飼い猫一匹にお留守番をさせる時の飼い主の心情をご存知だろうか。
特に、飼い始めの頃は心配が尽きないものだ。電源コードを噛んで感電したりしないだろうか。首輪がどこか思いもよらない所に引っかかって首吊りにあったりしていないだろうか。トイレはきちんと決まったところでできるだろうか。寂しすぎてにゃあにゃあ鳴いて――そんな所を想像してしまうと、すぐに家に帰らなければならない気がしてくる――はいないだろうか。
とにかくこのように心配が尽きないし、何より猫がかわいすぎて離れがたいので、猫を飼い始めた猫好きは大抵出不精になる。
ホルマジオはと言うと、恐らく内向的な方では無いし、猫が好きだと言っても飼ったことは無いので、外出をするときに家を空けることに抵抗など生まれようが無かった。そもそも、アジトでの借りぐらしが長いので、家にいるより外にいるほうがむさ苦しくなくてよかった。――そう。・が来るまでは。
は猫ではないが、猫になれる能力を持っていて、だからか知らないがやることなす事が全部猫のようだった。そんな彼女と恋に落ち事実婚を果たし――よもや、自分が結婚したいなどと思うことなど想像すらしなかったが――、つい最近同居を始めたのだが、ホルマジオは既に出不精になりつつあった。
新生活を始めるにあたっては何かと入り用になる。寝具や冷蔵庫など、最低限必要なものは引っ越す前から揃えていたが、その他細々とした生活必需品の類は、ないと気付いてから買いに走る方がいい。そう金に余裕があるわけでもないから、不要な物を買うリスクを避けたかった。最悪、どうしてもいると言うならどこかからか――例えば、アジトなどから――かっぱらえばいいと思ったのだ。
だが、そうしてひとり買い物に出てみると落ち着かなかった。必要と思われる物は全て、できる限り想像した上で手に入れておくべきだった。自分は片付けと掃除をしている、と言うの意志を尊重し、治安など到底良いとは言えないような地域にある安アパートの一室に、あんな可愛い女をひとり置いて出る羽目になるのなら……!
いや、落ち着けホルマジオ。大丈夫だ。は強い。スタンド能力も何も持たない人間程度にやられるほどヤワではない。とは言え、彼女はどこか全てを包み込むようなおおらかさを持っていて、ちょっとばかし浮き世離れしているというか天然というか、そういう所があるので、帰ってみたらオレの思いもよらないようなことになっていたりしそうで恐ろしい。
例えば、ちょっと休憩がてら猫に変身して、窓辺のひだまり――ちょうど今は、にゃんこが日向ぼっこをするのに最適な、日が傾きかけた頃の温かい陽気だ――などにいたりして、つい気を緩めてうっかり寝てしまい、全裸の人間の姿に戻る、なんて事になっていたらどうしよう!窓辺だぞ!窓辺ってことは、外から見えちまうってことだ!
例えば、ちょっと休憩がてら猫に変身して、部屋の温かいところを探しまわったりしているうちに、オレが隠し持っている――ペッシから押収した――キャットニップの匂いを嗅ぎつけて、ペロペロ舐めていたりしたらどうしよう!正気を失くして、これまた全裸になっちまって、猫がそうするように我を忘れてごろにゃんしていたら!? そんなけしからんの姿が、これまた窓の向こうから丸見えになっていたりしたら!? ああ、これも、あり得すぎて恐ろしい!
どうしてオレはキャットニップを持ってこなかった!? いやそもそもどうしてオレはを家にひとり置いてきた!? 一体全体、どんな神経をしていたらこんな真似ができるっていうんだ!!
「お、おいお客さん、おつり!! おつり忘れてるよ!!」
そんな店員の声が背後で聞こえたが構わず、ホルマジオは紙袋を抱え走り去った。
たまたま足を向けた先のテラスや、何気なく見やった窓の向かいに裸の女がいるのを見たのが男なら、皆その姿にしばらく見入ってしまうだろう。オレだってそうする。今オレが心配していることの問題は、それが起こりうるのが、路上などではなく、オレたちの家の中であるということだ。苦労してやっとのことで見つけた愛の巣なのに、近辺にを性的な目で見ておかずにしてやろうなんていう気持ちの悪い男が居着いたりしたらたまったものじゃない。さらにそいつが性欲を募らせた挙げ句、あろうことかを夜道で襲ってやろうと考えたら……。まあ、そうなってもなら返り討ちにできるだろうし、そもそもそんなことになる前にオレが排除するが。
愛するの裸姿に価値は付けられない。もしも崇高で美しくプライスレスなそれをタダ見しようなんて輩がいるのなら、このオレがただより高いものは無いという慣用句を――代償は不届き者の命だ――現実のものとしてくれよう。
理不尽極まりない考えだが、これが最近になって構築されたホルマジオの思考回路だ。悪いのは世界であって、ではない。強く美しくも可愛らしく、どこか天然でたまらなくホルマジオの庇護欲を掻き立てる猫のような女。彼女を囲う汚い世界の側に否があるのであって、がついうっかりで真っ裸になってしまうことは決して責められるようなことではないのである。
確かに、悪漢に襲われる女性がどんな格好をして夜道を歩いていようと、責めるべきは悪漢の方である。百パーセント、悪漢が悪い。それはそうなのだが、女性は女性で、最低限身を守る手立てを考えておかなければ、襲われたそのたった一度で命を落としかねないというのもまた事実だ。
しかしに限って言えば、悪漢に襲われたとしても、相手が能力者でなければ確実に返り討ちにできる。そういう自信があるからこそ、彼女は気を抜ける場所では気を抜いて生活にメリハリをつけているのだろう。つまり、ホルマジオの「愛するの裸を見られたくない」という感情は、にとっての実害の無さからおざなりになるか、そもそも想像だにされないのである。それはリゾットが仕事中に服を着ろと説教するのに、頑なに拒んできたことからも明白だ。だから、ホルマジオはではなく、を取り巻く環境が悪いとして、環境を変える努力をするしかないのだ。
例えばそれは、大して使いもしない爪を人間の意図しない場所で好き勝手に研ぎまくり、飼い主を困らせる猫のことを、それは猫の習性だ――矯正など到底できるものではない――から仕方がないと諦めるのと同じなのだ。爪研ぎ用のダンボールや麻縄が巻き付けられたポールの設置位置が悪かったのだと、環境が悪かったのだと諦めるしか無い。すべて、そんな猫に魅了され、愛してしまったが故の気苦労なのだ。
ほーら言わんこっちゃない!!
ホルマジオは新居へ入る扉を開けた途端にそう思った。彼は実際には誰にも何も言っていないのだが、自分を戒めるように心の中で叫んだ。そして、早く帰ってきて本当に良かったと思った。窓辺ではあるものの、幸いにも向かいの建物のベランダや窓からは高度と角度的に見ることができない範囲で、裸のがすやすやと眠っていた。
陽の光が、猫のように丸くなった――例によって、肝要なところは足や腕で隠れている――の裸体を煌々と照らし出している。薄明光線に照らされる天使が描かれたルネサンス期の絵画かと見紛うほどの美しい光景を前に、ホルマジオは息を呑んだ。けれど、美しいからとそのまま寝せておくわけにはいかない。はすっかり、その暖かな光の中で気を抜いて、深い眠りに落ちている。初めて彼女の裸を見たとき、身体を覆っていたブランケットを剥ぎ取っても起きなかった彼女だからか、玄関の扉が開いて閉まったくらいでは全く起きる気配が無かった。
ホルマジオが家を出るときまで着ていた服は、の体の下にあった。どうやらバスルームなどで服を脱ぐことすら面倒だったらしい。
まったく、こっちの気も知らねーで……。
ホルマジオは少し立腹しながらも、癒やしの塊でしかない彼女の姿に感嘆のため息を漏らし、それを惜しげもなく信頼の上に見せつけてくる彼女の存在そのものに感謝した。その後、物音を極力立てないようにして部屋の奥へ歩を進めると、部屋中の窓という窓――と言っても、向かいの通りに向かう面の掃き出し窓ふたつと、角部屋であるが故の出窓一つしかないが――のカーテンをそっと閉じてまわった。その足でベッドへ向かいブランケットを取り上げると、のそばへ戻り、相変わらず寝息を立てたままの彼女の体に覆い被せた。
ホルマジオはをベッドまで連れていくのも良いと思った。しかし、せっかく気持ちよさそうに寝ているのを邪魔するのも悪い。仮に猫にそうしたなら猫は触れた瞬間に飛び起きて機嫌を悪くして、飼い主に背中を向けて尻尾をせわしなく左へ右へとパタパタ振り、飼い主に触られたところを気休めにペロペロ舐めるに違いない。は猫ではないが。
そもそもホルマジオは、真っ裸のに触れてしまっては、どうにも自分を抑えられる気がしなかった。アジトを出る前にした、続きは引っ越してから、という秘密の約束事を果たすのは夕食の後ゆっくりがいいので今は堪えたい。腹が減ってはなんとやらである。その後、バスタブにお湯でも張ってふたりで浸かり、荷解きなどで酷使した身体をここでもゆっくり癒やすのだ。
こうまで妄想してやっとのことで、ホルマジオは夕食の食材が入った紙袋やら生活必需品など細々した類のものが入ったショッパーを、キッチンカウンターやダイニングテーブルの上におくことができた。
ふう。
一息つくと、ホルマジオはキッチンに回り夕飯の支度に取り掛かった。今夜は彼が夕飯を作る約束だった。何ともありがたいことに、この家には備え付けのオーブンがある。作ろうと思えば、ピッツァなりラザーニャなりチーズケーキなり――の大好きなチーズをふんだんに使用した料理や菓子など――を好きなだけ作ることができる。
今夜ホルマジオが手掛けるのはラザーニャだ。シート、ミート、ホワイトソース、シート、と順に重ねていくのが手間ではあるが、が美味しそうに食ってくれるならと、手間を惜しまない覚悟だった。それに、ラザーニャは案外下準備は簡単だ。材料を全部鍋にぶち込んでコトコト煮ればいいだけだ。ホワイトソースをダマにならないように作るのが初心者には難しかったりもするのだが、ホルマジオはコツを掴んでいたので得意だった。ちなみに、ホルマジオの料理の腕はリゾットの次くらいだとチームの中で定評がある。
オリーブオイルで炒めたガーリック。そこにみじん切りにした玉ねぎ、人参を加え、玉ねぎがしんなりしてきたらひき肉を入れる。肉の色が変わったらカットトマト缶を一缶まるまる投入し、水、コンソメ、赤ワイン、ローリエなどを入れてコトコト煮込む。
食欲をそそる香りが部屋いっぱいに充満してきた頃、は薄っすらと目を開けた。
とろけるチーズがたっぷりと乗ったラザーニャにときめきを覚えている間、はホルマジオに説教を受けていた。
「いいか、。オレがいないときに、この家で猫になるんじゃあねーぞ」
「うん。ごめんなさい。おひさまがポカポカ気持ちよくて、つい……。ホルマジオ、怒ってる?」
もしも今の頭に猫耳がついていたら、耳が前に垂れていることだろう。彼女がしょんぼりしている顔を見た途端、ホルマジオは気勢を殺がれてしまう。
「怒っちゃあいねーさ。オレが出かける度に心配になっちまうからやめてほしいんだよ。今日みたいにカーテンを開けっ放しにした状態でおまえが素っ裸でいるんじゃねーかと、気が気じゃなくなるだろう。仕事中にそんなだと、とんだヘマをやらかしちまいそうで怖いんだ」
「そっか、そうだよね。リゾットに怒られちゃうもんね」
「別に、リゾットが怖いワケじゃあねーんだぜ。……いやまあ、リゾットにメタリカで仕置きされんのは怖いがな、オレが最も嫌だと思うのは、おまえがオレ以外の男のズリネタにされることなんだよ」
「ズリネタってなあに?」
「悪い。今のは忘れろ。……はあ、とにかく、おまえの裸を他の誰にも見られたくねえんだ、オレは」
こんなことは世の男性皆が愛する女に対して思うことであるし、本来それが何故かについて説明する必要も無いはずだ。だが、ことにおいては違っていた。だから何故そうなのかということについてホルマジオは、これまでに幾度となく言い聞かせてきたつもりだった。
「そのせいでおまえに何かあって、おまえが嫌な思いをするんじゃないかと思うと、怖いんだよ」
ホルマジオが悲しむのなら、とはいつも思った。けれど、チーズとかおひさまの暖かさなどを前にすると誘惑に勝てず、ついついそのことは忘れてしまうのだ。
例に漏れず、取り分けられたラザーニャを皿に盛られた途端、はごちそうのことで頭がいっぱいになった。ホルマジオにとって今夜のごちそうはだし、今夜に限らず彼の頭のなかはいつものことでいっぱいだ。そんなふたりの会話が噛み合うはずも無かった。
「それにな、そんな無抵抗な格好でいられると困るんだよ。我慢が効かなくなる」
「どういうこと?」
「食っちまうぞって言ってんだよ」
はラザーニャが乗った皿をホルマジオの前から退かして言った。
「ダメ! これ、私の分っ」
ホルマジオはしばらく目を丸くしたままじっとを見つめた。どういうことか合点がいった途端、彼は朗らかに笑い声を上げた。対するは小首をかしげ、怪訝そうな顔でホルマジオを見つめる。
「オレが食っちまうぞって言ってんのは、おまえのことだよ」
は途端に顔を真っ赤にして唇を横一文字に引き結んだ。
ああ、ダメだ。可愛すぎて、今すぐにでもこねくり回してやりたい。だが、我慢だ。我慢、我慢、我慢……。
「ラザーニャなんか、いくらでもくれてやるぜ」
ほら、ほら。と言いながら、次々と――ホルマジオの我慢の数だけ――積み上げられていくラザーニャ。するとは嬉しそうに目を輝かせ、山のてっぺんをフォークで削り取り口に放り込む。
「ん〜っ!!美味しい!!これ、全部食べてもいいの!?」
「ん? ああ。いいぜ。好きなだけ食べろよ」
「やったー! ホルマジオが作ったごはん、超おいしい! サイコー!!」
ホルマジオは今までもアジトで何度か――当番だったのでイヤイヤではあったが――晩ごはんを手掛けたことがあったので、が彼の料理を美味そうに食べる顔を見るのは初めてではなかった。だが、ふたりきりで、しかものためだけを思って手の込んだ料理を作ったのは初めてだった。だからきっといつもよりも上手くできたという自信はあったが、がこの上なく幸せそうな顔をして評価してくれたので、ホルマジオの自己肯定感とか充足感、幸福感の類は過去最高レベルに達した。
総じて、癒やしだ。こそ、オレが探し求めていたオアシス。このオアシスを守るためならば何でもする。
ホルマジオは幸せを噛み締めながら、とふたりきりの夕食を楽しんだ。それにしても、気持ちのいい食べっぷりだ。の皿にしこたま積んだはずのラザーニャは、三十分足らずで彼女の腹の中に移ってしまった。
「おごちそう様でした! んん〜まだまだ食べたいし食べられちゃうけど、明日のお昼にも食べたいからとっとく!」
「おう。じゃあ片付け――」
三分の一の大きさになった、大きな平皿のラザーニャを片付けようとホルマジオが手を伸ばすと、の手が彼の手を優しく取って言った。
「いいよ、片付けは私がやる。ホルマジオはゆっくりしてて」
ホルマジオは、の慈しみに満ちた優しい眼差しに射抜かれた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
そう言って席を立つと、ホルマジオは去り際にの頬にキスをした。触れた唇はそのまま耳の方へ持っていく。
「待ってるからな」
ホルマジオの甘いささやき声に、はまたも顔を真っ赤に染め上げて胸を高鳴らせ、重い皿を片手に持ったまましばらくホルマジオの後ろ姿を眺めていた。
(fine)