ナポリ郊外の古びたアパート。一階部分が潰れた商店で、二階に部屋がふたつあった。突き当りにオレの部屋が。そして隣に女が一人で住んでいた。美しい人だった。
オレがアパートに引越した日――春先でまだ少し肌寒さが残る天気のいい昼下がり――、彼女とアパートの階段ですれ違った。その時オレから軽く挨拶をしたが、彼女は溌溂とした笑顔を向けて挨拶を返してはくれなかった。彼女は囁くようにただ、どうもと言ってゆっくりと部屋に戻って行ったのだ。ちらと見えたその表情は少し微笑んでいるように見えなくもなかったが、ただならない憂いが見て取れた。ひどく幸が薄そうな女だな。それがオレの彼女に対するファーストインプレッションだった。
アパートに越して二、三日経った日。大学の友人と酒を飲んで少し酔って帰ってきて、ソファーに身を投げうとうとしていた時だった。たぶん、夜の八時か九時か……それくらいの時間だ。隣の部屋から突然、男の怒号と、テーブルか何かが倒れ、上に乗っていたであろう食器が床に打ち付けられて割れるような音が聞こえてきた。
驚いて一気に酔いが醒めた。オレはとっさにソファーから身を起こして、隣の部屋がある側の壁に耳を押し当てた。男の声が途切れた時、隣人の例の女性がすすり泣くような声が微かに聞こえた。
ああ、彼女が薄幸に見えたのはこれが原因か。きっと付き合っている男に暴力でも振るわれているんだ。
そうは思っても、オレは勇気を振り絞って隣の部屋の扉を叩こうなんて気にはなれなかった。ここはスラムに近い。それが故に破格の値段で借りているボロアパートだ。ここらでは体中にタトゥーを彫ってポケットにコカインと小銃を突っ込んでいるような危ない連中がわんさとうろついている。女性に暴力を振るうような輩がマトモな堅気の男なワケがない。関わらない方が身のためだ。
オレは情けないことに、ただただ隣の女性の命が助かりますようにと祈りながら、イヤホンを耳に突っ込んで大音量で音楽を流し、知らないふりに徹した。ロブ・ハルフォードのハイトーンボーカルが、酔った頭に響いて痛かった。
その日以降も、定期的にそんな音が隣の部屋から聞こえてきた。彼女が金切り声を上げて男に抵抗するようなことはなかった。ただただ振るわれる――振るわれているであろう――凄まじい暴力を受け止めてはすすり泣くだけだった。そして、破壊衝動を抑えられない男が家の中の物を滅茶苦茶に投げ飛ばしたり蹴り飛ばしたりするような音が怒声と一緒に聞こえ始めて三十分も経てば静かになるというパターンを発見したオレは、そのタイミングでイヤホンを外しPCのキーボードを叩いて大学の課題に取り組んだりした。
ふと、彼女が男に荒々しく抱かれている光景を思い描く。身体はきっと痣だらけで、たまに口から血が流れていたりして……。男は優しく彼女を抱いて、血を舐めとったりするんだ。
何故だか、そんな妄想ができてしまった。何と言うか、彼女にはそういう情景がひどく似合う様な気がしたのだ。三十分の嵐が過ぎ去れば、彼女はきっと男に深く深く愛されるのだ。そうでなければ、あんな暴力男――未だに顔すら見たことは無いが――との付き合いを続けていける訳が無い。きっと、蕩けてしまうような優しい抱擁と愛撫が彼女を待っているんだ。
不謹慎と分かっていても、自分が抑えられなかった。ただただそんな妄想に耽っては、オレは自分で自分を慰める。おかげで勉強なんて一向に進まなかった。
隣の部屋の騒動に知らないふりを続けて二か月くらいが経った頃、偶然、彼女と帰りが一緒になった。アパートの階段の上り口でばったりと会った。小さなショルダーバッグを肩に掛け、買い物を済ませた後なのか紙袋を抱えた彼女。相変わらず幸が薄そうだ。またどうも、と言って足早に部屋に戻るつもりでいるのだろう。だが、その日はとても挨拶だけを済ませて部屋に戻る気にはなれなかった。彼女の額に青い痣ができていたのだ。ひどく痛そうに見える。そう言えば昨晩もあの男が来ていた。
「あの、大丈夫ですか」
オレは挨拶もせずに、開口一番そう呟いた。彼女はきょとんとした顔でオレを見つめ返す。
「あ、ああ。いつも、騒がしくてごめんなさい」
「そうじゃなくて、怪我。大丈夫ですか」
触れてしまわないように、だが痣ができていると知ってか知らずか白を切ろうとする彼女に指摘するように、青く腫れ上がったそれに手を伸ばした。彼女はびくりと身体を震わせて目を瞑った。
「すみません。あの、脅かすつもりじゃ」
「大丈夫。転んで頭を打っただけなの」
「転んで、じゃないんでしょう?突き飛ばされたんでしょう」
「いいえ、まさか……」
「オレが気づいてないとでも思ってます?あなたが男に暴力震われてるって」
よくよく見てみると、カットソーの袖口から包帯が見え隠れしている。割れたガラスか陶器の欠片で切ったのか?鎖骨のあたりには赤黒い充血痕が散りばめられて、転ばされまくっているせいか形のいい足には青や黄色の打撲痕が多数ある。傷だらけだ。まるで自分の所有物だと持ち物にシールをペタペタと貼りつける子供に遊ばれる玩具のようだ。
「……あの、良ければお茶しませんか。あなたの話を聞かせて欲しいんです」
自分でも何を言っているんだと思った。けど、あの時は必死だった。引き止めたい一心だった。もうすぐ死んでしまうんじゃないかと思わせるほどに、彼女がとても儚げだったから。そんな必死なオレを見て、彼女は初めてふわりと笑って見せたんだ。
オレはこの時、完全に恋に落ちていた。何とか彼女を未だに顔も名前も知らない“あの男”から引き離したい。そう思った。
オレがどこか外の喫茶店にでも行こうと誘うと、彼女は控えめにかぶりを振って言った。
「あなたのお部屋じゃダメかしら」
名前も知らない男の部屋に上がり込むと自分から提案するなんて、なかなかぶっ飛んでるな。とオレは思ったが、きっとそれは、ボーイフレンドに他の男と一緒にいる所を見られることを恐れてだろう。オレは彼女の申し出を受け入れて部屋に入れた。別にオレは彼女に乱暴を働こうなんて思ってないんだから、何も問題は無い。そう自分に言い聞かせた。
オレはソファーにでも腰掛けてくれと言った後キッチンに向かった。そして安物のインスタントコーヒーを淹れて彼女に渡した。彼女はマグカップを両手で持って一口飲むと、腕を降ろしてマグカップの中の黒い水面に視線を落とした。オレは二人掛けの小さなソファーの肘掛けに腰を降ろした。そして簡単に自己紹介を済ませた後、オレはすぐに彼女の男についての話題を切り出した。
「あなたに乱暴してる男って……誰なんです」
「私のボーイフレンド。もう付き合い始めて四年経つわ」
驚いた。つい最近のことじゃあ無かったんだ。オレがここに越してくるずっと前から、あの男に暴力を受け続けていたんだ。
「4年間、ずっとなんですか」
「ずっとというより、徐々にって感じかしら。……最近は特に怒ってるみたい」
「あなたに怒ってるんですか?」
「私に怒ることももちろんあるわ。でも彼は何にでも怒るのよ。例えば、ここに来る途中、車を運転している時煽られてイラついたとか、前の車の運転手が吸うたばこの吸い殻が、自分の車のボンネットに降りかかったとか、買い物の時のレジ打ちの態度が気にくわなかったとか、道ですれ違った人の目つきが気にくわなかったとか……そんな日々の些細なことでも、彼にとっては大ごとなの。それを貯めこんで私にぶつけるのよ」
そう言って男の話をする彼女の表情に、恨めしいとか憎らしいって言う感情は全く見つけられなかった。むしろ微笑ましそうに目を細めて口角を上げている。信じられない。狂ってる。
「別れようって思ったことないんですか。痛いでしょう」
鈍感な彼女に気付いてほしくて、今度は額の痣に触れてみた。やはり彼女はピクリと身体を揺らして目を瞑った。
「……痛い。でもね、何でか分からないんだけど、私はあれを彼の愛情表現だって思ってるの。彼にぶたれると、優しくキスされてるみたいな気分になるのよ。確かに痛くて泣いちゃうの。しかも彼は私が泣くと、泣くだけの私にイラついてもっと乱暴してくるわ。……でも私、それでもまだ死んでないでしょう。だからきっと、死ぬことは無いんじゃないかなって思うの。だって彼には……私がいないとダメだから」
オレは言葉を失った。きっとこの人には何を言っても無駄だと思った。でも、オレはまた感情を抑えられなくなった。
「どうしてそうなるんですか」
「……私にもどうしてかなんて分からない。でも私は彼のことを心から愛してるの」
「徐々にって言いましたよね。今度あの男が来た時、あんた死ぬかもしれないってのに」
「彼が傍にいてくれるなら、私いつ死んだって構わないわ」
「オレがそんなのはイヤだって言ったら……思いとどまってくれますか?」
「え……?」
いつの間にか身を乗り出して、オレは彼女に覆いかぶさっていた。彼女は大きく目を見開いてひどく動揺してる。でも、逃げようとはしなかった。
きっとそういう所がダメなんだ。あなたは決して自分から人を拒絶しない。与えられる物を与えられるままに享受する。それが相手にとっても、自分にとっても良くないことだと分かっていないんだ。
「イヤだったら、部屋に戻ってください」
「……彼、私があなたとしたって知ったら、どう思うかしら」
「殺されるかもしれませんね」
「……それもいいかもしれない。そしたら私、一生あの人のモノになれるんだわ」
やっぱり彼女は狂ってる。そう思ったが、妖艶な彼女を前にして、オレは衝動を抑えられなかった。
He hit me and it felt like a kiss
隣人はひどく優しかった。体中いたるところに出来た痣に触れないように細心の注意を払い、少しでも彼女が痛がるような素振りを見せるとすぐに動きを止めた。
覚えたてのぎこちない手技に、控えめな口付け。女の柔肌に歯を立てるなんて発想は無いんだろう。ゆっくりと彼自身を埋められた後、肌がぶつかり合って音が響く程にそれを打ち付けられることもなかった。そんなことで達せるのかと不安になっただったが、青年は案外あっけなく果ててしまった。
は行為を終えて身なりを整え、青年の頬に触れるだけのキスを贈り、言葉少なに部屋の出口へと向かった。
「さん……!」
名前を呼ばれて振り返ると、青年はリードを柱に括り付けられ自分から離れ行く飼い主にすがる犬のように声を上げた。
「また、ここに来てくれますか?」
は何も答えず青年に微笑みを向け、部屋を後にした。
(すごく優しい子だった……)
あれが普通のセックス。優しく触れられて、優しく愛を囁かれて、終わった後は朝まで抱き合って眠るんだ。
そうやって迎える朝を夢見たこともあった。だが、そんな夢は付き合いはじめてすぐに捨て去った。彼は――ギアッチョという男は普通の愛情表現ができないのだ。生まれ持った性質だ。それは最早矯正なんてできるような代物では無かった。
怒りに任せてを突き飛ばし、彼女に向かって物を投げつけ、すすり泣くだけで何の反抗もしてこない彼女にさらにイラついて首を締め上げベッドに叩きつける。ギアッチョがそんなことをする理由は、が隣人に告げた通りだ。他所で貯め込んだ怒りが、会話中の些末な言い回しを起爆剤にして爆発する。
暴力を振るった後落ち着きを取り戻したギアッチョは酷く落ち込んだ。悪かったとか、痛かっただろうとか言いながら、手のひらを返すように優しくに振れた。激しいときは泣きながら「捨てないでくれ」と彼女に縋った。そして蕩けてしまいそうなほどに愛される。始めは酷く驚いて傷ついたが、慣れてきたにはそれが堪らなかった。
自分を必要としてくれている。ギアッチョには私しかいない。他に彼をこんなにも愛してやれる女なんているはずがない。彼の剥き出しの――激しい暴力という名の――愛をぶつけられて、それを受け入れられる女なんて私以外には絶対にいない。そしてそれに耐えさえすれば、いわばご褒美とも言えるような抱擁が待っている。
はヤミツキになっていた。行為の前の暴力が激しければ激しいほどに良い。それは彼女の思い込みでしかないのだが、暴力を振るわれた後、わざと大げさに転げたりもした。突き飛ばされた時、わざと体から力を抜いたりした。そうしてギアッチョに罪悪感を刷り込んだ。
激しい嫉妬の念に駆らせてみようとも思った。嫉妬させて、彼の元から自分が離れていってしまうかもしれない――にそんなことをする気は少しも無い――と不安に駆らせたら、一体どんな反応を見せて、そして自分は一体どうなってしまうのだろう?
次こそ、本当に殺されてしまうかもしれない。は本気でそれでもいいと思っていた。もし自分がギアッチョに殺されれば、きっと彼は一生“を殺してしまった”という罪悪感に苦しめられることになるだろう。それはにとって、彼の心を自分が一生支配することと同義だった。
はシャワーを浴びたあと、右腕に昨晩できばかりの傷口に処置を施して、新しい包帯を巻きつけた。感慨深気にそれを撫でて、愛する人の姿を思い描く。
(次はいつ来てくれるかしら)
ワザと隣人との関係を見せつけてやろうとは思っていなかった。そして自分から隣人と秘密裏に会おうとするつもりもなかった。あくまで自然に、与えられるがままを受け入れ、求められるがままに与え、いつかギアッチョが気付く日を楽しみに待つように、そんな日が来るのを待っていることすら自分でも忘れるように――。
つい数時間前まで隣人とセックスに興じていたというのに、の頭の中は既に恋人のことでいっぱいだった。彼女にとって隣人とはギアッチョの独占欲を煽る道具でしかない。ギアッチョと付き合いを始めてから隣人が何回か変わったのだが、その回数だとか、顔だとか名前といった情報はほとんど覚えていなかった。彼女が覚えていたことと言えば、その全員が男で、全員と少なくとも一度は寝たことがあるということだけだった。
が初めて大学生の隣人と関係を持ってから数カ月がたったある晩のこと。彼女が家に戻るタイミングと、隣人が家から出るタイミングが重なった。
「さん」
青年は頬を赤く染めてに近づきながら言った。
「この前は美味しい晩御飯を……どう、も……」
と距離を詰めながら話している間に、彼女の背後から男が現れた。青年は、どおりで今はマズいって顔をしていた訳だ。と、の表情を見たときの違和感の正体に気付く。スカイブルーのきつめのパーマをあてた頭髪、赤縁眼鏡、鋭い眼光、への字に曲げられた口。とてもと四年も付き合っている様には見えない、奇抜な見た目をした男だった。
青年はバツが悪そうに、お茶を濁しながらそそくさと階段を降りていく。ギアッチョはするどい視線を青年に向けはしたものの、去っていく彼を目で追うことはなく、ドアの前で固まったままのに早く扉を開けろと催促した。酷く落ち着いた声音だったが、これは所謂“嵐の前の静けさ”だった。
鍵を開け扉を引いてふたりが中へ入るなり嵐は始まった。
ギアッチョはの肩に手をかけて乱暴に引き寄せると、自分の背後にあった玄関のドアへ彼女を叩きつけた。彼女の首に手を押し当て、ぎりぎり息ができる限界まで締め上げる。は瞳に涙を浮かべて息を荒げていたが、苦しいと足掻けば足掻く程息が続かなくなることを彼女は知っているので、“被害者”の顔をしてギアッチョをじっと見つめていた。
「……おい。さっきのは……一体どういうことだ?」
「おととい、作り過ぎた晩御飯、彼に……おすそ分け、したの……」
「……それはいい。いや、全く良くはねーが、問題はそこじゃあねーんだ。何で隣の男がお前の名前を知ってて、仲良さそうに話しかけてきやがった?オレがいねー間にまた隣の男に色目使いやがって……助けてとでも言ったか?その見返りは何だ?てめーの体かァ……?」
「色目なんて、使ってない・・」
ギアッチョの問いにが答えれば、それが肯定であれ否定であれ増してや沈黙であれ、暴力は激しくなった。今回は彼女の首を絞める手に更に力が込められた。息をするのも困難な程に首を締め上げられる。両足が床から離れ行く間、は必死に背伸びをしてつま先を床に付けようとした。意識が朦朧とし始めたが足掻くことすらできなくなると、ギアッチョは彼女を乱暴に床の上へと放り出す。体へ酸素を取り込もうと息を荒げる彼女に馬乗りになると、ギアッチョは首元を掴み上げた。
「色目使ってなきゃおかしいよなァ?あのクソ野郎がお前に一方的に惚れてるだけなのか?ストーカーだってのか?ならメシなんか食わせてんじゃあねーよ。なあ、分かってんだよ。毎度毎度言わせんな。拒絶すりゃあいいだろうが。何でそれができねーんだ?少しでもあの男に気があるから拒絶できねーんだよなァ!?」
振り上げられた彼の右手の平が、の左頬へと打ち付けられる。一緒に耳でも叩かれたのか、キーンと耳鳴りがし始めた。酷い耳鳴りで一時何も聞こえなくなる。鬼のような形相で何かまくし立てるギアッチョの表情が薄暗い室内に浮かぶ。首元を掴まれたまま激しく上下に揺さぶられている間、は愛する者の顔をじっと見つめていた。
(いいのよ……あなたの、好きにして……この体も心も、全部あなたのモノだから……)
すると何の反応も示さないにさらに怒りの炎を燃やした彼の手が、彼女の頭頂部の髪を掴み上げた。
「オレの話聞いてんのか!?いつもいつも黙り込みやがって!!少しは反論なりなんなりしてみろよ!?」
「……愛してる、愛してるわギアッチョ」
「嘘吐くんじゃあねー助かりたくて必死かァ!?」
ヒートアップした彼には何を言っても無駄だった。が口を開こうが開くまいが彼の怒りの炎に油を注ぐことになる。彼女はただ、与えられる暴力を彼の溢れ出た愛として受け止めるだけだった。立ちあがった彼に何度も鳩尾を蹴りあげられながら、は必死に痛みに耐えた。
「なあ、お前は一体どうすれば完全にオレのモノになるんだ?」
は身体を丸めて震わせながら言う。
「最初から……最後まで…………私は、あなたのモノよ?」
「出まかせばっか抜かしやがって、ふざけんな!!ナメてんじゃねーぞ淫乱女が!!」
腕を掴まれ引きずられる。引きずられて行った先は寝室だった。最早パターンと化したそれに、は嵐の終わりを感じ取る。ベッドの際まで引きずられて到達すると、脱臼しそうな程に腕を引き上げられつつ立てと命令され、はおもむろに立ちあがる。
重力に逆らって体を立てたままでいると、与えられた愛の痛みが増した。床に打ち捨てられた時に打ちつけた傷がある方の腕はズキズキと熱を持って疼いていた。未だに聞こえづらい耳の奥は鈍い痛みに苛まれている。叩かれた頬はヒリヒリと痺れ、頭頂部の頭皮は焼ける様な痛みを覚えていた。鳩尾は皮膚も臓物も突き破られたのではないかと疑う程に痛んだ。おかげで綺麗に起立できず、腰を痛めた老婆の様に背中を曲げたままだ。
体を襲う激しい痛みの中では陶酔していた。彼女にとって、これはいわば前戯なのだ。形の無い愛という概念が、痛みとして確実に感じ取れる。彼女はそれで安心できた。体で感じることのできる全てが彼女にとってはギアッチョに与えられた愛そのものだった。
(もっと、もっと酷くしてくれたっていいの。もっと酷く罵ってくれたってかまわない。全部、全部あなたの愛だって……分かってるから。分かってる……好きにして、もっと、もっと……もっと私を愛して…………)
息も絶え絶えに立ち上がった彼女はベッドへと押し倒され、下着を剥ぎ取られ、コンドームも着けないままろくに濡れてもいない秘部へと雄を突き入れられる。は息を呑んでその痛みに耐えた。散々与えられた痛みで緊張しきったそこを、ぎしぎしと軋むように熱い肉塊が進んでいく。そうやって彼女の中を彼の熱が満たしていくと得も言われぬ幸福感に満たされ、そこはやがて濡れていく。
「っ、あ……ギアッチョ、好き……愛してるの……本当よ、私、あなたとずっと、っ……こうして、繋がっていたい……」
「クソッ……お前やっぱ、ただの淫乱だろ!!頭おかしいんじゃあねーのか!?」
「あぁっ……ん、んあっ、もっと、もっと強く……ねえ、もっとちょうだい、あなたのっ、全てを……。ねぇ、もう、ぐちょぐちょよ……?分かるでしょう?」
「口先ばっかで行動が伴ってねーんだよっ……お前ってオンナはっ……クソ、クソクソクソ、クソがっ……!!!」
「中に、ねえっ、お願い。中に、中に出してっ。私の中を、あなたでいっぱいにして……?」
「――っ!!」
埋められた塊が脈打ち、噴出した精液が中を満たし結合部から溢れ出ていく。暖かな液体が肛門に向かって流れ落ちていく。はそれに手を伸ばし素手で拭い取りながら元の場所へと誘って、手に付着した白濁を口へと運んだ。息をあげて彼女に覆いかぶさったままのギアッチョに見せつける様に、根元から自分の指を舐り上げる。そして彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。
「ギアッチョ、愛してる。本当よ……心から愛してる」
枕に頭を落としたの表情を見て、ギアッチョはいつも我に返る。ぼろぼろと瞳から大粒の涙を零す、苦しそうに歪められた顔。彼は彼女のそんな表情を打ちのめされたように黙って眺めた。やがてから両腕が差し伸べられると、ギアッチョはゆっくりと彼女の首元に顔を埋めていった。
「……。頼む……オレを、一人にしないでくれ。オレには、お前しか……いないんだ」
「私もよギアッチョ。私にも、あなたしかいない」
「嘘じゃないって言ってくれ」
「ええ。嘘じゃない。私、一度もあなたに嘘を吐いたことなんてないわ」
「じゃあなんでお前はいつも、そんな目でオレを見るんだ。泣いてんじゃねーかよ……」
――彼女は美しかった。自分には勿体ない女だと、ギアッチョは思っていた。彼は怒りという衝動に抗えない自分をも愛して受け入れてくれるという女が、自分から離れて行くことを恐怖した。その恐怖を紛らわせるために、そしてその恐怖だとかその他もろもろの要因によって起こる怒りという衝動のままに暴力を振るい、彼女を完全に支配しようと試みた。抗えば殺してやる。最初はそう思っていた。
だが彼女は少しも抗おうとはしない。いくら彼女の身体にありとあらゆる苦痛を与えても、彼女は彼に愛を告げるだけ。どれだけ自分を、怒りを解放しても、彼女はすべてを呑み込んでいく。ギアッチョは彼女を支配できずにいた。だからこそ彼は、彼女が自分から離れて行く要因となり得るものすべてを排除し、彼女を孤立させようとした。
確かには社会的に孤立していた。そして彼女はギアッチョに“依存”している。だがギアッチョにはそうは見えなかった。どんなに社会的に孤立させようとも、どんなに彼女を痛めつけて支配しようと試みても、一向に彼女が自分のモノになったという実感が湧かなかった。
「すごく……痛くて。でも、私は大丈夫だから……」
「ああ、クソっ……どうしてオレはいつもこうなんだ。なんでオレはお前を……。オレは……オレはお前を愛してるんだ。こんなことするつもりなんか、無いんだ」
慈しみに満ちた優しい手つきで、はギアッチョの頭を撫でた。ゆっくりと頬擦りをしながら。彼女はこの時を待ちわびていた。今まで一方的に与えられた暴力など無かったことのように、幸せそうな顔で、弱り切った彼を慰めた。
「分かってる。大丈夫。私、生きてるわ。でもねギアッチョ。私はあなたになら殺されたって構わない。だからもっと……私をあなたの好きにして?」
彼女がそう言うと、ギアッチョは彼女の首に噛みついた。今度は全く痛みを伴わない、甘美な刺激だ。はそれだけで達してしまいそうなほどに幸福感に満たされていた。
は強かだ。自分の欲する物を貪るためならば何でもする。目的を達するためならば、自分と彼女の愛するギアッチョというひとりの男以外がどうなろうと知ったことでは無かった。
「人の女に手を出しやがって」
ある夏の真夜中のこと。が来てくれたのだと思って迂闊にドアを開けたのが良くなかった。青年は自身の行動を呪った。
のボーイフレンドが押し入ってきたのだ。大声をあげようと青年が腹に力を入れた瞬間、彼は加減など無い凄まじい力で首を締め上げられる。この大して大柄でも筋骨隆々という訳でもない体躯をした男のどこにこんな馬鹿力が秘められているのだと思ったが、その内まともに思考すらできなくなってくる。
「いつもなんだよ。隣の男は毎回、オレが片付けることになるんだ」
ひどく落ち着いた声音だった。いつもの部屋でテーブルをひっくり返し、物を投げ散らかし、彼女を突き飛ばすような激情は鳴りを潜めている。
「大家もいい加減、気づけばいいのによ。毎回毎回男ばっかり住ませやがって」
青年の首を掴む男の手は酷く冷たかった。もはや彼に、男の手が何故凍りそうなほどに冷たいのかなどといったことを思考する余力はなかった。感覚的に異常な冷たさと、自身の身体の周りの冷気を知覚することしかできなくなる。そして自分の死期が間近に迫っていることを悟る。青年はその原因となった女を最後に思い浮かべた。
――・。彼女はベラドンナ。オレへの死の贈り物。