「もう……ダメ……」
哀調を帯びた声。雨粒が幌やフロントガラスを叩く音と騒がしい走行音に紛れ込んだそれを、ギアッチョは聞き逃さなかった。ちら、と彼は横目にを見た。さっきまで真っ白だったハンドタオルはすっかり黒く濡れている。街灯の明かりが射して彼女の肩のあたりを照らすと、タオルを黒く濡らしていたのは彼女自身の真っ赤な血液であることが分かった。
ついさっき、の肩を敵の弾丸が穿った。幸い弾は体内に残らなかった。しかも、頭部や胸、腹などという致命的な場所に風穴が空いたわけではない。だから、それほどの大ごとでは無い。そう思い込んでいたかったギアッチョは、の血を、そしていつもとは打って変わって弱々しく、余喘を保たんとする彼女の姿を見てイラついていた。
アジトまではまだ距離がある。だが、着いてしまえばもう何も心配することは無い。しっかりと止血して、安静にして、肉食って失っただけの血を作れば済む話だ。だからギアッチョは、雨の中、夜の高速道路――アウストラーダ・デル・ソーレ――を駆け抜けていた。
ギアッチョがアクセルペダルを踏み込む傍らで、は身に迫る死を確かに体感していた。近距離で轟いた銃声。鉛玉に肩を撃ち抜かれた際の衝撃。その後の、焼けるような、じわじわと肩から全体を蝕んでいくような痛み。ターゲットを殺してすぐ、まともに止血もしないで逃げるように車に乗り込んだ。血は今も肩に開いた穴からどんどん抜けていく。血は止まりそうになかった。
大した事無い。ギアッチョはそう言った。でも、血が止まらずに流れ続けたら人は死ぬんだ。それを知らない訳じゃないだろう。だから彼は愛車に鞭打って急いでナポリに戻ってくれているのだ。それは分かる。でも、もう少しこう、何か心配というか、処置と言うか、私の気持ちを慮ってほしい。こんな大ごと――にとっては、これほどまでに血を失うのは初めてのことだったので、致命傷でなくても大ごとなのだ――になっている私に気を回して欲しい。――最悪の事態を想定してほしい。そう思ってしまう。
だからはつい、聞いてしまった。
「ねえ、ギアッチョ」
「何だよ」
「私が死んだら、悲しい?」
「はあ!? バカなこと言ってんじゃあねー! たったそれくらいの傷で死ぬかよッ」
「ねえ。……別に……私がこれから死ぬのか、死なないのかを聞きたいわけじゃないわ。……死んだら、悲しいかって聞いているの。……同じこと、二度も言わせないでよ」
「……だったら、そんなくだらねぇこと二度も喋って、無駄に体力消耗してんじゃあねーよ」
くだらないこと。は、ああ、そうですか。などと心の中で毒づいた。そして失意の内、意識が朦朧とする中で、矢の様に過ぎ去っていく窓の外の景色を眺めた。視界は霞むが、ライトアップされた緑色の看板に何が書いてあるのかくらいを何とか読み取ることはできる。
「ねえギアッチョ。……次のサービスエリアに入って……車、止めてくれない……?」
「はあ!? 今は一刻も早く、アジトに戻って――」
「血が、止まらないのよ……。大したこと無いって、私も思っていたけれど……結構、ヤバいかも……」
「だが、車止めてどうするってんだ!? 意味あんのか?」
「考えはあるわ……。お願い」
「チッ……分かったよ」
そう言って、ギアッチョはさらにアクセルペダルを踏み込んだ。彼のロードスターは呻りを上げる。
十キロメートルほど走ると、右手に目指していたサービスエリアへの入り口が見えてきた。ギアッチョは大して速度を落とさずに本道から脇のレーンへと進み、まばらに他の車が停車するだけの広大な駐車スペースの中央に停車した。ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを荒々しく引くと、彼は乱暴に、シートへ背中を預けた。
「で? その、お前の考えってヤツは何なんだ」
ギアッチョはぶっきらぼうに聞いた。は事もなげに答えた。
「傷口、凍らせて塞いでくれない?」
ギアッチョは眉をひそめた。それは、が撃たれた瞬間に彼が考えたことだったからだ。怒りが迸り、ターゲットである対抗組織の人間を皆殺しにして冷静になると、まずは何よりも逃げるのが先決と思い、撃たれた場所を押さえ痛みに苦しむを抱えて車に戻った。そして車を走らせている間に、考えを改めたのだ。
「血は止まるだろうな。だが最悪の場合、凍った部分が壊死して傷跡は一生残るぜ」
それが理由だった。ギアッチョは、一生ものの傷を自らの手での体に残したくなかった。だが、はそんなことを歯牙にもかけない様子で言い放つ。
「死ぬよりマシでしょう。それに、傷のことなら心配するだけ無駄よ。……この銃創は一生残るもの」
そう言って、は血まみれのタオルを手放して、シートに預けていた上体を起こし、傷を負っていない方の腕を使って器用に上着を脱いだ。痛みに顔を歪め、呻き、目に涙を滲ませる。
ギアッチョはそんなの様子を見ていられなかった。心が抉られたような気分になったからだ。オレがあの時、を置き去りにしていなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。そう自分を戒めている間に、不甲斐ない自分への怒りが、また沸々と沸き起こる。
「ほら、早く」
はギアッチョの手を取って、彼の体を自分の方へ引き寄せた。そして彼女は耳元で囁く。
「私……あなたになら、この体、どうされたっていいって思ってる」
ギアッチョははっとして、の傷口にばかりにいっていた視線を上げた。すると、蒼白になっていた彼女の頬に、恥ずかしさからか少しだけ赤みがさしていた。見た瞬間、ギアッチョの心臓は大きな音を立て始めた。どくどくと、のようにどこか一か所を穿たれて圧力が解放されているわけでも何でもない健全な血管へ、次から次へと血液が送られていく。
ああ。このオレの血を、そのままこいつにやれたらいいのに。そうすれば、オレがこんな、まるで童貞みたいに緊張してテンパりそうになってるのだって、悟られずに済む。……いや、何考えてんだオレは……こんな時に。
一極に集中して冷気を放つ。できない事では無かった。だが、かなりの集中力を要する。観念してホワイト・アルバムを身に纏ったギアッチョは目を瞑り、の傷口に手を当てた。
「――っ!」
は度重なり襲い来る痛みに、たまらず呻いた。
銃撃も火傷も凍傷も、起こっていることは皆細胞組織の破壊。同じことだ。凍ったって、焼けるような痛みと言うのはあながち間違いではないだろう。焼かれている。ジャンヌ・ダルクにでもなった気分だ。でも彼女は、下からじわじわと全体をゆっくり焼かれていった。彼女の痛みは、私のそれとは比べ物にならない。……だから大丈夫。かなり痛いけど、死にはしない。
傷口を凍らせた後、ギアッチョはゆっくりとの肩から手を離した。の肩に空いた穴は傷口の血液もろとも凍り、思惑通り血は止まった。
「痛い……っ」
血は止まったが、今度は涙が流れ始めていた。大粒の涙がぽろぽろと、の両の目から零れ落ちていく。ギアッチョは慌てふためく。
「お、おい。やっぱ、やめるか……!? ホット・コーヒーでも買って――」
「いい、いいよ……。ただ、こんなに痛いなんて、私が想定できなかっただけ……。悪いのは私。あなたじゃあないわ……」
そうは言っても、が自分の攻撃を受けて涙を流しているのだ。ギアッチョが平常心でいられるわけが無かった。――を愛する彼には、到底無理なことだった。
「痛い……痛いよ、ギアッチョ」
「ああ、畜生! 早く、帰らなくっちゃあならねーってのに、そんな、痛い痛いって泣かれてちゃ、運転に集中できねーだろうがよォッ!!」
「そう……よね。なら、痛み止めがあれば……」
「んなもん持ってねーよ! かと言って、頭痛薬みたいな市販薬程度じゃ意味なんてねーしよォッ! 一体オレにどうしろってんだ!?」
は再度、熱くなるギアッチョの手を取った。
「ギアッチョ。……落ち着いて」
「言われてもなァッ! おまえって女は、人の気も知らねーでッ!!」
「……それって、どんな気、なの」
「はぁ!?」
取った手をまた引き寄せて、今度は手の甲に頬を寄せた。まるで何かをねだるように頬ずりをしたあと、はじっとギアッチョを見つめた。彼もまた、尚も涙を流すから目をそらせなかった。
「教えて。ギアッチョ。……言っても無いのに、私のこと、そうやって怒らないで」
「別に、おまえに怒ってるわけじゃあねーよ!」
「そうやって、質問の答えをはぐらかさないでよ。……ねえ、どんな気を起こしてるの?」
はギアッチョの手の甲にキスをした。キスだけでなく、彼女の唇から覗いた舌が、指先に向って這っていく。
「なっ、何やってんだッ……!? とうとう頭沸いちまったのか!? おめーがどんな気を起こしてんだよ!?」
「私の頭はね、ギアッチョ。……おかげで、とってもクールよ」
指先に到達した舌は指の腹の方へ回り込む。回り込んで、下から上に舐め上げた後、はギアッチョの指先を第二関節のところまで咥え込んだ。咥え込んだ後、ゆっくりと上に向って滑らせていき、最後にちゅ、と音を立てて解放する。
「痛いの、あなたが忘れさせてくれればいいって、そんなことを思いついたのよ」
「……はァ?」
「エンドルフィンってホルモンはね、脳内麻薬とも呼ばれているの。鎮痛効果もあるのよ。それって……どうやったら出るか知ってる?」
「な、何の話を始めてんだ、おまえは……?」
は構わず続けた。
「激しい運動をした時とか、愛しいモノに触れた時に出るの。だから――」
火事場の馬鹿力、とも言えてしまうような力で、はギアッチョの腕を再度引いて、呆気に取られ態勢を崩してしまったギアッチョを助手席の方へと引き寄せた。
「――セックスして。私と、今、ここで」
焼け付くような痛みに息を荒げ涙を流しながら、はギアッチョに懇願していた。どうしようもなく、今はギアッチョが愛しかった。死んでしまいそうな痛みを感じ、もう死んでしまう方が楽になるかもしれない。そんな悲愴感に支配されている時に、傍にいて欲しいのはギアッチョだけだ。今まさに、心の底からそう思っている。ただ、鎮痛剤代わりにしたいというだけではない。はギアッチョを、心から愛しているからだ。だが彼女は、その本心を隠そうと必死だった。――だって、私だけ真意をあけすけにするなんて、フェアじゃない。
「ッ……ワケが……わからねえぞ……」
は唇を噛んだ。じれったくてしょうがない。もう、ずいぶん前から分かり切っていたことだった。ギアッチョが、自分に好意を寄せているということは明白だった。だから自身も、彼への好意を隠してきたつもりはなかった。いずれひとつになれると確信していた。なのに、変なところで奥手な彼は一向に手を出してこなかった。――じれったいにも程がある。
は引き寄せた腕の先、ギアッチョの掌を左寄りの胸に当てた。
生きている。血を失って、少しばかり弱々しいけれど、心臓はちゃんと動いてる。――私はまだ生きている。
ギアッチョの手を介して、自分の手に微かに伝わる心音を確かめると安心した。まだ生きていたいから。この人と一緒に、まだ生きていたい。死を連想させる痛みの中、は心の内側で繰り返していた。生きていたい。愛されたい。愛され尽くして、その後に死にたい。だからまだ、死にたくない。
「愛して欲しいの。……あなたに。あなただけに。……強く。深く。……激しく、愛して欲しい」
の瞳から零れ落ちた涙が、彼女の胸に置いたままだったギアッチョの手の甲を濡らした。の体温を保ったままのその水滴は、手の甲を撫でて下へ降りていく過程で急速に冷めていく。
「――ッ。……!」
ギアッチョは身を乗り出し、に口づけた。深く、深く、舌を奥へ運んで、彼女の熱を、確かな生を探る。血に濡れた胸元を揉みしだいて、たわわな乳房を押しつぶし、その奥で確かに鼓動を打つ心臓の存在を感じた。
「っ、あ、ああっ……ギアッチョ。止めないで。……お願い。……もっと、私を感じて。私に、あなたを感じさせて……」
ギアッチョは助手席に体を移し、倒れたシートに背を預けたに覆いかぶさった。傷口にはふれないように、そして衝撃を与えないように、慎重に。けれど、激しく彼女と口づけを交わす。荒々しく乱れたふたりの呼吸。それは互いに互いを高め合った。
「っ、あ、んんっ……」
濡れた鳥羽口に宛がわれたギアッチョの指。滑りのいいそこを何度か優しく撫でられた後、ぷつりと奥へ、彼の指が進んでいく。上の方を撫でつけながら、奥へ手前へと動く指。の呼吸は、徐々に早くなっていく。
やがてギアッチョの指はの中から出て行った。カチャカチャと、ベルトのバックルが鳴って狭い車内に響く。その後すぐに、彼自身が、熱く疼くそこへ進入した。瞬間、ふたりは同時に息を呑んだ。
「っあ――」
奥深くまで、一気に貫かれる。低い呻き声がの耳元で響いた。――ギアッチョが、彼自身で、私を感じている。それだけで天にも昇る気分になった。穿たれ、凍結した場所で感じていた凄まじい痛みは、気付けばどこかへ飛び去っていた。
「んっ、ああっ、あ……っ、ギア……ッチョ」
「ッ、あ、ああ……聞こえてる。なんだ、……ッ、く、んッ」
「ね、もっと激しく、していいよ」
「ああ? 肩に、響くだろうがッ」
「いいの。気に、っ、しない、で……。あなたから、もらえるならっ……痛みだって、快感だわ」
深く、奥深くに、ギアッチョが届く。
「――っ!あああっ」
酷く全身を揺さぶられた。凍った肩がひどく疼いてもおかしくないのに、ついさっきまで感じていたはずの痛みはすっかり消えていた。
「痛く、ねーか」
額に汗を滲ませたギアッチョが、心配そうな表情での顔を覗き込んだ。彼に見つめられて心配されている。そう自覚した時、彼女はこれまでで最高の幸せを感じた。
「痛くなんか、ないよ。……気持ち、いいっ。ね……止まらないで」
言うと、ギアッチョは再度動き始めた。律動に合わせて、シートが軋みを上げる。音の間隔は徐々に短くなっていく。
「あ、ああッ……、……う、んんッ」
完全に余裕を失くした顔。私を感じて、できあがった顔。それが最高にエロティックで、には愛しくて愛しくて、たまらなかった。たまらず、彼女は動かせる方の腕の先を、掌を少し伸ばし、ギアッチョの頬にあてがった。彼の目を見て、は言った。
「ね、ギアッチョ……イく前に、ちゃんと教えて。……私、知りたいの」
「ああッ……なん、だよ。何が知りたい。……早く、言え。じゃあねーと、オレはッ……もう――」
「ずっと、そばにいてくれる? 私を、愛して……くれる? 私は、あなたが好き。……いいえ。愛してる。……愛してるの。ギアッチョ」
「ッあ、ああっ……オレも、オレもお前を――ッああ、もう、ダメ、だ……ッ」
「あ、んんッ……!!」
分かってる。ギアッチョが、私を愛していることは。けれど結局、完全な答えを得られなかった。でもいい。分かった。彼は私を拒まないでくれた。私を心の底から、心配してくれていた。それだけで、死んだっていいくらい、幸せだった。
And if you really need me……
あれから三週間ほど過ぎた頃。
下着姿のは鏡の前に立って、鏡に映る例の傷跡をじっと見つめていた。
まだ痛みは残っていた。鏡で視認するとより、強く傷口が疼く。浅黒く変色した、塞がりきっていない肩。そこに、はそっと手を伸ばした。伸ばした手の手首を、背後から回されたギアッチョの手が止める。
「まだ痛むのか」
の首筋にキスを落としながら、ギアッチョは言った。
「ええ。……でもね」
は鏡に映るギアッチョの姿を見ながら答える。
「私、嫌な思いなんか少しもしてないわ」
胸の中央に宛がった掌を、ギアッチョの掌に挿げ替える。心臓はまだ、動いている。あの時よりも強く。まだ生きていたいと強く願った、あの時よりも激しく。
「今こうして、あなたと愛し合えているから。……ねえ。もっと……もっと私のこと、愛してくれるでしょう?」
「ああ。……愛してる。愛してる、」
は唇を噛んだ。貪欲に、彼女はただ、ギアッチョを求めていた。鏡に映る物欲し気なの表情を、ギアッチョは見逃さなかった。それを見ると同時に、彼は想像した。
きっと、想像以上の快感を味わえる。確かな熱を、自分の、そして愛する者の生を感じられる。――それだけで、強く生きていられる。
は彼の熱を、確かな生を中で感じながら、頭の中で繰り返す。
諦めないで。私を愛して。もしもあなたが、諦めたなら、私からあなたの元を去るわ。手放したくないなら、もっと、もっと激しく愛して。ねえ、もう少しよ。もう少し。もっと強く、深く、奥の奥で、私を感じて。……あと少し。すぐ、そこまで来てるわ。ほら――