午前零時を過ぎたアジトのリビングで凄まじい物音がした。それを聞いたリゾットは、ああ、またか。と自室で吐息を吐いて重い腰を上げた。
彼は階下で進行しつつある事態がこれ以上悪化しないようにとリビングへ向かった。この騒動は3ヶ月に一回程度の頻度で度々起こるのだ。尚もがしゃん、がたがたと穏やかでない音がむこう側から響いてくる扉を開けて中の様子を確認する。
「はあ……。お前、またやったのか」
「リゾッ……トっ、見て、ねぇで……助けてくれよ……」
「情けないな。女に馬乗りされて泣き言か?ホルマジオ」
めちゃくちゃになったリビングの床でうつ伏せ状態のホルマジオは、背中に馬乗りされ両腕を背後で固められながら目を剥いてリゾットを見上げ助けを求めた。ホルマジオの顔のすぐ脇には、刃渡り45センチメートルのククリナイフが突き刺さっている。彼を今まさに懲らしめているのは他でもない、ホルマジオのパートナ―――・――その人であった。
パートナーというのは彼ら暗殺者チームの仕事上はもちろんのこと、私生活の上でも――性交渉を持つステディな仲として――仲良くやっているという意味なのだが、ふたりは絶賛痴話喧嘩中である。喧嘩と言うよりも最早一方的な制裁に近い。リゾットはのトレードマークとも言えるククリナイフが深々と突き刺さった床を見て眉間に皺を寄せた。周囲を見渡し、それ以上に惨憺たる有様のリビングを見て額に手をやって再度溜息をついた。
観葉植物が植わっていた鉢は割れ土が撒き散らされ、ソファーに囲まれる形で置かれたローテーブルはひっくり返り、キッチンカウンターに置かれた木製のナイフスタンドから抜き取られてダーツをやる要領で投げられた――恐らく的はホルマジオだったのだろう。気の毒だ。――包丁がリビングの壁のいたる所に突き刺さっている。
「なんべんめだ」
唸るような声がホルマジオの上からふりかかった。彼はこの声を聞くだけで震え上がり、もう二度とやらないと心に誓うのだが酒と一緒でやめられない。そう、ホルマジオの女癖の悪さはのキツいお仕置をもってしても矯正できるものでは無いのである。
「これでなんべんめだよ。え?ホルマジオ。黙りこくってんじゃあねーぞテメーに聞いてんだ。なんべん、ヨソの女相手におっ立ててイッて気持ち良くなってくりゃあテメーは気が済むんだって聞いてんだよ、おい!」
「すっ……すみません、ですが――」
「スミマセン、だと……?」
は深々と床に突き刺さっているククリナイフを抜き、片手で頭頂部を鷲掴みにして背面に向って持ち上げた坊主頭の弓なりになった首元に刃を当てた。薄皮一枚ぎりぎり切れないくらいの位置で止められたその刃に、ホルマジオはいよいよ――部屋の有様を見るに、だいぶ前から彼の命は危険にさらされている気もするが――命の終わりを悟る。
「謝罪すりゃあ済むと思ってんのか!?もう二度とそのきたねえナニをおっ立てられねぇように、このククリで根本からぶった切って便器にぶち込んでドブネズミのエサにしてやる!!おら!さっさとズボン脱げや!!」
「ま、待て待て待て、待てよ!今日はさ、やってねーんだよ」
「今日は、って何だ。あ?今日以外にもオンナと遊んできましたって風な言い方だよなァ?おい、もうこの際だから全部洗いざらい吐きやがれ。それと同じ数の金玉が失くなっていくから覚悟しろよ」
「ちょ、待って、オレの金玉2個しかねーんだけど!?」
「2個じゃあ足んねーってのか!?」
「ひいいいいっ!!!!」
「テメーがやりてー時にやりてーようにやっていいって思ってる意思決定プロセスが猫畜生と同等の腐れ脳味噌野郎は今ここで去勢してやる!!足りねー分は指詰めろ!!!」
「ちょ、待てって、オレ、ふたり以上と寝たとか一言もっ……あっ、痛っ、ね、ほんと待って、いつから?前回から?それとも通算?」
「通算なら足の指入れたって足りねーだろうが!!簡単な算数もできねーバカか過去のことはすべて忘れてしまうバカかどっちなんだてめーは!!!どっちもか!?どっちもだな話にならねーからひとまずナニをぶった切る!!」
「いやあああああ!!」
「。止めろ」
リゾットの声がリビングに響き渡った。彼が止めろと言えば、どんなにヒートアップしたでも言動を止めるのだ。今まさに、表返しにしたホルマジオの股間に刃を突き立てんとするの持つナイフの切っ先は、彼のシンボルを目前にして静止した。ホルマジオは顔を真っ青にして放心状態に陥っている。
「その辺にしておけ。ホルマジオが能力を使えばいくらでもお前から逃げられるのに、それをしないのは何故か考えろ」
「……まだ話は済んでない」
「ああ。見れば分かる。だが、これ以上家がめちゃくちゃになるのも、ホルマジオがお前に痛手を負わされるのも看過できない。分かってくれ、」
「……あああああ!!!頭がおかしくなりそう!!!」
は叫び声を上げながらホルマジオの太腿の間にナイフを突き立てた。
「……寝る。もう疲れた」
はぬらりと立ち上がると、ふらふらと体を揺らしながら戸口へと向って歩きだし、扉を開け放ったままにして自室へと帰っていった
。そんな彼女の後ろ姿をじっと眺め夜の闇に消えるまで見送ると、リゾットはやれやれといった風にホルマジオを見下ろした。
「おい、ホルマジオ。この部屋の片付けは……」
そう言いかけて、リゾットは彼の側に座り込んで顔を覗き込んだ。ホルマジオは気絶している。恐らく、が叫び声を上げたタイミングで大事なイチモツが失くなったとでも思ったのだろう。とても情けない。こんなことになると分かっていてどうして同じ過ちを何度も何度も繰り返すのか。
リゾットにホルマジオの心理など少しも理解できなかった。そしてこんな情けない――暗殺者としては頭がキレるがことのほか女にだらしない――男にいつまでも構ってやれるの懐の深さには恐れ入る。このやり取りも、ふたりが付き合いだしてからもう何回も繰り返しているのに、両者共によく飽きないものだ。
夜中に騒ぎを起こすのが、なんの役にも立たないチンピラカップルならメタリカで即座に血祭りに上げて即解雇だが、ふたりとも優秀な暗殺者だ。だからリゾットは、ちょっとやそっとリビングをめちゃくちゃにされたからとおかんむりになったりはしないのだ。――彼の懐の深さもなかなかのものである。
「まあ、言わなくても分かっているだろうな」
リゾットはをなだめて自分の役目を果たすと、散らかったリビングと気絶したホルマジオをそのままに踵を返した。往々にして、こんな騒ぎが起こった後、ホルマジオは誰に言われずとも自分から片付けに取り掛かっているのだ。朝にリビングへ下りてきたチームメイトから「情けねえ」とか「クズ」とか罵られながら。
この日もそうなりそうだった。
朝が早いプロシュートと、珍しく早めに下りてきたイルーゾォが、リビングの惨状を目の当たりにして眉根を寄せた。やはり目を引くのは、床に深々と突き刺さったのククリナイフだ。これをひと目見れば、皆、ああ、ホルマジオのやつ、またやりやがったな、と察するのだ。
「また鬼嫁に絞られたのか」
「おう。散らかってて済まねーな」
ホルマジオは起き抜けに鉢植えを修理していた。どこからか持ってきた木工用ボンドを破砕面に垂らしては、ジグソーパズルの要領で貼り付けるという作業を繰り返している。あまり質のいい睡眠を取れなかったのか、寝ぼけ眼でギャングらしからぬ作業に没頭している彼の姿は間抜けと言う他ない。イルーゾォはニヤニヤしながらダイニングテーブルについて、いつもの冷やかしを言い始めた。
「全く情けねーなァ、ホルマジオ。お前一体いつまでの飼い犬でいるつもりだ?あいつもあいつで、盛りのついた犬の躾くらいちゃんとやっとけってんだよ」
「……るっせーなぁ。誰が犬だコラ」
犬じゃあなくて、猫なんだよ。自由気ままな猫様だ。にも言われたんだ。頭が猫並だってさ。が言ってたのはきっと表をほっつき歩いてるようなオスの野良猫だ。んで、去勢してやるって言ってたな。――股間に迫る刃を思い出す。ぞっと身震いがした。
そんなことを思いながら、ホルマジオは黙々と手元の作業を進めていた。
「あのサイコ女、ぷっつんするとギアッチョより面倒なんだ。あんまり怒らせんなよな。恐ろしいったらねーぜ」
「おいイルーゾォ。口が過ぎるぜ。オレの女をサイコとか言うな。まあ、サイコには違いねーが、ああ見えてカワイイとこあんだからよ」
「そのカワイイオンナってのを悲しませるようなことをして、毎回部屋をボロボロにするのを止めろ」
「ボロボロにしてんのはオレじゃあねーよ」
「原因は紛れもなくおめーだろうが」
プロシュートはコーヒーカップを傾けながら、壁に突き刺さったままのナイフを眺めていた。――・。ホルマジオのいないところで彼を心から愛していると惚気て頬を緩ませる、カワイイ女。そんな彼女は愛しているはずのホルマジオに向って何の躊躇もなく殺意を向ける、まさしくサイコだ。気が触れている。だがホルマジオ曰く、キレてばかりではなく、甘える時はとことん可愛く甘えてくるらしい。そのギャップがいい、クセになる、とホルマジオはいつだったか惚気ていた。おまけに彼女は美人だ。あのサイコ成分さえなければと悔やんでも悔やみきれないくらいには。
「お前、今度はどこで誰と何をしてきたんだ」
「いやあ、バーで飲んでたらよ、いいケツと乳したオンナがいたからちょっと触らせてもらえねーかなって思って口説いてたんだよ。テラス席でやってたからよ、買い物帰りのに見つかっちまったんだよな。あいつとメシ食って帰る約束してたんだが、オンナとイチャついてるオレをシカトしてそのままアジトに帰っちまったんだ」
「クズだな。そりゃ帰って当然だ」
「そんときはのやつすっげー涼しい顔しててよ。これはワンチャン怒られずに済むんじゃあねーかって期待して帰ったら、帰るなりリビングでスタンバってたあいつに包丁投げつけられたんだ。酔ってたからマジに死んじまうんじゃあねーかとヒヤヒヤしたぜ」
「そのまま死んどきゃあ良かったんだクズが。つーか今からでも死ね」
イルーゾォは顔を顰め嫌悪感をあらわにして吐き捨てた。プロシュートは首を横に振って、こんなヤツのどこに惚れちまったんだかと、の男を見る目のなさに呆れ果てる。
「だが、マジで寝るとこまではいってねーんだぜ。いけそうだったが止めたんだ。が悲しむだろうと思ってさ」
「もう愛想尽かされてるだけだろきっと」
「でもよぉ、いっぺんぶちギレたらそれでだいたい終わりなんだぜ。オレの見立てじゃあ、明日か明後日くらいから態度は普通に戻るんだ。いつまでもダラダラ引きずらないんだ。……あんまりずっとダラダラグチグチ言われんのも面倒だけどよ、こうもさっぱりしてるとちょっと寂しいよな。オレって愛されてるのかなってさ。だから、あいつのこと怒らせて確かめてるんだ」
「不倫に走った嫁の言い訳みてーだな」
「ただの構ってちゃんじゃあねーか。去勢でもされたか?」
イルーゾォが吐いた去勢というワードにまた股間がぞわっとする。ホルマジオはまたぶるっと体を震わせた。
だが、去勢うんぬんはともかく、ホルマジオがに骨抜きにされているのは事実だ。彼にはそういう自覚がある。
「うーん。まあでも、あいつになら何されてもいいかな。オレはさ、浮気なんか一回だってしたことねーんだぜ。オレの魂だけはいつもあいつに握られてんだ。体はたまにふらふら好き勝手に動いちまうけどさ」
「じゃあその魂を肉体から開放してさっさとくたばれ」
イルーゾォもプロシュートも、その他の皆が知っている。ホルマジオがにぞっこんなのも、その逆もまた然りであるということも。だから皆、安心しろ。お前は愛されてる。なんてことは言わなかった。チームの紅一点がホルマジオに恋して止まないのが気に食わないからだ。
「あいつすげーいい女だからなぁ。結局戻ってきちまうんだな。体もさ」
「チッ……とことん惚気やがって」
悔しいので皆口には出さないが、その点に関して異論を唱えるものは誰もいなかった。
'Cause she messin' with your head
「お前、何でホルマジオなんかとずっと付き合ってんだよ」
がホルマジオに制裁を加えた次の日の夜は、チームメイトの数名が決まってやけ酒につきあわされる。そこで決まって皆に言われることだった。
「カワイイじゃない、あいつ」
はウイスキーをロックで煽りながら言う。そんな彼女を見ながら、イルーゾォとプロシュートのふたりは女の言う“カワイイ”の定義は何なんだ、と困惑する。仮にカワイかったとしても、自分を何度も何度も裏切ってヘラヘラしているようなクズに愛想を尽かさないでいられる意味が分からなかった。
「私がキレてお仕置きしても、性懲りもなく他のオンナと遊ぶの。きっと私に痛いことされるのが好きなのよ。わざとやって私の気を引いて、愛されてるかどうか確かめてるんだわ。そーゆーとこもカワイイって、私思うのよ」
おお。サイコでエスパーだ。イルーゾォとプロシュートはぞっとした。ホルマジオの腹のうちをずばりと言い当ててしまったにだ。だが、それが正解だとは誰も言わなかった。言わずともの中でそれは確かなことらしいし、自信満々の彼女にさらに自信をつけてやる必要も無いだろうが、やはりこの仲睦まじいふたりを見ているとむかっ腹が立つ。肯定的に応援してやりたいという気は少しも起きない。
「他のオンナと遊ぶって所が許せねーとは思わねーのか」
「うーん……思わないかな。モテない男そばに置いとくよりマシじゃない。皆が抱かれたいって思うような男に愛されてる私強い」
「おお。肝っ玉座ってんなお前」
「別に浮気してるわけじゃないし、たまにブチ切れるとこっちもストレス発散になっていいのよね。すっごいスッキリして気持ちいいの」
「お前それリゾットに聞かれねーようにしろよ。今のとこ、お前がキレて部屋をめちゃくちゃにするのは仕方のねーことだってホルマジオのせいになってはいるが、それがお前のストレス発散ついでだって知れたらふたりそろって血祭りにあげられるぞ」
「はーい」
はプロシュートの助言に気のない返事をする。そしてニヤニヤとふやけた笑みを顔に浮かべた。ああ、始まるぞ。イルーゾォとプロシュートのふたりはうんざりし始めた。
「大好きなのよ。カッコいいし、優しいし、頭もキレて仕事もできる。悔しくて本人の前じゃ言わないけどさ。ほんと、私ホルマジオのこと愛してるのよね」
「おいおい、勘弁してくれよ……」
ふたりそろってでれっでれに惚気やがって。イルーゾォはそう思っても口には出さなかった。プロシュートは溜息をついて、またやれやれと首を横に振ってウイスキーを呷った。そして、リビングのローテーブルの上を見て言った。
「それにしても、あれが愛してるって言ってる男にやることとは到底思えないんだがな、オレは」
ホルマジオは今、ローテーブルの上で右手首を右足首に、左手首を左足首にロープで固定された体勢で、尻を突き上げて伸びている。突き上がった尻は服と下着を下ろされてあらわになっていて、その尻の穴にはハイネケンの330ミリリットル瓶の飲み口が深々と突き刺さっていた。もちろん、空瓶などではない。
先程部屋にやってきたメローネとギアッチョは、クリスマスのローストチキンよろしくテーブルの上で晒し者にされているホルマジオを見て腹を抱えて爆笑していた。メローネに至ってはどこからかカメラを持ち出してきて、ホルマジオをバックに撮ってくれとギアッチョに頼み、ギアッチョも爆笑しながらメローネの頼みに快く応じ、次はオレもと楽しそうにしている。
遅れて部屋にやってきたペッシは件のとんでもない光景を目の当たりにして絶句し、姐御やべぇと呟くと、ダイニングテーブルについた。
「ペッシ。アルコールの粘膜摂取は危険だから絶対にやっちゃあいけねーぞ」
「お、おう、兄貴……」
テーブルにつくなりそんな注意を受けて一応了解した旨は伝えるペッシだったが、いったいどうやればそんな状況に陥るのだろうと疑問しか浮かばなかった。少なくとも、この目の前にいるような凶暴なガールフレンドでも作らない限り、自分には起こり得ないハプニングだ。
「あいつもあいつで、このサイコ女にされるがままなんだからな。つくづく情けねえ。なあ、。もうあんな男やめてオレと仲良くやろうぜ」
「やだイルーゾォ。あんたホルマジオと穴兄弟にでもなりたいの?」
「なんかそう言われると気持ち悪いな」
「それに、ホルマジオってすっごく上手いのよイロイロとね」
「おいよせ、そんな話は聞きたくねー」
「あんたが彼より上手なら考えないこともないけど、きっと無理ね」
「そんなもんやってみなきゃわかんねーだろ」
「やんなくても分かるわよ。あんたと私の間には愛が無いもの」
「そんなもん、これから育んでいきゃあいい話だと思うがな」
「おいイルーゾォやめねーか。お前もお前でみっともねぇ。しつこい男は嫌われるぞ」
これもいつものことだ。・は絶対になびかない。ホルマジオのことしか眼中に無いのだ。
「!」
「はーい。なあにメローネ」
「今日もお仕置きのクオリティがディ・モールト秀逸だな!どうだ。君も一緒に写真に写らないか。記念撮影しようぜ」
「いいわね!」
はそう言って意気揚々とあられもない姿の恋人の元へと歩み寄る。
「ナイスアイディアだわメローネ!こんなひどい格好で写ってる写真見せられたら、誰もあんたと寝たいなんて思わないわよホルマジオ。もしもーし、聞こえてるー?」
「うーん…………愛してるぜー」
「あーん、ホルマジオ。私もよ。ほんと、愛してる」
そう言ってメローネと一緒にカメラに笑顔を向ける彼女は本当に魅力的だった。だが背景がひどい。やっぱりサイコだ、と皆が思う。
サイコな彼女にはある種の中毒性がある。それはホルマジオのみぞ知る、彼女の甘く深い愛情に他ならなかった。