなったの。許してちょうだい」
「お前猫嫌いなのかよ?」
「いえ。嫌いなわけじゃないの。いつも逃げられちゃうから心が折れてるだけよ」
ホルマジオは困ったように笑うを少し眺めた後、ちょいちょいと手のひらを何度か屈伸させこちらへ来るようにと彼女を呼んだ。はホルマジオの隣に座ると、とホルマジオの間にあるスペースに猫を置かれる。
「触ってみろよ。こいつ、案外されるがままだぜ」
猫は尻尾を立て、その先端だけををぶらりと下げた状態での手のひらに額をこすり始めた。ゴロゴロと言うネコ科特有の喉から出る音は次第に大きくなっていき、は感動を覚える。彼女がこれほどまでに猫になつかれるのは初めてだった。
「かっ……かわいいわ!」
「だろー?」
「この子、男の子?女の子?」
ホルマジオは猫の尻をの顔面に近づけて、ぷっくりと膨らんだふぐりを見せつけた。は突然のことに驚き目を大きく見開いたが、目の前で主張する毛皮に包まれたそれから目が離せなかった。
「触りたくなるくらい立派ね。まごうことなき男の子だわ」
「そこ触ったら怒るぜ」
「本気じゃあないわ。ところで……名前は付けてないの?」
「名前か。あんま飼ってるつもりねーから考えたことも無かったな」
「それじゃあ、私が考えるわ。……そうね。ジャガーにしましょう」
「猫なのにか。見た目もぜんぜんジャガーっぽくないぞ」
「そう?この洗練されたスマートで曲線美が目立つフォルムはジャガーっぽいわよ」
「そんなもんか?」
の言うジャガーとホルマジオの思い浮かべているジャガーはまるで別物なので話はかみ合っていなかったが、そんなことは気にも留めず
は夢中で手触りのいい猫の額を優しく撫でていた。一方で、ホルマジオの視線はへと向けられていた。彼女のリラックスした笑顔を久しぶりに見た気がしたからだ。しかも、結構な至近距離でだ。
「……なあ。お前最近オレのこと避けてるよな」
「え?」
はホルマジオのそんな言葉にどきりとして、猫を撫でる手を止めた。急に思い出したかのように胸が音を立て始めるので、ホルマジオに聞かれていないだろうかととっさに心臓のあたりをこぶしで押さえる。
「今日の朝だってそうだぜ。メローネが部屋に入ってきた途端、助かった!って顔してたぜ」
「そんなこと無いわよ」
「そうか?……なあ。さっきも言ったがオレだって人間だ。正直、あからさまに避けられると傷つくんだぜ」
「……避けてなんか無いわ。けど最近、あなたのこと見てるとどうも息苦しくて」
「どういう意味だ」
「わからないわ。まるであなたに恋してるみたい。そんなこと全然ないのに」
「……全然、無いのか?じゃあオレがお前にここでキスしたってそうは思わないのか」
「え?」
は顎を持ち上げられ、不意にホルマジオからキスを送られる。いつの間にか二人の間にいた猫は姿を消しており、かすがいを失くしたはこれからどうすればいいか分からなくなって思考を止めた。恥ずかしさだとか、胸のときめきだとかをホルマジオに悟られない様にするため、猫を抱くこともままならない。そのため、唇を離された後もは呆然とホルマジオの顔を眺めていた。
「あれ。ジャガーのヤツ、どっか行っちまったなァ……。まあ、いいか」
そう言ってホルマジオは立ちあがり、に背を向ける。そして意味ありげににやりと笑った後、彼はリビングを後にした。
程なくして、猫に誘惑されてホルマジオに近づいて行ったのが間違いだった。とは後悔した。そして、メローネには隙を作らせ手錠をかけるために自らキスをしにいったが、今回は確実に自分が意表を突かれてしまったと内省する。しかし、ホルマジオの唇が触れた場所を指の腹でなぞり、キスされたという事実を思い起こすと急に顔面が火を噴くように熱くなった。胸がずきずきと痛いくらいに高鳴っている。
やっぱり私、彼のこと好きになっちゃってるの……?
そんなはずは無いと彼女は首を横に振る。そして平常心を取り戻せるまで誰もこの部屋に入ってきませんようにと祈りながら、彼女はしばらく天井のシミの数を数えたりしていた。
ホルマジオが猫を愛でるのは単なる気まぐれだ。名前を付けないでいたのは独占欲が無いからで、言い換えると“ジャガー”はいてもいなくてもいい存在だった。彼は女性に対しても同じような感覚で接していたので、かわいいとか愛してるなんて言葉も簡単に吐いた。事が済めば二度と会わなくたっていいし、都合がつけば自分の気が向いた時に二,三度抱くくらいは容易にやってのける。固定の交際相手をつくることもしたことがなく、連絡先を交換したりなんてしなかった。
そんな彼だったが、最近になってゆきずりの女と寝ることはしなくなっていた。当人にも何故そんな変化が自身に訪れたのか理由は分からなかったが、それがとの共同生活が始まってから表れた変化であることには気づいていた。
もしかすると、人間が可愛いと思った猫を飼う時のような独占欲が彼に芽生えてきたのかもしれない。一方は、この件を境に増々ホルマジオに夢中になっていく。だが、なかなかが自ら行動に出ないので、を虐めたいホルマジオが実は痺れを切らしそうになるのを堪えるのに一生懸命になっていることを、彼女は知らなかった。
そんな我慢比べが続く中でもたまにアジトのリビングや中庭で、ジャガーと名付けられた猫を愛でる会がとホルマジオのふたりによって開催された。そしてその会の開催回数が重なるにつれて、ジャガーと名付けられた猫のフォルムは段々ぽってりと膨らんで丸くなっていくのだった。