Liar

 よく知りもしない男とセックスをするのは初めてのことじゃない。

 慣れていると言うのは過言だけど、拒絶するほど嫌なことでもない。自分の内面を知られないようにとの気配りが欠かせない私には、一夜の過ちを重ねるくらいが一番気楽でいいはず。職場に好きな人はいるけど、職場内恋愛なんてかなりリスキーだ。心が死ぬ。それに、仕事柄下手したら愛だけじゃなくて同時に職、どころか命まで失いかねない。そう思っていたからだ。けど、何度か――片手で数え切れるくらいだ――やった後でやめた。いくらやっても満たされることなんかなさそうな気がしたから。でもやっぱり、セックス自体は嫌いじゃない。仕事中ともなれば、背徳感も加わってさらにイイ。心はさておき、体は満たされる。

「ッあ、あアッ……おまえのナカは宇宙一だ。最高だぜ、タリア」

 ちなみに私の名前はタリアじゃないし、この体は私のものじゃない。だから私の体だって本当は満たされてなんかいない。今に至っては全くの空っぽだ。

「まるでブラック・ホールだッ」

 ちょっとやだ。吹き出しちゃうからやめてよね。ヤッてる最中のセリフは最悪。でも、モノは悪くない。何度も何度も太くて固いそれで奥まで突き上げられて、仕事中だっていうのに感じて声が出ちゃう。タリアのナカがブラック・ホールならあんたのその棒は何て例えたらいい? デザート・イーグル? パイファー・ツェリスカ? それともトマホーク? ……ああ、だめ。これ以上の例えは見つからない。それに、トマホークは言い過ぎ。せいぜいデザート・イーグルだ。

 とにかく、気持ちは良い。男の喘ぎ声がちょっと癇に障るけど、バックで突かれていて相手の顔も見えないから、よく知らない男ってことは半分くらい忘れていられる。そして考えてしまう。彼のことを。私が本当に好きな彼は今、タリアの視線の先にある私の体の近くで、タリア――の中の私――が犯されているところをたっぷりと堪能している。“早く仕事を終わらせろ”と少しは焦燥しながら。

 彼が見てる。そう意識すると、脳天を突き抜けていくような鋭利な刺激が私を高ぶらせた。けど、我を忘れるほどじゃあない。だって、彼に私の体を征服されている訳じゃあないもの。そうだったらどんなにいいかって考えると、興奮も次第に収まっていく。

 逆に男の腰の動きはどんどん早くなっていった。きっと高みがすぐそこまで来ているんだろう。何でも物凄い力で吸い込んじゃうブラック・ホールからナニを抜くので精一杯って感じ。抜いたって、彼自身が感じる無限の強力な引力で中に引き戻される。その運動によって、プールサイドのタイル上にある、私が支えにしているテーブルがガタガタと音を立てはじめた。

 女って案外、ヤッてる最中変に冷静だったりする。特に、愛してなんかいない男としてる時は、相手のプライドを傷付けないようにって優しさから、今あんたのモノで最高に感じてるって演技までやっちゃうの。大抵みんなが優しい女優なんだから。そんなワケで冷静な私が、男にバレないように安全装置を外しておいた拳銃――抜き挿ししてる方じゃない――も卓上で小刻みに震える。私はそれにそっと手を伸ばして片手で掴むと、上半身を絞るようにして瞬時に翻し――拍子にズルリとブラック・ホールからデザート・イーグルが抜ける――つつ、もう片方の手をグリップに添えてすぐに引き金を引いた。

 発砲音が辺り一帯に響き渡る。男は頭に空いた風穴から血を垂れ流しながら地面に倒れた。倒れた男の固くて大きなナニは、仰向けに勢いよく倒れた後も勃ったまま。でも任務は終了。完全に全部倒れてしまうとこまで見なきゃだめ? うーん、それはタリアに任せよう。

「キルスウィッチ・エンゲイジ」

 私はタリアの口で言った。

「戻るわ」

 そう宣言すると、私はいつも一瞬意識を失う。けれどすぐに目を覚ます。そして、私の体を背後から抱きとめていたホルマジオの声が上から降ってくる。

「良かったかよ」
 
 彼は愉快そうに囁いた。ホルマジオは私が意識を飛ばしてる間、いつも無防備な私のカラダを守ってくれるんだけど、こういうケース――つまり、ターゲットが女とヤッってる状態――は初めてだった。だからこその、帰還後の第一声なんだろう。私は何でも無いって風に答えて見せる。

「ええ。そうそうお目にかかれないようなオオモノだった。キルスウィッチ・エンゲイジのスコープで見えなかった?」

 私のスタンド――キルスウィッチ・エンゲイジ――は、遠距離射撃を可能にする光学照準器と、銃口にサプレッサーが付いたスナイパーライフルの形をしている。ヘルメットなんかも穿ってしまえる徹甲弾に私の魂を乗せて、ターゲットのそばにいる親しい人なんかを撃てば、私はその人の意識をオフにして体を乗っ取ることができる。そうして油断しまくっているターゲットを殺し、乗っ取った人に濡れ衣を着せ、自分の体に戻る。その間、私の体は意識を失うし、キルスウィッチ・エンゲイジは姿を現したままになってしまう。ちなみに、ライフルは私以外のスタンド能力者でも触ることなら出来るので、ホルマジオはスコープを使って私がちゃんと仕事してるか、いつも監視しているってわけ。
 
「いいや。オレが男のナニなんか、見たいと思って覗くわけねえだろーが」
「……それもそうか」

 くだらない話をしている間に、何やら辺りが騒がしくなってきた。

「戻ろう。銃声を聞きつけた仲間が来る」

 そう言ってVIPルームのプールを囲う生垣の影から、身を屈めたまま立ち去ろうとする私達の背後でタリアの悲鳴が響いた。すぐに男の怒声も複数聞こえてくる。ああ、可哀想なタリア。銃にはあなたの指紋がべったり。まあ、誰がやったかなんて一目瞭然だし、指紋がついた銃が警察の手に渡るまでもなく、彼女は私の代わりに仲間のギャングの手で始末されてしまうでしょう。

「おまえと仕事すると、いつもすぐ完璧に終わっちまうんでつまんねーんだが」

 ホルマジオが歩きながら言った。

「今日は退屈しなかったぜ」

 まだニヤけてる。このスケベめ。まあ、人のこと言えないんだけどね。
 
「ポルノのタダ見ってわけ。タリアが美人で良かったじゃない」
「まあ……それはそうかもな」

 犯されてるのが身も心も正真正銘の私だったらどう思った? ああ、ダメダメ。こんな淫らな気持ちは、酒でも飲んでさっさと忘れてしまわなきゃ。
 
「はやくホテルに戻ってラム・コークが飲みたい」
「酔っ払いの介抱なんかやりたくねーからな、オレは。ほどほどにしとけよ」
「はーい」

 夜なのにむせ返るような、キューバはハバナの熱気。ただでさえ熱く火照ったカラダが、おかげで全然冷める気がしなかった。そこにラムを注ごうっていうんだから、私にカラダを冷ます気なんかさらさらないらしい。

 私は根っからの嘘つきだ。本当の気持ちは隠し通すつもりでいる。だって、彼は触ると火傷するタイプだもん。そんなので一生物の心の傷なんて負いたくもないじゃない。だけど本当は、もう我慢できないってくらいに燃えてるの。触れてもないのに、私の中にはとっくに火が付いてる。そんな自分の気持ちにも嘘をついて我慢するの。そのためには、お酒が必要。今日あったことを何もかもぜーんぶ忘れちゃうためにね。

 ラグジュアリーなプールヴィラにラム・コークさえあれば完璧。素面なこの時の私はそう思ってた。舞い上がってさえいなければ、アルコール度数の高い酒を火に焚べれば火はさらに燃え上がってしまうと気付けたのだけど。



Yeah, here comes trouble, no, no



 は仕事の後にちょっとした贅沢をするのが好きだった。仕事終わりにはよくホルマジオと、いつもよりちょっといいレストランへ足を運んだし、いつもよりちょっといい酒を呷ったりした。

 今回はがホルマジオと組んでほとんど初めての本格的な海外出張だった。今まで近隣の国での仕事で日帰り出張をしたことはあれど、宿泊を伴うほどの遠征になることは無かった。

 ホルマジオは今回の仕事が決まったとき、がまた贅沢したいと言い出すだろうとは思っていたが、それはせいぜい、現地のレストランで現地の料理を食べてちょっと良い酒を飲むくらいだと考えていた。だが実際は違った。贅沢の度合いがいつもと桁違いだったのだ。彼女が予約を取ったホテルの一室へ足を踏み入れたとき、その豪華さにホルマジオは舌を巻いた。そこそこの広さを持つプールヴィラだ。彼の人生でこれほどラグジュアリーな部屋に泊まるのは、全く初めてのことだった。

 値段を聞いてみると、連泊となるとキツいが、一泊するくらいなら全く手が出せないほどの高額でもなかった。とは言え贅沢に変わりはない。だというのに、なんと太っ腹なことか、はホルマジオの宿泊費も自分が出すと言った。この部屋を手配したのは自分だし、広いヴィラに一人でいるなんてつまんない。付き合ってもらうから、その迷惑料。とも。

 迷惑だなんてとんでもない、とホルマジオは思った。他でもないと――ツインルームなのでベッドはふたつ。それを見てホルマジオは少しがっかりしたが、まあ、当然だと諦めはつく――オーシャンビューのプール付きヴィラという豪華な部屋での一泊なんて、願ってもない好機だ。

 そういう訳で、ふたりは仕事を終えるなり、仕事終わりのお楽しみのことで頭が一杯になっていた。

 お楽しみ。仕事終わりの決まりごと。勝利の祝杯を挙げるのだ。ホテルへの酒の持ち込みはマナーに反するとは分かってはいるものの、こうも豪華なホテルで酒を満足いくまで呷ろうと思えばいつもの三倍くらいは金がかかる。なのでふたりはお気楽なことに、暗殺を終えたその足で酒屋へ寄って、ハバナクラブのダークラムとコーラ、そしてライムを買った。ラム・コーク――もとい、キューバ・リブレをプールサイドで嗜むために。

「オーシャンビューって、夕方とか朝方じゃないとオーシャンビューである意味ないよねー」

 がお手製のカクテルを呷りながら言った。ふたりは本場キューバでキューバ・リブレを呷りながら、束の間の自由と安息に身を委ねていた。

「夜の海ってのもなかなかおつなもんじゃねーか。ほら月明かりが海を照らしてる。星もキレイだぜ」
「へー、意外。ホルマジオって、案外ロマンチックなことも言えるのね」

 せっかくのロマンチックな気分をいくらか阻害され、ホルマジオは少し顔をしかめた。

 崖下に打ち付ける波の音や、星々の煌めき。そして隣には、密かに思いを寄せる女がいる。いくら粗野な自分とは言え、この状況ならロマンチックな気分に浸らざるをえないだろう。だが、彼はそう言って少しばかりの不愉快な思いも吐露することができなかった。こちらへチラとも視線を流さない、自分に気の無さ気な彼女に、気持ちを悟られたくなかったからだ。悔しいじゃないか。

 何で意外だと思う?

 そう聞いてみてもいい。だが、返ってくる言葉には大方想像がついた。彼女は恐らく自分のことを多分に誤解しているからだ。自分のことを気の多いプレイボーイくらいにしか思っていない。弁明しようと試みたこともあったが、そうすればするほど墓穴を掘るようで、言葉に重みなんて持たせられそうになかった。何と言っても彼女は、思い込みが激しいのだ。一度そうと思えば、その考えを他人が動かすのは至極困難だ。

 だから、ホルマジオは自分のことを話のネタにすることは止めた。

 酔ったの前でなんて、増々聞き入れてもらえやしないし、何なら今日話したことなんか明日には全部忘れているだろうからな。

「なあ、知ってるか、。キューバ・リブレってよー」

 ホルマジオは手元にあるカクテルについてのうんちくを、誤魔化しついでに披露することにした。

「キューバがアメリカの助けを得てスペインから独立した記念に、アメリカを象徴するコーラと、キューバ産のラムを合わせて作られたカクテルなんだぜ」
「へー。そうなんだ。……リブレって、だからなんだね」

 スペイン語とイタリア語は似ているから、“リブレ”が自由を意味する言葉――イタリア語だと、“リベルタ”となる――だと、にはすぐに察しがついた。

 他者の支配からの独立。そうして得られた、自由。渦中の人たちはその舞い上がるような喜びを、このカクテルを呷りながら分かち合ったのだろう。なんて素敵なことだろう。は感慨深げに微笑みを浮かべながら言った。

「私達みたいな囚われの身からすれば、こんなちょっとした自由な時間すら、悲しくなるほどに尊く思えるわ」
「ああ」

 尊いと感じるのは、現実から離れてゆっくりできているからだけなのか。それとも、密かに思いを寄せる相手と一緒にいられるからこそなのか。その上、自分にも相手にもさらなる自由を求めるのは、あまりに多くを望みすぎなのだろうか。
 
「だが今は、オレたちが囚われの身だなんてことは、忘れていようぜ」

 ホルマジオは改めてグラスをかかげた。オレたちの自由に、と彼が掛け声を上げれば、もグラスをかかげ、ホルマジオのそれに軽く当てた。カランと心地良い音が響く。そうしてふたり同時にグラスを呷り、“自由”を飲み干した。このカクテルが幾許かの“自由”を自分に授けてくれるようにと願いながら。

 だが、自由な、何者にも縛られない幸福な時間は無慈悲にもただ漠然と過ぎていく。互いの腹の中を探ろうと踏み込んだ話をし始めてみても、意図的になのかそうでないのかはは分からなかったが、酔いに任せてはぐらかされる。そうして互いにやきもきしているうちに、本格的に酔いがまわりはじめ、背もたれが百二十度ほどに傾いたデッキチェアに背中を預けているのも、わざわざ起き上がって背もたれの角度を調節するのもかったるくなってくる。ホルマジオは音を上げた。

「……わり。ちょっと横になってくるわ」
「ん。おやすみー」

 ふらふらとおぼつかない足取りで部屋の中へと向かうホルマジオの背中を、は名残惜しげに見送った。

 あーああ。……またこれよ。あなたは、私を嘘つきにしてばっかり。

 本当は言いたくて言いたくて仕方がない溜めに溜め込んだ言葉を、また吐き出せずに終わってしまった。五、六杯のキューバ・リブレを呷ってそこそこ酔っているはずなのに、その失意は妙にの頭を冴え渡らせていた。

 あなたの唇の動きとか、ゆっくりした囁き声には、毎回ドキドキさせられる。だけど、もう関係ないわね。ここまでお膳立てしたって、彼はいつも通り、素っ気ないままなんだもの。

 毎回こんなだから、彼には近づかないって決めたの。私は傷付きたくない。だから、彼のことなんか愛してない。きっと彼にはいい人がいる。だから私になんて見向きもしない。愛してもらえないなら、こっちから愛したいとも思わない。とかなんとか自分にまで嘘をついて、あなたのことなんか何とも思ってないってふりをして。でも、あなたを求めずにはいられない。ああもう……こんなの、イヤなのに。

 着ていたはずの物はいつの間にか、プールサイドのタイル上に散らばっていた。

「ッ、あ……ん、んんっ……」

 はだけた胸に左手を、右手は熱くほとばしる中心に添えた。左手の指先で屹立した突端をせわしなく掻いて、右手の指先でパンティーの上から陰核を撫でた。

 内側で燻っていた火種が仕事中意図せず煽られて、身体中を巡るラムに引火して燃え盛り、今やを焼き尽くさんとしていた。

 もしもホルマジオが、私にキスをしてくれたら? それが信じられないくらい気持ち良くて、病みつきになっちゃったとしたら? そしてそれを、誰も見ていなかったら……?

「いや、いや……いやよ、ダメっ」

 コントロールできなくなる。あなたのことを考えたら、毎回こうなるの。それが虚しくて、こんな風になっちゃう私がイヤになるから、ダメなのよ。でも、ダメだなんて気持ちも、それが私に言わせることも、全部、本当は信用しないで欲しい。だって、私は嘘つきだから。お願いよ、ホルマジオ。今すぐ、私のそばに来て。自分で自分のことを慰めるのなんか、もう止めにしたいのよ。本当はそう。あなたと愛し合いたいのに。それをさせないのは、何なの? 一体、何が私を不自由にしているの?

「あ、ああっ……ん、っ、あ」

 ずぶ濡れの蜜壺から蜜を掻き出す。唾液で湿らせた指先で、ヌルヌルと乳首に刺激を与えながら。その身悶えするような、小さな快感がホルマジオに与えられているのだと妄想して自慰にふける。

「はぁっ……ハァッ、ん、ん、んぁっ……ああっ」

 ねえ、恥ずかしくないの? 彼、すぐそこにいるのよ。バレちゃっていいの? もう少し、声を抑えた方がいいんじゃない?

 少しだけ残っていた理性が言う。だが彼女の体を支配し始めた“自由”はその言葉を聞き入れなかった。

「無理、だめよ……もう、止められないっ」

 より激しく、指は動く。だが、頂きは一向に見えてこない。空虚でひどく物足りない快感に辟易して、やがて涙が込み上げてくる。

「っ、ホル、マジオッ……私――」
「何……してんだ、おまえ」
「――っ!?」

 一瞬にして心臓が縮み上がった。寝るためにベッドへ向かったはずのホルマジオが、真横からあられもない姿のを呆然と見下ろしていた。

 嘲りはない。下卑た笑みも。ホルマジオの表情から伺えるのは驚愕。ただそれだけだった。

 はとっさにはだけた胸を片腕で隠し、開いていた足を閉じた。

「ね……寝たんじゃ、無かったの」
「眠れるかよ」

 

 柔らかなベッドに横たわってすぐ、ホルマジオは仕事中の光景を頭に思い浮かべた。

 タリアが美人とか、そんなことはどうだって良かった。ホルマジオは嫉妬の炎に焼き殺されそうになっていたからだ。その怒りが再び沸き起こった。

 の体をターゲットの男に犯されたわけではない。だが、の魂は、あの男に与えらる刺激を感じ、快感を得ていたはずだ。オレではなく、よく知りもしない男にそうされていた。目の前で愛する女の魂を汚された。

 タリアの喘ぎ声が、タリアの姿が、自然とのそれに置き換わる。もちろん、彼女のそれなど一度として聞いたことは無かったし、見たこともない。だが、何故だか声だけはリアルに聞こえるようだった。幻聴だと自分に言い聞かせて見ても、自身の昂りは一向に収まらない。そのうちに、の声がどうも幻聴でも何でもないらしいことに、彼は気付いた。

 ホルマジオはベッドから起き上がり、サイドテーブルに置いておいたミネラルウォーターを二、三口飲み下した。幾分酔いが覚めたような気がした。だが、魅惑的な声はまだ聞こえてくる。彼はボトルを元の場所へ戻すと、誘われるがまま静かにプールのあるテラスへと歩を進めた。

 はまだプールサイドのデッキチェアに体を預けたままだった。背もたれの向こうで、彼女の頭の天辺がゆっくり、時に素早く、右へ左へと動く。艶を帯びた誘うような声はやはりそこから聞こえてきていたので、ホルマジオは胸を高鳴らせながら、本能の赴くままに彼女の背後へそっと歩み寄った。

 は自分の体に自分で触れていた。くちゅくちゅと淫猥な音を響かせながら、悩まし気な声で、男の名を呼んでいた。その男の名前が他ならぬ自分であると分かるなり、ホルマジオはたまらなくなって声を上げた。聞くまでもないような、見ればわかるだろうと言われれば反駁の余地もないような、そんな間抜けな問いかけをしてしまった。



「あっ!? おい嘘だろ! 待て待て待て」

 デッキチェアから飛び起きて床に放っておいたガウンを拾い、ホルマジオの前から消え去ろうとするの腕を、彼は咄嗟に掴んだ。

 ホルマジオの五本の指は二の腕に深く食い込んでいる。大して格闘に秀でているわけでもない自分には到底逃げ果せないだろうという予感を抱かせる男の力。腹の底から込み上げてくる渇望に、は今にも呻いてしまいそうだった。

「離して」
「無理だな」

 は晒していた体の前面をガウンで隠しながら、乱れたまま体に纏わりついた下着を取り繕う。とてもホルマジオの目など見てはいられなかったので、視線はプールサイドのコンクリートタイルの上を泳がせていた。すると、ホルマジオの足がじりじりと迫り来るのが見えた。彼のもう片方の手が体側から離れて、自分の顎の下へ潜り込もうとしていると気付いたと同時に、は目を閉じ顔と体をそらし、本気で逃げ出そうたした。

 が、敵わなかった。

 背後から回されたホルマジオの右手が左肩を、左手が右の脇腹を押さえつけ、の行く手を阻む。

「何してたんだよ」
「言わないわよ」
「質問を変えるぜ。……何考えてた」
「何も考えてなんか――」
「嘘つくなよ。オレの名前を呼んでたろ」

 静かで、どこか苦しげな声が首筋を震わせた。

 なんであんたが……そんな苦しそうなのよ。

 分からなかった。そして苦しいのは自分の方だと言いたかった。呪縛から、そして失う恐怖から自由になって、素直に愛してほしいと言えたらどれだけいいだろう。胸は締め付けられる。鼓動は明日にでも死ぬんじゃないかと思わせるほどに早い。それがきっと、ホルマジオの腕まで届いている。は呻いた。彼の唇が、うなじのあたりを逡巡しているのを感じたからだ。ここまできて欲に任せて食らいつくでもなく、理性を必死に保とうとするようなホルマジオの仕草がじれったく、喉の奥が引き攣る。
 
「――っ、酔ってんのよ。あんたも、私も」
「そのはずなんだがな。今は妙に冴えてる」
「なら早く離して。酔っ払いの世話なんかごめんって、あんたが私に言ったことだったわ」
「酔ってねーよ。だから離さねーんだ。酔った勢いって訳じゃねーってことだ」
「全部酔っ払いの戯言に聞こえる」
「じゃあ、おまえがオレを呼んだのはオレの幻聴か? ……聞かなかったことにして……諦めろってことか? 本当にそうしていいのかよ?」

 は何も答えなかった。今にも外へ飛び出して行きそうな言葉を押し留めるのに精一杯だった。

「いいや」

 ホルマジオは自嘲気味に言った。そして不甲斐なさげに笑い、鼻梁をの耳の裏側へ押しあて囁き始める。

「もう関係ねーな。おまえがどうして欲しかろうが、こっちはもう我慢の限界なんだ。……おまえがどうしても言わないってんなら、オレが白状するさ。……もう、こんなこと……続けちゃあいられねーからな」

 ホルマジオに本心を悟られたく無いと本気で思っているなら、今すぐにこの部屋から――ふたりきりでいられてしまう環境から――抜け出さなくては。けれど切なげなその声を、彼のしがみつくかのような抱擁を振り切って逃げだす気にはなれなかった。そもそも何故、彼はこんなにも自分を抑えているんだろう?

「退屈しなかったってのは本当だぜ。退屈する暇なんか無かったんだ。あの時オレは、怒り狂っていたんだからな。おまえが、目の前で他の男に犯されてるのを、仕事だからって黙って見てなくちゃあならなかったんだ。分かるだろ」

 にはまだ分からない。いや、彼が何を言いたいのか、薄々勘付いてはいた。だが、彼の口から直接的な言葉が出てこない限り、分かってやるつもりが無かった。もしかすると、口でそうと言われるだけでは信じられないかもしれない。それほど、のホルマジオに対する一方的な思い込みは根深かった。そのせいでお互いに苦心しているのだが、等の本人にホルマジオまで苦しめているという自覚は無い。

 何も言葉を返さずにじっとしているに、ホルマジオは思いをぶつける。

「おまえが……好きなんだよ。おまえもオレと同じ気持ちでいてくれてるんじゃあねーかって……期待しちまうのも当然だと思わねーか。だってさっき……オレの名を呼んだろう? あれは初めてか? それとも……前からやってたことなのか?」

 もうこれ以上、自分に嘘はつけない。
 
「初めてじゃないよ。それに数えてなんかいない。いつだってああなってたし、私あなたに――」

 ホルマジオの気持ちを――本当に、信じられない。夢でも見ているんじゃないか。ああ、神様。これが、夢ではありませんように。どうか、どうか、これが本当に起きていることで、彼の言葉が心からのもので、真実でありますように――知った途端、は呪縛から解き放たれた。

「――あなたに、夢中だから。ひとりでしてる時も、よく知りもしない男に犯されていた時も……今私を感じさせているのがあなたならどんなに良いだろうって……思ってた」
「おまえ、今酔ってんのか」
「ええ。私は、今は酔ってる。そうじゃなきゃ、こんな恥ずかしいこと暴露しない。……でも、いつも酔っ払ってひとりでシてる訳じゃないし、仕事中に酒を飲むなんて論外でしょ。……だから、この告白自体は酔いの勢いだけど、私の気持ちは嘘でも何でも無いし、とんでもなくヘヴィよ」
「はは。ヘヴィ、ね。……オレもきっとそうだぜ。なんたって、おまえと出逢ってからずっと溜め込んできたんだからな」

 ホルマジオは自嘲気味にふっと笑った後、顎をの肩に乗せてこめかみにこめかみを押しあてた。そして甘えるように、ぎゅっとを抱きしめる。
 
「なあ、。……おまえもちゃんと言えよ。オレのこと、どう思っているのか」
「好きよ」

 驚くほど容易にそう言えた。はキューバ・リブレと、想い人に想われていたという幸運に感謝した。
 
「私もあなたのことが好き。じゃなきゃ、自分で自分のこと慰めてる間にあなたの名前を呼んだりしない。……これであなたの疑問には、すべて答えられたんじゃない?」
「ああ。……パーフェクトだ」

 柔肌を前に逡巡していたホルマジオの唇は、やっとのことでの首筋に到達した。歯列の間から覗く濡れた舌が唇と共に肌へ押し付けられる。耳の裏側から徐々に鎖骨へ向い下りていくそれに、内に秘めていた炎は一際燃え上がる。はたまらず、眉根を寄せて呻いた。

「なあ……いいのか」
「いいに決まってる」

 まるで生娘を相手にするように慎重で優しい手付き。じれったささえも感じてしまうそれ。躊躇いがちな両手の指先が、屹立した突端に軽く一度触れる。が声を漏らすと、ホルマジオもまた呻いた。そして衝動を抑えつけながら、彼の手がそっと乳房を掴んだ。もう片方の手はゆっくり、羽根で撫でるようにそろそろと腹の上を通って、熱く滾る中心へと向かっていった。



(fine)