ああ神様。私にあのクソビッチを殺させないでくれ。
私は暗殺者。あんな弱そうな女を殺すことなんて、赤子の手をひねるように容易なことだ。今の私ならきっと躊躇なくあのオンナの喉元にナイフを突き立てられる。ただ、リゾットパパの教えに従うと、殺人とは私達暗殺者にとって仕事であり、自分の欲求を満たすためにやるべきものではない。そこに恨みつらみ妬み等の感情を持ち込むなど以ての外。暗殺者は、感情に突き動かされて衝動的に人を殺した時、暗殺者でなくなる。例えプライベートであっても、仕事でない殺しは許さない。――なのにメローネの存在が許されてる意味がよくわからないけど、それはこの際不問に付す。
ああ。なんてありがたいご説法だろう。私はリゾットパパを尊敬しているし、リゾットパパのためならこの命も擲てる。迷惑なんて絶対にかけたくない。だから、リゾットパパの存在に感謝しやがれこのメス豚がっ。
――と、私は思った。打ち上げと称してチームのメンバーで飲みにきたバーでのことだ。トイレから出て、私が元居た場所に戻ろうと席を見ると、そこに見知らぬ女がいたのだ。イルーゾォ(彼氏)の隣。あのアマ……イルーゾォの耳元に口を寄せて多分あれは……人の男を誘惑していやがるのだ。女は複数の友人たちと、暗殺者チームに狙いを定め、今晩の相手を探しにきているらしかった。ホルマジオのやつは既にダイナマイトボディの女をちゃっかり抱き込んでいた。お持ち帰りするつもりなんだろう。他には、ペッシに絡むふりをしながら、あんまりがっつく様子を見せないプロシュートのハートを射止めようと頑張っている美人さん。計三名が湧いていた。
ホルマジオが誰をどこで食ってビョーキをもらってこようが、ペッシやプロシュートがどうなろうが知ったことではない。むしろペッシに関しては、社会学習だ。しっかりと手取り足取り腰取りオンナってもんがどんな生き物なのか教え込んでやってほしいとすら思う。だが、私の男に手を出すことだけは許さない。
もちろん、殺す云々は本気じゃない。思っただけだ。世の中、口に出すのは憚られる事でも、思うまでは自由だ。思想の自由ってやつだ。自由も何も、人が考えることに制限をかけられる他人なんてそもそもいやしない。なので、思いとどまればオールオッケー。お巡りさんはいらない。殺してやりたいくらいむかっ腹が立っていることに違いは無いが、本気で殺すつもりはない。まあそれは、今の所の話だが。
私はどうも席に戻って女を追っ払う気にもなれず、バーカウンターに立ち寄ってマティーニを頼んだ。これくらい度数のある酒でも飲んでないと、今のこの怒りは忘れ去れそうにない。ふと、カクテルグラスに口を付けながら、つい最近イルーゾォを挑発したことを思い出した。因果応報とはこのことか。ホルマジオに肩を抱かれて酒飲んでる光景を見せつけられたイルーゾォはだいぶキレてたもんなぁ。こんな気持ちだったのか、と少し申し訳ない気分になった。これでチャラだからな……そう思いながら、チームメンバーがわいわいやっている席に視線を戻す。
女が、イルーゾォ(彼氏)の腕をホールドして、谷間を作った胸をこれ見よがしに押し付けている。そして、あろうことかイルーゾォ(彼氏)の奴は谷間を凝視してまんざらでもなさそうな顔でニタニタしていやがる。素面か?酔ってんのか?まあいいどっちにしろオンナもろとも半殺しだ。
そう決意して、グラスをカウンターに叩きつけ、スツールから尻を離して立ちあがろうとしたその時。
「驚いたな……。君なのか?」
そんな男の声が右側から聞こえてきた。グラスの取っ手を持つ右手首に、おそらくその男の手が触れている。臨戦態勢の私は鬼の形相で馴れ馴れしく話しかけてくる男の方を振り向いた。
「おっと。そう怒らないで。オレのこと、忘れたわけじゃあないだろう?」
情報管理チーム随一の色男。つい最近、私のことをこっぴどく振りやがった爽やかイケメンだ。カウンター席についたときいなかったはずなのに、いつの間に?
「やだ!なんでこんなとこにいんのよ!」
「オレも驚いてるよ。ちなみにここはオレの行きつけの店で、君をここで見たのは初めてだけどね」
「ちょっと、今忙しいの!後にしてくんない!?あのクソオンナ、ちまつ……いや、ちょっとお灸据えてやりに行かなくちゃいけないのよ」
「血相を変えて女の子たちがキャットファイトしてるのなんてここじゃあ珍しいことじゃないけど、キミの場合だとマジでヤバそうだから引き止めておこうかな」
今まで手首に当てられていただけの彼――名をリッカルド・ブガッティと言った――の手が、いつの間にか手首を離すまいと掴んでいた。私としたことが、あまりの怒りに我を忘れて暗殺者としてあるまじきスキを作ってしまったようだ。
「何なのうっとーしい」
「キミにお気に入りの場所をぶっ壊されて火でも放たれたらたまったもんじゃあないからね。ここ、かわいい子がたくさん遊びに来るんだ」
「そんじゃあ尚更焼き払うべきだわ。やりチンの餌食になる女の子が減るってことでしょう。大義名分ができたありがとう」
「キミって本当に鈍いよね。オレ、キミのことをたった今カワイイって言ったつもりなんだけど」
「どの口が言ってんのよ。思いっきり私のこと振ったくせに。やめなさいよね。私もうちゃんと彼氏できたんだから」
「へえ。その彼氏って、キミがさっきから睨みつけてるテーブルについてる誰か?それで、キミが血祭りにあげようとしてる子はどれなの」
完全にバレている。さすが情報管理チームに籍を置く男なだけはある。状況把握能力はピカイチなようだ。というかたぶん、私が暗殺者のくせにギアッチョの次くらいに直情型で分かりやすい性格してる所為なんだろう。
「はあ。リッカルド。あんたの所為でやる気殺げてきた」
「所為っていうか、おかげでってところかな。ならさ、こうしよう。オレがここで、キミが彼氏って言ってるあのテーブルの誰かに見せつけるようにキスをする。そんで、店を出ていく。と、ここで提案なんだが、賭けをしないか」
「賭け?」
「もし店を出たオレ達ふたりを、キミの彼氏が追ってきたらオレは殺されないうちに君から離れる。もし、キミの彼氏が追ってこなかったら、キミはオレのもの。どうかな?」
「あのさ。あんたつい最近私のこと振ったよね。私があんたのお眼鏡にかなわなかったからなんでしょう」
「それがさ、あの時のオレの判断が間違ってたんじゃあないかって、今日の君を見て思ったんだ。今日の君は最高にセクシーだ」
はあ。男って。ほんと下半身についてる棒の赴くままに生きてるんだなあ。ちょいとめかし込んで、露出多めのドレスに身を包むだけで態度が180度変わるんだもの。まあ、それはイルーゾォも一緒か。まだ付き合い始めてひと月も経ってない。本気かどうか確かめるにはちょうどいい機会かもしれない。それに、やられたらやり返す。それが流儀だ。この戦争を始めたのは……そう言えば私だけど、知ったことじゃない。最高にイラついてる状態で何もアクションを起こさず、大人しくアジトに戻ってやるつもりなんて微塵も無い。
「わかった。ただ、キスは――」
リッカルド。言い終わる前にキスをするんじゃあない。
03: 君不在の世界はつまらない
イルーゾォは、の座っていた席に不躾に座り込んできた女の猛攻を受けながらもの姿を探していた。トイレに行くと言って席を離れた彼女が、もう二十分近く戻ってこない。のことだから悪漢に襲われても返り討ちにできるだろうから心配はいらないだろうが、と思いつつも気にはなる。というのも、彼女はまた性懲りも無く、友人に買ってもらったらしい露出の多い服を着て飲みに興じていた。イルーゾォはやめろと言ったが、行きつけの安酒を出す飲み屋では無いので、いつもの自分のスタイルだと格好がつかないと駄々をこねた。それで、例の悩殺ワンピースを着ることを了承せざるを得なかったのだ。
イルーゾォが彼女に手を出した時と同じ黒のボディコンワンピだ。あの格好をチームのメンバーに見せることすら躊躇われるのに、女を漁りにきているような男がひしめき合うこのバーであんな格好をさせるなど、我ながら正気の沙汰とは思えない。イルーゾォはそうモヤモヤとした思いを抱いたまま、が戻るのを今か今かと待っていた。
だが、冷静になってみると、自分が座っていたところに別の女が座っていて、あろうことか腕に胸をこすりつけられながら、自分の恋人が誘惑を受けているという絵を見た彼女が、黙って戻ってくるとは考えづらい。そこまで考えて、ふとイルーゾォは、が彼の気を引くために、ホルマジオに肩を抱かせてほくそ笑んでいた場面を思い出した。思い出すと同時に、向かいに座っている男の坊主頭にフォークやナイフを突き刺したくなるほどに、はらわたが煮えくり返るような憎しみが再度沸き起こってくる。
この感覚を彼女にも味合わせてやりたい。イルーゾォはそう思った。それから、今まで少しも聞いていなかった女の話に耳を傾け始めた。そして胸元に目が留まる。こればっかりは、理性がどうのこうので制御できるものではない。そこにはだけた胸や太腿や形のいい尻があれば目を向ける。それが男というものだ。
「ねえ、あなたって彼女とかいるの?」
「いたらどうする」
「そうね……いても関係ないわ。だって、結婚してるわけじゃあないんだもの」
イルーゾォはそう言って笑いかける隣の女に恐怖すら感じた。まるで獲物を狩る獰猛な肉食動物だ。ともあれ、イルーゾォはまだ、チームのメンバーにと交際していることを打ち明けてはいなかった。なので、今ここで隣の女とどんな話をしていようと問題は無い。そう思いながら女の戯れに付き合ってやっているうちに、イルーゾォは席に戻りあぐねたがバーカウンターの前でマティーニを啜っているのを発見する。そして彼女の隣に、緩くカールした黒髪をオールバックにした細身で長身の優男が座る。あっちもあっちで言い寄られているようだ。と、イルーゾォは焦燥感に駆られた。途端に、再び隣で彼を誘惑する女の話が耳に一切入らなくなる。
やがて、の唇が、隣に座った男に奪われる。
――あいつ!やっぱりスキだらけだッ!!あれで本当に暗殺者か!?
イルーゾォは唖然とした。そして徐々に怒りがふつふつと沸き起こってくる。は男に手を引かれ、店の出口へと向かい姿を消した。それをむざむざと見届けた後、イルーゾォは弾かれたように席を立った。隣でイルーゾォを口説き落とそうと躍起になっていた女が驚いて身体をのけぞらせた。
「どうしたイルーゾォ。血相を変えて」
メローネがそう尋ねても答えは得られなかった。イルーゾォはメローネが話しかけたとき既にを追って駆け出していたのだ。
バーから出てすぐの路地裏に回り込んだとリッカルドは、こそこそと店の出入り口付近を眺めていた。すると程なくして、イルーゾォが慌ただしく扉から飛び出してきた。彼は血眼になって、顔をせわしなく右左に振りながらを探す。広い通りはまばらに人が行き交っていて、その人々の顔や後姿をつぶさに観察しては、あれじゃないこれじゃないと判別している様子だ。明らかに焦っているその様子を見て、はニシシと口角を釣り上げて笑った。
「ひっじょぉーうにいい気分だわリッカルド」
「ああ、残念。追ってきちゃったね。あれが彼氏か。チームの仲間だよね?チーム内恋愛禁止とかないの?」
「思いっきり男同士でいちゃついてるやつらがいるけど、誰も何も言わないわよ。私からしてみれば完全にデキてるんだけど、超のつく仲良しってことになってるなら話は別ね」
「へえ。君たちのチームって意外とホットなんだね。楽しそうだ」
そうやってリッカルドと会話している間、イルーゾォはバーに戻ろうとする様子も無く、自分の恋人が一体どこに行ったのかと苛立たし気に思考している様子だった。さすがに可哀想に思えてきたは、目的も果たしたことだし、リッカルドに最大限の謝辞を述べつつ、早く自分から離れるように言おうと口を開く。リッカルドは先程から人目もはばからずの腰を抱き寄せて、恋人同士の距離感で彼女の恋人と言われている男の姿を凝視していた。としては、そもそもイルーゾォに愛情を抱く前までこの男に執心していたので悪い気はしないながらも、今更ふざけるなとひっぱたいてやりたい気持ちだった。
「ねえ。あんたのおかげで助かったわ。もういいから、離れてくれない?彼氏が追ってきたら私から離れるって言ったじゃない」
「いや。殺されない内に離れるって言ったはずだよ、。どうやら彼は、キミがどこにいるか見当もつかないで途方に暮れてるみたいだ。このまま見つからなかったらいいのに」
リッカルドは、抱き上げられた猫の様に両腕をピンと張って抵抗するをものともせずに、彼女の顔を見つめていた。壁に手を突き、もう片方の手での顎を掬い上げる。するとは顔を真っ赤にして張っていた腕の力を一瞬抜いてしまう。その瞬間を逃さなかったリッカルドは彼女との距離をしっかりと詰めていった。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ!!私もうあんたのことなんか少しも好きじゃないんだからね!?」
「顔真っ赤なのはどうしてかな?まあ、それは置いといて……。結婚してるわけじゃあないんだ。恋人がいながら好きでもない男と寝るくらいどうってことない。社会勉強だと思わない?」
「あんたの狂った恋愛観押し付けないでよね!?たった今心の底からフラれて良かったって思ったわ!このクズ!!」
「キミのその口が悪いところ……前は見た目通りガサツだなって思ってたけど、驚くことに今はギャップが気になってるんだ。ねえ、ベッドの中だとどうなるの?かわいくおねだりとかしてくれるのかな?」
「――っ!!」
リッカルドの唇がの唇に触れるか触れないかというところで、ふたりに暗い影が落ちる。大通りの街灯の明かりを遮ったそれは、だだ洩れの殺気を隠そうともせずにゆっくりとふたりとの距離を詰めていった。殺気に気づいたリッカルドは舌打ちをして、の顎から手を離し、ゆっくりと建物の壁に追いやった彼女の体から離れていった。
「オレのオンナに何の用だ」
自分の背が高いことをいいことに、イルーゾォは顎を上げて間男であるリッカルドを見下ろした。身長差は10センチメートルたらずだが、体格の良さからイルーゾォの威圧感は半端ではなく、早くも自身の敗北を認めたリッカルドは不敵な笑みを浮かべながら言い放った。
「きみさ。せっかくキレイな子捕まえたんだから、大事にしてあげなくちゃあダメだよ。オレはのこと一回振ったんだけど、今それをすごく後悔してるんだ。君も後悔したくなかったら、他のオンナの胸なんて覗き込んでへらへらしてちゃあダメだぜ、イルーゾォ君」
「!?何故オレの名前を……」
リッカルドはチャオ~と屈託ない笑顔をイルーゾォに向けながら、ひらひらと手を振ってバーへと戻っていった。
「情報管理チームのリッカルド・ブガッティ。私達の情報もしっかり管理されてるんだから、知ってて当然よイルーゾォ」
「おい。いい加減てめーがスキだらけでどうしようもないオンナだって自覚したらどうなんだ」
は腕を組んで、彼女を睨みつけるイルーゾォへ鋭い視線を返した。
「別にいいじゃない。スキだらけでキスされたって、私の恋人はそれを止められるようなところにいなかった。女に乳擦り付けられながらヘラヘラ拘束されてたわけだから、止める気も起きなかったでしょうね」
「オレはキスまでしてねーぞ」
「私だって別に好きでやったわけじゃない」
これ以上無い程ありきたりな痴話げんかだ。いったいこれは何チャンネルの恋愛ドラマでやってたワンシーンだろうかと、どうでもいい思考が脳裏をよぎるほどの茶番。
そう思っているのはだけで、イルーゾォは本気で怒っているようだった。怒気を収めないまま、イルーゾォはの腕を乱暴に掴み引っ張ると、どこかへ向かって歩き出した。
「ちょっと、どこ行くのよ!?」
「あの間男がいる所になんぞ戻る気がしない」
「……私だって、あのクソビッチがいる所になんて戻りたかないけど」
「帰るぞ」
「え?みんなを残して?」
「別に問題ねーだろ。それより、お前には教育が必要だ」
“教育”というワードに不穏当なニュアンスを感じ取ったはごくりと唾を飲み込んだ。だが、彼女の中の怒りもまだ収まったわけではない。はアジトまで戻る間に、自分がどれだけむかっ腹が立ったか延々と話していたが、イルーゾォは大した反応も見せず黙々と歩いていた。彼はただ歩きながら、自分の中で嫉妬の炎が立ち昇り行く様を静観していたのだ。はイルーゾォがそうやって黙りこくっているのを末恐ろしく思ったが、結局彼がしっかりと自分を追いかけてきてくれたことを心の隅で喜びながら、大人しく追従しつつ愚痴を垂れていた。
アジトへ戻ると、薄暗いリビングでリゾットが組織端末を前に仕事をしていた。視線だけモニターから外し、早かったな、と一言述べると、何故ふたりだけ戻ってきたのかというふと思い浮かんだ疑問も口にすることなく、再び視線をモニターへと戻す。
はリゾットのそんな様子にほっと胸を撫でおろすと、冷蔵庫から瓶ビールを一つ取り出して、彼に手渡した。リゾットは仕事に熱中すると飲食を忘れる。組織端末を据え置いたテーブル上に飲み物の類が無いのを確認した、彼女なりの気遣いだった。ビールを受け取りありがとうと返すリゾットに、は優しく笑いかけた。
扉の前でそんなの様子を眺めていたイルーゾォは、なかなか自分に追従してこないを苛立たし気に見ていた。彼の冷たい視線に気づいたが慌ててイルーゾォの元へと駆け寄ると、ふたりは一緒にリビングルームを後にした。
リビングを出てすぐ左手にバスルームがある。イルーゾォはがリビングに通じる扉を閉めたのを確認すると、すぐさま彼女の腕を掴み、バスルームへと彼女を押し込んだ。あまりにも急に身体を引っ張られたためバランスを崩し、はタイル張りの冷たい床に尻もちをつく。急に何をするんだと憤慨せんと口を開こうとしたが、彼女を床へ放った本人の顔を見上げると、自然とそんな意思は消えていった。怖いもの知らずで神経の図太さには定評のあるですら、恐怖心を抱いて押し黙ってしまうほど、イルーゾォの表情は怒気を帯びており、彼女を冷ややかな目で見下ろしていた。
イルーゾォは洗濯機の傍に据え置かれたバスケットからタオルを取り出すと、床に尻をついたままのの両手首を片手で束ね上げ、それを巻き付けて拘束した。何が起こっているのか理解できない様子のはイルーゾォと自分の手首を交互に何度も見る。
「……何するの?」
が恐る恐る小声で尋ねても、イルーゾォは何も応答しない。代わりに背後からもう一枚のタオルで目を覆われる。突如として闇に襲われたは固唾を飲んでイルーゾォが何か喋るのをじっと待った。
「。立て」
静かな、しかし怒気を帯びた低いイルーゾォの声に動揺したは、彼の命令に従うよりほかなかった。両手を拘束された状態で立ちあがるのはなかなかに難しく、よろめきながらも何とか立ちあがると、彼女は洗面台の縁に拘束した手をつくように誘導される。そして、耳元で囁かれた。
「教育が必要だと言ったろう」
キィっと金属の軋む音――恐らく蛇口ハンドルを回す音――と共に蛇口から水が流れ出ていく音が、のすぐ前方から聞こえてくる。すると、うなじから後頭部までを、イルーゾォの大きな手のひらで覆われ抑え込まれる。の鼻先や口元に、シンクに叩きつけられた水の飛沫がかかった。
水でも溜めて窒息死でもさせられるのか?殺されないまでも、水責めでもするつもりか?
何をされるのか皆目見当もつかないは、今まで一度も感じたことの無いような恐怖心に支配され、一言たりとも発することができなくなっていた。水は近くで迸り続けている。
「リッカルド、とか言ったか?アイツはお前の何なんだ」
「……な……何でもないよ」
「何でもないにしちゃあ、かなり知り合った仲っぽく話してなかったか?」
は言うか言わざるべきか迷った。だが、彼女は嘘を吐くのが下手だ。今、嘘を吐いてそれがバレてしまったら、とんでもないことになる気がした。彼女は意を決して本当のことを告げることにした。
「わたし、彼のことが、好きだった」
「ほう。……それで?」
「告白して、振られた。それであの夜、自暴自棄になって……」
「今日とまったく同じ格好で酔っぱらってたのか。なるほど。それじゃあオレはあの男に、感謝しなくちゃあいけないってワケか?余計はらわたが煮えくり返る思いだ。。それはきっと、あの男のせいじゃあない。お前の所為だ。お前がスキだらけで、オレのオンナでありながら他の男にキスされちまうようなアバズレなのがいけねぇ。だから、これから教育しなくちゃあいけない。その前に」
「――んぶっ」
はうなじを押さえつけられたまま口元に、イルーゾォの手のひらで水を浴びせられる。呼吸のリズムなど配慮してもらえる訳もなく、鼻孔から吸い込んでしまった水が咽頭を走り抜ける痛みに眉を寄せ、は咳込んだ。咳込めば今度は口から水が入り込む。そしてイルーゾォの掌が荒々しくの口元を擦る。
「まずは他の男に吸われた汚ねぇ口を綺麗に洗わねーとなァ」
イルーゾォが思う存分の口元を洗い終えると、うなじを押さえつけていた手を離し、乱暴にの後頭部の髪を掴み頭部を引き上げる。は苦し気に咳込んで、息を荒げていた。そんな彼女の憐れな姿などお構いなしに、イルーゾォは彼女の身に着けているワンピースの背面にあるジッパーを下ろしていく。
「。オレがお前を支配するのに、鏡の中の世界なんて必要無いってことを、十分に教え込んでやる」
バスルームに押し込まれた時、イルーゾォが部屋に鍵をかけたような音はしなかった。リゾットが、壁一枚隔てただけの場所にいる。いずれ他の仲間たちもアジトに戻り、バスルームを使おうとする者も訪れることだろう。だと言うのに、この男は何故、ここで私を拘束して目隠しし、あろうことか身ぐるみを剥ごうとまでしているのか?
はこれから起こるであろうことを想像し戦慄した。彼女の背後に佇むイルーゾォは、支配欲や嗜虐欲にまみれた愛情を沸々と煮えたぎらせながら、恐怖に震えるを見据え、笑っていた。